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12話 囁き

 音が消えてどれほど経ったのか。 


(にがい)


 クナは顔をしかめた。

 ついさっきまでぎちぎちに体を締められて、むせかえるような甘い芳香の中にいた……と思うのに。

 ハッと気づくと、べたつく甘みはすっかり殺されていた。

 あたりがひどく煙たい。なんともいえない苦味が口中に広がっている。


(こげくさい……?)


 ふと、誰かの声が聞こえた。

 

『……! ……!』


 透き通った水晶を打ち鳴らしたような心地よい音。

 泣いているのだろうか、その人の声はひどく湿っている。でも、よく知っていて大好きな声だ。しとしと涙に浸されていてもなお透明で、くらりと酔ってしまう。

 

(悲しまないで)


 その人は、今はずいぶん遠くにいるはず。なのにすぐそばから声が聴こえるなんて。

 求めたからだろうか。その声を聴きたいと、切に願ったからだろうか。

 その音量はだんだん大きくなってきて――



『……許してくれ』



 大きくはっきり、そう聞こえた。だからクナは答えた。

 

(だいじょうぶ。そんなに泣かないで)

 

 たぶん大したことはない。蜜の中で溺れかけて、ほとんど息ができなかったけれど。熱くて溶けてしまいそうだったけれど。この体は燃えたりしていないだろう。


(シガはどこ?)


 あたりを探った腕がふわりと、宙を掻いた。

 妹をしっかと抱きかかえていたはずだが、今はその感覚がまったくない。

 目覚めているのか眠っているのか。それすらよくわからない。

 それにしても、なんて苦いのだろう……

 

『君のそばにいる資格など……』


――『なんだ、息を吹き返したのか?』



 突然。

 別の人の声が、頭の中にじわりと湧き上がってきた。大好きな人の、悲痛な言葉を嘲るように。

 それは異様に甘やかで意地悪そうで。冷たい嗤いをともに吐き出してきた。


『焼かれた繭から引きずり出さないで、死なせてやればよかったのに。無理だ黒髪。どうせすぐに死ぬ。あきらめろ』

『いいや、この子は死なない』

『ははは、よく見ろ。どろどろじゃないか』

『死なせるものか!』

  

 水晶の声が怒りを帯びると、嗤い声はフッと消えた。


(だれ?)

(だれ?)

(わらっている人は、だれ?)


 じわりじわり。こみあげる苦味と一緒に、頭の中から何かが染み出してくる。


(ああこれは……)

 

 今のは――記憶だ。


(いじわるなあの人は、たしか……)


 クナはいきなり頭に昇ってきたものを読んだ。

 嗤い声の主は……とても偉い人。

 どこかの国の皇帝だったけれど、甘くとろけるような甘露の匂いを体から醸していた。

 そう、あの声の主は、まごうことなくクナと同じもの。

 人を魅了し、その命を伸ばす生き物のひとり。


(龍蝶。あの人もそうだった。あたしと同じものだった)


 そうだ。自分はかつて繭になったことがある――

 クナは口の中の苦味を噛み締めた。たぶんこれは、そのときの記憶だ。

 繭から出たときに聞いた会話。それが頭によみがえったのだ。

 いつ? 何年前? ……わからない。でもこれは、とても昔のことにちがいない。たぶんクナがクナではなかったとき。きっと生まれる前のことだ。

 

(そうよ……あたし、繭になったわ……そばには、きれいな声のあの人がいて。いじわるな人もいて。あたしのことをいろいろ言ってた……)


 たしか、繭になってこもっている間にひどいことが起こったのだ。焦げ臭いのはそのため。それで綺麗な声のあの人は、ひどく嘆いた……


『君を守りたかった。だれからも……なのに……』


 クナは震えた。記憶はとてもおぼろげで儚い。もっと思い出そうとしても、詳しいことはなにも浮かんでこない。でも昇ってきた記憶の欠片は消えずに、ぐるぐるクナの頭の中をかけめぐった。

 湿っていてもなお澄んでいる泣き声と共に。


『……君を死なせたすべての者に、死を……』


(あたしもしかして……)


 だからもう、クナは気づくしかなかった。


(もしかしてほんとに、〈あの子〉……だった?)


