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16話 あまづら

 すめらの宮処(みやこ)がある州は、大陸をかっちり二分する赤道よりもはるか北。どちらかといえば冬が長い。冷涼で作物が育ちにくく、降雪はそこそこ深し。そんな土地柄だが、帝のおわす宮処(みやこ)だけは、別世界だ。


「まるで蒸し風呂ですわね」

 

 (シャン)家のリアン姫がぼやいてパタパタ、扇子をはためかす。庭園をのぞむ部屋に力技の風が巻き起こるも、残念ながらいかほどの涼にもなっていない。


「あれは(せみ)の啼き声か?」


 太陽の巫女王(ふのひめみこ)たる百(ろう)の方は、いらいらと脇息に肘を沈めた。庭園からじゃーじゃー、耳がかち割れそうな音が響いてくる。なんと暑苦しい音であろうか。

 太陽神殿はほぼ平屋で広大な敷地の中に造営されている。おかげでそびえたつ周囲の建物が作る日陰は一切届かない。なのに人口五十万の熱気はしっかり流れてくるのだ。 

 幾層も重なる青瓦の建造物が所狭しとひしめき合う、かように密度がものすごい宮処の夏は南国並み。いや、それ以上と言われている。


「冷やしものをどうぞ」


 第一の従巫女たるアカシが頭を垂れ、アオビがそうっと差し入れてきた盆を主人の前に置いた。ギヤマンの器に雪のような氷。ほんのり茶色のあまづらがかかった氷菓子だ。

 百(ろう)の方は渋顔で、きんと冷やされている器に手を触れた。

  

「砕き氷とは……早くないか? 炎もゆるような八の月に、食すものであろうに」

「大姫様がご不調と聞いて、まかない方が気をきかせてくださったようです」


 朝議への参加。ご祈祷。もろもろの朝務を終えての休憩のひとときゆえ、重たい黄金冠はすぐ脇の御台に置いている。分厚い錦の羽織も脱いで、薄衣の(ひとえ)一枚だ。なれど蒸した空気に体はじとじと。ほんのり甘やかな荷葉(かよう)の香を朝からばんばん焚いているが、すっきりしない。

 不快な暑さもさることながら、不機嫌と不調の理由は、従巫女がひとりばかり足りないせいであろう。目前にかしこまる巫女たちの中に、しろがね色の頭が見えないのである。


「ああもう。しろがねはいつ、霊光殿から帰ってくるのじゃ」

「今日あたりそろそろと思いますが」

「月末に大祓いを控えておるというに。半年に一度の大きな儀式、舞を奉納せねばならぬというに、舞い手がおらぬのは困る」


 青厳(しょうごん)の滝への御成りにおいて、しろがねの娘は求める人の居所を見事に突き止めた。

 黒髪様は生きておられる。砂漠の地下に囚われているという。

 しかしそこは守りが固く、しかも……。


「怪我の治療と称して何日預かるつもりなのじゃ。催促の文をしたためてもよいであろうか」

「そ、それはお控えなさった方がよろしいかと」


 アカシがかしこまって宥めてくる。

 魂の飛翔から戻ってきたしろがねの娘は、その右手をひどく焼かれていた。焼け焦げたようにぶすぶす真っ黒。炎の聖印を打たれ、鉄壁の加護を施されているというのに、およそ信じられぬ負傷だった。大翁様によればなんと、娘は黒髪様を捕らえている者によって、魂を傷つけられたのだという。

 

『一種の呪いだ。聖印も黒髪どのの加護も、物理的なものを遮断するためのもの。精神的なものには効かぬのだ。この呪いが進行性のものでないかどうか、調べさせていただく。ゆえにこの子も霊光殿へ連れ帰るぞ』


 大恩ある大翁様にそうきっぱりいわれては、いかな娘の所有者とて断れるはずもない。以来、しろがねの娘は九十九(つくも)の方と一緒に、霊光殿へと連れ去られたまま。とんと音沙汰がないのだった。

 

「ていよく、手足をもがれた気がする」


 百臘の方はため息を押し殺した。黒の塔の巫女団として、常に共にあった者たち。家族であった者たち。それが次々、あの見目よい翁に奪われていく気がしてならなかった。

 娘のために不老不死となれ――

 狐目の戦友にそう薦められたが、あの大翁様はかようなことを許してくださるだろうか。次代の巫女王(ふのひめみこ)をすでに決めているというのなら、その交代時期もしっかり計算しているはず。(イェン)家の者が長々と巫女の頂点に立つことなど、決して望まぬのではなかろうか……。

