2話 花龍
龍生殿は宮処の最北、紫明山のふもとに在る。
紫雲たなびく山は不死山とも呼ばれ、幾千年もの間、龍の棲み家として崇められてきた。瓦屋根ひしめく帝都を悠々見下ろす御姿は、すめらの民にとってなじみ深い美景である。
「山の空気は濃いのう」
白檀の扇をはたはた。春風漂う檜の廊下を、真っ白な衣をまとう神官がすすすと進む。
先導するのは、灰色の衣をまとった墓守。
目録を捧げ持ってつき従うは、白い千早を羽織った金髪の巫女。通称金女、狐目の九十九の方は頭を垂れ、前行くふたりの会話に耳をそばだてた。
「龍どもが住まう奥宮は広く、山全体に広がっておるそうじゃが」
「はい。龍生殿は外殿、内殿、奥宮から成りますが。龍様たちがお住まいの奥宮は、広大なる迷宮。人が立ち入ることはできませぬ」
「行き来できるは、タケリ様が選んだ女王のみとか?」
「はい。我らが入れますのはこの舞台まで」
訪れたる白き者は、足を踏み入れた地を不機嫌そうに睨み回した。
ここは内殿の壮麗なる祭壇の裏手。
はるか前方、しとしとゆるやかな滝が流れ落ちる処に、八角柱の大舞台がある。
「ここで明日、巫女王選出の儀が行われるのか」
「はい。御台と呼ばれます、聖なる龍おろしの場にございます」
滝を背にした舞台は蒼き湖に浮かび、まるで島のよう。長い橋のような廊下が一直線に湖を割り、内殿と舞台を繋いでいる。湖の左右は白霧に隠れ、果てがわからない。
「軍部は、ここで柱国将軍が飼う龍を授かったと聞いたが」
「はい。太陽の巫女王さまが生贄を捧げ、花龍様より龍の子を得ておられました」
「花龍?」
「タケリ様の御名代であられる龍様でございます。さしあげる龍の選定も封印と開封も、すべて花龍様が行っておられました。しかしタケリ様がご復活されて以来、奥宮からとんと姿を見せません」
「代理の任は終わったということか」
一行はしずしず橋廊下を進み、八角形の舞台の奥にある小祭壇に行き着いた。
九十九の方が目録を置くと、白き衣の神官は手を合わせ、深々と祭壇に拝謁した。
墓守が感謝の意を示して神官に会釈する。しかし頭の角度はごくごく浅く。その声はけぶる滝に消えることなく。紫明の空にりんと響いた。
「日参に加え、本日また大層な捧げ物を捧げられるとは、恐縮のいたり。月の大神官トウイさま、感謝申し上げまする!」
――「ふうう、本日もすごい人出であったわ」
内殿の中に与えられた巫女部屋にて、百臘の方はぱたたと白粉顔を手で仰いだ。
白い千早を脱ぎ、黒い部屋着を羽織って脇息にもたれ、ゆったりくつろぎの体である。雅な龍模様の格子窓がかいま見えるのは、紺色の宵空。
「して金女、本日は三色の大神官が特別参拝に来たと?」
「へえ、明日の選出の儀に備えて、月のトウイさま、太陽のヤンロンさま、星のシンイさまが奉納品をどっさりと。墓守どのの偉そうな態度に、みな不機嫌にならはってお帰りでしたわ」
「この神殿は三色のいずれにも属さぬからのう」
「捧げる者と受け取る者。どちらが上位かは歴然」
巫女団長の面前に座す九十九の方は、いまだきっちり白の千早姿。声をひそめて報告しながら、大神官の貌をつらつら思い出した。
月のトウイの渋顔ときたら。せんぶりの茶でも呑んだよう。墓守の態度に鼻白んだか。それとも、帝にコハク姫を差し上げたのを後悔しているのか。
巫女王を輩出せんとする三色の競争は熾烈だ。
地方神殿に動員をかけて神官団を参拝させるかたわら、大神官ら上位神官はほぼ日参。タケリ様に捧げられた金銀の棒は、万に届くかというすさまじい数量である。
本日小祭壇に置かれた目録は、トウイが月神殿の代表として捧げてきたもの。奉納品が数十項目も列記されていて、財宝だけでなく土地の名まであった。
なんとも破格だ。さすがにほかの陣営は、領地まで差し出してきていない。
「月神殿は必死じゃなぁ」
「そら焦りますやろ」
帝都太陽神殿の候補の出自はそうそうたるもの。大神官の娘をはじめ、みな帝の后候補として育てられた、家格第一等の巫女姫ばかりだ。
影の薄い星神殿も、ここは勝負どころと姫を選りに選っている。
しかし帝都月神殿が出してきた巫女王候補五人のうち、有力な神官家の姫はたったひとり。いまさらながら、選りすぐりの月の巫女姫たちが龍の生贄とされたことが効いている。
「タケリ様の復活など、だれも予測しておらなんだ。いまだあの屍龍の中におられたとは知られておらぬようだし」
黒の塔の目前でどさりと落ちた黒い龍の死体と、直後に現れた黄金色の霊体。
あの光景はちまたでは、敵の砲弾に撃ち抜かれた屍龍が命を引き換えにして、父たるタケリ様を喚んだのだとみなされている。
父たる龍は息子の断末魔によって目覚めたのだと。火龍、地龍、屍龍。三頭も子龍を失った父神が、怒りのあまり覚醒したのだと。
