10話 黄金の玉冠
帝都太陽神殿の庭園には、巫女のための禊場がしつらえられている。
大理石を貼ったまっ平らな岩壁の上に、半分に割られた竹筒がずらり。およそ十本ほど並ぶ注ぎ口から、細い清水が絶えず落ちるというものだ。水は水車で汲み上げられた地下水で、今のような暑い季節には心地良い。だが冬となれば、浴びるだけで相当な修行となる。
「あ、奥様そこは」
しゃららと頭から垂れる玉を鳴らし。長袴を優雅にさばき。まっすぐそこへ進みかけた百臘の方は、後ろからついてくるアカシに呼び止められた。ひたりと檜の匂い香る廊下で立ち止まって振り返れば、太陽の巫女たちがえんえん一列に連なってつき従っている。なんとも壮観だ。
「おや。間違えたわ」
百臘の方にとって目の前の禊場は、実に馴染み深い場所。後宮に入るまで、朝夕必ずそこで身を清めて修行していた。ゆえに両の足が、体に染みついた習慣を無意識になぞってしまったらしい。うっかり気づかなんだは、難しいことをとっくり考えていたせいだ。
さてこれから、どこにどんな手を打つべきであろうかと――
百臘の方は顔にほのかに浮かべた寂寥を、満面の笑みで打ち消した。
「ここはもう、二度と使うことはないのじゃな。わらわの禊場はもっと奥か」
「はい奥様! あちらでございます」
アカシが誇らしげにうなずき、右手の奥を指差す。その貌はきららとはじけ、とても明るい。
「アカシ、わらわはもう、黒髪様の奥ではないぞ」
「あっ、すみません! 大姫様とお呼びしないといけませんよね」
アカシがうっとり、女主人の頭を眺めあげてくる。
女王の身分を示す、輝く黄金の玉冠を――。
若かりしころ、百臘の方は巫女王の第一候補となったことがある。しかし他の御三家の巫女たちに妨害され、永らく臥せったため、その道筋を妹姫に譲ったのだ。そうして自身はひたすら、修行に没頭した。
お家が第一。
第三位の大神官であった父にそう叩き込まれた姉は、妹が手合いに勝利して巫女王になったことを素直に喜んだ。百臘を越えたあたりで父の意向で後宮へ入れられたのも、自分のような脱落者にはもったいないと感謝した。後宮でも鳴かず飛ばずだったから、実家に見捨てられたのは当然のこと。お家の役に立てず実に申し訳ないと思っている。
そんな我が身が古巣に舞い戻り、由緒ある玉冠を頭に載せることになろうとは……。
「運命とは、わからぬものよ」
巫女たちを引き連れる百臘の方は、楚々と殿から降り、庭園の奥にある岩場に進み入った。そこは雰囲気よろしく苔むしている岩がごつごつならぶ、風流なところ。岩からしゃらしゃら流れ落ちる白糸のような水は天然のものだ。小さな岩舞台の周囲に貯まって池を成す清水は、空を映してまばゆい青さである。
はるかな昔。すめらの帝が帝都太陽神殿をこの地に定めたのは、この清らな聖処が在ったがため――そんないわくが伝わっている。
「この禊で昇位の礼はお終いじゃ。ひと息つけるから、髪を黒に染めたい。髪があの色でなくば落ち着かぬわ」
「御意。染め粉を用意いたしますね」
うやうやしくアヤメが差し出す紫の台に外した玉冠を置き。千早と長袴を脱ぎ。百臘の方は単一枚だけになって、怜悧な滝水を浴びようとした。
――「い、一大事にございます!」
そのとき長廊下を走って、神官たちが呼ばわりにきた。由々しきことが起こったと、血相を変えて。
「内裏より使者が参りました!」
「ただちに、ご祈祷と託宣を!」
しろがねの娘を取り戻す。そのために神託はすぐにでも出そうと思っていたが、これは一体どうしたことか。
