11話 玉繭(たままゆ)
いと。糸。まゆ糸――?
「だめ。それはだめ。だめっ」
おおおお。おおおお。
肝を掴まれ潰されたようなおそろしい音が、耳を襲ってくる。おんおんと鳴っているこれは……悲鳴だった。
シガは苦しそうだ。「そのとき」というのは、そんなに辛いものなのか。それとも、こんなはずではという口惜しい思いから漏れる怨嗟なのか。
一緒に耳に入ってくる不気味な音に、クナの身は竦んだ。
しゅるしゅる。しゅるしゅる――
たしかに何かが、出ている。つるりとした、実にしなやかそうですべらかなものが。
大人になるかならないか。シガはぎりぎりのところで薬の投与を止められたのだろう。あとひと飲みふた飲みすれば繭糸が出てしまうぐらい、育ち上がっていたのだ。
「おお、真っ白だ」
「すごいな。背中から出るのか」
監視人と神殿の使者は息を呑み、しばし気圧されていた。しゅるしゅるという音は徐々に高まり、シガの悲鳴を埋めていく。糸が体の周りに巻き付いているのだろうか。顔も容赦なくくるんでいるのだろうか。
その勢いのすさまじさで、床がかすかに揺れている。
「シガ! シガぁっ!!」
よろと格子戸にすがり、クナは妹の名を呼んだ。
頭はまだどろどろしている。それでもこれはまずい状況だというのは全身で感じ取れた。
なんとかしなければ。そう思ってがしんがしんと戸を叩くと、その戸ががたりと開けられ、神殿からの使者だという人が袖をつかんできた。
「ささ、こちらへ参られよ、しろがねの龍蝶どの。巫女王様がお待ちだ」
「待って! シガを! シガを、置いていけない!」
救わないと。
クナは必死に身をよじって使者の手を振り払った。
たしかにシガとはあまり仲良くはなかった。首輪を嵌められたり、ひどい仕打ちもされた。
それでも、姉妹だ。同じ母さんのお腹から生まれた者同士。
『だから仲良くね。クナはお姉ちゃんだから、シガを守ってあげるんだよ?』
いつ言われたのだか、母の言葉がふっと記憶から飛び出してきて。
『役立たず! あんたは家族のために、なんにもできやしないんだから!』
姉のシズリのこわい怒鳴り声もよみがえってきて。
二人の言葉が、クナの背中をどんと押した。しゅるるるとすさまじい音をたてる牢に取りつけば、かすかにひいひいと泣き声が聴こえる。助けて、助けてとおののき、しゃくりあげる物音が、みるみる埋もれていく。
「シガ! あんたをひとりにしない! 守るから!」
「おい待て! うわ?!」
クナはとっさに手を薙いだ。
『我かしこみ、たてまつる!』
祝詞を唱えると、たちまち巫女の神霊の力が降りてくる。ひるむ監視人の前でいま一度、ぶわりとうすい単の袖を振り薙ぐ。
「なんだこれは! 風?!」
無我夢中で、クナは回転した。歯を食いしばり、力を込めて神霊の気を目の前にぶつける。
どうっと監視人が尻餅をつく音がした。舞の力でこんな応用ができるとは思いもしなかったのだが。クナはがむしゃらに回り、腕を振り。びゅんびゅん風をくり出して牽制した。
「し、シガに近づかないで!」
「なんという舞力……! お、お待ちを、どうかお鎮まりください」
神殿の使者がうろたえて願うも、クナはいやだと叫び、ぎゅんとその場で激しく回転した。
瞬間、風が突風となり、がたたと座敷牢の戸を揺らした。
ああこれは。もっと鋭い風を当てれば、もしかしたら?
ハッと気づいたクナは、急いで風を練り上げた。
『空のいぶき、むべなるかな』
百臘の方の歌力とはくらぶべくもない。それでも祝詞を浴びた風はキンと硬度を増してくれた。
もっと鋭く。もっと速く。強く。強く。
そう念じつつ、腕の中で空気を練る。それがキンキンに、石のように硬くなるまで。
「やあ!」
ぎゅうと練りあげた風を、クナは牢の戸にぶつけた。はたしてばきりと、願った音が聞こえた。戸が壊れたのだ。
「シガ!」
クナは迷わず牢の中に飛び込んだ。すべらかな糸の嵐が吹き荒れるところへ。
「だ、大丈夫だからね。もう大丈夫だから……!」
腰に。腕に。足に。ぎゅるぎゅると、猛然と舞うものがまとわりつく。
たとえこの糸が取られても、自分がシガを包めば。腕の中で、ぎゅっと守れば。
クナはうっすら繭に固められたシガを抱きしめた。どうか無残なことにならぬようにと祈りながら。
(お願い。あたしの体! どうか繭の代わりになって……!)
