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8話 太極殿

「はぁ?! そんなん無理ですやろ」


 狭い土部屋に、怒声が響く。

 アオビが駆け込んできた時、九十九(つくも)の方は座禅を組んで瞑想していた。

 鬼火の主人と同じく、薄い白千早に短袴。長い金髪は上げずに垂らしていて、まるで若臘(じゃくろう)の巫女のよう。 

 アオビが平身抵当でまくし立てることを聞くと、狐目の巫女は遠慮なく呆れ返った。


「うちの団長はん、自分の年を忘れはりましたんか? 土台、あん御人は処女やあらしまへんで?」

  

 アオビはしかし、うろたえなかった。後宮にいたころから百(ろう)の方に仕えてきた鬼火は、親友である狐目の巫女の性格を、深く深く、知り尽くしている。

 九十九(つくも)の方は口では散々文句をいいながらも、きっと全面的に協力してくれる。しっかりそう見通していた。


「正奥様は、巫女王(ふのひめみこ)選出の儀への参加を、正式に許可されたのです」

「言質を取ったと言っても……まあたしかに黒女(くろめ)さまは、血筋は大変申し分ないお人ですわ。たしかあの、いけ好かへん太陽の大姫の、実の姉君でしたな?」

「さようでございます。そして(イェン)家のご当主にして帝都太陽神殿第三位の大神官、すなわちイェン・シェン様の、姉君でもあられます。弟君とは五つ、妹君とは十二、年が離れてございます。正奥様はすなわちご長女ゆえに、一番偉いのでございますっ!」


 ぐっと拳を握って発奮するアオビを見て、九十九(つくも)の方は引きつり顔。細い指先でこめかみを押さえた。


「年食ってはることを力説して、どないしますのや。まだうちの方が、可能性がありますわ。年齢にしても、未通の身であることからしても」

「そそそそれは」

「せやけどうちは、星の巫女。逆立ちしても、太陽の巫女王(ふのひめみこ)にはなれまへん。いや、もしうちが太陽の巫女であっても、ようよう名乗りなんぞ、あげられませんわ。まったく、うちの団長はんときたら、空おそろしいわ。なんという不屈の闘志をお持ちなんやろ」 


 かようにぼやいて、九十九(つくも)の方が深いため息をついたとき。顔を真っ青にしたアカシとアヤメが部屋に駆け込んできた。二人はおそるおそる、機嫌を伺うようなそぶりで狐目の夫人の前にかしこまった。なんと今しがた百(ろう)の方に呼び出され、これからは、九十九(つくも)の方を巫女団長としてあおげと、命じられてきたという。


「はぁもう。なんであん人は、うちを呼びつけて、そのことを直接命じまへんのや」

「反対されるのを恐れたのだと思います。お年だからやめろとか、そんな言葉は聞きたくなかったのでは……」

「できうるかぎり神霊力を高めるため、これから瞑想に入るとのことです」

「なるほど。あん人は、うちの冗談を聞いてるヒマなんぞないほど、本気をかましてはるんか」


 ならば仕方ないと、九十九(つくも)の方はきりりと顔を引き締めた。


「ではうちも、新団長として全力を出させてもらいますわ。アカシ、あんさんは、太陽の巫女でしたやろ。あんさんも、選出の儀に挑戦しなはれ」

「ええっ!? わ、私などがそんな」


 いきなりの指示に、アカシがおろおろ、うろたえる。適齢ではあるが、実家の家格は第三級。帝の後宮にはせいぜい、下女としてあがれるかどうか。血筋がよろしくないと、頭をぶるぶる横に振った。


「か、家格第一級の、御三家の姫でなければ、勝ち抜けられないかと……」

「たしかに、歴代の太陽の巫女王(ふのひめみこ)は、大神官を務める御三家からしか出てまへん。おそらく、支持者の援護を密かに受けたりなどして、それ以外の家の巫女は、勝たれへんようになってるんやないかと思います。せやけど、選出方法はいちおう実力勝負。出場するのは、可能ですわ」


