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1話 帰国の船

「ふわ……いい匂い」


 その日。焼きリンゴの甘酸っぱい匂いで、クナは目覚めた。


「しろがね、あなた朝餉(あさげ)を西洋式でとるつもり?」


 伸びをしながら寝台から起き上がると、リアン姫がちくりと刺してきた。同じ室に泊まっている(シャン)家の姫は、すでに身支度を整え、食卓の席についているようだ。

 いいえとかぶりを振り、クナは急いで袴をはいた。寝台の脇に置いた箱へ迷わず手をのばし、帯をとって結び、さららとした千早をすばやく羽織る。手探りで席につき、フォークを持って、さくり。匂いを頼りに、焼きリンゴに突き刺した。


「おいしい……!」

「ほんと豪華な食事ですわよね。粉焼き(ブリヌイ)に玉子に燻製肉に、ハチミツ酒。たっぷりの果物。それにしても毎回、リンゴを使ったお菓子が出てくるなんて。リンゴって、この州の特産なのかしら?」

「分からないですけど、おいしいです」

「たしかに美味ですわ。でもちょっと飽き飽き。ああ、床に座りたいですわね」


 かちゃかちゃナイフとフォークの音を立てながら、リアン姫がぼやく。

 白鷹城で初めて朝食を出されたとき、すめらの娘たちは大いにとまどった。

 西方諸国のやんごとなき家の人は、寝台に入ったまま朝食をとるらしい。しかし、きっちり正座して御膳をつついて育った娘たちには、その作法は、とてもだらけたものだとしか思えなかった。

 それで娘たちは、昼餐や晩餐のときのように、椅子に座って食べたいと要請したのだ。

 

「まあでも、西洋式の食事は今日で終わりますわね」

「そうですね……」

「あらしろがね、何その顔。あなた帰りたくありませんの?」

「いえ、そんな。百(ろう)さまのお具合が心配ですし……か、帰りたいです」


 嘘だ。


「帰りの船旅でだって、卓で食事しなくてはなりませんけど。五穀のお粥と漬け菜が出ますわね。懐かしいすめらの味! 粥に乗せてお茶をかけて食べたいですわ」

 

 朝昼晩、三度の食事はごちそうざんまい。醍醐(だいご)のごとき乳製品やハチミツ、植物油がふんだんに入っている、腹に重たいものが多かった。だからリアン姫の言うとおり、茶漬けでしばし、胃を休ませたい気はする。けれど……

 

(帰りたく、ない)





 夏の離宮で行われた結婚式は、実に華美壮麗だった。

 一日中鳴り響く花火。降りしきる花びらの雨。宮殿内の鐘楼がりんごろん、りんごろん。

 花嫁は花婿のたっての望みで、金色の絹糸で織られた錦のドレスをまとった。ユーグ州特産のものだそうだが、なるほどその絹は、すばらしい音をたてていた。

 ちきちきちかちか、まるで星のかけらがはじけるよう。


「十日間も宮殿劇場に通いづめって、さすがに疲れましたわね」

「でも、音楽も舞も劇も、すごかったです」

「あたくしは、舞踏会の方が楽しかったですわ。千早姿でしたけれど、幾人かの殿方と踊れましたもの」


 式のあとの催しは、いったいいくつあったのだろう。数え切れぬほどの行事が目白押しだった。

 鑑賞するものだけでなく、遊戯もたくさん行われた。

 釣りに狩、球技に的当て、そして舞踏会。

 クナたちが奉納した巫女舞はことのほか好評で、だれもかれもが、もう一度見たいと望んでくださった。ゆえに娘たちは幾度か、予定にはなかった神楽舞を大広間で披露した。

 第三妃となった九十九(つくも)の方は常に、第二妃の隣の席に座していた。おかげでふたりの妃は親しくなり、すでに二人の間では数回、茶会が開かれている。もちろん、お付きのクナたちも招待された。庭園にて香りよい洋茶を楽しむ中、第二妃は生まれたばかりの御子を紹介してくれた。


