22話 ひかりの雨
ほろほろ、まばゆい雨が降っている。
仰げば、頭上には開けた空。分厚い岩の天井はなく、ましろの輝きが一面広がっている。
これは――
(雲?)
クナはしばし呆然と天を眺めた。
パーヴェル卿の仙術でクナたちがいる階が爆破された。その衝撃で、魂が体から抜けてしまったのだろうか。
ちりちり。ぱりぱり。
空から降ってくる雨はとてもまぶしい。ひかりの水玉が無数に舞い落ちている。おかげであたりはまっしろだ。
(ここは……)
空のただ中に昇ってきたのかと思ったら違った。
足の裏に感じるは、しっかと固い大地の感覚。鼻をくすぐるは土の香り。その中にかすか、上品で甘やかな香りが立ちのぼっている。
(花の香り!)
それでクナはここがどこなのか、瞬時に察した。
(天の浮き島だわ。でもなぜ?)
ここははるか空の高みに浮かぶ島。甘い甘い思い出のあるところ。
それが大陸のどこに浮かんでいるのか、クナは知らない。
島は白鷹城の上空を漂っているのだろうか。しかしどうして、ちゃんと地に足がついているのだろう。少しも浮いてないし、全然ふわふわしていない。
「レク!」
とまどう背に、声が降りかかってきた。
(え?!)
あの人の声だった。
いつも聞いていたい、りんと透き通った音。
「大丈夫か? まったくあいつめ、なんてことを」
声の主は一気に近づいてきて、クナの腕をそっと掴んだ。
(うそ! 黒髪さま?! うそ、どうして?!)
ふりむけば――そこには暗い影が在った。長い黒髪とおぼしきものが、ふわと流れてたなびいている。なれど雨のひかりがまばゆすぎて、その人の姿は真っ黒いゆらめきにしか見えなかった。
「氷蟲の群れを集めて落とすなんて。いたずらにもほどがある」
「でもきれいだよ。ピカピカ光ってて」
自分の口が勝手に動いたので、クナはうろたえた。
「たしかに離れて見る分には非常によろしいものだ。だが放っておいたら島が凍る。花もりんごの木もだめになるよ」
背に暖かな腕が回される。寄せられた我が身が、ゆらめく影にひとりとついた。
(鎧の音がしない。これってまさか)
着ているはずのものが消えているのに気づいて、クナはこれが何なのか理解した。
これはおそらく昔の記憶。魂の中に秘められていたもの――
「えっ、ここがだめに? わわ、それはだめ!」
ちりちり。しゃりしゃり。ぱちぱちぱりん。
まぶしい雨の勢いはおさまらない。いまや輝く水玉は、何百何千ものひかりの筋。
「まったくなんて魔力だ。これほどの韻律を使っているというのに、あいつめ……まだ浮いていられるとは」
あきれかえったような口調でぼやきながら、クナを抱きしめる影が天をあおぐ。
その視線を追ったクナの口から、くすくす苦笑いが漏れた。
「あなたに似たんだね。ちゃんと受け継いでる」
その瞬間。いとしい人の影がぐらりと揺らいだ。澄んだ水晶のごとき声がもごもご。低くすぼんでかすかに濁る。
「レク、違う。あの子は……」
「隠さなくていいよ。助けたら勝手についてきたなんて嘘でしょ」
きらきら。ちりちり。しゃりしゃり。
地面に落ちたひかりが花を砕く。
「出ておいで! 雲の上に浮かんでる子」
クナは天に手を差し伸べて呼んだ。一面輝く雲の向こう、うっすらぽつんと見える影に向かって。
その小さな影からくつくつ。くつくつ。かすかに笑い声が落ちてくる。
そこにだれかがいるのは明白で。クナは一所懸命手を振って呼びかけた。
「ねえそこにいるんでしょ? 降りて来て! ボクたち今から島を降りて、大陸同盟会議に行くの。この大陸を災厄から救う相談をするんだよ。一緒に来る?」
「レク、あの子を呼ぶな。今すぐ追い払う」
黒髪なびく影が抱きしめてくる。輝く天からクナを覆い隠すように、きつく。きつく。
「そんな冷たいこと言わないで。だってあの子はあなたの――」
クナは暖かな腕を押しのけようとしたけれど。黒髪の人は離れることを許してくれなかった。
「レク、頼むから」
クナの頬を撫でながら、まっくらな影はとても哀しげに囁いてきた。
「あいつを呼ぶな」
「ふぁ……!」
ことばを封じるためだろう。唇が口づけで塞がれた。柔らかで熱いものが口の中を愛してくる。
(でも、あの子呼んでるわ)
とろけるような抱擁の隙間から、クナは腕を伸ばした。
(呼んでるわ。ほら、手を振り返して、あたしたちを呼んでるわ――)
「しろがね!」
伸ばした手がしっかと掴まれた。転瞬――クナは記憶の夢からハッと目覚めた。
あたりは盛大に燃え盛っている。頬が焼かれてひりひり痛い。倒れている我が身を起こそうとするも、腰の注連縄が邪魔をする。がしゃがしゃと、重い鎧が軋んだ音をたてるばかりだ。
「しっかりして! ほら、立つのよ!」
手を握ってくれたのはリアン姫だった。ぐいとクナの体を力強く引っ張りあげるその力の、なんと頼もしいことか。クナは内心とてもホッとした。
「大丈夫? あなた気絶してましたわよ?」
「だ、大丈夫です」
なんとも不思議な記憶だった。氷蟲を落としていたのは、だれなのだろう……
(雲の上にたしかにいたわ。子ども? 少年?)