 太陽神官族の中で家格第一級とされるお家は、十ほどある。

(ヤン)家。(シャン)家。(イェン)家の三家は、中でも際立って栄華を極め、大きな派閥を作っている。「太陽の御三家」と呼ばれ、代々大神官や巫女王ふの(ひめみこ)を輩出しており、元老院での発言力も強いらしい。

 百(ろう)の方が迷わず名乗りをあげたのは、この血統を頼みとしていることが大きいだろう。


「うちもアヤメも、もとは星の巫女。選考の場に居合わせることは、叶いまへん。アカシ、あんさんは団長はんを援護しなさい。うちに、考えがあります」


 新巫女団長はそれからえんえん、さまざまな指示を飛ばした。


「……というわけや。ええな、みなはん、仕合当日まで、神霊力を限界まで高めておくように。幸い全員、土部屋を与えられたようやから、修行がどんどこはかどりますやろ」


 そうしてアカシとアヤメを叱咤激励し、それぞれの土部屋に送り出したあと。新しい巫女団長は、部屋を辞しようとしたアオビを神妙な貌で呼び止めた。


「アオビ。今から〈おじ様〉に文をしたためますわ。預けたら即、届けてください」

「〈おじ様〉……なんと! か、かしこまりました!」


 とたん、鬼火の炎がめきめき色めきたった。


「ありがとうございます! 金女(かねめ)さま、ご主人様のために、本当にありがとうございます!」

「あの御方のためだけやない。しろがねは、うちらの家族。絶対取り戻す」

「はいっ!」


 はりきるアオビが文箱を調達してくる間、九十九(つくも)の方はしばし悩んだ。

「書き出しの言葉は、どないしようか……」


 窓のない部屋にて時候の挨拶を考えるのは難しかった。

 外ではきっと春風が舞っているのだろう。肌にぬるい、暖かな夜風が。





「あっ……主上……」


 格子が上げられた縁側から、ふわりと夜気が入ってくる。今宵の春風は、夏の夜のように蒸し暑い。どこか浮かれているような熱っぽい風だ。これでは……頬の火照りを冷やせない。


(ち、ちょっと待って。もう勘弁して。ああもう、手が、動かない)


 すぐ前から聞こえてくるあられもない声を、なんとか遮断したいのに。(ひとえ)の分厚い重ねが重すぎる……。

 

 クナは、顔を真っ赤にして困り果てていた。

 ここは太極殿と呼ばれる御殿。陛下がゆたりと、日々を過ごす処である。

 普通、帝に付く女官は、御簾(みす)の向こうで控えているものだ。こんな目と鼻の先にいろと命じられることはない。しかし、シガが言うには、クナは、女官でも下女でもないらしい。


『ミヤと同じく、金の首輪をつけてあげますわ』


 ミヤというのは帝が飼っている猫だ。ごろごろ喉を鳴らす長毛のそれを、シガはとてもかわいがっている。すなわちクナは、犬や猫と同じなのであるという。


『だってかわいらしいから、いつも眺めていたいの』


 陛下はシガのおねだりを、すんなり許した。

 クナは本当に首輪をはめられ、帝がおわす部屋の隅に据えられた。日が暮れたとき、そこが(しとね)のある室と知って大慌て。即刻、退出を願ったのだが。


『あらだめよ。ミヤだって、ずっとここにいるのよ』


 あたふたしながらの訴えは、シガの笑い声にあえなく却下された。(しとね)の前にある几帳(きちょう)は、ないも同然。ただの布だから、ごくごく普通に音を通してくる。

 唇を吸い合う音。肌が触れ合う音。それよりもっと淫靡(いんび)な音……

陛下は二十歳になったばかりだそうで、実に精力旺盛だ。夜中、シガをずっと啼かせていた。

 クナはただただ恥ずかしく、重い袖で耳をふさいで、つっぷすしかなかった。


(い、いつまで続くのこれ……!)