てらてら光る床が果てなく延びる。
吸い込まれそうなその白さに、九十九の方は思わず目を伏せた。
「なんぞ長い廊下やなぁ……」
霊光殿。
この御殿は宮処のはるか北。紫明の山の向こうにある。
陽北州、すなわち陽家の所領の南端に建てられており、おそらく陽の本家よりも敷地の規模が大きい。巨大な寝殿と庭園のみならず、果樹の畑も白い門塀でぐるりと広く囲っている。
道のりはさほど長く感じなかった。それなりに距離はあったが、乗った鉄車がえらく速かった。山の東側を通る街道を走って、ほんの数刻。御者は荒っぽく、鉄の車輪はじゃらんじゃらんと激しく回り、なんとも盛大に揺れた。
太陽の大神官、陽家の当主がその車の手配をしてくれた。九十九の方の文を受け取った「おじ様」が、親族である大神官に色々と申し送りをしてくれたらしい。陽家の当主はにっこり笑って見送ってきたものだ。
『大叔父様によろしくお伝え下さい。まさかあなた様が、あの方の孫娘であったとは。地下牢に入れしこと、どうかお許しくだされ』
真っ先に名乗れば、ひとりだけ特別扱いされたのだろうか。きらり光る白い歯がなんとも憎らしいと思ったけれど、あの当主の心の内はいまや戦々恐々。蛇に睨まれた蛙と同じ心境だろう。
道中どうかお召し上がりくださいと醍醐を押し付けてくるは、神殿に滞在された記念にと、太陽紋の入った金のかんざしを盆に載せてくるは。大叔父様にはこれをと、黒光りする漆塗りのつづらも持たされた。今それを、この御殿の侍従がうやうやしく捧げ持ち、後ろからしずしず付いてきている。中に何が入っているかは検めてみるまでもない。
(錦の中に金の棒やね)
それがすめらの神官族が贈る、一般的な賄賂である。
黄金のきらめきに、「おじ様」はどんな顔をなさるだろうか。
(笑って、ぽいと捨てそうやわ)
果てない廊下の脇に広がるは竹林茂る庭園。はるか向こうに連なる白い門塀がうっすら見える。若竹の匂いがなんとも青々しい。
九十九の方は感慨の吐息を押し殺した。
懐かしさ――まさか竹の香りにそのようなものを感じるなど、認めたくなかった。ここにはかつて一度、巫女修行が九十九臘に達したときに連れてこられただけ。帝都星神殿に突然太陽紋の鉄車が乗り付けて、無理やり運ばれたのだ。
『孤児として扱われていたと聞いたが本当か? 万年最下位の巫女に据え置かれ、嫁ぎ先も斡旋されぬまま、九十九臘だと? 行かず後家どころの話ではあるまい』
この御殿の奥の奥。青い畳の間に座す方は、実に哀しげな顔で嘆いたものだ。百の齢を越えた大翁とはとても思えぬ、若い男の声で。
『私の孫がそんな扱いを受けるとは……。そなたの母が……星の巫女姫がわが息子の子をみごもり、産みおとしたことを、星神殿はひた隠しにしていたのだ。永らく探って、やっとこうして真実を知り、そなたに会うことができた。今まで気づかぬこと、どうか許してくれ』
そうして九十九の巫女はあれよという間に嫁入り支度をさせられて、帝の後宮へ上げられた。陽家の姫として入内させると言われたが、狐目の巫女は、それだけは頑として固辞した。子は産めぬ体だと、はっきり分かっていたからだ。いまだかつて、この身に月のものがきたことはないのである。
どうしても後宮へやるのなら、どうか末席にこっそりと――
そう伏して願ったら、「おじ様」は渋々言う通りにしてくれた。陽家の眷属で家格はそこそこの家の養女という、後宮に入れる最低限の身分をくださったのだった。
『我が不肖の息子の名を負うよりは、この方がよいのかもしれぬな。哀れな姫よ、これからはいつでも我を頼るが良い。我にどうか贖罪をさせてくれ』
今回もあのときのように、憐れみのまなざしを受けるのだろうか……
(うちとしては、せめてあと百八十日修行したかったんやけど。そうしたらあの百臘はんに、勝てたんやけどなぁ)