 氷が溶けますと、リアン姫がちらちらギヤマンの器にまなざしを投げてきた。


「なんじゃ物欲しげに」

「いえ、溶けましたら、もったいないと思っただけです」


 氷もその上にかかっているものも、さらに北の州の地方神殿より献上されたものだ。特にツタの樹液を煮詰めたあまずらは、帝にも献上される上品な甘味。宮処(みやこ)の貴人、すなわち高貴な神官族でなくば、口に入れられるものではない。

 

「なにを遠慮する。ひと口くださいとねだったらよろしかろ。(ヤン)の姫もほれ、どうじゃ?」

「とんでもございません。わたくしは、大姫さまの御子ではございませんゆえ。はしたなきことはできませんわ」


 (シャン)の姫も(ヤン)の姫も、頭を垂れて遠慮する。

 決して悪い娘たちではないのだが……


(だめじゃ。わらわの家族になれぬのであれば、あとを任せることはできぬ)

 

 日を重ねるにつれ。しろがねの娘がいない間に交わされる、姫たちの言葉を聞くにつけ。そんな想いと不安は強くなるばかりだ。

 姫たちはかわいそうにと、怪我をしたしろがねの娘を哀れんでいる。大事に思ってくれているようだが、それは希少なる種への同情と憐憫にすぎない。友を思うそれとは似て否なるものだ。今の感情が、かけがえのない家族に対する想いにまで高まる可能性はごくごく低い――そう思ってしまう。

 

(だめじゃ。やはりわらわが、見届けてやらねば。守ってやらねば……)


 もしかしたら自身は壊したくないのかもしれない。黒の塔で育まれたものを、そっくりそのまま保存して、誰にも触れさせたくないのかもしれない。かけがえのない、きらきら輝く宝玉のようなものであるゆえに。そのひかりを閉じ込めて、誰にも見せたくないのだ。

 なんと保守的で頑なで、わがままなのか。

 信じることを、人を教えさとして変えることを、あきらめるとは――

 自身を何度もたしなめてみたものの、百(ろう)の方の願いは消えなかった。

 それは心の底から炎のごとくふつふつ燃え上がり、もはや全身を蝕んでいた。

 あたかも、病のように。




 すぐ前に、うずくまっている大きな人がいる。

 クナはふわふわ、岩のようなその人の上を飛んだ。

 ましろのかがやきを放つ蛇が、すぐ向こうにいる。なんて長い体だろう。

 その河に沿うように、碁盤の目のようなものがぐるぐる渦巻いている。

 

(みやこ。すめらの、みやこ)


 しゅうしゅう立ち昇っているのは、煙のような熱気。

 上を通ると、むんむんと蒸した熱が襲ってくる。

 熱い網目を通りぬけようと、前方を見据えたとたん。


「ひゃ!」


 どすりと、体が落ちた。すべらかな床に頬が当たる。

 

「ああ、また……飛んでた」


 体から魂が抜けかけていて、ふわふわ飛んでいた。それが急に引き戻されたものだから、体まで連動して倒れてしまったのだ。

 この部屋には分厚い結界がはりめぐらされているというのに。さらに自分の腰には、重たい注連縄が締められているというのに。


「だめ……飛んじゃう。体におさまっていられない……」


 みいんみいんと、穏やかに蝉が啼く。

 宮処(みやこ)の蝉とは大違いやと、九十九(つくも)の方がさっき笑っていた。

 後宮で過ごした夏は実に蒸し暑くて、虫の啼き声も燃えているように聞こえたものだと。

 クナはくんと、部屋に漂う香りを嗅いだ。

 ほんのり甘やかなお香は、夏のためにと調合されたもの。暑気払いの薬味がふんだんに入っているそうだ。庭園からはちょろろと、絶えず水音が聞こえてきて、涼やかなることこの上ない。わざわざ滝へと涼を取りに行く必要もないほど、さやかな風が部屋に入ってくる。


「ええ風やねぇ。きっと八の月になっても、氷菓子なんぞいらんぐらいやわ」


 縁側からすすっと、九十九(つくも)の方が部屋に入ってきた。ちゃぷりちゃぷりと音がする。その手に、なみなみと清水をたたえた桶を持っているようだ。

 クナは一礼して、右手を差し出した。巻かれている分厚い包帯がするする解かれていく。軟膏がたっぷり塗られた手があらわになると、九十九の方は手ずから清水で洗ってくれた。柔らかな手ぬぐいでゆるゆる優しく、赤子の肌を撫でるように。

