5話 春夜の占い
ほんのり暖かい夜風が、湖上の舞台をそよと撫でる。春まぢかの宵の吐息は柔らかい。
微風に乗って、妙なる笙の音が流れ始めた。吹いているのは狐目の九十九の方。その左右で、ぴいいとアカシが横笛を。しゃんしゃんとアヤメが銅拍子を合わせていく。
雅びな音色が醸し出されるとほどなく、百臘の方の歌声が加わった。
「天よ。またたきの光よ。われらかしこみ。かしこみ申しあげる」
なんと淀みない声か。団長の向かいで凪の形をとっていたクナは、ほれぼれしながらふわり、ふわり。腕を動かし、足を回して舞い始めた。
神楽を背負う巫女団長と自分の間には、ばちばち燃えるものが在る。
(視える……!)
たちまち降りてきた神霊の気配が、歌う団長の影を見せてくれた。その真ん前で炎を出しているのは、四角いくろがねの燭台だ。中に緑甲蟲の甲羅がくべられている。
「どうか我らに報せたまへ」
影は手に持つ榊で印を結び、甲羅を何度も撫でた。
卜占は古代より継承されし巫女の技のひとつ。蟲の甲羅の焼き目を見て神意を占う。清流に潜む緑甲蟲の甲羅は特に、最高の触媒とされている。希少だが、墓守たちが快く分けてくれたそうだ。
『内殿を手伝う我らへの、ありがたい褒美じゃ。これで聖なる判じものができる。大本衛が伝えてきた情報など、あてにならぬわ。我が君を孤立させ、我らとの通信を妨害しよった機関ぞ? そのようなものがふんぞり返って言うてくることを、どうして信じられよう?』
黒髪様が消息不明――そんな報告を受け取り動揺していた矢先、紅の塊の雨が降った。
ダメ押しの凶兆かとうろたえつつも、巫女たちは信じたくなかったのだ。
『望み通り、黒髪のトリの生死を占うがよい』
タケリ様の命を受け、慌ただしく卜占の場をしつらえたのは、めらめら燃えるアオビたち。その気配が異様に増えているので、クナはとても驚いた。
『ご無事でようございました』『ようございました』『お会いしたかったですっ』
めららわらら、鬼火たちはぐるり取り囲んできて大騒ぎ。おかげでクナはなんとか涙を引っ込めて、笑顔を浮かべることができた。
だが、大好きな黒の塔の皆に声をかけることは叶わない。
帝を操る企みを秘匿するため、タケリ様はクナの声を封じてしまった。沈黙の呪法をかけてきたのだ。思い込まされたと分かっていてもなお、回復できぬほど強力な暗示を。
黒髪様の加護が効くのは、クナの肌にじかに触れたり傷をつけたりする物理的なもののみ。残念ながら、精神に作用する呪法は防げぬらしい。
『かように我は、魅惑の呪法も強制の呪法も使えるのだ。しかしそれで偽りの愛を得るは我の本意ではない。我が望みを強制せぬのは、そなたをまことに愛しているゆえぞ。龍蝶よ、かくもそなたを思う我の願いを聞いてくれ。我と共に、すめらの帝を操るのだ』
(だめ。だめよそんなこと)
奥宮から出るまでにも、タケリ様は再三乞うてきた。クナは首を横に振り続けたけれど、これ以上拒んだら、呪法を使われてしまうかもしれない……。
たすけて――
『どうしたんや』『なにがあったのじゃ?』
