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9話 伏魔の宮

 しゃんしゃんと規則正しく鈴の音が鳴り響く。

 蒼き晴天のもと、石貼りの円舞台の際にぐるりと立つ巫女たちが、神楽鈴(かぐらすず)を振っている。ぴったり呼吸の合ったその仕草は、まるで機械のようだ。

 舞台の中央には苗木を挿した大鉢がひとつ。芽吹いたばかりの神木の枝で、鉢の四方には縄の結界が張ってある。

 二人の巫女が円舞台に昇り、左右に分かれた。挿し木の鉢を挟んで姿勢よろしく向かい合う。千早にたすきがけ。額には白い鉢巻。その手には周囲の巫女たちと同じ、神楽鈴(かぐらすず)という出でたちだ。

 

「始まりました!」


 円舞台のすぐ下。出場する巫女の列に並ぶアカシが、すぐそばにいる三十番目のアオビに鋭く囁く。すると鬼火はくねくねとその身を文字のような形に変え、真後ろの見物席にいる二十九番目のアオビに手を振った。

 赤布が敷かれた席には神官や巫女たちがずらり。対峙する巫女たちをじっと注視している。

 陽射しさんさん、夏かと思うほどの陽気の本日。天照らし様に仕えし者たちは、新たな巫女王(ふのひめみこ)誕生を見極めんとしているのだ。合図を受け取った鬼火はさらに後方にいる二十八番目のアオビを振り返り、同じようにうねって合図を伝達した。


「試合開始、了解!」


 二十八番目のアオビがこっくりうなずき、会場入口にいる二十七番目のアオビに同じ合図を送る。

 二十六、二十五、二十四……鬼火の列は、距離を少し置いてえんえん神殿のはずれまで続いている。最後尾にいるのは一番目のアオビだ。薄暗い廊下に並ぶ土部屋の一室の前に立っている彼は、中にいる巫女二人に合図を告げた。

 

「奥様ご登場まで、あと七試合でございます!」


 正座姿の九十九(つくも)の方とアヤメはうなずきながら、目の前に置いた鏡に手をかざした。

 一心不乱に、鏡に霊力を注ぎ込む。昨日の晩から断食し、ほぼ徹夜で集中力を高めているゆえ、二人の体からは仄かに光が立ち上っている。体内にある神霊玉が大いに霊力を発散しているようだ。

 

「第一試合、(ヤン)家のミンさまご勝利! 奥様ご登場まで、あと六試合!」

 

(やっと、この日が来はったわ)

 

 帝に献上された龍蝶には成長促進剤が使われる。そのことを重々承知しているゆえか、太陽の巫女王(ふのひめみこ)は手合いの開催日が遅れるよう仕向けてきた。

 

『予定の日は良き日にはあらず。延ばさねば、天照らしさまは夏にお目見えせぬでしょう。作物の出来が悪うなりまする』


 天照らし様よりそんな神託を授かったと宣したのだが、むろん嘘八百。職権濫用もよいところだ。とっとと試合を開催しろと百(ろう)の方が何度も直訴したものの、何日もじりじり待たせて高笑い。結局五の月に入るまで焦らしてきたので、もと巫女団長は烈火のごとく怒り、妹君を呪い倒した。

 

『はよう始めぬか! この寝小便たれが!』


 あの文句は完全に逆効果だったと思うのだが。ひと回り年上の姉君はかつて、幼き妹の面倒をよく見ていたらしい。そして姉妹というのは、互いに遠慮できぬものであるらしい。

 

『ほほほ、先帝様に見向きもされなかった女がなにを仰いますやら。鳴り物入りでこの太陽神殿から輿入れしましたのに、てんで役立たず。そんなお人に言われる筋合いはございませんわ』


 巫女王(ふのひめみこ)がずけずけと言い返したとき。百(ろう)の方の後ろにつき従っていた九十九(つくも)の方は、危うくあることを言い返しそうになった。

 お家の女主人と心から認め、尊敬している者の汚名を打ち消してやりたい。そう思うのはまっとうな人の性であろう。

 

(せやけど、きつう口止めされてるからなぁ……)

 

 帝に無視された哀れな姫よ。

 そうせせら笑う巫女王(ふのひめみこ)の認識は、悔しいことにほぼ真実だ。だが、百(ろう)の方はたった一度とはいえ、先帝陛下のお渡りを受けたことがある。しかも……実をいうと、その一夜の恩寵は見事に実を結んだのである。