『州公閣下にとって、初めての御子ですわ』


 腕に抱く赤子をあやしながら、第二妃は実にホッとした口調でおっしゃっていた。


『女の子で本当によかった。もし男の子だったら、将来、嫡男の位に引き上げられるかもしれませんもの』


 州公の正妃は今、病気療養のためサナトリウムにいる。その容態はかなり深刻で、おそらく御子を産むことはできないと、州公閣下は半ばあきらめているそうだ。

 すなわち、もし第二妃や九十九(つくも)の方が男子を産めば、嫡男とされる可能性があるという。しかし第二妃は、その昇位を嫌がっているようだった。


『スメルニアの帝の妃たちは、ご寵愛が深くなったり御子を産んだりますと、位が上がるそうですけれど。この州公家では、たとえわたくしの子が嫡男になっても、わたくし自身は正妃にはなれませんの。嫡男は法的に、正妃さまの養子となります。そうして階上の育児部屋に入れられて、めったに会えなくなるのです』


 自分で育てられないということは、親にとってかなり致命的なことらしい。ぽそりと第二妃が口にした言葉が、クナの耳に残っている。

 

『どうか次の子も、女の子でありますように……』

 

 第二妃様はごく普通のおなご。

 九十九(つくも)の方は、あとでそう評していたものだ。

 

『あん方は、お家のためにご自分を犠牲にできへんのやろな。うちやったら、よろこんで御子を差し上げますわ。まあ、子なんぞようよう、できまへんやろけど』 


 かくおっしゃる花嫁は、遠征軍に合流したくてそわそわしている。アオビに託した密書で将軍たちと連絡を取り合っているが、一刻も早くこの城から出たいそぶりだ。

 式を挙げてから連夜、州公閣下のお渡りを受けているせいだと、リアン姫は言う。


『きっと、とても激しい(・・・)んですのよ。うんざりするほど。だからお逃げになりたいんですわ』


 いや、それは違うとクナは思う。

 九十九(つくも)の方は、できるだけはやく遠征を終わらせたいのだ。

 命に期限がついてしまった百(ろう)の方を救うため、ご自身の幸せなど一顧だにしていない。

 女だてらに鎧をまとい、軍に命ずるはすべて、家族となった友のため。


九十九(つくも)さまおひとりに、重荷を負わせるなんて)


 できれば自分も、鎧をまといて戦いたい。

 十万の兵士たちと、一緒に。

 そんな想いが日々、クナの中ではむくむくと育っていた。

 大体にしてこの遠征は、クナの大事な人を救いだすためのものなのだ。


(あたしは黒髪さまの妻……なのになにもしないでただ、神殿で待ってるだけなんて)


 なれど非力な自分に、一体何ができるのか。

 ただ少し舞えるというだけの自分など、足手まといのなにものでもなかろう。


(どうしよう)


 もんもんと逡巡するうち、帰国の日がきてしまった。

 クナは躊躇していた。九十九(つくも)の方に心労をかけたくないあまり、なかなか言い出せずにいた。

 ここに残りたいという願いを。

 




 朝食を終えたクナは、ひとり部屋から出て、ひたひた階段を昇った。

 あてがわれた部屋のすぐ上には、小さな展望台がある。クナの目には空の色も湖の輝きも見えないが、星のささやきと水面のさざめきはしっかと聴こえる。朝夕、その静かな音楽を聴くのが、ここ数日のお決まりになっていた。

 なぜなら……


「いない……」


 クナはがっくり、肩を落とした。

 結婚式の晩、リアン姫とここに昇ったら、あの人がいた。水晶のように澄んだ声を持つ人が。

 白鷹家の後見人、黒き衣のトリオン。

 彼は星空を見ながら、歌を歌っていた。

 クナにはわからぬ西方の古い言葉の、されど、なんだかとても懐かしい節の歌を。


『こんばんは。黒い髪のお嬢さん』


 聞き間違いではない。その声はやはり黒髪さまと、まったく同じだった。


『星を読んでいた。落ち星がすごいよ』


 またあの声を聴きたい。

 そんな想いが、クナの足をこの展望台に動かしてしまう。

 またあの人に会えるのではないかと、胸がどきどき、期待してしまう。

 もしかしたら。あの人の声を聴きたいという欲求が、ここに残りたいという想いを強くしているのかもしれなかった。

 でもその夜以来、黒き衣のトリオンとは一度も会えないまま。

 どの催しにも、彼は姿を見せなかった。

 気配は感じるのだが。見守られている、そんな感じはびんびんするのだが……。

 気を使ってもらっていると感じるのは、気のせいだろうか。毎朝リンゴの菓子がついてくるのは、あの人の差し金ではないのだろうか。


「どうして……」


 どうしてあの人は、黒髪さまとそっくり同じ声なのだろう? 

