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23話 銀の杖

 りんと、水晶のように澄んだ声があたりに鳴り響く。

 

「覚悟せよ、狂えし公子よ!」


 クナは震える手を耳に当てた。

 これは絶対に聞き間違い。耳がおかしくなったのに違いないと思った。

 絶体絶命の今このとき。この声が恋しいあまりに。この声の人に助けてほしいあまりに。勝手に耳がこの声を作っているのだと。

 なれども。

 白鷹家の目付け役だというその人がたてる衣擦れの音に、クナはさらに驚いた。

 しゃんしゃんしゃらしゃら。

 なんと、衣が歌っている――


「うそ……! 星黒衣(せいこくい)!?」


 その音色はまごうことなく、黒髪さまの衣が出す音と同じもの。またたく星々の囁きだった。


(そんな! 着ているものまで同じだなんて!)

 

「君はここにいてくれ。花嫁のそばから動かぬように」


 いとしい声は固まるクナに囁くと、高らかに韻律を詠唱した。


『轟け音の神!』


 あたりにどんと、不思議な気配が降りてくる。その怖ろしい(あつ)に、おおっと茶の先生が感嘆の声をあげた。


「なんと分厚い結界! さすが黒き衣の導師さまですな。やれやれ、助かりましたぞ」

「黒き衣の、導師?」

「しろがね、あん方は、岩窟の寺院で修行をお積みにならはった導師さま。白鷹家の守護者や」


 九十九(つくも)の方がホッと声を和らげる。


「西方諸国の王家にはほとんど、あん方のような黒き衣の後見人がついてはる。王家を守るお役目を担ってはるんや」

「つ、九十九(つくも)さま、あの方は、あの方のお声は……く、黒髪さまじゃ……」

「なんやて? まあたしかに、お声もお姿も似てないこともあらしまへんけど……でもあん方は、黒髪さまやあらしまへんえ?」

「でも、衣が歌って……」

「歌う? 導師の黒き衣は特殊な糸で織られるから、衣擦れの音が不思議に聞こえるんはたしかやけど……ああ、黒髪さまもたしかに、黒き衣と似た衣をまとってはりましたな」

 

 似てないこともない? そんなに違う? 

 星黒衣は、導師ならばだれでもまとうもの?

 ならばやはり、自分の感覚がおかしくなっているのか。 

 クナは懐に入れた糸巻きを出して握りしめた。


(あたし、黒髪さまに会いたいから……だからなの? だから錯覚しちゃったの? ああ……なんてまぶしい!)


 あたりはまるで、霧が晴れたかのよう。とても明るい。

 導師が降ろしている魔法の気配のおかげで、おぼろげながらあたりが視えた。

 歌う衣をまとう導師はクナたちの目前にいて、細長いものを掲げている。

 燦然と輝く、しろがね色の杖のようなものを――


『狐空に在りしは閃光のつわもの!』


 水晶の如き澄んだ声が、流れるような韻律を唱える。


(ああ、だめ。まぶしすぎて、導師さまの顔がみえない……光の塊にしかみえないわ)


 しろがねの杖の周りにきんきんと、何かが顕れまとわりついた。とても細かく、ぴりぴりとして、無数に飛び交うものだ。それが一体何なのか、もはやわくわく興奮している茶の先生が即座に教えてくれた。


「雷の精霊! すばらしい、あんなに喚び出すとは!」 

「くっはははは! そんなもの、不死身の我に効くものか! Стреляйте(撃て)! 兵たちよ、臆するな! 飛発(フェイファー)を、雷霆(レイチン)を撃ちまくれ! Я убью его(俺はあいつを殺す)!」


 けたたましく嗤うパーヴェル卿が動いた。

 結界に守られし空気がその勢いに煽られ、ふおんと歪む。


『唸れ! 音の神!』 


 パーヴェル卿が唱える韻律がはっきり聞こえた。ひび割れた声に力が集まり、獣のごとき雄叫びとともに、鋭い力の波動が四方に放たれる。その鋭い魔力の刃を砕かんと、導師が呼び出した精霊たちが飛んでいく――

 そのまばゆい光景がいきなり曇った。滝水が落ちるような轟音が、クナたちを守る結界を襲ってくる。パーヴェル卿の手勢が、クナたちを守る結界を攻撃し始めたのだ。あまたの弾を受ける結界がぎしぎし軋む。しかし何という強度か、音はたてどもびくともしない。


(すごいわ。あたしたちの結界より段違いに強い!)