怪訝な顔をする百臘の方に、太陽の神官たちは青い顔で言上した。
「今上陛下、ご危篤にございます!」
庭から暑き風が吹き込んでくる。華やいだこの匂いは金木犀だろうか。
愛用の琵琶。霊鏡。幾枚かの単や千早。帯に足袋。忙しい合間に作った練香……。
九十九の方は身の回りの物を小さなつづらからぽつぽつ取り出し、木貼りの床に並べた。
『そなたは色違いの巫女にして人妻。なれどずっと、そばにいてほしい』
今朝方、新しい巫女王から、そんな言葉とともに、小ぎれいな巫女部屋を頂戴した。しかし荷物を出すその手つきはのろのろしていて、出すのを躊躇しているようなそぶりである。
「大したものはなし。ふふ、質素やなぁ」
衣装も飾りもたんとあったのに、すっかり失くしてしまった。しろがねの娘を迎えてからの波乱万丈ぶりには、我ながら呆れるばかりである。
『肌身離さずお持ちいただきまして、感謝いたしマス』
星の意匠が彫られた霊鏡がそっとつぶやいてくる。狐目を細め、九十九の方は鏡を手に取って愛しげに撫でた。
――「大姫さま! お待ちを! まだ荷造りが」
「牛車がまだ参っておりません!」
それにしても先ほどから部屋の外が騒がしい。耳をそばだてれば、だれかがどかどか廊下を踏み鳴らして行ったりきたり。
「急ぎなさいな! 荷を運ぶのが遅いですわよ!」
怒鳴り散らしているのは、もと太陽の巫女王。今は龍の巫女王である袁の妹姫だ。この上なく不機嫌なのは、本日の朝議で女王の玉冠を頂いた姉から、退去を命じられたからだろう。
『これでそなたは太陽の巫女ではなくなった。さあ、とっとと龍生殿へ行き、山籠もりするがよい』
『ふん、えらそうに。龍の巫女王は三色のそれと同位。つまりわたくしも龍蝶を飼えますのよ? あなたさまの思惑など、絶対に阻止してやりますわ!』
『そのようなこと、重々わかっておる。勝負はこれからじゃが、もはやここはおぬしの棲み家ではない。わらわの砦じゃ。さあ、去ね!』
またおもらし娘だの石女だの、文句の応酬が始まるのではと、九十九の方は内心ひやひや。なれど居並ぶいかめしい大神官たちを前にして、袁の姉妹は双方かろうじて威厳を保った。
そう。百臘の方は、見事に手合いを勝ち抜いたのだ。
神楽鈴を打ち鳴らし、えんえんと歌い、神霊の力で枝を成長させるという大技も。相手を威圧し、舞台から吹き飛ばす力技も。陽光の精霊たちを喚び出す召喚技も。どれも群を抜いてすさまじかった。
さもあらん、九十九の方と若いアヤメの霊力は、鬼火たちが持つ一級品の霊鏡で三十倍にされ、これにさらにはアカシの霊力も加えられて百臘の方に注がれた。それゆえあのときの百臘の方は無敵も無敵。もし鋭利な刃や弓矢が襲ってきても、手ではたくだけで木っ端微塵にできたことだろう。
(ほんま鬼神のよう。あれだけの力、受け止めて使いこなす……やはりあん人は、ただ者やない)
御三家の姫はそれぞれ加勢を受けてそれなりに強かったが、まったく歯が立たなかった。
陽家の姫は、精霊たちに衣を焼かれて泣きっ面。
尚家のリアン姫は舞台に這いつくばって粘ったが、舞台の外に押し出されて敗北。
優勝をさらうと案の定、袁の妹姫が異議を唱えた。
挑戦者は清らな娘ではない。そう主張して、おのれ自身が出した挑戦許可を翻そうとしたのである。しかしそのとき観覧席から太陽の大神官が立ち上がり、朗々と、かく言い放ったのだった。