 聞きたいことが、たくさんある。でも、時間切れだ。昼過ぎには、飛行場へ行かねばならない。

 クナはうなだれて踵を返した。とぼとぼ階段へ向かおうとすると。


「おはよう、黒髪のお嬢さん」

「あ……」


 階段から、聴きたい声が聴こえた。


「あの。あの。あの。トリオン、さま」


 言葉がつまる。聞かねばならないことがいっぱいあるのに、ぼっと頬が火照って言葉が出ない。


「元気そうでなによりだ。今朝出した焼きリンゴは、おいしかったかな?」


 やはり。白鷹の後見人はわざと、リンゴを出してくれていたのだ。クナは必死に息を整え答えた。


「は、はい、とても。甘さだけじゃなくて、ほんのり塩気もあって」


 聞かなければ。たしかめなければ。疑問を解かなければ――

 焦るクナは、近づいてきた相手に深く頭を下げた。


「いろいろありがとうございました。あの、あたし、今日帰らないといけなくて。でも――ひゃ?!」


 ぽんと、頭に手が降りてきたのでクナはびっくりした。手をあげ、思わず触れた相手の手には、分厚く包帯が巻かれている。


「あ……怪我を?」

「ああ、猫に引っかかれてね。一週間ほど前かな」

「ねこを、飼ってるんですか?」

「いや、薄汚いのら猫だ」

「お城にのらねこ?」


 後見人の監督のもと、たくさんの使用人や侍従たちが、日々、城内を清潔に保っている。外から動物が入り込めるような隙は、ないように思えるのだが。


「祝賀の間、あまたの船が行き来した。そのどれかに紛れ込んだんだろう。書斎をめちゃくちゃに荒らされてしまったよ。薬瓶がこぼれて……やけどを負わされた」

「薬瓶……お薬の知識があるんです……か?」


 クナの胸がどきんと高鳴る。まさか、そんなところまで黒髪さまと似ているとは。


「まあ、自分でやけどの薬を調合できる程度にはね」

「ど、どうか、早く治りますように」

「ありがとう」


 美しい声が耳元で響く。そのささやきはとても甘くて、クナの心臓はさらにばくばく、激しく高鳴った。

 パッと駆け出して逃げたい衝動にかられる。けれどなんとか、踏みとどまる。

 聞かなければ。せめてこのことだけは。確かめなければ……


「と……トリオン様は、どうしてあたしのこと、知ってるんですか?」

「君のこと?」

「あたしが今の子に生まれる前が誰だったか……ごぞんじでは、ないですか?」


 数拍の沈黙ののち。澄んだ声の人は、その名前を囁いた。クナの前世であろう、あの子の名前を。


「白の癒やし手レクリアル?」

「そ、そうです。それです。どうして……」

「どうしてもなにも、私はかの女神の伴侶だったからね。長いこと一緒に、あの島に住んでいたよ。天に浮かぶ島に」

「え?! でも――」


 とまどう体が固まる。肩が暖かな腕に包まれたからだ。

 抱擁はとてもやわらかで、自然だった。微塵も強引ではなく、きつくもなく。けれどひしひしと、穏やかなぬくもりが伝わってきた。


「や、やめっ……」


 クナはわたわたと抱擁から逃れ、後ずさった。相手が追ってこないことに安堵しつつ、やっとのこと声を絞り出す。