 しかし――


『の、呪いです! 奥様はたれぞの呪詛を受けたに違いございませんっ! ですからこんなっ……』


 あれはもう、いかほどの昔になるであろうか……


『このアオビ、奥様のご容態を全く把握できず! お守りできず! どうか、お許し下さいませ!』





 すめらの後宮では、婦人が身ごもっても五ヶ月経たねば、「ご懐妊」とは認められない。妊娠初期に流れてしまう確率が高いため、そして詐称が多いためだ。

 百(ろう)の方は子の命が狙われるのを回避しようと、正式に認定される日が来るまで妊娠をひた隠しにしていた。それがかえって裏目に出た。当時世話係だったアオビにすら全く知らせないでいたがため、毒味も呪いよけも一切行われていなかったのだ。

 おそらくはめざとい下女を経由して、嫉妬深い妃たちの耳に情報が入ったのだろう。今日明日にも、腹に安産祈願の帯を巻ける。そうなれば、帝に身ごもったことをお伝えできる――その惨事は、正式に懐妊が認められる日を目前にして起きた。

 百臘の方はその日いつものように、厨房から運ばれた香り茶を飲んだという。

 そのとたん、小さな命は失われてしまったのだ……


『本当に、ここは怖ろしい! 魑魅魍魎の跋扈する、無情な場所でございます!』


 毒はきつく、部屋は血の海。当時隣部屋に住まっていた九十九(つくも)の方は、泣き叫ぶアオビの声で事態に気づき、ひどく驚きつつも、息も絶え絶えの百(ろう)の方を看病した。結果、母体だけはなんとか命をとりとめることができた。

 血と一緒に流れ落ちたものは、御子が宿った確たる証拠となるものだったが、母たる人は騒ぎ立てず、侍医も呼ばず。頑固に秘して、帝にも後宮の管理官にもついぞ報告しなかった。


『この子を大勢の者に見せねばならぬなど……耐えられぬ……!』

 

 涙ながらにそう訴えられては、正義を求めるべきと思う九十九(つくも)の方も、言葉を失うしかなかったのである。


『このことは決して、他言ならぬぞ。後生じゃ』


 二人で後宮内にある太陽神殿の祠の裏手に、御子を手厚く葬った直後。百(ろう)の方は病で死んだとしてくれと、毒をあおって自害しようとした。九十九つくもの方がそれを張り手で阻止したあの時から、長い腐れ縁が始まったと言える。あれ以来二人は、同じ秘密を共有する戦友となったのだ。


(失ったのは女の子。せやからあのお人は、アカシたちとか、しろがねみたいな若い娘が可愛くてしゃあないんや。生きていたらちょうど、あの年頃の娘になってるはずやもの)


 それから間もなく、百(ろう)の方は黒女(くろめ)となった。

 本人は先帝の死を悼んでいるのだと言っているが、もともとは亡き子のためだ。実は父子二人の冥福を祈り続けているというのが、黒髪黒衣の真相である。

 すなわち、百(ろう)の方は皇女の母君。本来ならば、もっと上の品位に叙されるべき御方。決して、鼻でせせら笑ってよい方ではないのだ……


(あの不遜な妹はん。いつか、きつう灸を据えてやりたいわ)


――「(シャン)家のリアン姫、ご勝利! あと一試合で奥様ご登場!」

 

 いよいよやと、九十九(つくも)の方は霊力を注いだ鏡を両手で持ち上げた。

 御三家の姫は順当に勝ち上がっているようだ。

 リアン姫はしろがねの娘につけられ、後宮へと送り込まれたが、いらぬと言われて返されてきた人だ。先日、顔を真赤にして庭の隅でこっそり泣いているのを目撃したが、その顔以上に瞳の色は真っ赤な炎のよう。ひと目で相当な神霊力の持ち主と分かる巫女だ。あれに勝つにはかなりの霊力が要るだろう。

 

「アヤメ、始めるで」

「はい!」


 二人の巫女は歌い始めた。たちまちびりりと、あたりに神霊の気配が降りてくる。

 

「結べよ力」「伝えよ息吹」


 二人は歌いながら持ち上げた鏡をアオビに向けた。鬼火たちは二人と同じく、霊鏡を一枚ずつ持っている。ほのかな光の線が巫女たちの鏡からほとばしり、アオビが持つ鏡を照らす。


「お任せください!」

 

 アオビは鏡の角度をずらし、その光を二番目のアオビのもとへ反射させた。二番目のアオビは手に持つ鏡でまっすぐ延びてくる光を受取り、三番目のアオビのもとへと受け流す。

 