 

「まだ、黒いですか?」

「ずいぶん白うなったわ」


 魂だけで飛んでいったのに、まさか体に影響を受けるとは思いもしなかった。たしかにびりりと、伸ばした手が焼かれたのだけれど。それで本当に右手に火傷を負ってしまうなんてびっくりだ。


「あんな短時間で飛べるようにならはるなんて。あんさんの魂の練度は相当なものやね」

「そうなんでしょうか……気づくと、浮いてるんです」


 ほら今も、とクナは苦笑した。

 霊気ある縄を締められて頭はずんと重たいのに、ふわわと浮いている感覚がはんぱない。

 大翁さまと飛んだときにいろんなものが視えた。

 あたりに広がった世界は壮大ですばらしかった。

 山の精霊。川の精霊。渦を巻いてうごめく都。真紅に燃え立つ砂漠。どれもこれも、美しかった。

 また飛びたい。

 また見たい。

 そう強く思うけれども……


「戻ってきなはれ」

「は、はい」


 呼ばれたクナは、すとんとまた体に収まった。


「どうにもだめです」

「世の修練者は、あんさんと逆のことで悩むものなんやけど。なかなか浮けへん、飛べへんと。気づけば浮いてるなんぞ、聞いたことあらへん」

「赤の砂漠に行きたくて、たまらないんです」 

「こんな怖ろしい目に遭いはったのに……黄金の獅子は、相当な魔道の使い手やと聞く。かすり傷で済んで、ほんまにあんさんは幸運やったんやで」

 

 九十九の方だけでなく、大翁様にもずいぶん呆れられた。なりふり構わず突っこんでいったにしては、軽傷で済んだなと。もう少し深く焼かれていたら、手を切断しないといけない事態になっていたらしい。


「それにしても、黒髪さまは一体何をやらかしはったのやら……」


 黄金の獅子は魔道帝国の守護神。レヴテルニ帝のそばには常に、あの黄金の獣が侍っているという。そんな神々しいものが帝のもとを離れ、赤の砂漠で虜囚の番人をしているのだ。これはおよそ尋常なことではない。

 

「レヴテルニ帝の命を狙うものなぞ、この大陸にはごまんといはる。偉大な英雄というのは、とかく嫉妬されるものや。帝を暗殺しようとしていることがばれただけでは、あんさんが言うような扱いを受けることはあらへん。すっぱり処刑されるんが常道や」

「大翁様がおっしゃるには……おそらく黒髪様は、先方に相当恨みを持たれるようなことをなさったんだろうと……」

 

 獅子の様子をいぶかしんだ大翁様は、首を傾げつつも。心当たりをひとつあげたものだ。


『もしかしてあれか? 黒髪どのは昨年、金星をあげただろう』


 龍たちを犠牲にした戦。黒髪様とレヴテルニ帝はそのときあいまみえている。アオビの報告によれば、黒髪様は帝の御前に迫り、剣を一閃。その剣撃は惜しくも、帝の頬をかすっただけであったそうだが……


『まさかとは思うが、それで獅子に目をつけられたのかもしれぬな』


 かの獅子は龍蝶の魔人と同じようなもの。主人に毛ほどの傷もつけまいと、天に誓っている――大翁様は目を細めてそう仰った。目の前で何よりも大事な主人を傷つけられたのであれば、深い恨みを抱いても不思議ではないと。

 龍蝶の魔人は不死身ゆえ、殺すには棺に入れて凍結封印するしかないそうだ。

 強大な守護の獅子は、やろうと思えばすぐにそうすることができる。なのに封印せず、地下に囚えたままにしているということは……


『獅子は黒髪どのに、ありとあらゆる拷問を加えて責め苛んでいるのだろうな。じわじわ手足を切り落とすとか、夜な夜な悪夢を送るとか』


 火攻め水攻め、鞭打ち八つ裂き。大翁様が淡々と列挙する「拷問」の数々に、クナは真っ青。一瞬気が遠くなった。以来、気づけば浮いている。砂漠へ飛ぼうとあがいている。

 会いたくて。

 会いたくて。

 どうにも、体に入っていられない……

 りんとかすかに聞こえた黒髪様の声は、責め苦に打ちのめされて漏れ出た悲鳴だったのだろうか?