 残念ながら、距離を取ることはできなかった。逃げようとすれば、ちゃりちゃり金属の音がして、首がぐいとひっぱられる。嵌められた首輪は、純金製であるらしい。すばらしい彫金がなされているらしいが、うなじから伸びる短い鎖が、柱にしっかとつながれていて、他の部屋には決して行けない。

 用足しは、お香の入った箱に。行水は、香り湯を張ったたらいでしなければならない。箱もたらいも、鬼火たちがおごそかに捧げ持ってくる。


「はは、悪い子だぞ、シガ。龍蝶がずいぶん困っている」

「だってこの子の反応、面白いんですもの」

「ふむ。たしかに、恥じらう様を見るのは楽しいな。しかし、見るだけで弄れぬのが残念だ。炎の聖印に加え、奇妙な加護もついているとは……哀れなことよ」


 クナはふかふかの箱をひとつ与えられた。手探りで確かめれば長方形で、棺に形が似ている。

 猫の箱の隣に並べられ、そこで休めといわれたけれど。箱の中に縮こまっても、シガの声がすごくて、ようよう眠れるものではない。


「あなたを魅了できないのが……残念ですの……」 

「甘露が効かなくなる薬を飲んでいるからね。でも、シガのことは好きだ」

「ああ。うれしいですわ!」


 陛下は、政務を臣に任せきっているようだ。夜が明けても、昼が過ぎても、太極殿から出る気配がない。

 薬を飲んでいるというけれど。本当に、甘露の影響を受けずにいるのだろうか? 信じられぬほど、シガにべったりだった。

 ふたりがむつみ合う声を聴くたびに、クナは自分のことを思い出し、顔から火を出した。

 黒髪様はとても優しく愛でてくれた。とまどいながらも感じた、あのしびれるような感覚は、決して忘れられるものではない。

 もしかして自分も……こんな恥ずかしい声を出していたのだろうか?


「あら、なんて悲しそうなお顔。おまえも恩寵がほしいの?」

「い、いいえっ」

「ほほほ、かわいそうに。ごたいそうな加護なんてなければ、陛下のお情けをいただけたかもしれないのにね」


 龍蝶を飼うのを楽しむ龍蝶がいるとは思えない。

 でもシガはたしかに、クナと似たような甘い芳香を部屋中に漂わせていた。

 話しかけてくると同時に漏れ出る息は甘ったるくて、嗅ぐと頭がくらくらした。


「金の首輪も羽毛の寝箱も、かつて陛下が、私に使ったものよ。ここに来たばかりのころ、私はおまえのように小さかったわ。でも、みるみる大きくなったの。そうしたら主上は私のことをとても気に入って、首輪を外してくださったのよ。それにしても……おまえを見れば見るほど、なんだか不思議な気持ちになるわ。初めて会った気がしないのよね」


(大きくなった……あっという間に? どうやって?)


 懐かしさを感じるということは……

 この淫らな女は、妹で間違いないのだろう。

 心を痛めつつ、そうでなければいいと思ったけれど。決定的な証拠が、クナを襲った。

 飼われ始めて数日たったある日。シガは気まぐれに、クナの髪を梳いてきた。それは、猫の背を撫でるような愛玩と同じ行為だったのだけれど。シガはひとしきり、手に持つ櫛を自慢してきた。


「これはとても高級な黄楊(つげ)の櫛で、母さまの肩見なのよ。母さまはよくこれで、私の髪を梳いてくれたわ。たぶん私の家で一番、価値のある……あら、いやだ。ちょっと、ミヤったら」


 飼い主がクナにかまっているのに嫉妬したのだろう。猫がいきなりシガの膝に乗ったので、シガは櫛を床に置いて猫を撫で始めた。

 クナは手をそろろと伸ばして、こっそり櫛に触れてみた。持つところに、細やかな象嵌がなされている。


(この模様は……!)