「しろがねこっち!」
リアン姫がクナをひっぱり、煙たい空間をそろろと走り抜ける。花の香りなどどこへやら、あたりはなんとも焦げくさい。そこかしこからばんばんと、いまだにおそろしい爆音が響いている。
「パーヴェル卿ったら、この階にこれでもかって爆弾を投げ込んだようですわよ! それに、部屋を守っていたすめらの護衛兵がほとんどいなくなってますの! パーヴェル卿に退けられたにちがいありませんわ!」
愚痴るリアン姫のはるか先から、九十九の方が呼ばわる声が聞こえた。
「背を低うしてアヤメに続きや! 煙を吸うたらあきまへん!」
思えば、前にも炎に呑まれたことがあった。御所の車庫でアオビが必死にクナを守ってくれた。あの時は無我夢中、炎を散らすために舞ったけれど――
「きゃあ!」
身をかがめたとたん、クナはべちゃりと前のめりに倒れた。腰の注連縄が重くて思うように足が動かない。
「しろがね、鎧をお脱ぎになって!」
「リアン姫?」
ばぐん。ぼぐん。すぐそばで激しく何かが弾けた。パーヴェル卿はいったいどれだけ仙術を仕込んだのだろう。
「注連縄を外せないというなら、鎧の方を落とすしかありませんわ。だってこのままじゃあなた、ろくに動けないんですもの。ほら早く!」
クナは急いで腰回りの結び紐を解いた。リアン姫もがむしゃらに紐をひっぱってきた結果、どしゃっと胴の部分が前後に落ちる。胴の隠しに入れていた糸巻きが転げたので、クナは慌てて拾い上げた。
(あたしのお守り……!)
いとしい人の声が入った糸巻き。これだけは、死んでも手放すわけにはいかない。
「ああ、九十九さまたちと距離が離れた。急ぐわよしろがね!」
糸巻きを握りしめるクナを、リアン姫はぐいぐい誘導した。
喉が灼けて痛い。岩壁むきだしで身震いするほど涼しかったのに、なぜこんなに燃え盛っているのか。何か燃えるものも一緒に投げ込まれたに違いないと、リアン姫は歯ぎしりした。
「自分が住んでる城を爆破するなんて、まったくありえませんわよ! しかもすめらの護衛兵をわざわざ排除してから仕掛けるなんて。これであたしたちが焼け死ななかったら、きっといろいろ難癖をつけてくるって寸法ですわね!」
前方でアカシたちが悲鳴をあげる。燃える瓦礫が倒れてきて、前進を阻まれたらしい。充満する煙のけむたさに閉口しつつ、クナが匍匐で進みだすと。ははははと、けたたましい嘲笑が爆音の中から流れてきた。
「ひ……まさか近くにパーヴェル卿がいますの?!」
「みなさまひるみますな! これは仙術じゃ! まぼろしと同じものですぞ!」
お茶の先生がそう仰るも。次の瞬間、クナの背筋はぞっと凍りついた。
この道を 切り開きしは我が司令
勇ましきかな 銀の鎧
麗しきかな 金の髪
城に入る時にえんえん歌われたあの歌が聞こえてきたのだ。
しかもそれは、何百もの人々の合唱だった。
白鷹の誉れ 我らが希望
その名はパーヴェル 偉大なパーヴェル
アリョルビエールの 不死の鷹
「リアンさま、しろがねさま、こちらへ! 岩壁の中に割れ目がございます!」
アヤメに呼ばれなかったらクナは恐怖のあまり、しばらくその場で固まっていたに違いない。
不気味な合唱は爆音をさしおいて、がんがんとあたりに響き渡っていた。
いつまでも。いつまでも――
アヤメが見つけた隠し穴は、人ひとり、壁に背をつけてぎりぎり横ばいで進めるほどの幅のもの。下へ下へ、かなりきつい坂を成していた。