『我はこの者がこたびの手合に参加する資格がある者かどうか、後宮に問い合わせた。また、黒髪の柱国将軍の巫女団にも聴取を行った。いずれの場所でも袁のライ姫の純潔は保たれていたと、我は確たる証言を得ている。ゆえに資格は十分あると思われるが、納得できぬ者あらば、この場で我自身が検分しよう』
序列第一位の大神官にして陽家の当主がじきじきに、巫女の足の間を調べる――
実に屈辱的な取り調べをすると言われたのだが、百臘の方は取り乱すことなくうなずいた。鬼火から九十九の方の伝達を受けたアカシが、大丈夫だからと手振りや表情で伝えたためだ。
その合図通り、気高き人が怯まずに大神官がそばに来たるのを許すと、第二位第三位の神官が立ち上がり、検分の必要はないと止めに入ってきた。
かくしてなんと、太陽神殿の頂点に在る神官三名によって、百臘の方の昇位はすんなり認められた。陽家と尚家の当主たちは、自身の一族の娘を巫女王にするのをあっさりあきらめたのである。
この嘘のような事態に、袁の妹姫は口を半ばあけ、言葉を失うしかなかったのだった。
(まぁ、第三位の大神官さまは、袁家の当主で、あん人の弟君。もとより袁家の姫が巫女王となるに、文句などあるはずがないんやけど。まさかあれほどあっけなく、うまくいくやなんて。あの茶番……おじ様が当主さんらに、しっかり根回ししてくれはったんやろうなぁ)
九十九の方は我が身をぞくりと慄わせた。
力押しだけではだめであろうと、唯一のつてとなる人に文を書き送ったのだが、協力してくれるかどうかは半信半疑。実のところはほとんど期待なぞしていなかった。しかしこんな破格の対応をしてくれるとは、まったくもってそら怖ろしい。「おじ様」は、多大な見返りを大神官たちに与えたのだろう……。
「ずいぶん高う買われたものやね」
いったん外に出した持ち物を、九十九の方はひとつひとつ、小さなつづらの中に入れ直した。
廊下の喧騒はまだ止まぬ。いつまで妹姫が怒鳴り散らしているのかと思ったら。
「た、大変です奥様! 内裏で異変が! 帝が倒れたと……!」
アヤメが慌てふためきながら部屋に入ってきて、由々しき事を告げてきた。
「なんやて?! ほんなら……急がなあかんわ」
「えっ! あ、あの本当に、行かれるのですか? でも、百の上臘さまのおそばにいた方が、よろしくないですか? ご出立なさるのは……」
「取引やからしゃあないと思ってたけど、そんなことが起きたんならなおさらや。そこのところは、もと団長はんも十分察してくれますやろ。アヤメ、これをあん人に」
細く折りたたんだ文と紫色の袱紗の包みを押し付けると、狐目の人はすっと姿勢良く立ち上がった。
「さて。行きましょか――」
名残を惜しむかのように、庭から流れてくる夏の香を思い切り吸い込む。
本日は鮮やかな晴天。旅立ちには良い日和だと、九十九の方はひとしきり苦笑した。
金の髪をさららと背に流しながら。
その日。百臘の方は日が沈むまで、神殿の大祭壇にこもった。
特使の言上によると、主上は意識不明。何かの薬による中毒症状が出ていて、肌が青くなっているという。
これは好機。都合よい託宣を下して、しろがねを引き取ろう――
そう思い、勇んで神降ろしの儀を行ったのだが……
『帝は命を狙われておる!』
祭壇の前で祝詞を唱え始めるとまもなく。百臘の方はおのれのものとは思えぬ声で、考えもしなかったことを言い放っていた。
『玉体を守る手立てが必要ぞ!』
うねる霊力。おりてくる神気。
なんと本当に、太陽の神はおのれを選んだのか?
