3話 夢聴き
星けぶるその晩。突如として、紫明山の山腹から光の柱が立ち昇った。
見た者すべての目を焼いた柱は、星天を貫かんばかり。ふもとの宮処をくるんだ轟きは、州全体にまで広がるかという凄まじさだった。
だれもがタケリ様の雄叫びだと思い、身を縮めた。
神たる龍がなぜそれほどお怒りであられるのか。いやこれは、嘆き悲しんでおられるのか。
どちらともつかぬ咆哮は長く激しく続き、龍生殿では瓦屋根が落ち、石畳に亀裂が入った。
驚いて御山を見上げた者は、真っ赤なかたまりが光の柱に突き上げられ、天河流れる空に霧散していくのを目撃した。くれないの破片が、きらきらぱららと地へ落ちゆくのを。
龍の聖地はそれからひとしきり、赤くて固い雨を浴びた。
「なんじゃこれは!」
「瑪瑙?」
「宝石に見えますなぁ」
灰色衣の墓守たちは降ってきたものを手に拾い上げ、ざわざわ。タケリ様が血の石を降らせたと口々に言い合った。
「なんと不気味な色! おそろしいことが起こる予兆でしょうか?」
「おそろしい!」「おそろしい!」「おそろしい!」
大量の蒼い鬼火が、聖なる舞台であたふた躍る。
その数、十二どころではない。その倍、いや三倍はいる。
「なにごとか!」――「奥様、危のうございます。頭を抱えてしゃがんでください」
百臘の方を、巫女のアカシがはっしと支えた。
ふたりとも腕や頬がちりちり赤い。衣は焦げ臭く、ところどころやけどを負っている。
なにこれしきと百臘の方はアカシの手を払い、アオビたちが赤い石を拾うのを息を呑んで見やった。
聖なる舞台にあらわれた炎の龍は、容赦なく紅蓮の咆哮を吐いてきた。
団長はじめ九十九の方、アヤメ、アカシの四人全員がごくごく軽いやけどで済んだのは、このアオビたちのおかげだ。散らされた十二体が急いで再結集。巫女たちの前に打ち揃い、光の防護壁と化したのである。
「なにやら燃え尽きたもののように見えます」「見えます」「見えます」
「燃えたあとです」「まだ熱いです」「焦げてます」「焦げてます」
龍の息吹に消される瞬間。それぞれが何度も分裂複製を繰り返した結果、生き残ったアオビは三十余り。忙しいのに人手不足のこの聖域において、この事象は怪我の功名といえなくもない。
だが巫女たちの心中は、この上もなくざわついていた。
『あたくしの吐息を真っ向から受け止めるとは見上げたものね。勇敢な鬼火よ、おまえの願いを聞いてやろう。何を望む?』
紅蓮の息吹におののく巫女たちを守りつつ、アオビたちはずらり並んで懇願した。
『しろがねさまに箱をさしあげたかったのです。それと、我らがご主人さまのことを伝えてさしあげたかったのです』『伝えたいのです』『伝えたいのです』
舞台を焼き払った炎の龍は哂っていた。なんとも楽しげに焦げた箱をつまんで、悠々飛び去った。
それゆえ鬼火に守られる巫女たちは、たちまち不安に苛まれたのだった。
いかなタケリ様の庇護のもとにあるとしても。しろがねの娘は無事でいられるだろうか?