 雨あられと弾が結界に当たる中。クナは対峙する者たちの声をなんとか拾った。


「おのれ! 黒き衣など恐るるにたらぬ! Ябессмертен(我は不死身)! Моя магическая(我が魔力は) сила бесконечна(無限)!!」

「その魔力は、人から与えられしものであろう! もともとはあなたのものではない!」


 パーヴェル卿が現地語を連発するのは、興奮しているのか。それとも余裕がないのか。対する導師の言葉は端正な共通語だ。クナにもよくわかるほど発音がはっきりしていて美しい。

 

「魔力の根源を潰せばあなたは無力。その首にさげている石を砕けば不死身ではなくなる!」

「は! させるか!」

「どんなに盾を重ねようが、この精霊の刃は防げぬ! 『貫け、霹靂(ハタタ)!』」


 導師が命じた瞬間。精霊たちが歌いだした。

 ひゅるひゅるきんきん。

 しゃらしゃらきんきん。

 縮まり、広がり。また縮まり。

 遠のき、近づき。また遠のきながら。

 不思議な声で歌う精霊たちは、たちまち――


「ぐはっ!? 馬鹿な!」


 パーヴェル卿の結界を撃ち抜いた。


「おのれ……こんな精霊ごときに、なぜ……Щит бесполезен(結界がきかぬ)!」

「狂える人よ。その黄金色の波動、かの獅子のものであろう」

「く……そ、そうだ、俺はレヴテルニ帝をお守りする獅子から、この魔石をいただいたのだ! ともに帝を守護しようと……ゆ、友情の証を……ぐう!」


 ききん。ききん。

 歌う精霊たちが、まるで踊るかのように跳ねだした。

 その音が響くたび、パーヴェル卿が低い悲鳴をあげる。


「きゃあ! あいつ、蜂の巣ですわ!」


 クナのそばにいるリアン姫が声をあげた。弾切れになったのか、兵たちによる嵐のような攻撃が止み、結界の外が見えるようになったのだ。

 杖を振りかざす導師のはるか前方で、歌い踊る精霊が黒い影を何度も何度も貫いている。その影は片膝をつき、もはや少しも動けない。


「くそ! 石が砕け……! なぜ結界が機能しないっ」

「黄金の獅子の波動など、この私にはたやすく中和できる。それにあなたからはもう、白鷹(アリョルビエール)の加護が消えているのだ」

「な……んだと? そんなはずはない! 俺は、獅子と同盟を結んだだけだぞ!」

「否。あなたは獅子のしもべに成り下がったのだ。自覚せずとも、その印がはっきり出ている。あなたの額に獅子の紋が浮き出ている!」

 

 澄んだ声はきっぱり断じた。しろがね色の杖をかかげ、あたかも死刑を宣告する裁判官のように。


「気高き鷹は、天空に在りしもの。地を這う獅子に下るなど、決して許容しない!」

 