 指に当たるその感触は、たしかに覚えのあるもの。クナは、なつかしさにわなないた。


「母さまは、鏡も持っていたのよ。それもずいぶん、高そうなものだったけど……あら、どうして無くなってしまったのかしら。思い出せないわ」


 母が亡くなったとき。姉のシズリは、母の物を姉妹に形見わけした。円鏡は自分のものにして、クナには古い布の切れ端を。そして、シガには櫛を与えた。


(やっぱり間違いないんだわ。この人はほんとに、あたしの妹。シガなんだわ) 

「おまえの髪は、本当に真っ白ね。忌々しいぐらい」


 シガの髪は、クナと同じ色ではない。そんな事実を、クナはようやくこのとき知った。


「目の色は同じだけれど、私の髪は鳶色よ。でも母さまは、黒だって言い張っていた。髪が黒っぽくなるよう、いつも炭粉で、あたしの髪を洗ってくれたわ。すめらのよき臣民は黒髪で、しぶ皮色の肌の人間である。神官さまたちがことあるごとに、そう教えてくださったからよ」

 おまえの髪は、そう簡単には染まらないわねと、シガはくすくす笑ってきた。

「ただの炭粉じゃ、せいぜいネズミ色。高価な染料を使わないと、黒くはならないでしょうね」





 シガは、母のことは覚えていた。けれど、その他のことはほとんどまっしろ。すっかり忘れ去っていた。

 どうして記憶が失われたのか。

 クナは日を追うごとに、身を持ってその理由を知ることになった。


「しろがね、飲みなさい」


 日に一度必ず、シガはとろりとした薬を飲ませてきた。滋養強壮のためと言われたが、それを飲むと、しばらく頭がぼうっとなって、ひどい眠気に誘われた。


「シガ、それは晩に飲ませるのだよ」

「でも主上、そうしたら、夜に寝入ってしまいますもの。楽しい反応が見られなくなりますわ」


 昼の間、クナはほとんど、まどろみの中に落ちていた。

聴こえてくる夢は、ひどくごちゃごちゃ。

 懐かしい歌を歌う、母の歌声。百(ろう)の方の祝詞。巫女団たちのお神楽。それから黒髪様の、水晶を打ち鳴らしたような、美しい囁き声。神楽の鈴や、琵琶の音。メシコと叫ぶ、咆哮……

 音がぐるぐるかき混ぜられた頭は、目が覚めるとひどく重たくて、ずきんずきん。ひどく痛んでしかたなかった。


「あつい……」


 三日、四日と経つうちに。薬を飲むと、四肢がぼうっと熱く燃えるように感じるようになってきた。眠っている間は、手足がぐんぐん伸びるような感覚を覚えた。対して、頭はどんどん、縮んでいく気がした。豆粒のように、小さく固く。

 そうして一週間すぎると。


「う……あ……?」


 クナは、難しいことを考えられなくなった。体は常に熱くて、眠くてたまらない。あくびばかり出るのに、食欲は旺盛。なんだか無性に食べたくて、出されたものを、どんどん呑み込んだ。肉や魚のごちそうも。甘いお菓子もたっぷりと。


「いい子ね。もっと食べなさい。すぐに繭になれるわよ」

「まゆ……?」

「おまえが献上されて、本当に助かったわ。主上は泣く泣く私を繭にして、糸をとらなきゃならないところだったの」

「母上が、竜蝶の繭糸で衣を作れとうるさくてな。あらゆる呪いをはねのけ、寿命を延ばせるというのだ。だが、シガを失うのは惜しい。おまえが来てくれてよかったぞ、しろがね」


(やはりしゅじょうは。シガのかんろに。どくされているのでは。ないでしょうか)


 頭の中にそんなことばが何度も湧いてきたけれど。溶けた頭で、喋るのは難しい。気づけば柱にもたれて、すうすうすやすや。クナは寝入ってしまうのだった。

 

 週を重ねると、クナはここにくる前のことを、ほとんど思い出せなくなってしまった。

 まるで赤子のようになったから、シガは面白がって、人形で遊ぶように甲斐甲斐しく世話を焼いてきた。食事や菓子を、クナの口に入れてやったり。髪を編んでやったり。体を洗ってやったり。


「あら。首にかかっているのはなに? 小さな袋? いい匂いね」

(これは。かたみ。かあさんの)

「ほほほ。一所懸命口をぱくぱくさせて、かわいいわ。ねえ、ちょっと背が伸びてきたんじゃない?」

「胸も出てきたのではないか?」

愛照凜音(アイテリオン)の秘薬。成長促進剤って本当にすごいのね。一気に数十年分、成長させるんですもの」

「花宴でそばに侍らせたいな。この調子でいけば、夏に入る頃には繭を作るだろう。短い命、せめて良き思い出を持たせてやろうと思うのだ」

「まあ。主上は、お優しいのね」

(まゆ? みじかい? いの、ち?) 