(一級品の霊鏡三十枚。これでうちら二人の力は黒女(くろめ)はんに届くまで、三十倍に増幅されるはずや)


 鬼火が次々反射する霊力の光は三十番目のアオビまで届けられ、すぐそばにいるアカシの鏡に吸い込まれる。そして、舞台に立つ百臘の方に浴びせられる――これで御三家の巫女に対抗できるはずだ。

 九十九(つくも)の方は内心、鏡を用意してくれた人に感謝した。勇気を振り絞って文をしたためた甲斐があったというものだ。もし太陽神官たちが難癖をつけてきても、その人の口添えがあればなんとかなるだろう。

 

(礼を言いますわ、おじ様……さあ、頼むで、黒女(くろめ)はん!) 


 鏡を掲げる九十九(つくも)の方は歌声に力を込めた。

 ぎららと、神霊の力みなぎる真紅の瞳を輝かせながら。

 




 御所の庭園は、東西に分かれている宮を繋ぐような形をしているらしい。舟をいくつも浮かべられるほど広い池を中心にして、何百という花木が植えられている。

 園池司(そのいけのつかさ)が存分に腕をふるっているから、一年中かぐわしいのだ――主上は誇らしげにそう仰り自慢した。梅や桜や金木犀といった花木がひしめいているらしく、目にも大変麗しいらしい。


「桜が終わって寂しくなると思ったら、なんて見事な藤棚かしら。シャクナゲも満開ね」


 シガが舟の上ではしゃいでいる。主上の腕にしなだれかかり、半ば衣をはだけているようだ。肌を吸わせている音がなんとも生々しいし、甘露の甘ったるい匂いが鼻につく。さやかな花木の香りがかき消され、風流もなにもあったものではない。

 クナはため息をついて船べりに頬杖をついた。


「においが台なし……」

「ふくれっ面がかわいいな」


 主上の視線がこちらに来た。だがその瞬間、シガが強引に口づけをしたのだろう。まなざしの圧力はたちまち奪われてしまった。


「ああ、シガ。そなたを早く(きさき)にしたいものだ」


 四の月に開かれた花の宴は、太陽神殿と月神殿がほぼ均等に席を二分した。クナが太陽神殿より献上されたことが、大いに影響したらしい。でなくば席の三分の二は、月の神官族で埋まっていただろう――シガは帝が厠にたっていないとき、そう苦々しげにぼやいていた。


『月の者が強くならないと困るのよね』


 しかしクナ本人はふわふわまどろみの中。あくびばかりで頭は舟漕ぎ。薬のせいで政(まつりごと)の情勢など、全く把握できなかった。

 帝は宴以来、連日のように舟遊びをなさっている。池で風に当たるのをえらく気に入ったシガがせがむからだ。始終眠たいクナは寝箱に丸まりたかったが、いつもシガに引っ張られてお供をさせられている。

 付き合わされているのはクナだけではない。南中の陽に熱せられた風が吹き抜ける池には、後宮の婦人たちが乗せられた舟がいくつも浮かんでいる。シガ曰く、御座船だけが朱金で塗られていて、他のものは黒いそうだ。


「しろがね、朱の舟に乗れるのは私たちだけよ」


 クナの頭を撫でながら、シガは鼻高々、悦に入っている。帝の妻たちにおのれが特別であると見せつけたいのだろう。しかし鼻と同様に能力の高いクナの耳には、池のそこかしこからひそひそと、婦人たちの陰口が聞こえてくるのだった。


「龍蝶がまたぞろ、大きな顔をしていましてよ」

「あんなに肌を見せてはしたないこと」


 主上を独占するシガへの嫌悪は、日々深まるばかり。しかし当の二人は、愛というものに酔っていた。

 まだ昼だというのに本日も帝はすでに酒気深し。舟上でさんざんシガを愛でたあと、夜を待たずに褥に行きたいと思し召した。池の岸辺に降りた主上とシガのあとを、ぷつぷつ音をたてる鬼火が追っていく。内裏務めの鬼火は緑の燐光を出すらしい。たしかに、あまりなじみのない燃焼音を出している。めらめら音を出すものとは、燃え方が違う……


(あら? めらめらって、いったい何だったかしら) 


 アオビのことをすっかり忘れてしまったクナが、彼の燐光の音だけおぼろに思い出していると。突然ぶぶぶと、緑であるらしい鬼火が変な音をたてた。

 