 



「……うそ、でしょ?!」


 驚いたら体が跳ねた。勢いよく浮き上がり、そしてふわふわゆっくり落下する。

 着地したとたん、じわっと熱いものが背に触れた。意識がはっきり起きたことを自覚して手探りすると、そこはばちばち燃える何かの上だった。

 ふあーふあーと、周囲でしきりに笙が鳴らされている。すぐそばからは、(さかき)の束を振り回す鋭い音。

 どうやら、巫女の結界の中にいるようだ。ちりちりぱちぱち、頬に神霊の気配が触れてくる。

 

「おお……! 大姫さま、戻ってまいりました!」


 歓声をあげたのは……アカシだ。懐かしい声音に、クナの心はたちまち喜びに満たされた。

 大姫――巫女王(ふのひめみこ)がそばにいるということは、ここは太陽神殿にちがいない。しかし実に焦げくさい。積み上げられた枝山のようなものの上に寝かされていたらしく、それがもうもうと煙をあげている。ずいぶん燻されていたようだ。

 けふんと咳き込んだら、喉の奥からじゃりじゃりしたものが出てきた。さっきから苦い苦いと思っていたけれど、口に何か薬を入れられていたらしい。

 笙の音が止まると同時に、アカシは喜々朗々、指示を飛ばした。


「反魂成功です! 担架を!」

「はい!」「ただいま!」「おまかせください!」


 わららと鬼火たちが動く気配がする。燻し山の上で咳き込むクナは、あれよというまにアオビたちにひっぱられ、担架に移された。

 ずきりと頭に痛みが走ったのでそろっと手で確かめれば、こめかみから上が分厚い包帯ですっぽり包まれている。そういえばシガの繭に刀が入ってきた。そのとき怪我をしたのだろう。

 担架が運ばれようとしたとき、がたたと燻し山が崩れる音がした。


「大姫さま!」


 アカシが足音をたて、慌てて榊を振っていた人のそばへ走る。クナのそばにいたその人は、神霊の力を使いすぎたのか、枝山によろけて倒れたようだ。

 太陽の巫女王(ふのひめみこ)が新しく選ばれたと内裏で聞いた覚えがあるが、ほんのり流れてくるこの、濃いお香の匂いは……


「百(ろう)さまっ?!」

「まったく、世話を焼かせおって」


 懐かしい声に、クナは驚きと喜びが混じった悲鳴をあげた。まさかまさかと、目尻がみるまに湿る。

 アオビが繭を運んだので、行き先が太陽神殿と聞いても不安にはならなかった。しかしまさか、百(ろう)さまご自身が巫女たちの頂点に立っていようとは。


「安心しろ、しろがね。そなたは我の預かりとなった。もうだれにも狙われることはない」


 クナは手を伸ばしたが、担架は急いで枝山から離され、みるみる煙たい空気が漂うところから遠のいた。

 

「あの……シガは……シガは、どうなったの?」

「……ご心配いりません」

 

 担架を運ぶアオビから返事が来るまで、しばし間が在った。


「大丈夫です。しろがねさまにおかれましては、まずはしっかり、ご養生ください」


 言われたことはそれだけで、シガの容態はそれから少しも聞けなかった。

 

「お粥をお持ちしました!」「甘酒もございます」「手足を清めるお湯です」


 運び込まれた巫女部屋は、鬼火たちでいっぱい。三十ほどの鬼火全員がここに集まっているのではなかろうか。とにかくひっきりなしに世話を焼いてくる。そうしてクナが何か聞こうとすると、口々に言葉をかぶせてくるのだ。

 なんだか空気がおかしい。何か隠されている?

 そんな気がしたけれど、クナはおとなしく成すがままにされるしかなかった。

 動けないのだ。

 包帯頭はずきずき。なぜか手足はすっかり萎えていて、少し動かすのもひと苦労。

 身なりは薄い(ひとえ)一枚に巫女袴だというのに、何十枚も鉄錦(たたらにしき)を重ねたように体が重い。


「さあお着替えを」 


 袖をひっぱられ、帯を解かれ。肩からさらりと単が降ろされると。

 

「あ……」


 ころりと、何かが胸元から転げ落ちた。

 

「おっとお守りが」「これのおかげですよ」

「そうです、これのおかげで、しろがねさまは戻ってきましたのです」


 鬼火たちが一斉にそれを崇めるようにうやうやしく、炎の音を鎮めた。

 おそるおそる手で探り、拾いあげたとたん。クナの胸はどきりと弾けた。


「これ……く、黒髪さまの……!」


 手に触れた感触は、まさしく糸。

 