一刻も早くタケリ様に訴えねば。娘を返してくれるよう頼まねば。
巫女たちは焦げた舞台でりんりん鈴鉢を鳴らし、歌った。
龍の神を喚ばねばと、えんえん神楽を奏していたのだった。
「これは不吉な予兆か? それとも吉兆か?」
「占わなあきまへんな」
大騒ぎのアオビたちが拾ったものを、巫女たちは戦々恐々、食い入るように眺めた。
けれどそのまっかな石が何であるのか、真実を知りえた者はまだなかった。
それはついさきほど、彼女らを襲ったもののなれのはて。
引き裂かれた巨大な龍の鱗であると、気づくものはいなかった。
まだ、誰ひとりとして。
「あたし……どのぐらい落ちたの?」
声がふわっと響いたので、クナはぶるっと身を震わせた。両手に触れる岩はぬるりとすべる。あたりは急流に囲まれているのか、勢いある水音しか聞こえない。
ずいぶん転げた。落ちて落ちて落ちて。また転げた。
ひどいことに、奥宮の底に落とされてしまった。しかし体は少しも痛くない。手足をさすればつるつるのまま、どこもなにも怪我していない。
クナは震える手で自分の頬に触れてみた。
「どうして……ケガしないの?」
怒りの色は真っ赤。かまどの火と一緒。
かつてクナの母さんはそう教えてくれた。
『怒りを浴びたら、きっと燃えてしまうように感じるよ。おまえはほとんど感じないで済むだろうけどね』
優しい母はそう言ってくれたけれど。
『おまえのことは、あたしが守るから』
その人はすでにこの世になく。クナは怖ろしい怒りを浴びた。
おそらく、この上なく真っ赤であろう炎の嵐を。
ごうごうばりばり、すさまじい勘気の渦。耐え難い熱を受けたのだ。
『熱いです……ゆるしてください、熱いです……』
膝をつき願ったけれど、怒りをぶつけてくるものは容赦なかった。
『どういうこと? なぜ燃えないの?』
『も、もえてます。熱いです』
『はぁ? 何言ってるの? 全然焼けてないじゃないの!』
まさかそんな。驚きの言葉はしかし事実だった。クナの体はどこも無傷。なぜか焼けなかった。
『炎の聖印なんぞが、あたくしの炎を防ぐはずがないのに。ああ、タケリ様がおまえに加護の結界をはりつけたのね? なんてぬかりないこと!」
花龍と名乗った燃え盛るものは苛立ち、ごうごう炎を撒き散らした。 クナを黒い炭にしようと、幾度も幾度も。
しかし――肌をなめる灼熱にクナは悲鳴をあげたが、花龍は歯ぎしりするばかり。
ぶすぶす岩をも溶かすような熱を浴びているのになぜ。周りの岩はそうなっているのになぜと、地を揺らした。
『いまいましい。タケリ様の結界なら、あたくしの解呪ですぐ剥がれるはず。なぜ結界が消えないの? 肌に浮かぶこれは何の文字? この無敵の加護は一体だれがかけたの?!」
花龍はクナを炎の手で引きずり、人間の男たちがたむろする穴に放り込んだ。
焼き殺せないなら、辱めて苦しめようと思ったらしい。
男たちは生贄として捧げられたもの。意識を抑えつけられていたのか、みな無口だった。体から立ち込めるは、強い香の匂い。もしかして見目よい者ばかりだったのかもしれないが、そこのところはわからない。
『清らでない女が奥宮へ入るなんて、許さなくてよ。売女らしく、あたくしの狗に食われるがいいわ』
男たちは主人に命じられるまま、クナの四肢を抑えつけた。
たちまち、クナの胸に在る炎の聖印が燃え上がった。しかし彼らは、聖なる炎をものともしなかった。
炎の龍の狗たちは主人の愛玩に耐えるべく、耐熱の結界を貼られていたからだ。
クナの悲鳴は大きな手で塞がれて。細い足が広げられた。
しかし男の手が足の間に触れたとたん。ばきりばきりと鈍い音がして。
『ぐあああああ!?』
その男は、こっぱみじんに砕けた――。
『こ、粉々に……』『く、黒い渦?』『なんだこの呪いは』
男たちは一斉におののき、クナを放りだした。恐慌をきたし逃げようとするも、ばきりばきり。次々と鈍い音を立て、すさまじい断末魔をあげて砕けていった。
クナの体に触れた者は、残らず。
『まさか所有の刻印?! 黒の呪法だなんて! だれがおまえにこんなものを!』
炎の龍の怒りはさらに燃え上がった。炎がとぐろを巻いてクナを取り囲んだ。
またどこかへ投げられるのか。クナが衝撃を覚悟したそのとき――
『その子を放せ!』
救いの輝きが現れた。あたりに広がったのは心地よい光。
しかしそれもまた、まごうことなく怒りだった。ミカヅチノタケリも、紅蓮の激情をまとっていたのだ。
『あらタケリ様。もう起きたのね。お早いこと』
『花龍よ、我を眠らせ、我の巫女王を害するなど。なんということをする』
『は! あたくしは認めませんわ。この娘はすでにだれかのもの。所有者はあの黒髪の魔人かしら? いまいましい刻印で守られておりましてよ』
『知っている。刻印など、消してやるわ』
光はたちまち炎を駆逐した。タケリ様の怒りはまっすぐで熱くひゅんひゅん唸る。
なれど花龍はほほほと高笑い。その声はひどく不気味だった。
『いいえ、この娘は決して、あなたさまのものになりませんわ。大体にして我らは、龍蝶を捨てたはず。おぞましい甘露にはもう支配されぬと、人とともに生きると、そう誓い合ったはず。あなたさまは、甘露に惑わされているだけよ!』
『黙れ――!』
あたりに雷槌の轟きが満ち。花龍の悲鳴が聴こえると同時に、クナの体はふっとんだ。
タケリ様の咆哮をあびる寸前、炎の龍が苦し紛れに突き飛ばしたのだ。
クナは落ちた。深い深い、亀裂の底に転げ落ちた。
刹那聞こえたのは、悲痛な怒号。ひゅんひゅん光が追ってきたが、クナが落ちる速さはそのぬくもりより速かった。
いやというほどあちこちぶつけた。地に叩きつけられたときは、おそろしい衝撃に一瞬息が止まった。それでも無傷でいるとは……信じられない。
「黒髪さまが……あたしを守ってくれたの? こ、刻印とかいうので……」
クナは寒さにつんとする鼻をすすりあげた。
竜の息吹を防ぎ、人を砕く。そんな怖ろしい刻印をこの身に打ったのは、夫たるあの人しか考えられない。
しかし、いつ?