「きゃあ、主上!」


 シガが叫んだ刹那。周囲からどっと人や鬼火たちが集まる気配がした。 

 主上が呻き声をあげる。突然がくりと膝をつき、半ば意識を失ったようだ。

 シガはクナの腕を放して主上にすがりついた。

 

「どうしたのよ!? 主上、しっかりして! だれか、医師を早くっ」

――「ああついに。なんておいたわしい」

「毎日龍蝶に精を絞り取られているのですもの、やつれるのは当然ですわ」


 続々と主上を遠巻きに囲む婦人たちの声が、クナの耳を刺した。たしかに日がな一日、帝はシガにべったりだ。四六時中恩寵を与えていて片時も離さない。酒の量とて尋常ではなく、あんなに淫靡で放蕩に過ごしていれば……さもあらんの結果なのだろう。


「まったく、不埒(ふらち)な魔物ですわよね。龍蝶というのは」

「甘露抑制の薬を飲んでらっしゃるのがせめてもの……」

「皇太后さまがかんかんですわよ? そろそろ腰を上げられるのでは?」


――「ふわわ?!」


 人だかりの渦中にいたクナは、突然ぐいと袖をひっぱられた。侍医が駆けつけたのとちょうど入れ違いに、人いきれの中から出される。周囲の者は倒れた主上とシガに釘付け。クナが引っ張り出されたことは、だれも気に止めなかった。


「ふうう、やっと(すき)ができた」

  

 騒ぎに乗じてクナを捕まえた者が囁いてくる。花の宴でかわいらしい花をくれた女御(にょうご)だと、クナはぼんやり思い出した。名前はたしか……


「こきでんの、女御(にょうご)さま?」

「それは通称。湖黄殿(こきでん)に住んでるからね。私はトウ家のコハク。レンディールの舞姫と同じ名前だよ」

「レンディール? まいひめ?」

「う? なんでそこで首をかしげるんだよ。巫女団にいて舞を習ったなら知らないはずないだろ? コハク様はすめらの後宮に舞術を伝えた、超有名な舞姫じゃないか」


 どこかで聞いたような。でも初めて聞いたような。クナの寝ぼけた反応にコハクは息を呑み、怯んでいる。しかし気を取り直したようにしっかとクナの袖を掴んで、ずいずいどこかへ引っ張っていった。


「あ……いい匂い」


 シャクナゲの香りが鼻に入ってくる。連れてこられたところは、庭園の奥のようだ。クナは無邪気な笑顔をうかべ、鼻をくんくん。胸いっぱいに心地よい香りを吸い込んだ。


「あのさスミコちゃん、よく聞いて。シガを主上に献上したのはうちの父さん……月の大神官なんだ。シガは父さんに主上を骨抜きにしろって命令を受けて、見事にそれを果たしてる。おかげで私は今までに数度、主上のお渡りを受けたよ」


 つまり主上はシガにいわれて、コハク姫を抱いたということか。

 しかし若い女御の口調は、そのことを自慢しているようには聞こえなかった。

 

「私、絶対に主上の御子を宿せって父さんから命じられてるんだ……でも恩寵を受けるのは正直だるくて嫌なんだよね。シガ自身が帝に入れあげちゃって、なかなかこっちに融通してくれないんだけど、それをすごくありがたいって感じてる。でもね、最近スミコちゃんが来ちゃったもんだから、うちの父さん、目くじら立てちゃってるんだ」

「目くじら?」

「スミコちゃんは太陽神殿から献上されたでしょ? だからうちの父さん、私やシガに、スミコちゃんを排除しろってこっそり命じてきたんだよ」


 クナはぽかんと口を開けた。三色の神殿のことなど、今やほとんど覚えていない。だから首をかしげることしかできなかった。


「スミコちゃんはたぶん、太陽神殿から何か命じられてきてるんだろうと思う。でも私、スミコちゃんを助けたいんだ。だって、舞がとっても上手いだもん」

「まい……」

「だからこっちの仲間になってよ。ね? そうしたらうちの父さん、シガに命じたことを撤回してくれるはずだよ。きっとこれ以上、変な薬を飲まされなくなる」 

「くすり……?」


(それって朝に飲む甘いやつかしら? いつも眠くてよくわからないけど……)


 クナは眉根をひそめた。自分はなぜここにいるのだろうと、もやっとする頭に疑問を浮かべる。何かとても大事なことを忘れているような気がする。だが何も、頭に浮かんでこない……