「はい。赤の砂漠へ行きましたアオビ三名が、持ち帰りましてございます」

「砂漠の真ん中で見つけたのです」

「なんだか不思議な音がするのです」

 

 ふっくら巻かれたそれは、まちがいなくあの糸巻きだった。美声の人がお守りとして持っていったものだ。これにはクナの言葉が込められているはずだが……。


『いよいよ、目標が潜む所に近づいた。我が鎧と共にこれを置いていくことにする。誰かに拾われることを願って』


 耳に当てるとあの、水晶を打ち鳴らしたような美しい声が聞こえてきた。

 切に会いたいと願う人の囁きが。


『巡り巡ってこの言葉が、いつか君に届くように――』




 

 つるりと、冷たい茶が喉を通っていく。

 椀を一気に煽った百(ろう)の方は、ホッと息をついた。

 腑にしみわたる水分のなんと心地よいこと。枯れた大地をうるおすとは、このような感覚をいうのだろうか。

 巫女王(ふのひめみこ)が使う禊場の湧き水は、実になめらか。どんなものも美味しく仕上がる。

 巫女の頂点に在る者は、普通の食事を摂ることができない。口に入れられるのは禊場の水と、それを用いて作られたご神撰のみ。茶や粥、煮物など、料理は質素なものばかりだが、霊験はまことにあらたかだ。口にすれば、失われた霊力がめきめき戻ってくる。


「疲れがすっかり退いたわ」


 窓から入り込む風に、太陽紋連なる幕がさららと揺れる。もう夏至が近い。

 神殿に大きな繭を迎えてから、ひと月。ようやくひと心地ついた――

 ほんのり熱を帯びた風に頬当てて、百(ろう)の方は菓子皿を捧げもつアオビに聞いた。


「して、しろがねの様子は」

「はい。ご体調は、至極よろしいようでございます。御心もさほど落ち込んでいるようには見えません。ずっと糸巻きを見つめておられます」

「あれは黒髪さまのご遺品……じゃからのう」


 砂漠へ行ったアオビたちは結局、黒髪さま自身を見つけることは叶わなかった。

 行方を追っていたものの、地下迷宮のごときところで魔導帝国の軍に捕らえられ、強制送還されてしまったのだ。しかし黒髪さまのものと思しきものはいくばくか、拾って持ち帰ってこれた。糸巻きは、そのひとつである。


「しゃんしゃん鳴っておるので、もしやと思いしろがねの上に置いてよかったわ。我らには鈴の音にしか聞こえぬが……しろがねには、言葉のようなものが聴こえるのかもしれぬのう」

 

 ひと月前に神殿に運び込まれてきた繭は、無残に上部が裂かれていた。

 穴からは、白い頭を真っ赤に染めたしろがねの娘がかいま見えた。蛹化した柔らかい龍蝶を抱えていたので、繭を剥いて外へ出すことはかなわない。ただただ細い箸で、死人のようなその硬い口へ、霊薬を挿し入れ続ける。そのような手当てしかできなかった。

 ひと月たって繭が自然に割れてようやく、しろがねの娘は繭の外に出た。そのときはまったくの仮死状態。頭の傷はじくじく膿み、手足はやせ細り、息がすっかり止まっていた。魂を引き戻す術を使わなければ、そのまま死んでしまっただろう。

 

「ああまでして、あの龍蝶を守ろうとするとはの。太極殿の方はすこぶる、後宮での評判が悪かったというに」

「おそらく、血縁なのではないかと思われます」

「そう思うわ。事前にしろがねからもっと、実家のことを根掘り葉掘り聞いておけばよかったのう」

「しろがね様が歩けるようになるには、まだお時間がかかるでしょう」

「うむ。繭を保護できたこと自体、奇跡のようなもの。ゆるりと養生させようぞ」


 龍蝶の娘は太陽の巫女王が預かる――こちらが出したご神託を、龍の巫女王(ふのひめみこ)はしっかり覆してきた。

 天の理は移ろいやすいもの。すめらの神道ではご神託が相反する場合、後から出された方が正しいとされる。しかし巫女王のご神託は、半日以上時間をかける神降ろしの儀をしなければ得られないものだ。ゆえにどんなにがんばっても、一日に一度しか出すことができない。