「ほんま、アヤメは立派な隠密になりましたな」
「いえ九十九さま、もっと早く見つけておれば、こんなに慌てることはなかったのですが。申し訳ございません」
ひたひたと冷たい岩で焼かれた身を冷しつつ、花嫁一行はその抜け穴を進んだ。
だれともなく巫女の祝詞を唱えだし、それがたちまち合唱となったのは、みな気を奮い立たせたいという気持ちにかられたからだろう。パーヴェル卿を称えるあの不気味な歌に打ち勝ちたいと思ったのだ。
天照らしさまのみひかりを
かしこみ かしこみ 願いたてまつる
勝利と栄光 慈悲と癒やし
なないろのひかり てらしませ
お茶の先生が伴奏よろしく、りりんとさやかな鈴の音を醸し出す。鈴鉢と似たような音を出すそれは、衣のたもとに常に入れている呪具らしい。たちまち不思議な気配が降りてきて、娘たちの歌声は、彼女らを包むやわらかな結界へと変化した。
この見えない壁がなかったら、クナたちの体は穴だらけになっていただろう。
「ここは中庭?」
「何か飛んできますわ!」
「みな、歌い続けよ!」
隠し穴から抜け出たとたん、一行は攻撃を受けた。鋭い矢の雨がどどうと降ってきたのだ。
「はははは! 狐どもが燻しだされてきたぞ!」
行き着いた先は露天の中庭。そこにはパーヴェル卿とその手勢がずらり、花嫁一行をいまかいまかと待ち構えていて。狂える人は推測通りに、爆破の罪をなすりつけてきた。
「よくぞ隠し通路を見つけたものだ。しかし逃しはせぬ。城を破壊し、我が州を混乱に落としいれようとするとは、おそろしい狐たちよ!」
「おろかな……鬼のいぬ間にやりたい放題とは、片腹いたすぎて笑い死にそうやわ」
「黙れ、歪んだ血筋の妖怪ども! 事前に護衛を下げたのが何よりの証拠! よって問答無用ぞ。この場でおまえたちを処刑する!」
――「みなさま、しのぎなさいませ!」
りいんと、茶の先生が鈴を鳴らした。
「ああもう、琵琶を持って来るのを忘れましたわ」
ぼやきながら九十九の方が、大結界を張る祝詞を唱えだす。
娘たちはすぐさま、その詠唱に同調した。
どどど。どどど。
重い矢が容赦なく結界に当たる。娘たちはみごとに攻撃をはじいたものの、嘲笑は止まらなかった。
「はははは! なんとひよわな合唱団か。防戦一方、破壊力なぞかけらもないぞ!」
ががが。だだだ。
今度は矢ではないものが飛んできた。奇妙な音だ。リアン姫が一瞬息を呑むのがクナの耳に入ってきた。
「飛発……!」
「ふぇ?」
びきりと、結界が鈍い音をたてた。相手が使った武器は、弓よりもはるかに強力なものらしい。
「結界にひびが……!」
「弾に霊力がこめられてるんや! 結界の展開速度を速めなあきまへん。しろがね!」
「はいっ!」
クナはすうと腕を伸ばして風の型をとり、舞い始めた。
(攻撃力がない? そんなことない!)
助走しているひまはない。一気につむじ風を起こす。
硬度が増した結界に、がしゃんがしゃんと弾が当たる。先ほどとは如実に違う音に、相手が初めてひるんだ。
「おお? 舞師がいるのか!」
(ばかに、しないで!)
きゅるきゅる回転し、クナはみるまに結界を広げた。音波の壁が弾をはじきながら、相手の陣を狭めていく。
「はははは、やるなぁ! 雷霆を前へ! 私があそこに穴を開ける。集中して撃て!」
次の瞬間。
(えっ?!)