奥の間に通されると、御簾が上げられていた。「おじ様」は一段高い座敷の奥にて、脇息にゆったりもたれて微笑んでいる。歓迎の意思表示のなんとあらわなことか。九十九の方はごくりと息を呑み、広い座敷の入り口近くで膝を折って深々と平伏した。
「猊下におかれましては、お元気そうで、なによりでございます」
「待っていたぞ。前に会ったは十数年前か? 全然変わらぬな」
「変わらぬのは、おじ様の方ですわ」
「お祖父様」という呼び方は、座敷の奥に鎮座する方を呼ぶにはふさわしくなかった。
今年で齢百三十になると聞くが、視線の先にいる人はまだ四十ほどに見えるのだ。切れ長の目は神霊に満ちた真紅の炎をたたえ、その髪は――薄い青銀色をしている。
「遠慮せず、我が前へ」
「はい……」
座敷の中ほどへ進めば、まだまだと首を横に振られる。結局、にこやかな笑顔を投げられつつ、段の真ん前まで誘導された。
この「おじ様」が太陽神官族の筆頭、陽家の前当主であるとは正直、信じがたかった。なぜならその淡い髪色は完全に、星の神官族のものであるからだ。
髪がこの色でないばかりに。金髪であるゆえに。狐目の娘はいったいどれだけ、星神殿で虐められたことか。金の髪こそは、太陽神官族のもっとも顕著たる証なのである。
「そなたより貰った文には書かれていなかったが。陽家の当主にぞんざいに扱われたな?」
「いえ、そんなことは」
「では、それはなんであろうな」
侍従がかしこみつつ置いた黒いつづらをちらと眺め、「おじ様」はくすくす。手をさっと払い、下げよと命じた。
(見もしはらへんか)
三色の神官族は、政において完全に住み分けがなされている。ゆえにお家の縁組は同色と成すものというのが不文律だ。血が混じることは忌み嫌われ、混血は冷遇され、立身出世など普通望めぬはずである。
しかしこの青銀の髪の「おじ様」はまごうことなく、先の太陽の大神官。一級品の霊鏡を三十枚も送ってくれ、また、太陽の御三家の当主に根回しをした人。陽識破猊下でまちがいないのだった。
「今回の罪滅ぼしは役に立ったかね?」
「罪滅ぼしなどと。感謝の言葉にたえまへん。あの霊鏡、あないな一級品をくれはりますとは……おかげさまでうちのもと巫女団長は、見事巫女王に昇ること叶いました」
「ただ一人の孫娘の頼みとあれば、造作も無いことだ」
金の髪が如実に父親の血筋を表しているにもかかわらず。帝都星神殿では、九十九の方の父は「不明」とされていた。
その父とは、目の前にいる「おじ様」のひとり息子。もと陽家の若君で、いずれは太陽の大神官になるはずの人だった。まったく女気のない真面目な人だったらしいが、なにが彼を燃え立たせたのか。ある日突然、御所の庭園で、入内直前の星の巫女姫を手篭めにしてしまったのである。
本人は一目惚れしたからだと強く主張したものの、その思いは実らなかった。
刑部は御所で起きた犯罪を重く見て流刑を言い渡し、目の前の実父もそれに同意してひとり息子を勘当した。かの人は遠方の島でまだ生きているらしいが、九十九の方は一度たりとて会いたいと思ったことはない。
「しかしそなたは我が妻に実にそっくりだな。見るたび驚く」
侍従がしずしずと菓子皿を捧げ持ってくる。すきとおったギヤマンの湯呑みと一緒に。
とろりとした緑の茶の入ったそれは、きんと冷やされていた。
「おじ様の血をもっと、強う引きたかったものです。そうすれば青銀の髪になりましたのに」
「我の母は恐れ多くも皇女であった。この髪色は、色混じりが唯一許される帝室の血を引いたためだ。正直なところ、三色はもっと混じって良いと思うのだが……我がそれを唱えると息子をかばうことになるから、どうしようもできぬ。金の髪は嫌か?」
「ええまあ、好きとはいえへん色やと思うてます」
「正直だな」
母方の実家は、「私生児」を産んだ母を見捨てた。後見のない母子は、星神殿で下女同然の扱いを受けたのだ。しかして娘の髪色がもし金ではなかったら、一族として受け入れてくれたかもしれない。母の命を短くはかなくすることもなかっただろう。