 御所は当然、後出しの龍生殿の神託を汲み、官に命じて繭を割かせ、糸をとろうとした。

 万事休す、強行突破か。そう思われたが、アオビたちが無理を通して繭を運ぶ間に、救いの手が降りた。月神殿の巫女王(ふのひめみこ)が神託を下したのだ。

 

『太極殿の方の繭は月の神殿に引き取られるべし。かの龍蝶の姫は、月女さまの忠実なるしもべゆえ』


 それで龍生殿の神託は覆され、刀を持つ追っ手たちは退かざるを得なくなった。

 繭を運ぶアオビたちは、今度は月の者たちに追われることになるかと戦々恐々。しかし月神殿から来た使者は鬼火たちをすんなり見逃した。

 なぜに月のものが太陽に協力したか。その真相は翌朝、明らかになった。月神殿から太陽神殿に使者がやってきて、太陽の大神官と百臘の方の前で密書を広げてみせたのだ。


『これは霊光殿よりの、共闘の申し入れにございます。大神官トウイは謹んでかの大翁様の御言葉を拝領いたしました。三色の神殿は、龍生殿にひけをとってはならぬ、まことその通りでございます。ゆえに友好の証として、玉繭が割れるまで繭をしばし、貴殿にお預けいたします』


 それからほどなく、霊光殿へ行った九十九(つくも)の方からも百臘の方宛てに密書がきた。


『おじ様は我が霊光殿に文を送りし直後に、月神殿に密書を送っていた由。龍生殿の巫女王(ふのひめみこ)の力が、三色の権威を脅かすことを警戒し、三色が一岩となりしことを訴え候。さらに何十反もの鉄錦(たたらにしき)とともに、元老院で審議にかけられる二つの外交政策への後押しを、確約し候』


 ありがたい。霊光殿がかくも強力に、力添えしてくれるとは。だが九十九(つくも)の方はいまだ祖父のもとにいる。一向に帰ってくる気配はない。

 それだけが不満だが、これは致し方ないことだろう。かわいい孫娘が手元にいるからこそ、(ヤン)家の先代は、百(ろう)の方に全面的に手を貸してくれているにちがいないのだから。

 そう、残念なることはこれしかない。百(ろう)の方にとっては……


「あの。しろがね様にはいつ、お知らせしたらよろしいでしょうか」


 アオビがそわそわ、蒼い炎を揺らす。


「太極殿の方がその……月神殿に……」

「あちらに引き取られたことだけ、知らせたらよいと思うぞ」


 もともとあの龍蝶は、月神殿が献上したもの。玉繭が割れるまで太陽神殿で預かることは、先方にとっては破格の譲歩だった。ゆえに月神殿の使者は日参して繭を監視し、羽化が済むとただちに、太極殿の方を連れ去ってしまった。その、ぴくりとも動かぬ体を担架に乗せて――


「息はなかったが、形は整っていた。陛下はあれに執心であったから、月神殿はあれを蘇生させ、また内裏に送り込むやもしれぬ。そのまま無残に不老の薬の材料とすることはないと信じたい……」


 あの龍蝶まで所有したいと我を通せば、霊光殿が作ってくれた共闘体制が壊れてしまっただろう。太陽の巫女の頂に在る者として、そんな無理はできなかった。

 下手に動いて太陽神殿が不利益を被れば、人望を失う。いくら大神官三人のお墨付きを得ているとはいえ、巫女や神官たちに支持されなくば、この地位を維持するのはむずかしい。しろがねの娘を保護し続けるためには、神殿のために働かなくてはならないのだ。


「許せしろがね……わらわの力、万能ではない」


 どうにもこの世はままならぬ。

 百(ろう)の方はかすかに疼く胸を押さえ、冷茶のお代わりをアオビに命じた。

 沸き立つ罪悪感を消したかった。清涼なる禊場の水で、跡形もなく。





 夕刻、クナがぽそぽそ粥を口に入れていると、とってつけたようにアオビたちがシガのことを伝えてきた。


「羽化はつつがなく済みましたのですが、月神殿との約束が破れませんで」

「羽化はほんとにつつがなく済んだのですが、あちらの押しが強かったのです」

「ええまことに、羽化はつつがなかったのです。申し訳ございません」


 とても明るい声で、しかしびたりびたり。床に何度も頭を打ち付けながら。

 つつがなくを連呼してくるアオビたちに、クナはそこはかとなく嘘の音色を聞き取った。

 とにもかくにもシガは月の者の手に渡ってしまった。それだけは、確実らしい。

  