「く、黒髪さまが、黒髪の柱国将軍さまが、レクリアルといっしょに住んでたんじゃないんですか? 黒髪さまは、ご自分は、レクリアルの魔人だったって……」

「黒髪の柱国将軍?」

「と、トリ・ヴェティモント・ノワールって、いうんですけど」

黒き衣ノワール・ヴェティモントのトリ? すめらには一騎当千の恐ろしい将軍がいると聞いていたが、私と似た名を名乗るとは……。その人も、不死の魔人なのかな?」

「は、はい。たぶん」


 あんなに切なげに告白されては。あの島で、あんなに愛されては。

 まさか嘘をついているなどとは決して思えない。

 けれどいとしい人と同じ声の人は、クナに告げた。およそ信じがたいことを。


「ふむ……その魔人は、きっと偽物だな。なぜなら私こそ、レクリアルの魔人なのだから」

「そんな。う、うそ……」

「ひと目見て分かったのが、何よりの証拠だ。君と再会できて嬉しい。もしこんなにガチガチに、加護の技で守護されていなかったら。君に、雨あられと口づけを落としているだろうな」

「え……!?」


 ますます身を固くしたクナの頬に、すうっと手が触れてきた。


「かわいそうに……すっかり忘れてしまったのだね。でもそろそろ、思い出してくれないかな?」


 暖かい、陽の光を宿したような手が。


「私の伴侶よ」 

 

 

 


 気づけば――

 クナは展望台の手すりにもたれて、さらさら湖のさざめきを耳に入れていた。

 さざん、ざさん。さざん、ざさん。

 風が吹いているのか、水面はいつになく波打っていて荒々しい。


(きれいなおと)


 クナは、その音に夢中になっていた。ただただ、水が奏でる音楽に。

 頭の中は、霞がかかったようにぼうっとしていた。なぜかまぶたは重たく、眠気に襲われたかのように、半分降りていて。なぜこんなにとろんとしているのか、わからぬままに聴いていた。


「しろがね! ちょっとしろがね!」 


 バタバタ足音をたて、リアン姫が階段を昇ってきてようやく、クナは我に返った。


(あれ? あたし……たしか)


 とたんに、頭の霧が晴れた。閉じかけていたまぶたが勢いよく上がる。


「トリオンさま?!」


 いつ、あの人はいなくなったのか。頬に手を当てられて、それから――


(どうなったの?! 思い出せない!)


「しろがね、何のんびりしてますの? 早く出立の準備をなさって!」


 せきたてるリアン姫に引っ張られたクナは、うろたえながら荷造りをした。

 もしかしてあの人は幻だったのか。クナが声を聴きたいと願ったから、出てきた妄想だったのか。

 しかも自分こそが、白き女神の魔人だと断じるなんて。


(そんなこと、あるはずないわ)


 手が震える。そんな話が本当だとしたら。黒髪さまは、一体何者だというのか。

 浮き島のことも〈あの子〉のことも、知り尽くしているのに。その子を失って絶望し、あんなに復讐にこだわっているのに。


(黒髪さまは、にせものなんかじゃ……ない)