血の気の引いた顔で必死に口を動かしたら、巫女たちはただならぬ空気を察してくれた。しかし詳しいことはまだまったく伝えられていない。タケリ様が早く占えと急かしたからだ。
もどかしい思いを抱きつつ、クナはふわり、ふわり。妙なる神楽流れる真ん前で、そよ風となった。星がまたたいているであろう空を仰ぎ。緑葉香る榊もつ手をゆるやかに薙ぎ。春の風に溶けた。
「天よ。あまたの目をもつまたたき様よ。どうか我らにその記憶を教えたまへ」
団長の歌声に合わせ、全身でゆたりと神楽をかきまぜる。タケリ様がまとわせてくれた光の衣がふおおんと歌う。まるで黒髪さまの衣のようだが、その歌声は猛々しい。
美声の人の衣の音は実に繊細で美しかった。しゃららしゃらら、星のかけらが囁いているような音。耳にとても心地よかった。思い出すと、たちまち目が湿ってしまう……。
(もういちど聴きたい。あの音に包まれたい)
クナは切なる願いを何度も、心の中で唱えた。
(黒髪さま。生きていて下さい。お願いです。どうか生きていて)
神楽の調子が速くなる。同調し、足さばきを速めたクナのかかとは、ほとんど地につかなくなった。
「ほう。見事だ」
滝落ちる奥宮の入り口で、黄金の塊――タケリ様がうっとりつぶやく。神霊の気配が視せてくれる龍の姿は影ではない。いっそうまばゆく感じられる光の塊だ。
「黒髪のままなのが残念だが。なんと美しい」
奥宮の滝水では、クナの髪はしろがね色に戻らなかった。百臘さまが染めてくれた黒髪は、特殊な薬品か薬効ある温泉でしか色が落ちないらしい。
黒髪なびかせるそよ風はつむじ風となり、神楽を一気に巻き上げた。神霊あらたかな気配が渦を巻いて立ち昇る。三色が一柱のまたたき様、天の星々へ向かって飛んでゆく。
ふおおんふおおん。
クナがまとう光の衣が唸りをあげる。身がすくむような怖い音だ。でも怯んで止まるわけにはいかない。まだまだもっと昇らねばならない。
回れ。回れ。
神楽が急かす。巫女団長の歌声も、音の階段を軽やかに昇ってゆく。
勢い増す奏音が天に昇りつめたとき。
(届いて……!)
クナは腕を天へ伸ばし、全身全霊をこめて足を踏み切った。またたき様の息吹を掴み取るように。
「おお。花びら散らす花のようだ」
その瞬間、光の衣がぱっと周囲に飛散したのが分かった。同時に、天から何か力あるものが降りてきたのも。炎があがっているところから、ぱきりと音がした――。
(卦が出た……!)
甲羅に落ちたのは星の光。巫女たちの神霊力が天に触れ、その力を引き降ろしたのだ。無数の目を持つ神の力を。
着地したクナは、凪の形を取って停止した。百臘の方が歌を止める。終音奏でる神楽の音とともに、神霊の気配が消え失せてゆく。
クナの〈目〉は再び闇に閉ざされた。春風の中に残るは滝の音と、燭台で燃える聖火の音のみ。巫女団を取り囲むアオビたちは、その身の燃焼音を止めていた。硬直するほど緊張しているようだ。
「結果が出たな」
クナの頬をほのかな熱が撫でた。光り輝くタケリ様が近づき、甲羅を覗き込んだのだろう。その声にはあからさまに喜びが混じっていた。
「真っ二つ。最悪の卦だ」
(そんな……!)