百臘の方はおののいて、我が口を思わず両手で塞いだ。
神降ろしをなめていた。祭壇から降り注ぐ力を受けてなお、自身の意志を保つのは至難であった。
帝を救うために龍蝶の繭糸をとれ。それで衣を織れ。
そう口走りそうになるのを必死にこらえ。必死に暴れる神気をおさえ。なんとか絞りだした言葉は、消え入りそうにか細かった。
「み……帝より、龍蝶を引き離せ……我が、あずか……る」
「ははーっ! ご託宣、痛み入りまする!」
特使が帰った直後、百臘の方はくらりどたり。胸を押さえて卒倒した。
「あまり、ご無理なさらぬがよい」
なんとか息を吹き返すと、立ち会っていた陽の大神官がしゃがむ姿勢で覗き込んでいて、くすくす笑っていた。全て見透かしているといいたげに。
「あなたさまはまこと、巫女王に値する力の持ち主。今この目でしかとそう確認した。しかしそれゆえに神霊に抗うは、かえって大事になりましょう」
神意に背く託宣には代償が要るのか。
いや。力のないまがいものの巫女ならば、すんなり嘘がつけたのだろう。
しかし神の力を恐れている暇はない。かわいい娘を救わねばならぬ。
「玉冠が重い……」
「どうかしばらくお休みくださいませ」
夕刻やっと祈祷が終わり、アカシに支えられてなじみない部屋に入り。そこでようやく、百臘の方は戦友が神殿を出たことを知らされた。遠慮がちにアヤメがおそるおそる、文と紫色の袱紗を出してきたのである。
「つ、九十九の奥様は、霊光殿へ行かれました。引き止めたのですが、陛下のご容態を聞いて、なおさら行かねばと」
「ぬ……やはりそうか」
受けた衝撃は少なかった。
九十九の方とアヤメは、昇位の礼にもご祈祷にも参列していなかった。それで大体察しはついていたのだ。色違いの巫女ゆえ遠慮したにしては、様子がおかしいと。
とはいえ片腕をもがれた気分はいかんともしがたく、百臘の方はまぶたを伏せてうなだれた。
「つまり九十九は……こたびのことを成すために祖父君を頼ったのじゃな?」
「は、はい。霊境三十枚、霊光殿よりいただきましてございます。大神官さまたちが味方になってくださったのも、おそらくは……」
「先の太陽の大神官。陽家のご隠居、識破どののおかげというわけか。そして九十九は、さらなる助力を乞いに行ったのじゃな?」
「はい」
袱紗の中には夏向きの練香。蓮の花の香りのごとき、荷葉のお香が数粒あった。相変わらずあやつの調合は香りが控えめすぎると、苦笑が漏れる。折りたたまれた香り良い文を開けば、中にはいとまを乞う歌がしたためられていた。
「またまみえし日、のぞみて光を……はあぁ、なんぞ、辞世の句のようじゃわ」
一番目のアオビがひよひよ、情けない燃焼音をあげた。
「も、もしや九十九の奥さまは、霊光殿から帰れないと覚悟なさっているのでは……」
「その可能性はある。識破どのの直系の子孫は、九十九だけ。祖父君に、金の髪の孫娘をそばに置きたい気持ちは大いにあるであろう。九十九は星の神官族として育てられたが、ひと目で太陽神官族の血を引いておるとわかる娘じゃもの」
百臘の方はざわつく胸をおさえた。
先の大神官、陽家の識破は、齢百三十を迎えようという大翁だ。おのれを巫女王にしてくれた――こんな大恩を受けては、かの祖父君が孫娘に会うことを止めることなどできようはずがない。
「翁どのに、家族を助ける以上の野心がないとよいのじゃが」
せめて先方が、狐目の人が黒髪さまの巫女団に嫁いでいる事実を無視してくれぬとよい……。それは甘い考えと知りつつも、百臘の方は心よりそう願った。戦友がそばに戻ってくることを。
「この位に昇ればなんとかなると思ったが、なかなかどうして、歯ごたえがありすぎるわ。我らはこれより、しろがねを救うことに傾注するぞ。神託ひとつでは足りぬ。早急に使者を各所に出せ。龍の巫女王に横取りされる前にな!」
「御意。さっそく手配いたします。あの、奥さ……いえ、大姫さま。今ひとつ、お耳に入れていただきたい報告がございます」
一番目のアオビが、脇息にくったりもたれる主人の前にすすすと進み出る。
「赤の砂漠にて、我が同胞が黒髪様の行方を探り出しました……!」
鬼火はパッと蒼く燃える頭から燐光をはなち、力強く囁いた。
「鬼火三名、黒髪様を囚えしものを、鋭意追跡中です!」
こうして太陽神殿から幾人もの使者が出されたとき。クナは御所の一番北にある座敷牢でぐったりしていた。
――「ちがうわ! 私のせいじゃない! 出して! 出してよぉ!」
すぐ隣の牢からは、シガの泣き声が聞こえてくる。
「黙れ。おまえたち龍蝶は、その存在自体が罪深いのだ。休みなく、主上の快癒をここで祈り、薬を飲みつづけるがよい」
鞭が鳴る。宮聞局――後宮の司法を司どる部署からきたという監視官が、朝からずっとここにはりついている。その者は高音の声の持ち主で、言葉遣いは慇懃なれど、容赦なくぴしりぴしり。牢の格子を鞭で打って、シガとクナを怖がらせる。そうして、樽になみなみと入った薬を飲むよう強要してきた。それは他でもない、毎日シガが飲ませてきた成長を早めるという薬だった。
「おまえたちには今後一切、これ以外のものは与えぬ。これは、皇太后様のご命令である!」
(シガは、村を人質にとられてる……ムラ……むら……)
薬でぼんやりしつつも。クナは記憶を失うまいと、必死に頭を動かしていた。
村。
そこは、自分が生まれ育ったところではないか?