 

「あたしさ、スミコちゃんと舞の勝負したいんだよ。だからお願いだよ。ね?」

「舞の、勝負?」


 クナはひくりと肩をわななかせた。

 舞――それはなんだかとても好きなもののように思える。胸がわくわく高鳴るような。どきどきするような。そんな感覚が手足を駆け巡る。

 

「あたし、舞えるの?」

「うん。とっても上手いよ。炎の中でくるくる回ってたの、すごかったんだよね。舞力がはんぱなくって……」

――「しろがね! こんなところに!」


 コハク姫の言葉はしかし、シガの金切り声に遮られた。


湖黃殿(こきでん)の女御 ! また私のしろがねを勝手に!」

「シガ、待って」


 事情を話そうとするも、取り付く島はなく。クナの体はぐぐっと後ろへ引っ張られた。首輪から延びている金の鎖を、シガに掴まれたらしい。

 クナを自分のもとにしっかと寄せると、シガはコハク姫に文句を垂れた。


「私はちゃんとトウイさまの言う通りにしてるわよ? 甘露の効果を無効にする薬を別のにすりかえて主上を骨抜きにしたし、この龍蝶は順調に成長している。あなたの監視も助けも要らないわ」

「シガ……ごめん。同族を飼育させるなんて、嫌なことさせて……父さんがあんたの村を人質にとってるんだよね? だから断れなかったんだよね?」

「はぁ? 村って何よ?」


 村? シガの村?

 クナの胸はとたんにどくりと跳ねた。

 それは……何だか知っているような気がする。なぜか、ひどく懐かしいような、気がする……


「シガ? まさかあんたも記憶がなくなってるの? うう、促進剤ってどんだけひどい薬なんだよ」

「ふん、何を言ってるのだか。とにかくトウイさまの命令はしっかり完遂するから、邪魔しないでちょうだい。行くわよ、しろがね」 


 クナの頭はとろとろ。トウイの企みを主上に告げることはできないと、シガはしっかり読んでいた。クナを連れて堂々と太極殿に戻ると、シガは臥せる主上を看病した。あたかも妻のように甲斐甲斐しく。

 (まつりごと)の報告をしにくる者たちが恐る恐るやってきて、元老院で決定されたことや、太陽神殿で新しい巫女王(ふのひめみこ)が決まったことを知らせて来たけれど。主上は明日詳しく聞くと答えて、官たちをすぐに下げた。

 それからほどなく、主上の放蕩ぶりを見かねた皇太后がついに直々にお出ましになり、シガに下がりなさいときつい口調で命じた。しかし甘露に酔っている主上は、その命令をきっぱり拒否した。

 シガにはここに居てほしい。

 シガを愛している。

 シガを妃にしたい。

 うわごとのようにつぶやいて、生母である皇太后を部屋から退けてしまった。

 おそろしいことに、その夜も帝とシガは夜通し睦み合っていた。無理はしてはいけない、安静にと侍医に言われたにもかかわらずである。

 部屋のすぐ前の廊下には、内裏づとめの女房たちがずらり。主上の身を心配する皇太后から、様子を伺えと命じられたのだろう。

 そんな異様な事態も、眠気に支配されるクナにとってはまるで夢の中の出来事だった。

 寝箱の中で丸まりながら、クナは昼下がりに聞いて心に残った言葉を何度も何度も反芻(はんすう)した。


(舞……そうだあたし、舞えるんだっけ。そうよ、舞は楽しいものだわ。ああでも。なんでシガの村が、こんなに気になるんだろう?)


 舞。村。

 舞。村。

 ふたつの言葉がぐるぐる回り、ぎゅうと胸が苦しくなった。こんなにも惹かれる理由が知りたくて、クナはコハク姫に無性に会いたくなった。

 シガにお願いしてみようか。コハク姫と話したいと。

 ああほら、朝が来た。庭で鳥が鳴いている――

 大きなあくびをひとつしてから、クナはのそりと身を起こし、すぐそばにある褥に顔を向けた。

 とたん。


「主上! 起きて主上っ!」


 シガの叫びが耳に入った。

 

(ああまた、主上の具合が悪くなったのかしら)


「目を開けて! ねえ、なんでこんなに体が冷たいの?!」


 シガはずっと叫んでいた。しまいには声を湿らせながら金切り声をあげていた。

 けれども主上は目を覚まさなかった。じっと動かぬままで、まぶたを上げなかった。

 いつまでも。


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