封じられたクナの口から、声にならぬ悲鳴が漏れた。舞台に力なく両手をつくなり、両目からぽろぽろ涙が落ちる。
タケリ様の言葉はまことだったのか。大本衛の情報は、嘘偽りではなかったのか。
哀しくて。希望を砕かれて。もう立ち上がる気力もないと身を伏したとき。
「確かに。甲羅がすっかり割れてしまうは最悪の卦じゃ」
クナの身に、巫女団長の凛とした声が降りかかった。
「なれど。我が君はまことの生者ではありませぬ。すでに一度命を散らし、龍蝶の魔人として生まれ変わったと聞いております。すなわちこの占いの結果は、死者のための卦として見なければなりませぬ」
その声は力強かった。黄金の天照らし様の光のように暖かく、一遍の怯みなく。舞台に朗々と轟いた。
「死者の卦は生者の卦とは正反対。最悪の相は、最高の相となりまする!」
ごおう。
転瞬、龍は荒い鼻息を舞台に吹き付けてきた。いらいらと、勘気をあらわにして。
「屁理屈を! そんな理なぞ聞いたことがないぞ」
「今まで、龍蝶の魔人を占う者がいなかっただけでございましょう」
神と崇められる龍を前にして、百臘の方は怯まなかった。
「我が君はご健在。となれば、我ら黒髪様の巫女団は未亡人ではありませぬ。しろがねはいまだ当家の夫人。人妻なれば、タケリ様に嫁ぐことはできませぬ」
「神の前に人の理なぞいかほどのものか! 黒髪のトリは我にかしこみ、我が欲するものを献上するべきであろう!」
「そうお望みならば、どうか我が君ご本人にお命じくださいませ。我が君へ下知せずしろがねを奪いとるは、まことの神が為すことにあらず。低能な物の怪の所業にございます!」
「物の怪だと?! そなた、この我を愚弄するか!」
百臘さまの言葉は、龍の自尊心を傷つけたのだろう。かかっとまばゆい光が辺りに満ちた。かすかに明暗しか感じ取れないクナの目にすら、その光は強烈でまぶしかった。天照らし様が落ちてきたのかと思うほどに。
「そのような無茶をなさればの話です。むろん、偉大なタケリ様は決して無体はせぬと、我らは信じておりまする」
「おのれ……小賢しいぞ! 黒女!」
――「お、奥様!」「奥様!」「危険です奥様!」「うわわわ!」「皆集まれー!」
光がさらに増したのを見て、アオビたちがめららわらら。主人を守るために飛んできた。燃えるような怒りの熱を和らげるため、涼やかな燐光が巫女たちを取り巻く。
「だがこの娘は龍蝶だ。人間どもの中には置いておけぬ。我が守ってやらねばならぬ!」
「しろがねを守るは、当家奥向きの長たるわらわのつとめ。タケリ様の御手をわずらわせるは、心苦しゅうございます」
「そなたになにができる! この娘は、奥宮に入れて我が守るが最善であろう!」
「ならば。どうか我らも、共に奥宮へお連れ下さい!」
クナの光の衣がぐいと後ろに引っ張られた。
「大丈夫や。もうひとりにはせえへん」
九十九の方がクナの肩にそっと腕を回してくる。まるで母さんのように。
「しろがねさま!」「放しませぬ!」
アカシもアヤメもクナの衣にすがるように取り付いてきた。決して離れぬと言いたげに。
すかさず百臘の方の気配がずいと、クナの前に出た。まばゆい光からかばうように。
「我らは黒髪様のもと、ひとつの家族であるのです。しろがねを連れて行くというなら、どうか我らも! なにとぞお願いいたします!」
「ならぬ! 人間の女を奥宮に入れるなど――」
「もし我らを無下にして拒めば。しろがねはあなた様に対して、どんな思いを抱くことでしょうか」
「ぬううう……」
「ですが偉大なるタケリ様は、実に寛大で慈悲深き神。我らは、そう信じておりまする!」
ダメ押しのように百臘の方が声を張り上げて叫ぶと。
「こ……の……クソ婆ァがぁあああッ!」
怒りの波動が舞台を揺らした。
「聖なる榊を地に打ち捨て我に願いよるか! 星の力を降ろした聖杖なれば、我の息吹を防げように。わざと無防備なものとなりて、願いよるか!」