 (いとま)を告げに九十九(つくも)の方のおわす部屋へ昇ると、香ばしい茶の匂いに包まれた。通玄先生が、帰国する娘たちのためにと、茶を点ててくれたらしい。

 その香りでクナはいくぶん、混乱する気持ちを落ち着けることができた。


「百(ろう)はんに、手紙をしたためました。アカシ、あんさんに預けます」


 アカシ。ミン姫。リアン姫。クナ。

 九十九(つくも)の方は、帰国するひとりひとりに言葉をかけ、それぞれに小さな箱を手渡した。


「州公閣下とうちから、あんさんらに感謝の意をあらわします。どうかみなはん、つつがなく、すめらに帰り着きはりますように」


 帰りたくない。九十九(つくも)の方のそばで、一緒に戦いたい。

 それに、黒き衣のあの人の謎も解きたい……

 おそるおそる口を開きかけたクナはしかし。ぎゅっと固く、九十九(つくも)の方に手を握られた。


「しろがねはん。どうか百(ろう)はんを、よろしく頼みますえ」 


 晴天吉日。すめらの娘たちは船に乗って湖を渡った。

 飛行船の待つ飛行場へ至るには、午後いっぱいかかった。

 一緒に帰国する楽団や劇団が、先にどやどやと船に乗り込む最中。九十九(つくも)の方のもとに残るはずのアヤメが、息せき切って馬車で乗り付けてきた。

 すわ、九十九(つくも)の方になにかあったのかと、娘たちが身構えると。


「あ、あ、あ、アカシどの!」


 アヤメの後ろから、なんともひょろろとした男の声が聞こえ、唖然とする娘たちのもとに近づいた。


「どっ、どうかご機会がありましたら、また、ユーグ州に――」

「あ? え。ええと、あなたさまはたしか」

「み、み、み、三日前の舞踏会にて、踊っていただきました、ぐっ、グリゴーリ・ポポフキンであります!」


 驚き一瞬固まる娘たちに、アヤメが実に冷静な口調で説明した。


「馬に乗ってみんなの馬車をコソコソ、尾行してましたので。アオビたちとで捕まえて締め上げましたら、アカシに渡しそびれたものがあると仰るんです。それで仕方なく、ここまで連れてきました」

「わ、私に、ですか」


 かぐわしい花の匂いが、ふわっとあたりに広がる。ポポフキン氏が、アカシに花束を渡したらしい。

 舞踏会――たしかに娘たちは、ユーグ州の貴族たちからたびたび、一緒に踊りませんかと誘われた。みな喜んで、西方風の踊りを学んだ。クナも腰に巻いた注連縄を揺らして、ぎこちなく踊ったのだが。


「て……手紙を! 書き送りますので! あ、いや、旅のご無事を! お祈り、いたします!」


 クナのすぐ隣で、リアン姫が大変残念そうにため息をついた。


「なんですの、この帥哥(イケメン)……」


 意外な人とアヤメに見送られながら、すめらの娘たちは船上の人となった。

 ふるるると床が震える。飛行船が浮かび上がったようだ。

 またもクナといっしょの船室になったリアン姫は、簡易寝台に腰を下ろすなり地団駄を踏んだ。


「ああもう! なにゆえアカシさまにあんな帥哥(イケメン)が! あたくしだってがんばりましたのにっ」


 アオビに頼んでめぼしい幾人かに、こっそり文も送ったのに。

 そうぼやくので、クナはぽかんと口を開けた。いつの間にそんなことをしていたのか、全然気づかなかったが。リアン姫はまだ、還俗することをさらさらあきらめていないらしい。


「悔しいですわ。恥をしのんで、また文を書き送ろうかしら」


 ふるるる。ふるるる。

 また床が激しく揺れた。クナは円い船窓に手を当て、きゅっと口を引き結んだ。


(ああ、離れてく……思い出せないまま……離れてく)


 頬に触れられたあと、黒き衣のトリオンと何があったのだろう。何を言われたのだろう。

 それが気になって、クナは焦った。

 ここから離れてはいけない――なぜかそんな想いが膨れて、心を満たしていく。

 何か、予感めいたものがひしひしと。

 本当にこれでよかったのだろうか。残りたいと、勇気を出して、九十九(つくも)の方に言うべきではなかったのか……


「そういえばこの贈り物、中身は何かしらね」


 背後でリアン姫が手持ちの荷物を開ける音を、クナは気もそぞろに聞いた。 


「まあ! なんて美しい袱紗(ふくさ)! しろがね、これ、九十九(つくも)の方が着ていらした金の錦と同じ織り物ですわ!」


 あの金の錦は、九十九(つくも)の方のために特別に織られた特注品だ。

 縁結びの幸せを、すめらの娘たちにも。

 まるでそう思し召したかのように配られたものに、リアン姫はひどく興奮していた。


「州公閣下ご夫妻からっていうのが素晴らしいですわよね。ちょっとしろがね! ぼうっとしないで、触ってごらんなさい。この錦、本当にすばらしいですわ。ほら――」


 ふるるるる。ふるるる……

 船が揺れる中、リアン姫がクナの腕をつかんできたけれど。

 しろがねの娘は上の空。手に触れた錦の感触を覚えられなかった。

 ふるるるる。ふるるるる……

 ただただ、クナはぼうっと、船が揺れる音を聴いていた。

 湖のさざめきを聴いていたときのように。 

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