確たる覚えはない。こわくて体が震えるけれど。好きな人が守ってくれたのだという事実は、クナの目をじわじわ潤ませた。
遠い地で黒髪様が行方が知れなくなったというのは本当だろうか?
クナは花龍が嘘を言ったと思いたかった。自分を苦しめるためにでまかせを言ったのだと。
「会いたい。会いたい……無事でいて。あ……!」
ひたひた手をつき、濡れる岩場を進み始めるも。クナの手はずるると滑り、音立てる水に引き込まれた。
あたりに足場はほとんどない――
そう気づいたときには、おのが体は水の中。みるみる大いなるうねりに捉えられた。
圧倒的な水流の力に抗う術なく、クナはぐるぐる水に揉まれた。
ぐるぐる。ぐるぐる。まるで舞を舞わされるように。
るるるる。らららら。
歌声が聴こえる。
それはきらきらふわふわしたさえずり。
どことなく哀しく、儚い調べ。
『きれいだ』
澄んだ水晶のような美声が漂う。この囁きは、ここにいるはずのない人のもの。
この世で一番好きな声。
夢か現か――自分がどこにいるか分からなくなっていた娘は、その声でこれが夢だと悟った。歌っているのは、なんと自分だということも。
まどろむ娘の瞳は現と同じ。色も形も映さない。娘は耳で夢を聴く。
るるるる。らららら。
意思に関係なく、口が勝手に動いているので、娘はびっくりした。
歌声は小鳥のさえずりのよう。かわいらしくて、今の自分の声とまるきり違う。
『その歌に、歌詞はないんだね』
美しい水晶の声が歌声にかぶさる。
『よい節なのにもったいない』
『あったみたいだけど、古すぎて忘れられちゃったみたい。母さんは、ラララで歌ってた』
『歌詞をつけてみたらどうかな。好きです好きですあなたが好きですとか』
『あは。それ、直球すぎる』
口からつらつら出てくるあどけない声を聴いて、娘は自分より年下の子供の姿を想像した。か細い声量からするに華奢で、ずいぶん小さい子のような気がする。その髪はきっと……しろがね色だろう。
そう、この声の本当の持ち主は――
『直球でいい。愛してると歌ってほしいな、レク』
『面と向かって歌うの、恥ずかしい……』
『ではこれに。君がくれたお守りに向かってどうぞ?』
『赤い糸に?』
『あとで再生する。君の声を聞けば、離れていても寂しくならないだろう』
美声の人の言葉に、かわいらしい声が息を呑む。しばし沈黙してからやっと絞り出された言葉は、凍夜のただなかに放り出されたように震えていた。
『離れるって……ひとりでどこへ?』
『さあ、お守りに歌を入れてくれ。そうしたら私は無敵になれる』
『まさか……ひとりで災厄を止めにいくつもり?』
水晶の声は問いに答えなかった。
『素敵とかっこいいとすごいも唱えてもらうかな』
『だめ! 勝手に行かないで! 一緒に行くって言ったじゃない!』
娘の口から出る声が、びりっとひび割れる。
『災厄の星は、龍蝶の王でないと止められないの。つまりボクが行かないとだめ……他のだれかがどうにかしようったって――』
『私が君に与えた名をだれにも教えないこと。君がしなければならないことは、それだけだ』
ぬくもりが全身を包む。唇にしっとり熱いものがそっと触れる。
娘を腕の中に閉じ込め、口づけてきた人は、うっとりするような甘い声で囁いた。
『大丈夫だよ。心配いらない。たとえどんなに離れていても、君を守る』
『だめ……!』
身を包んでくる腕に力がこめられたと感じたとたん、するりと抱擁が解ける。
ぬくもりが離れていく。
『いかないで!』
「いかないで……いっちゃだめ……! 許さない!!」
クナは自分の叫び声でハッと目を覚ました。
柔らかな感触。水中でないところに体がある。毛皮か、それに似たものが敷かれているところに寝かされている。
誰かに助け出されたのだと悟った瞬間、心地よい光が指先に触れた。
「おはよう。我が巫女王」
タケリ様の光だ。
気づけばクナは横たわったまま、なにもないところに手を差し伸べていた。
頬はしとどに濡れ、瞳から流れるものはまだとめどない。
夢澄んだ声の主が誰なのかすぐにわかった。歌っていた人が誰なのかも。
あの声は糸巻きの中に残っていた。美声の人がかつて愛した、白い女神のものだ。
黒髪さまに会いたい願望が、夢と化したのだろうか?