 帝の哀れみの言葉を、クナはとろんとした顔で拝聴するのだった。

 もはや意味も分からず、ただただ、首をかしげながら。





 帝の思し召し通り、クナは、シガの後ろに控える形で花の宴に出席した。

 四の月に入り、宮処(みやこ)では春もたけなわ。御所の庭園は千本桜と謳われるほど、花木の香りがかぐわしかった。


「昨日咲いたのに、もう散っておりますわ。桜の花って、ほんとうに寿命が短いんですのね」


 庭園にあつらえられた茶席には、帝が席順を決めたという公達たちがずらり。陛下の席は真正面の一段高いところにあるらしい。臣たる神官族のざわめきが、ずいぶん下の方から聴こえてきた。

帝の右に座すシガは、悦に入って後ろのクナに囁いてきた。


「しろがね、おまえが献上されたせいで、陛下は太陽神官の席を増やしたわよ。月の神官より、ちょっとだけ席が多いみたい」

 

 陛下の左隣には、皇太后様が座しておられたのだが。


「龍蝶風情が、陛下の隣に座すなんて……」

 

 ぽつりとつぶやいたきり、あとは無言。皇后の位置に座るシガのことを、まったくもって気に入らないようだった。

 臣による剣舞や歌詠みなどが、御前で披露されたのち。クナはシガに連れられて、庭園の池に移動した。日が暮れてからの花見は、舟に乗って楽しむらしい。酒気がしたたかに入った陛下に続いて、クナの手を引くシガが、船に乗り込もうとしたとき。クナは誰かに、とんと肩を叩かれた。


「ねえ君。スミコちゃん、だよね?」


 快活な声。しかし少し、遠慮がち。その声の主は、振り向いたクナの手にそっと何かを握らせた。


「あたし、トウのコハク。車寮の火事のときに会ったんだけど……覚えてないよね。君、意識がなかったもの。太陽神殿から献上された龍蝶が、君だなんて。さっき気づいて、びっくりしたよ」

湖黃殿(こきでん)女御(にょうご)? ちょっと、私のしろがねに話しかけないで」


 シガがぐいと、腕を引っ張ってくる。薬のせいでぼうっとしているクナは、足元がおぼつかず、舟の中に倒れこんだ。

 手に握らされたものは、花のようだ。いい香りがしたが、助け起こしたシガが、めざとく見つけて取り上げた。


「なにこれ? 瑪礤璃(マカリ)の花?」

「かわいらしいな。しろがねの頭につけてやるといい」


 ほろ酔いで機嫌よろしい陛下が命じたので、花は池に捨てられずに済んだ。


(とつ)国では、その花はマーガレットというそうだよ」 


 まかり……マカリ……

 どろどろぼんやりしたクナの頭の中で、その花の名前が何度もこだました。


(マカリ。なんだっけ。とてもだいじな、なまえ……だったような……マカリ。マカリ……)


 ぬるい夜風が、池を吹き抜けていく。

 春とは思えぬ暑い風が、ふわりとひとすじ。池の水で涼やかになった風が頬に当たってきたけれど、クナの眠気は覚めなかった。

 クナはもう、なにも思い出せなかった。

 覚えているのは、首にかかっている小さなお守りのことだけだった。

 クナはしきりに首輪のついた首元を探り、お守りの糸にさわろうとした。


(かあさんの、かたみ。かあさんの、もの。ぬのの、きれはし。かあさん、の……)


 かくしてクナもシガと同じく、すっかり忘れ果ててしまったのだった。

 母のこと以外は、なにもかも。すべて。




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