どうと勢いよく、クナの体が上に吹っ飛んだ。ばりばりぱりぱり、すさまじい音がクナを包む。パーヴェル卿が何かを投げつけたとたん、いとも簡単に結界に穴が開いたのだ。そうしてクナだけがひとり、宙に巻き上げられたらしい。
「しろがね!」「しろがねはん!」
軽い、軽いぞと狂える人が嗤う。そうだ鎧は脱いだのだったとクナが歯を食いしばったとき。
「しろがねさまー!」「いけません!」「撃たれますー!」
アオビたちがめららと飛んできて、クナの体に取り付いた。
と同時に、すさまじい轟音がクナを包んだ。下にいるみなの叫び声がかき消える。
「きゃああああ!!」
圧倒的な衝撃が全身を撃ってきた。
ぱあっとアオビたちが散り消えるのがわかった。
どれほど巻き上げられたのか。クナは長いこと落ちて地に叩きつけられた。
起き上がりたいがばちばち雷が閃く音がして、手足がまったく動かない。
「なんだ? なぜ手足がバラバラにならんのだ! 鬼火のせいか? それともなにかの加護がついてるのか? 『吹き飛べ!』」
「ひ!」
変な響きの言葉が轟いたとたん、クナの体はまた宙に飛ばされた。鈍い音がして、壁に打ちつけられたのだと思った瞬間、さっきとおなじ、空裂くような轟音が轟く。
「やめて! いくら鉄壁の加護がついてるからってあんなに揺さぶられたら!」
「そもそも雷霆を人に使うなど! それは鉄車を破壊するのにつかうものですわ!」
「きいきいうるさいぞ娘ども。飛発に雷霆。すめらの武器はなまくらか? せっかくお国の武器で殺してやろうと、慈悲をたれてやったのに」
雷を当てられたクナは地に落とされた。黒髪さまの加護が効いているのだと察したが、さすがに頭がくらくらする。体はしびれあがり、指一本動かせない。
砕かれたアオビたちがすぐそばで分裂を始めている。しかし次手に間に合うだろうか。
クナは震えた。相手が怖くて仕方なかった。
その気になればかんたんに結界を砕けるということは、パーヴェル卿はクナたちで遊んでいるのだ。ネコが鼠をいたぶるように。
「きゃああ?!」
クナの動きを封じた相手は、今度はアヤメに狙いを定めた。こちらはどうかと試すようなことばを吐き、宙に飛ばす。
(だめ!! やめて! 撃たないで――!!)
ことばすら出せないクナの願いむなしく。情け容赦なく雷霆が轟いた。
「なりませぬぞ!」――「先生!!」
茶の先生の声とアヤメの悲鳴が同時に聞こえた。先生が上へと飛び上がり、間一髪でアヤメをかばったらしい。
「おお! おお! 茶の先生は韻律使いか! 楽しませてくれる」
「ぐ……」
興奮する敵が勝ち誇った笑いを響かせる。先生は雷霆を仙術でしのいだものの、クナと同じ状態に陥ったようだ。声をつまらせ感電している。
「さあ次は、いったい誰が誰をかばうのだ? またこのぽんこつをしのぐ奴があらわれるのか? いや、もういないだろうなあ!」
「おのれ!」
挑発に我慢ならず、リアン姫がクナの代わりに舞い始める。しかしいまや舞師は、一番に狙われるあわれな標的でしかない。
「やめや!」
九十九の方がぴしゃりとその無理を止めた。
神楽が止む。かしゃりかしゃり、悲壮で重い金属音をたてる花嫁の足音が、場に降りた静寂を割った。
「うちはあんさんをみくびっていたようですわ、パーヴェル卿。あんさんは結局何が望みなんですやろか」
「いまさら白旗なぞ受け入れぬぞ、スメルニアの狐よ」
かなわぬと見て抵抗をやめた鼠に、猫は慈悲をたれる気はさらさらないようだった。
「うちの首ひとつで収まらしまへんか? あんさんに協力するのを拒否したんはうちや。他の娘らは関係ない」
「まさか私が単に、兄の位を狙っているだけだと思っているのではあるまいな?」
「そうかやはり……軍は退かなあきまへんのか」
「それこそ我が狙いよ。私は約束したのだ、我が心の英雄レヴテルニ陛下に。こたびの遠征は決して起こさせぬと」