(あたしの声は、聞こえたかしら。黒髪さまに届いたかしら)

 

 獅子は気づいた。ひどく怒って攻撃してくるほど、クナは目障りだったということだ。

 ならば黒髪さまにも、声が通ったかもしれない……


『まあまずは、その手を治せ。でなくばどうすることもできぬ』


 思いを馳せれば飛び立ってしまう。そんな無意識の飛翔を防ぐため、大翁様はクナを霊光殿へと連れ帰った。部屋には強力な結界。腰には聖なる注連縄。壁も重しも霊気半端ない代物だ。

それでも宮処の上までふらふら、クナの魂は伸びていってしまう。

 

「大翁様は、手が治ったらまた飛んでよいと仰いました。どうですか? あたしの手、もうだいじょうぶですか?」

「手はほぼ完治してはる。せやけどまた赤の砂漠に飛んで行くのは、やめた方がよろしいわ」


 九十九(つくも)の方はクナの手に軟膏を塗り直し、包帯をくるくる、分厚く巻いた。

   

「おじ様はあんさんの飛翔を阻止する結界で、呪いの印が見えへんようにもしてはる。相手に、こちらの正体や居所を知られへんようにしてはるんや。手が完治すれば印はなくなるから、外へ出ても大丈夫やとは思うけど。近づけばまた、こないな目に遭うだけや」

「ではどうすれば……どうすれば黒髪さまを、助けられますか?」

「こそり砂漠へ至り、圧倒的な魔道の力にて獅子を倒し、黒髪様を奪う。守護の獅子を相手に、そんな正攻法は不可能や。獅子に命令できるんは、主人たる者のみ。となると、レヴテルニ帝に嘆願するしかあらへんけど……」


 前世はいざしらず、今のクナは帝とは知り合いでもなんでもない。いきなり願いを伝えたとて聞き届けられるはずがない。レヴテルニ帝ご自身が黒髪様をあそこへ閉じ込めておくよう命じているなら、万事休すだ。


「達成可能な救出方法となると……すめらの国を巻き込むしかあらへん。戦と外交とで魔道帝国を圧してもらい、条約締結なり交渉なりで、黒髪様の解放を引き出すしか。せやけど黒髪様は軍部に嫌われてはる。今のままではどこの部署も、黒髪様を救う動きをしてくれはる可能性はない」

「そんな……」


――「この国を動かすには、神託と勅令が要るぞ」

 

 びゅおうと一瞬、庭園から鋭い風が入ってきた。とたんにずさりと胸に視線が刺さる。

 大翁様だ。この方は挨拶代わりにいつもわざと、クナの意識を覗いてくる。

 

「い、痛いです」

「サラッと撫でたぐらいだが」

「でも痛いです」

「おやつに何が出されるか考えている。そんなことしか読んでおらぬ」

「え、ちょ、そんなことはっ」

 

 そういえばさっき九十九(つくも)の方から氷菓子と聞いて、どんなものかしらと思ってしまった。やはりこの人の透視力はあな怖ろしい。

 

「黒髪どのを救うことは、すめらの未来の繁栄につながる。太陽の巫女王(ふのひめみこ)より、かような神託を出してもらえばよい。陛下にも、同じようなことを思し召してもらえばよいのだ」


 もらえばよいと言っても。他の巫女王(ふのひめみこ)たちが同調しなければ、百臘様の神託は上書きされてしまうだろうし、あの陛下がクナの望みを叶えるような勅令を出してくれるとは思えない。

 

「なんともやりがいのある案件だな」

「ああもう、そんなにニコニコしはって……」


 九十九(つくも)の方からため息が聞こえる。どうやら大翁様は微笑なさり、こう仰りたいらしい。

 「我に任せよ」と。

 

「お願いしても、いいでしょうか」


 クナはそっと聞いてみた。ずさりずさりと、わざとらしく視線を刺して来る人に。


「協力して下さいと、願ってもいいでしょうか」

「引き受けよう。ただしそうする代わりに、私の望みも叶えて欲しいものだ」

「し、しろがね、待ちや。その要請と返事は後日に……」


 九十九(つくも)の方がとっさに止めに入ってきたけれど。クナは迷わず頭を垂れた。

 命すらも惜しくなかった。ただただ、今すぐ飛んで行きたかった。またあの、燃え立つ真っ赤なところへ。りんという声のするところへ。

 その衝動を必死に押さえながら、クナは願った。


「どうかお願いします。あたしにできることはなんでもします。だからどうか。どうか、黒髪さまを、お助けください!」




 手の傷がすっかり治ってからさらに三日。

 夏至が過ぎ、半年に一度の大祓いが行われるという日まで、クナは霊光殿に留め置かれた。

 太陽神殿に戻されたのは、儀式が始まる正午真近。百(ろう)の方が舞い手が欲しいと、

しびれを切らして催促してきたからだ。

 ようやくのこと結界部屋から出ることが叶ったけれど、腰の注連縄はそのままだ。これがないとどうにも、空の彼方へ飛び出てしまう。つけていればなんとか、すめらの国内から出ずに済む。ゆえに白い千早に縄という異様な格好で、クナは所有者のもとへ戻った。