地をかち割るような長い咆哮。クナの鼓膜は破れたかと思うほど麻痺した。思わず膝をつくその身に、巫女たちが固まってすがりつく。ごうごう轟く龍の声が、一岩となった巫女たちに降りかかった。
「よかろう! 来るが良いわ! 我は偉大なる神! 我より慈悲深き者はおらぬこと、とくと知らしめてやろうぞ!!」
かくしてクナは再び山の中。滝落ちる奥宮へと戻された。しかし今はもうひとりぼっちではない。
「ほんによう耐えたな」
すぐ前に百臘の方がいらっしゃる。
「しかし真っ暗なところやねえ」
九十九の方もすぐ横に。
「奥様方、タケリ様から霊撰をいただきました。清い水も器にたっぷり」
「けっこう広い穴ですね。寝床を整えよと、ふわふわのワタクサもいただきました」
アカシもアヤメも、嬉しいことにみな一緒だ。
後のことは頼むと、巫女たちはアオビたちに内殿の仕事を任せてきた。一番目のアオビだけ家司としてついてこようと粘ったが、さすがにそれは叶わず。思い切り灼熱の光を吐かれて追い払われたので、また分裂したかもしれない。
クナはぼろぼろ涙をこぼし、四人の巫女に感謝した。
「ありがとうございます。一緒に来てくれて、ありがとうございます!」
「声が戻されてなによりじゃな」
「まったく、無体なことをしはるわ」
巫女たちの声を聴くと心安らぐ。恐怖も和らぐ。百臘の方が自分たちは家族だと言ってくれたことが嬉しくてならなかった。そしてなににも勝る僥倖は占いの結果だ。クナは湿る目を拭い、無邪気に喜んだ。
「黒髪さまは、きっと帰ってらっしゃいますよね! ああ、よかった……!」
「それは――」
「そうや。きっと帰ってきはる」
何やら言い淀んだ百臘の方の間に、九十九の方が言葉をかぶせる。クナの肩を撫でながらきっぱりと。
「さて、各部屋に寝床をしつらえたら、みな広間に集合や」
「そうじゃな。これからしろがねから、よくよく話を聞かねば」
巫女団は大きな穴と、そこへ通じる五つの小さな穴、合わせて六つの洞窟を住まいとして与えられた。しかしそれ以外の処への出入りは厳禁。もし一歩でも出れば、容赦なく消し炭にするとタケリ様に脅された。必要なものはみな、タケリ様が与えてくれるという。
家主にしてみれば、人間に聖所をウロウロされるのは至極迷惑なこと。自由がきかぬのはいたしかたない。ここまで連れてきてもらえただけでも恩の字である。
タケリ様はクナを特別扱いしたがった。自室に住まわせたいと望んだのだが、クナはおそるおそる自分の望みを訴えた。
『あたしは、巫女団のみなさまといっしょに住みたいです』
呪法を使われるかと戦々恐々だったものの。自尊心の高い龍は、ゴリ押しはしてこなかった。
『ぬう……我は偉大な神。だれよりも慈悲深き者。ゆえに巫女団の者との同居を許してやろう。黒髪のトリが生きていると信じたいならば、そうすればよい。欲しいものがあれば言え。そなたの望みは、なんでも叶えてやる』
タケリ様の企み。そしてやり取り。クナが洗いざらい話すと、巫女たちは深くため息をつきあった。
「なるほどのう。タケリ様は帝を操りたいと。それゆえにしろがねの協力がほしいと。それゆえに、〈慈悲〉をたくさん垂れることにしたのじゃな。しろがねの機嫌をとるために」
「無理に刻印なるものを剥がそうとしはらへんのも、そのためですやろな」
我が君にどえらいものをつけてもらいましたなと、巫女たちはクナの加護に感嘆しきり。しかしうかつにクナの肌には触れられないと苦笑いした。
「掴むときは服ごしにせねばな。しかしあの龍の企みを知ったからには、我らはもう外へ出してはもらえぬであろう」
「そのつもりで、ここへ連れてきはったと思いますわ。これからあの龍はしろがねだけでなく、うちらも懐柔しようとしはるんちゃいますか?」
九十九の方の懸念は見事に当たった。昼も夜も分からぬ洞窟の中。タケリ様はさっそく、巫女たちのために暗い穴を照らすものを贈ってきた。
小さな下げ灯籠を五つ。その中にはきらめく光の玉。
「きれいです! これを灯りにせよと?」「これは精霊では?」
若いアカシとアヤメは大はしゃぎ。