(怖ろしいんは、太陽のもんは野蛮な敵やと、星神殿で刷り込まれたことや。うちをダシに何度その講義をされたか……わからしまへん)
おかげで太陽の神官族の前に出ると、警戒するくせがついている。祖父だと名乗るこの目の前の人にも、なかなか笑顔を向けられない。演技してでも、そうした方が良いというのに。
「さてそれで今回は、新しき巫女王に全面的に協力してほしいと、願いにきたのかね? 今のままでは龍蝶を取り戻しても、状況が少々難であろうからな」
柔らかく山形になった赤い眼が射抜いてくる。なにもかも、見通すように。
「はい……」
「ひとつ聞くが、巫女王は龍蝶を所有したいのかね?」
「あの娘は、黒髪様の巫女団に属する者。うちらの家族です。それゆえ、救い出したいのです」
理解してくれるだろうかと、不安になって言葉を切れば。「おじ様」は龍蝶かと感慨深げにつぶやいて、ますますその顔に笑顔を浮かべた。
「なるほど。黒髪どのの龍蝶なのだな。実は昨年の暮れ頃から、黒の塔にがっつり結界がかけられて透視ができぬようになった。龍蝶が来たのはそのころか?」
「は、はい……」
「その龍蝶を、そなたは家族と呼ぶか。それは……我の血を引いたからかもしれぬな」
「おじ様」は侍従が持ってきたギヤマンの器をとりあげ、こくりこくりと冷茶を飲み下した。これはとても甘いが、もっと甘いものを知っているとつぶやきながら。
「実は三代前と四代前の間には、もうひとり帝がいる。記録がすべて抹消され、存在しないとされているが……その御方は龍蝶であった」
「えっ?!」
「龍蝶はかつて帝室の寿命をのばすための尊い血であったのだ。今のような飼育物に成り果てているのはまったくもって遺憾なことよ。我は皇女であった母より、帝室の龍蝶の血をいくばくか受け継いでいる。ゆえに寿命が人より長いのだ」
龍蝶は完全管理で飼育されるもの。差別されるかわいそうなもの。
そんなものでしかないと思っていた。
たしかに伽の相手もつとめるから、私生児は生まれるかもしれないが、まさか、帝位に昇った龍蝶がいたとは……。
唖然とする九十九の方に、「おじ様」は小首をかしげ、芯から善人のような微笑みを投げてきた。
「不老の血はそなたにも受け継がれている。そなたは悠に百の齢を越えるだろうよ、九十九の金姫。ゆえに我は喜んで、我らが同胞を救う算段を立てるとしよう。そしてできればいつか、じかに会ってみたいものだ」
「おじ様」の赤い瞳がきらりと煌めいた。燃え盛る炎のように。
「黒髪どのが隠したがった子に」
「外」が騒がしい。たくさんの人の気配がする。
「しろがねさまあああっ!」
聞き覚えのある声。めらめらぱちぱち、ああこれは、蒼い鬼火のものだ。
「大変です」「大変ですよ」「どうやって運ぶんですか」「やばいです」
「とにかく糸取りは禁止!」「ですです!」「このままで!」「ですよこのままで!」
……一体何体いるのだろう。
かなりの数の鬼火が――アオビの分身が周りに群がっているようだ。太陽神殿から駆けつけてきたのだろうか。
クナはこふりと息を吐いた。シガの体をしっかと抱いたまま、体はぎっちり繭糸に固められている。手の先とて少しも動かせない。
抱きしめているものはずいぶん熱い。じわりじわりその体温が伝わってくるが、まるで溶けた蠟燭のように柔らかく、芯から燃えているようだ。抱きしめるまでにかなり巻かれていたから、じかには触れられないのだが……
(やけどしそう……)
息ができるのは奇跡かもしれない。口元にわずかな隙間があるだけで、あとはびっちり締め付けられている。
「皇太后様がとにかく糸を取れと」
「だめです!」「ご神託の人が中にいます」「神託の人を傷つけたらだめです!」
アオビたちは、御所の官と押し問答している。
「そ、そのしろがねとやらは傷つけぬように糸を取るゆえ、大丈夫であろう」