 転瞬。影から闇色の血が四方に飛び散り、おぞましい怒号が轟いた。

 長く尾を引くそれは断末魔。魔力のもとを断たれた怪人の、執念深き雄叫びであった。


「嘘だ! 俺こそは、Преемник(白き鷹の) белого ястреба(継承者)……!」


 ばきばきめきめき。ひびわれた声が。その声をもつ体が。容赦ない光に呑まれていく。

 圧倒的な魔力に抵抗しようと、影が激しくもがいたそのとき。


――「そこまで!」


 はるか頭上から、朗々たる声が降ってきた。


「大義であった、黒き衣のトリオン殿! 魔力の源が断たれたゆえ、我が弟(・・・)はもう何もできぬ! あとは我が兵たちに任せよ!」 





 天の声が聞こえたとたん、クナの視界は闇に閉ざされた。

 導師が天の声に従い、魔法の気配を消したからだ。

 ちりちり、精霊たちが消えゆく音とともに聞こえてきたのは、複数の、機械の翼の駆動音。

 幾頭もの鉄の竜(ロンティエ)が降りてくる音だった。

 空飛ぶものたちは地響きたてて着地するや、パーヴェル卿の手勢に向かってごうごうめらめら。熱い炎を吐き出した。


「弟と反逆者たちを牢に繋げ! 千の責め苦を負わせてやろうぞ!」


 指揮官の声は怒りの色を帯びていて、とてもこわかった。

 敵の武器が砕け、阿鼻叫喚の悲鳴が中庭に満ちていく様を、クナは震えながら聞いた。

 パーヴェル卿が牢へと引っ立てられ、中庭からあらかた敵が一掃されると。その指揮官は竜から降り、かつかつ足音をたて、クナたちのもとに近づいてきた。まっすぐ迷うことなく、クナたちが囲んで守る花嫁の前に。


(ヤン)家の(ジン)姫にあらせられるか」


 この人こそ、花嫁一行が待ちわびた方。

 ユーグ州公、アレクサンドル・アリョルビエール閣下その人であった。

 遅きに登場した花婿の第一声は、鎮痛なる謝罪。しかもそれは、素晴らしく流暢なすめらの言葉だった。


「迎え役を命じた弟には、最大の歓迎ともてなしをせよと命じたのだが……まさかこのようなことになるとは……なんとも申し訳ないことをした。金の髪の姫よ、どうか許して欲しい」 

「きゃ。花婿さまがひざまずかれましたわ。しろがね、こっち!」


 慌ててクナをひっぱったリアン姫を皮切りに、他の娘たちも、めらめら燃えるアオビたちも、そして茶の先生も、ささっと花嫁を守る包囲を解き、後ろに控えた。


「御顔をお上げ下さいませ。急ぎここへ戻られましたんか? おぐしが、乱れておられます」

「第二妃と生まれたばかりの子を連れこの城へ戻る道中、弟の伏兵に襲われた。それで帰城が遅れた。血なまぐさい見苦しい姿での参上、まことにあいすまぬ」

「な……襲われたとは、ゆゆしきこと。第二妃さまとその御子は、ご無事であらしますのんか?」

「それは大事ない。我らの危機を察した後見人が、駐屯地より我が兵をつれてきて救ってくれた。それでこうして鉄の竜に乗り、帰り着くことができた次第だ。姫よ、私は、この不祥事の埋め合わせができるであろうか? 遅きに失したのではなかろうか?」


 花嫁の返事は間を置かず、まったくよどみなく。その気配から、クナは花嫁が深々と花婿に頭を下げて礼をとったのを察した。

 

「みなさまご無事で、なによりでございました。我が君(・・・)

「なんと……弟にはめられしふがいない私を、姫は伴侶とお認めくださるのか」

「返り血も拭かず、ここに起こしくだはるとは。そのお気持ちだけで、埋め合わせには十分でございます」

「姫……なんとかたじけない!」

「ああ、よかった……」 

 

 リアン姫が嬉しげなため息をつき、クナの腕にひしと抱きついてきた。ひざまずく花婿は花嫁がさしのべた手をとり、胸もとに引き寄せて口づけをしたらしい。

 アカシもアヤメも、そしてミン姫も。クナの周りでみな、安堵とあこがれの吐息をついていいた。

 けれどクナは独り、幸せな場面に浸りきることができなかった。


(黒き衣の、トリオン……さま)


 花婿の後ろに控える導師。銀の杖持つ人が気になって仕方がなかった。

 しゃらしゃらと歌う衣をまとう人が。


(黒髪さまのお名前はたしか、トリ・ヴェティモント・ノアール ……そしてこの方は……トリオンさま)

 

 声もまとう衣も、そして名前もそっくりだとは。

 もしかしてこの方は、黒髪様のご親族か何かであろうか? それとも――


(わからない。わからない。この方は、一体、なんなの?)