自分が〈あの子〉になっていたのは、ひそかな望みが具現化したのだろうか。
それとも。
(前世の記憶なの?)
まさかちがうだろう。こんなにはっきり夢で聴こえるものとは思えない……。
「救い出すのが遅れてすまぬ」
暖かいものが近づいてくる。タケリ様のやわらかな光だ。しゅうしゅう、おだやかな音をたてている。
「タケリさま……ありがとうございます」
「怒りに任せて花龍を空に突き上げてしまった。あれしきでは死なぬとは思うが、しばらくは動けぬだろう。山辺に野ざらしにして、頭を冷やさせる」
「でも、花龍さまのおっしゃるとおりです。あたしは清らではありません。巫女王にふさわしくないのでは……」
「下らぬ制限など我は気にせぬ。あいつにとっくり諭すゆえ心配するな。しかし刻印を刻まれていて何よりだった。黒髪と契ったのだな?」
聞かれたことがどういう意味か分からず、クナは戸惑った。ただ頬を熱くして、こくりとうなずくと。タケリ様の光の音はしゅんしゅんと早まり、苛立ちを表した。
「所有の刻印は、交わることで刻まれる呪法。そなたを犯そうとする者は滅ぼされる。本来は呪者以外の者と交われぬようにする呪いだが、黒髪が独自に改良して、完全防御を付随させたのだろう。実に完璧な守りだが……」
光が頬を撫でてくる。心地よいが、実体ではないものが。
「おかげで我は、そなたに触れることが叶わない」
切なくひそめられた声が、解呪は難しかろうと囁いた。
「方法は二つしかない。本人に解かせるか。刻印を刻んだときに使った鍵を探るか」
「鍵……」
「つまり暗号だ。それがわかれば本人と同様、そなたの魂に刻まれた刻印を消せる。しかし割り出すのは難しかろう。おそらく秘められた名か、逆に意味のない言葉であろうから」
秘められた名――その言葉を聞くなり、クナの身は彫像のようにこわばった。
『私が君に与えた名をだれにも教えないこと。君がしなければならないことは、それだけだ』
夢で聴いた言葉がふっと頭に蘇る。
たしかに黒髪様から名前をもらった。出陣式のときに、とても美しい名をいただいた。
『私だけが知る秘密の名前だよ。たとえ炎の聖印が消えても、この名が君を護る。その力を保つため、決してだれにも教えないでくれ』
そう言われて授けられた。まさかあの名前こそが……
(黒髪さまはあたしに、鍵を渡していったの? あたしを守る呪いの鍵を)
だから夢を聴いたのだろうか。
巫女は予知夢や啓示の夢を見ることがあると、百臘さまが仰っていた。まさかあの夢はそれだったのだろうか。
(ほんとうに、あの名前が鍵なの?)
うろたえるクナの肩をするると、タケリ様の光が撫でてくる。
「そなたがほしい。だからなんとかする。この呪い、必ずや消してやろうぞ」
「い、いえ、あたしは黒髪さまの妻です。だから、タケリ様のものにはなれま――」
「あいつはいなくなった。不死身のあれが行方が知れぬようになったということは、敵に捕まり封印でもくらったのだろうよ。おそらくもう、生きてはおらぬ」
「そ……んな!」
光がうねる。しゅんしゅん速い速度で。
顔からみるまに血の気を引かせ、起き上がろうとするも。クナはその光に柔らかく制された。
「我は龍蝶とともに生きたことがある。我ほど、あの種族を知っているものはない。だからそなたをだれよりも幸福にできる」
光は歌いだした。たぶんそれは求愛の歌かなにかだろう。
りんりんりゅうりゅう。
ちりちりしゃらら。
ひとしきり、不思議な響きを辺りに響かせたあと。光は優しい囁きを落とした。
クナの涙をそっと拭うように。
「龍蝶の娘よ。我のものになれ」