「龍たちはこの山の中に、世にも珍しい財宝を蓄えているそうじゃが……」
「のっけから奮発してきはりましたな」
上臘さまたちもさすがに息を呑んだ。光の玉は小精霊。鬼火のような人工物ではなく本物の妖精で、ちりちりかわいらしい音を立てる。灯籠を棲み家とし、扉を開けて部屋に放しても逃げずに戻ってきた。
次に届けられたのは、クナがまとっているのと同じ光の薄衣。青や緑、赤や紫。みな声を失うほど、それは色とりどりに輝く美しいものだった。
「なんやえらく美しい」
「竜の息吹を衣にまとわせたものじゃな」
贈り物は次々やって来た。
首飾り。耳飾り。かんざし。腕輪。扇。箱にざくざく入ってきた装身具は、どれも貴石がびっしり。
ぜいたくにも、香木から造られた椅子や卓。ひよこが出てくる金時計。高価なお香に翡翠の香炉。螺鈿の器にしろがねの御手洗台。珍しい稀覯本の数々。それから、お菓子……
「いたれりつくせりじゃな……醍醐だけやあらへん。これは異国の菓子であろ。こんな山盛りにしてきよって」
「トバテのショコラーテ……ファラディアのマロングラッセ……レンディールのオランジュピール……ランジャのナツメヤシまで!? あかん。これは太ってまう」
たった数日かそこらで、穴の住まいはどこぞの宮殿の一室のよう。上臘さまたちはえらく当惑したけれど、アカシとアヤメは大喜びだった。特にクナの次に若いアカシは、お菓子がことのほか好きらしい。
広間の穴に皆で集ってナツメヤシを口にすると、ぽろり。ついつい漏らしてしまった。
「もう一生、ここに住むのもよいかも……」
「これ、何を。タケリ様に絆されてはならぬぞ? 我らは黒髪さまが戻られるまで、しのがねばならぬ」
「奥様、でもあの死人の卦というのは本当はないのでしょう? 奥様がとっさに機転をきかせたのですよね?」
哀しげに声を落とすアカシの言葉に、クナはどきりとした。
(そんな……あの卦の解釈は……うそだったの?!)
「奥様。実は……黒髪様が行方不明になられたときいたとき……私は内心、ホッとしてしまったのです」
「アカシ何を――」
「奥様方は、今上陛下のご命令で黒の塔に嫁ぎました。私達も将来はそうなる予定で、巫女団の一員としてついてまいりました。でも私は、ずっと怖かったのです」
ちりりりと、タケリ様がくれた小精霊が洞窟の中を飛ぶ。なんともかわいらしい音をたてて。アカシの声はその音に消え入りそうだった。
「黒髪様のお姿を見るたび、私は怖くてたまらなくて……いつか、この御方に嫁がねばならないのかと思うと体が震えて……」
「あの……私も同感です。あんなに恐ろしい方はおられません……」
「え? アヤメさん?」
若い巫女たちの言葉にクナは驚き、首をかしげた。
こわい? 黒髪さまが? まさかそんな。あんなに美しい声で、甘くて、優しい人はいないのに。
だが百臘さまもなんと、二人の言葉を否定せず。慰めるように優しく諭した。
「たしかにの。我が君は、幾万もの兵を躊躇なく殺す御方じゃ。しかもあのお姿、すらりと麗しいが御顔は……。じゃがあの方は、我らの働きをちゃんと認めてくださるぞ?」
「顔?」
愛された時触れた人の顔はつるりとしていた。どこにも傷がないように感じたのに。ああ、それよりも。死人の卦なるものは、本当にないのだろうか?
「あの、黒髪様は本当は――」
聞きかけたクナの言葉はしかし。ずん、というすさまじい振動にかき消された。突如、地が揺れたのだ。
巫女たちは悲鳴をあげ、ひとつに固まった。
穴の壁がびきびききしむ。とても立てない……。
巫女たちは体を寄せ合い、すがり合い。守りを固めて揺れをしのいだ。
「何事じゃ!」
「あかん、壁が!」
九十九の方が叫ぶのとほぼ同時に、どどうと穴の壁が崩れた。足元にもびきびき、亀裂が走っているようだ。
慄きながら、さらにぎゅっと固まる巫女たちの耳に――
――「まったく、父上は何を考えている!」
轟く咆哮が飛び込んできた。岩の向こうから、タケリ様のものではない龍の雄叫びが。
「結界岩を崩した! さあ、龍蝶を探せ! 兄弟たちよ!」