(大丈夫よね。きっと大丈夫よね。シガは、生きているわよね)


 かくも必死なアオビの様子からするに、百(ろう)さまは、シガをここに留め置けなかったことをとても気にしているようだ。なんと申し訳ないことか。

 クナひとり助けるためだって、相当の労力をかけたに違いないというのに。


「しろがねさま!」「ご気分はいかがですか?」


 ずいぶん心配されているのだろう。夜にはアカシとアヤメの二人がお菓子を持って来てくれた。

 アカシは巫女王(ふのひめみこ)を世話する第一の従巫女になっていて、忙しい毎日を送っているらしい。アヤメはさらに忙しく、古巣の星神殿や月神殿、それから霊光殿というところなどにこっそり遣わされているそうだ。


「各所に、大姫さまの密書を運ぶ仕事をしておりますの。それにしてもおいたわしい……」

「ゆっくり、お休みくださいね」

 

 二人はクナの腕の細さを気にしていて、しきりに甘い砂糖菓子やまんじゅうをすすめてきた。

 うれしくおいしいひとときを過ごしてふかふかの床に入ると。クナはそうっとふところにいれていた糸巻きを出して耳に当てた。

 

(黒髪さま……この世界は、ままならないことがいっぱいです)


 幾重も巻かれた糸をぎゅっと握る指先が、ふるふる震える。


(今は、願うことしかできません。シガの無事も。そして、あなたの無事も)


 糸をそっと引き出すと、囁きが聞こえてきた。


『この言葉が、いつか君に届くように――』


 クナは午後いっぱい、この糸巻きを拾ってきたというアオビたちから大冒険の話を聞いた。山を超え、谷を渡り、砂漠をさまよい続けた話を。


『もう少しだったのです!』『黒髪さまはきっと、あの地下迷宮にいたにちがいないのです!』

『そこへ至る寸前に、我々は捕らえられ……!』


 この世は本当に、思い通りにならない。願いはいまだ願いのまま。

 でも、何も知らずに希望を抱いていた方が幸せなのかもしれない。

 シガの生死も。黒髪さまの生死も。

 このまま知らない方がよいのかもしれない――

 

『君を守りたかった。だれからも……なのに、私はいつも無力だった。ぶざまにも君を助けられなかったことを、あろうことか君を死なせたことを、君がすっかり忘れてくれるなんて……一体どんな奇跡だ? だから我慢できずに妻にしてしまった。喜びに溺れて、君にずいぶん甘えてしまった……そうしてはいけなかったのに。そばにいる資格などなかったのに……』


 きらきらしゃらしゃら、糸が囁く。


『君を死なせたすべての者に、死を。私はそう誓ったんだ。あの皇帝を殺した暁には、この私自身も消す。そう決めていた。だから――』

 

 美しい声。でも、何度聞いてもわからない。


『だから私は、君のもとには帰れない』 


 黒髪さまは、〈あの子〉の仇を倒したら前世の記憶を消すと言っていた。それでも君のことは忘れないと、めちゃくちゃなことも。でもまさか、消そうとしていたのは記憶だけではないなんて。どうしてそうしなければいけないのか。どうしてそんなに罪悪感を感じるのか。わからない……


(あたしが、何を忘れたというの? 思い出したらあたし、黒髪さまのことをきらいになっちゃうの? そんなことに……なるはずないわ)


『君を真に守る人が現れるまで、君の名前で刻んだ加護が、力を発揮してくれるだろう。帰れぬことを、どうか許してくれ……私の……』


 湿り気のある囁き声はクナの名前を呼んだ。〈あの子〉の名前ではなく、別れた時にくれた、とてもきれいな秘密の名前を。

 

(いいえ、許さないわ……あたしは願う。黒髪さまが消えないことを)


 クナはぽろぽろ落ちる涙で枕を濡らした。そうしてしっかり、糸巻きに耳を当てた。

 最後にひと言入れられた、ほとんど聞き取れないほどかすかな囁きを聞くために。




『愛してる……』



 

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