 大翁様にお願いしたあと、九十九(つくも)の方にはだいぶ怒られた。

 随分軽はずみなことをしたものだと。

 

『あああまったく。おじ様を完全に信用したらあかんで? そら力は強いし権力はある、なんだかんだ協力してくれはる。せやけど………』

 

 たしかにあの方の穿ってくるような視線は苦手だし、権力をいとも簡単に行使するさまはこわい。けれど、何かを得るには代償が必要なのだ。それはよく知っている。なぜかよく知っている。記憶の底からせりあがってくる懐かしいその観念が、いっときぐっとクナを抑えつけて支配した。


(ただで求める? 欲しがる? そんな怖いこと、できない……)


 大翁様が等交換を望むのは致し方ないことだ。それだけの無理難題を、クナは願ったのだから。

 

(でも本当に、これを渡す……だけでよいの?)

 

 神殿へ戻るとき、さっそく代償を求められた。クナの手から百臘様へ、大翁様からの贈り物を渡してほしいという。


『してほしいことは、当面はそれだけだ。あとは追って連絡する』


 それはちいさなちいさな錦にくるまれた包みで、中に何が入っているかは分からない。

 全面的に味方になってくれている方ゆえ、まさか毒の類ではないとは思うが……

 

「しろがね! 待ちかねたぞ!」

「ふぁ?!」


 沈み込みそうな暗い不安は、神殿へ着くなり受けた香り良い抱擁でパッと吹き飛んだ。

 百(ろう)の方がひしと抱きしめてきたのだ。瞬間あたりにかがやきのようなものが視えた。ぱあっと、明るい光の粒が飛び散ったかのような煌めきが。

 まるで天照らしさまの化身のようなまばゆさに、クナは面食らった。この方はこんなにも甘く眩しい人であったろうか。なんと美味しそうで蜜蜜しい香りを醸しているのだろう……

 

「腰に縄? なんという格好じゃ。これでは速く舞えぬではないか」

「だ、大丈夫です」


 治療を受けている間、九十九(つくも)の方がみっちり舞をみてくれた。大祓いにて太陽の巫女王(ふのひめみこ)がクナを求めることを、しっかり予想していたのだろう。

 

「ひと通りおさらいしてきましたし、大祓いの舞い用の振り付けを教えていただきました」


 ではさっそく着付けをと、アオビたちが呼ばれた。とても暑いゆえ、舞った後はたっぷりあまづらをかけた砕き氷を我が娘に――そう嬉しげに命じる百(ろう)の方に、クナは急いで錦の包みを差し出した。

 

「ほう、なんじゃこれは」

「中身は分かりません。でも、大翁様がお渡ししろと」

「ほ……」


 渡したものが開けられた気配がしたとたん。母のような人のまぶしさが曇った。

 雲間に隠れた太陽のように周囲が陰り、ひゅんとあたりの温度が一気に下がる。


「……なるほどの。よく分かったぞ」

「あの、それは一体?」

「なに、ただの(なつめ)じゃ。茶が入っておる」

「お茶……あ、暑気払いのためのですか?」

「であろうな。さあさあ、覚えてきた舞を見せてたも」


 クナは優しく肩を叩かれ、祭壇へと導かれた。

 母のような人から、しゃらしゃら黄金冠の珠が打ち合いて鳴る音が聞こえる。

 集まってきた巫女たちから、なんとまばゆいと感嘆の言葉が飛び交った。

 けれどその日、クナはもう二度と、百(ろう)の方からまぶしい光を感じることができなかった。

 太陽はずっと陰ったまま。

 夏だというのにしぼんだままで、もう熱を放つことはなかった。

 まるで、冬空の雲に覆われたように。


 


あまづら:

ツタの樹液を煮詰めたものです。

昔々、清少納言がかき氷にかけて食べたそうです。

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