残酷な猫はひとしきり演説をぶった。
くれないの髪燃ゆるレヴテルニ帝が、いかに偉大な皇帝であるのかを。
大陸の災厄を止めたのはあの御方。これから未来永劫、大陸の未来を輝くものにするのもあの御方。
「私は幼きころよりあの方を崇拝していた! 魔道帝国こそ、大陸を統一するべき国! 生気と希望に満ち溢れる栄光の国よ! スメルニアなど、かびくさい国家は滅んでしまえ!」
その声は。熱に浮かされたように半ば溶けていた。なにものかに、すっかり心を奪われているかのように。
「さあ、軍団もろとも腐った土地へ逃げ帰れ、女狐! 基地をたたみ軍をたたみ、国へ引っ込むと誓うのならば、おまえが尻尾をまいてここから出るのを許してやろう!」
「誓うことは、できまへん」
九十九の方は即答した。
「すめらの軍は、退きまへん。将軍らにはよう言い聞かせてあります。たとえうちが死のうと、同盟がこわれようと。こたびの遠征軍、決して撤退はならへんと」
「くっ……ははははは! なんとおろかな狐よ! 遠征軍なぞおそるるにたらぬ。我が白き鷹ですめらの軍を滅ぼしてやろう! おまえの首を城に晒してからな! 『吹き飛べ!!』」
――「九十九さま!!」「あああ!」
娘達が悲鳴をあげる。花嫁が宙に投げられたのだ。雷霆の標的として。
(そんな!! だめよ! だめ!!)
クナはしびれる体を必死で動かそうとした。
黒髪さまのおかげで、自分は直撃を受けても大丈夫なのだ。だから恐れることはない。
すめらにとってもクナにとってもとても大事な人を。かけがえのない家族を失うわけにはいかない――
「やめ、てええええ!!」
手がわずかに動く。指先が空気を動かす。ふわと起こった風を、クナはぎりぎり腕を動かして広げた。
「しろがねはん?!」
起こした風が雷を払う。クナはその風に巻き上げられながら、宙を飛ぶ九十九の方の気配に手を伸ばした。
「死なないで! 死なないで! あたしが守るから!!」
間に合うだろうか。届くだろうか。盾になれるだろうか。
雷霆の轟音が、クナのすぐ横をすり抜けた――
「九十九さま! いやああああっ!!」
クナはどしゃりと地に落ちた。自分に雷の弾は当たらなかった。ということは……
みるまに青ざめるが、花嫁の悲鳴は聞こえてこない。もしかして、茶の先生がまたかばってくれたのか。
一縷の希望を頭上にむけると。そこにはもう、誰の気配もなかった。
なぜか、雷霆が爆発する音も聴こえない。
とまどうクナのすぐ隣に、だれかがすとんと降り立つ。
「あ、あんさんは……?」
その人の腕から金属音をたて、九十九の方が地に降りた。
「間に合ってよかった。主公の花嫁を傷つけずに済んでやれやれだ」
「え……?」
その声を聞いたとたん。
「嫌な予感がして急いで帰城したのだが。やはり予見どおりになっていたか」
クナは、石のように固まった。
「くっはははは! 遅いぞお目付け役! それでも我が家の後見導師か!」
「ああ、たしかに面目もない。しかし私はこの場で確たる証拠を目撃した。パーヴェル様、まことに遺憾ながら、これよりあなたを白鷹家より排除する」
「ほざけ! やれるものならやってみろ!!」
「ああ、その前に」
呆然とその声を聞くクナの腰に、ふわと腕が巻きつく。ぎゅうとその腕に力がこもる。
「怪我はなかったかな? 君の目の前から花嫁を奪ってすまなかった。雷の弾は軌道をいじって上空に飛ばしたよ」
(なぜ? どうして?! ここにいるはずない!!)
「よかった……無傷のようだね」
耳元で囁かれたその声に撃たれて、クナの思考は凍りついた。
なぜなのか。これは天のいたずらなのか。
その声は、同じだった。
あの水晶のように透き通った声と。
いつも聞いていたい、愛する人の声と。
まごうことなく、瓜二つ――
「くろかみ……さま?」
クナがやっとのこと囁くと同時に。
ばりばりと雷弾が破裂する音が轟いた。空のかなたで、かすかに。