 

 クナはとまどい、大事な糸巻きを抱きしめた。強く、強く。指が痛くなるほどに。




 

 鎮火の処置が早かったせいか、分厚い岩壁であるせいか。幸い、爆破された階の陥没は起こらなかった。なれど花嫁の一行は花婿に先導され、ただちに別の城へと居を移した。

 九階の各所で昇降機のワイヤーが破壊され、城中で一切の物が運べなくなってしまったからだ。それゆえ州公閣下の宮廷は、本来ならば夏季を過ごす第二宮殿へと移動することになったのだった。

 「引っ越し」は慌ただしくも、実に絢爛な行列となった。

 護衛兵団を先頭に、州公閣下の馬車、第二妃とその御子を乗せた馬車、そして、第三妃となる九十九(つくも)の方の馬車。

 その後ろにクナたち付き添い娘や、すめらの官たちが乗る鉄車と嫁入り道具の荷馬車団。

 それに続いて、城に住まう貴族や官、侍従侍女や使用人らがえんえんと、馬車や荷車の行列を成した。

 行列は長い長い橋を渡り。馬車ごと大船に乗って降りることを繰り返し。大きな湖をいくつか越えた。先頭の護衛兵団は、すめらの国歌とユーグ州の州歌を交互に演奏し、両国の同盟と友好とを熱心に言祝いでいた。


「しろがね、ここも天突くように背の高いお城ですわよ。白鷹城より高いんじゃないかしら」


 第二宮殿も、湖に浮かぶ島に建つ城であった。

 しかも橋はなく、船でしか行くことができない。城の一階はそっくり港となっていて、馬車ごと乗せた巨大な船が楽々何隻も泊まれるほどの広さだ。すめらの者たちはみな、港の天蓋の高さに舌を巻いた。

 城に入ったその晩。花嫁一行は、州公閣下と第二妃とともに贅を尽くした晩餐を楽しんだあと、花火と器楽演奏のもてなしを受けた。

 席は城内劇場の、第一等の貴賓席。すなわち、舞台正面にお座りになる州公閣下の真後ろである。花嫁と娘たちは、第二妃と並んで座る栄誉を与えられたのだった。


「ヴァレニエっていう果実の砂糖漬け、美味しかったですわね」

「久しぶりに甘いものを楽しめましたわ」


 席に座るなり、娘たちはヒソヒソ。晩餐のときの感想を口々に漏らした。

 さらさら、さやかな衣擦れの音が鳴る。

 もはやみな、鎧はすっかり脱いでいて、揃いの千早を羽織っているのだ。


「それにしても、第二妃のエカテリーナさまって、とても穏やかでおっとりしてらして。不貞をする方になんて、到底見えませんわよね」

「ええ本当に。パーヴェル卿は、ひどい言いがかりをつけたものです」

「疑いが晴れてよかったです。それにしてもここ、港とおなじですごく天井が高そう……」

「あいかわらず勘が鋭いわね、しろがね。そうよ、この劇場、五階から八階までの三階分の空間を利用して作られてるんですってよ」

「すごい……!」


 初めて聴く西方の楽器の音色は、不思議で美しかった。

 すめらの琵琶や鈴、笙の音と、まったく違う。単体でも興味深い音だが、合わさると重厚でなんとも美しい響きを作り出す。


「ぽろろんぽろろんっていうのが、はーぷ。音高くキイキイ鳴るのは、ゔぁいおりんっていうそうですわ」

「なんてすてきな音」

 

 物珍しい音色にクナはしばしうっとり。えたいのしれない不安をやわらげることができた。

 

「明日はこの城の礼拝堂で結婚式。それからこの劇場で一週間、祝賀の催しが色々行われる予定です」

「アカシさま、白鷹城にも劇場があって、当初はそこで式典を行う予定だったそうですけど。あたくしたち、部屋に押し込まれて、城内なんて少しも案内されませんでしたわよね」

「ええ、天と地ほどに違う待遇ですね」

九十九(つくも)さまったら、怒りもせず、ご結婚を渋りもせず。まさに、すめらの女の鑑ですわ」


 リアン姫の言うとおりだ。すべてを呑んだ九十九(つくも)の方には、クナも尊敬の念があふれるばかりである。

 ひどい目に遭ったと、泣き叫んでよいようなことを経験したというのに、州公閣下に一言も文句を漏らさない。必ず遠征を成功させると気負っているためだろう。

 

(よかった……閣下が、お優しそうな人で)