「だめです!」「だめです!」「だめです!」「ぜったい却下!」
頼もしいことに、数を頼んで官たちが近づくのを阻止してくれているようだ。
「台車もってきましたー!」「支えの糸だけ切り離しましょう!」「揺らさないように!」
「神殿へ!」「太陽の神殿へ!」「このままで!」
アオビはおそらく百臘さまたちの命令を受けているはず。きっと安心してよい――
クナはホッと息を吐いた。
とくりとくりと腕の中からシガの鼓動が聞こえる。糸が出なくなると悲鳴は聞こえなくなった。
今は眠りに落ちたかのような穏やかな寝息が吐かれている。
(なんて熱い。溶けそう)
「台車こっちでーす!」「支えの糸、一本切除!」「傾かないようにだれか支えてー!」
鬼火たちがわあわあ言いながら作業している。その喧騒にクナは微笑みかけたが。
――「龍生殿よりご神託が!」
どたどた勢いのある足音と共に、使者であるらしい人が駆け込んできた。
「玉繭ができたとの報を受けまして、龍の巫女王さまが花龍さまにお伺いをたてたそうです。龍神タケリさまのおっしゃるには、それは実に不吉だと。即刻糸を取りて潰せと」
(タケリ様は眠らされているのに)
おそらく花龍が勝手に神託を捏造しているのだろう。
雲行きが怪しくなってきたので、クナはシガを抱く腕に力を込めた。
自分の細腕だけでは不安だ。もし糸が取られてしまったら、代わりに自分の背中から糸が出てきてくれないだろうか。それでシガを包めれば……
「ちょっと! 切っていいのは支えのところだけです!」「他のところは接触禁止!」
「何を言う! 離れろ鬼火ども!」
「いやです!」「いやです!」「却下します!」
アオビたちががんばってくれている。自分もがんばらねば。どうにか、守らなければ。
「……しろが……ね」
(シガ?)
「まさか……あなた……ク……ナ?」
(そうよ!)
胸が締め付けられすぎて、声が出ない。
(そうよ! あたしはあんたの姉さんよ!)
クナはますます腕に力を込めた。しかし突然、その腕はぐにゃりとしたものに動かされてずるりと滑った。
(え…?! え?! これ、なに?!)
抱いていたもの――糸に巻かれたシガの体が、どんどんぶよぶよになっていく。
落ちた腕の中でどんどん柔らかく、湿り気のあるものに変わっていく。
(シガ……シガ! どうなってるの!?)
「きゃああ!」「なにするんですか!」「私たちは、太陽の巫女王さまの使いですー!」「暴力反対ー!」「早く台車ー!」
外の喧騒が一層ひどくなっている。鬼火たちが御所の官たちに排除されようとしているようだ。
「急げ!」「乗せろ!」「乗せた!」「支えて!」
がらがら、車輪の音がする。振動が、クナが抱えているものをゆさゆさ揺さぶる。
大丈夫だろうか。
大丈夫だろうか。
しっとり湿った糸玉を抱えながら、クナは必死に祈った。
どうかこの薄い糸玉から、中味が一滴もこぼれないようにと。
もし今、切り開かれたら。
(流れ出しちゃう!)
「まて!」「運ばせるものか!」
――「ひい!」「きゃあ!」
ざすりと、肩先に何かが突き通ってきた。たぶん刀の切っ先だ。押し入った官が切りつけたに違いない。
クナはこらえた。もとより動けず、必死にとろとろしていくものを抱え続けた。
どうかこれ以上、穴が開けられませんようにと。
――「だめー!」「やめて!」「だめです!」「きゃあああ!」
アオビたちが慌てふためく。また、鋭い刃の音が聞こえた。
すぐ耳元で。
(あ)
痛みが、クナの頭にじわじわ広がっていった。
「急げー!」「走れー!」
「石投げますー!」
「この! この!」
アオビたちの声が遠のいていく。
大丈夫かしら。
大丈夫かしら。
きっと――大丈夫……
「逃げ切った―!」
はるか遠くだったけれど、たしかに聞こえた。鬼火たちの、歓喜の声が。
ああよかったと、クナは微笑んだ。そして落ちた。
深淵の中へ。