シガは、自分の妹ではないか?
では、口をつぐまねば。表情は石のようにしなければ。
守らなければ。村と家族を――
クナは牢の隅でふらふらと手を合わせ、帝の無事を祈った。
今朝方の主上の変異は、なんとも解せぬ。ただちに呼ばれた御殿医が強壮剤を投与したおかげで、主上は息を吹き返したものの、いまだに意識は戻っていないらしい。
『舌が青い。薬物に強い拒否反応を出しておられる』
医師曰く、帝は甘露を無効にする薬を服用している。しかしその薬は成分がきつく、長期間服用すると体にさまざまな悪影響を及ぼすという。すなわちシガを長期間共に住まわせなければ、副作用を起こす薬など必要なかった。ちゃんと他の殿に住まわせ節度よくお渡りを行えば、かようなことにはならなかったと言うのだが。
「中毒だなんてそんな!」
「し、シガ、黙ってお祈りして」
「するわよ! でもなぜ、中毒なの?!」
「お願い、黙って……」
御殿医の診断は明らかに間違いだ。帝は甘露を遮断する薬を飲んでいない。シガがすりかえたものを毎日飲んでいたから、副作用など起こすはずがない。
(もしかして、だれかが主上に毒を盛ったの? シガを悪者にしようとして? 一体だれが?)
医師の見立てが下されるや、シガとクナは鬼火たちに囲まれ、あっというまにこの座敷牢へ連行された。そのとき太極殿の前に集まった婦人たちが一斉に、批難の言葉をシガに浴びせてきたのだが。その筆頭には、怒りの気配をまとう皇太后さまがいらした。
『おまえのせいよ! おそろしい魔物め!』
怒鳴られたとたんシガは悲鳴をあげていた。扇子か何かを思い切り、投げつけられたらしい。それがこたえたのか、牢の中では泣きじゃくるばかり。薬で体を大きくされたとはいえ、シガの精神は十歳ほどの幼い娘にすぎない。いきなりの攻撃と投獄は、相当な衝撃だったのだろう。
「お願いシガ。おとなしくして……主上のご回復を祈って」
クナは必死にシガをなだめた。シガが口を滑らせてしまったら、一巻の終わりだ。月神殿に命じられて甘露抑制の薬をすりかえていたことが公になれば、シガだけでなく、月神殿もクナたちの村も断罪されるだろう。となると。医師があのような見立てをしたのは、不幸中の幸いだったかもしれない……。
「いやよ! 飲みたくない! ひ……!」
ほどなく。シガの牢にわらわらと、複数の人の気配が入っていった。さっきからずっと、薬を飲むことを抵抗していたせいだった。
「あ! ひ! いやああ! ぐがっ……!」
「飲むのだ」「観念しなさい」
ざぱんざぱん。隣の牢から流れる水音にクナはぞっとした。シガは人に押さえつけられ、樽に頭を漬けられたようだ。監視官がおまえも飲めと促してきたので、クナは慌てて樽にすがりつき、薬を手ですくって飲んだ。
とたんにぐらりと頭が揺れる。体が、ふわふわ浮いている感覚に襲われて。気が遠くなる……
――「ご使者さま? なんと、太陽の巫女王が託宣を?」
どのくらい時間が経ったのか。重いまどろみから逃れようともがいていると、監視官の声が耳に入ってきた。ずいぶんうろたえている。
「龍蝶を太陽神殿に移せだと? 皇太后様はなんと? む、従えと仰せなのか……」
当惑するその声を、クナはよろろと身を起こしながら聞いた。
「しかし、こちらの白い髪の方しか渡せぬぞ」
それは。一瞬にして目が覚めるような言葉だった――
「シガという名の者はもう、繭を出し始めているからな」