 それだけがただただ、救いだ。

 脅威はあったが取り去られた。州公家には力ある後見人がいる。

 あのパーヴェル卿の仕打ちのせいで、とても花嫁を残して帰れぬとまで思ったけれど。今は、結婚を祝福してすめらに帰ることができそうな気がする……。


 音楽のもてなしが終わっても、ぽぽんぽぽん、花火はずっと鳴り続けていた。

 真夜中をすぎるまで、絶え間なく打ち上げられるという。

 どうぞ空の華をお楽しみくださいと、花嫁一行は城の展望台に案内された。頂きのすぐ下にせり出した空中庭園である。クナたちはそんな絶好の場で火花が空を彩るのを見物した。

 

「ってしろがね、あなたには音しか聞こえませんわよね。ちょっと待って、侍従たちが何か捧げ持ってきましたわ。もらってきてあげましてよ」


 リアン姫がぱたたと小走りに後ろの方へ駆けていく。甘い菓子の香りがそこからほんわり漂ってくるので、クナは思わず鼻をくんくんさせた。


「わ。すごくおいしそう……」

「林檎のパイだよ。晩は、飲み物だけの予定だったのだけどね」


 水晶のように澄んだ声が近づいてきたので、クナは固まった。

 しゃらんしゃらん。その人がまとう衣が歌う。

 

「花火が見えない子がいるから、美味しいものも出すよう家令に命じた」

「あの……」

「こんばんは、黒髪のお嬢さん」

「こ、こん、ばんはです」

「ああ、怖がらないで。魔法はめったに使わない。普段はお家の些事をいろいろこまごま、取り仕切っているんだ。つまりそう、雑用係だね」


 やはりこの人の声は不思議だ。同じに聞こえる。黒髪さまとまったく同じ声に。

 クナはそろそろあとずさりながら、千早のたもとに手を入れた。そこにある糸巻きを探って握りしめる。


「あなたは……」 


 喉から絞り出した声は、混乱のあまりかすれていた。


「あなたは、だれ、ですか?」 


 問いに対する返事はなかった。あまりにかすかで、相手には聞こえなかったのかもしれない。

 黒き衣の導師は、クナの頭を撫でるようにそっと触れてきて。耳元に口を近づけて囁いてきた。


「ひと目見ればそれと分かりぬ

 その子がそうだと魂が気づく

 心をば焦がす恋の炎

 その身をば焦がす聖なる炎……」

「その歌……!」


 いつかどこかであの人も歌った。黒髪さまも。

 氷のように固まるクナを溶かすように、優しく澄んだ声が歌に続いた。

 

「……すまない、金の林檎のパイじゃなくて。でもきっと美味しいよ」

「え?!」  

「なんだかすごい加護だね。一体誰が君を、こんな鉄壁娘にしたのかな?」

「あのそれは」


 耳元から唇が離れていく。くすくす、苦笑いと一緒に。

 

「しろがね! 焼きたてのパイですわよ。あら導師さま、こんばんは」

「こんばんは。どうか、楽しんでください」


 リアン姫が帰ってくると同時に、黒き衣の導師は踵を返して行ってしまった。

 しゃらしゃら、さらさら。歌う衣を鳴らしながら。

 

「西の国のお菓子ってほんとに美味しいですわね。しろがね? どうしましたの? ほら、早くお食べなさいな」

「あ、は、はい」

「ふふ、あの導師さま、なかなかの男前ですわ。長い黒髪に青い瞳。背もお高いし。でも導師って結婚できない職業ですわよね?」

「そ、そうなの?」

「岩窟の寺院って、男しか入れないし、戒律が厳しいって聞いたことが。色恋や縁結びはご法度じゃなくて? ああ、残念ですわ。普通の貴族だったら、あたくし俄然、がんばりましたのに」


(あの人、あたしのこと知ってる……)

  

 金の林檎は天の浮き島にしかないものだ。

 クナの前世だった〈あの子〉の好物を知っているのは……


(黒髪さまだけだと、思ってたのに)


 クナは押し付けられた林檎のパイを抱きしめ、遠のく黒き衣がかもす歌を呆然と聴いた。

 弾ける花火の音など、まったく耳に入ってこなかった。

 ほんの少しも。 


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