「それゆえみな、怒れるタケリ様を鎮めようと大わらわじゃ」
内裏はとりあえず、山のような奉納品をタケリ様に送りつけてきた。
元老院は、タケリ様関連の儀式復活と予算の復活を大急ぎで可決したという。
三色の神殿は、神官や庶民に広く参拝を促している。
青天の霹靂に、すめらの中枢で慌てぬ者は皆無。兆しや予知をした機関はない。
龍生殿は墓地同然ゆえ、すめらの中枢は永らく龍のことには無関心だった。帝も元老院も戦と政に関する神託のみ、三色の巫女王に求めてきた。タケリ様は二度と目覚めないと決めつけていたのだ。
「月神殿が一番、割を食ってはりますわ」
九十九の方は百臘さまに報告した。聖なる舞台で、トウイはずいぶん墓守にぐちていたと。
『我ら外交を司る月神殿、魔導帝国の猛抗議の対処に四苦八苦じゃ。予告なしの神獣行使は軍法違反と突き上げられておる』
『それは大変でございますね、トウイ様』
『紅の髪燃ゆるレヴテルニ帝が、御自ら公式にすめらを非難し、惨状すさまじきハディアット・ジェリの幻像を大陸中に流しよった。おかげで大陸同盟にて、すめらへの制裁動議が出されかけておる。タケリ様には、早急に制御を受けていただかねばならぬ』
『はい。タケリ様をご制御なさる巫女王さまを、一刻も早く。我らもそう望んでおります』
『月の姫はみな、その能力に足る者ばかりじゃ。よろしく頼むぞ――』
トウイは墓守の灰色の衣の袖に金の棒をそろりそろり。
九十九の方は眉ひとつ動かさず、その光景を見守った。龍生殿の墓守を懐柔しようとするお声がけなど、毎日幾度もある。もはや日常茶飯事なのである。
「制御か……」
百臘の方は脇息に置いた肘をきゅっと立て、眉間に皺を寄せた。
タケリ様は地を割り天裂く力を持つ神獣。
自身は神と称しているが、実のところは、いにしえの時代に人の手によって改造された生物兵器である。人造ゆえに、あの怖ろしい力は人によって制御されねばならないものとされている。
しかし。勝手に顕現した龍は今、野放し状態。そのためすめらの中枢は、早急に人の管理下に置かねばならぬと躍起になっているのだった。
「墓守どのによると、龍生殿の巫女王はタケリ様の言葉を人に伝えるだけではない。帝より与えられし大鍵でもって、タケリ様を制御せねばならぬらしい」
「うちもそう聞きましたわ」
タケリ様を操る――絶大な力を支配下に置く巫女王は、帝に絶対の忠誠を誓い、帝や元老院の意向を汲む者でなくてはならない。それゆえ候補の姫たちはすべて、まずそれを宣して帝のお墨付きを得ている。
タケリ様はその中から、選ばねばならぬのだが……
「うちのしろがねを欲しがるとか、勘弁してほしいわ。しかもタケリ様はこのことは外に漏らすなと口止めしてきやるし」
「あの腐れ龍、制御を拒否するつもりやろか」
「こら、タケリ様に向かってそのような」
百臘の方が脇息の上に力なくしなだれる。アカシとアヤメがその脇にずずずと大きなつづらを運んできた。
「しろがねさまのお支度品は、この箱にすべて用意いたしましたが……」
「舞台に持っていけばよいのでしょうか」
「皆でいきまひょ。しろがねをあきらめろと言わなあきまへんわ」
九十九の方がすっと立ち上がる。その語気では乞うというより説教しにいくようではないかと、百臘の方はため息まじりに身を起こした。
「まあ……しろがねは人間たちに認められぬわな。決して……」
夜の帳が降りた八角の舞台は、ますます神秘の色を濃くしていた。
明かりは舞台と橋廊下の際にポツポツ灯もる、たいまつのみ。左右に割れている湖は星空を映して、銀砂のごとくきらめいている。
黒髪様の巫女団四人は、鈴鉢をりんりん鳴らしながら橋廊下を進んだ。金属球を重ねた鈴鉢は、タケリ様を呼び出す音とされているからだ。つづらを載せた台車を引くアオビたちが、巫女行列につき従う。
「明日、あそこに陛下や三色の中枢の方々がいらっしゃるのですね」
アカシが振り返って内殿の軒下を眺めた。
整然と並べられた赤絹の席の中央に、金幕が垂れた御帳台が据えられている。今上陛下がお座りになる席だ。
「我らも墓守の一員として参列できようぞ」
「奥様あの……本日夕刻に大本営よりいただいた報告は本当でしょうか。もしそうなら、私たちは墓守として、ここにずっと身を寄せることに?」
アヤメがほのかに青ざめおずおず口にしたことに、団長はうっと一瞬言葉を詰まらせた。
「……我が君は不死身。我らはこれからも、黒髪様の巫女団で在り続けられるはずじゃ」
「うちもそう信じてますわ。とはいえしろがねにも、今の状況は伝えなあきまへん。あの子きっと、黒髪様のことをひどく気にしていますやろ」
「そうじゃな。知らせたくないが教えねば……うっ?」
眼を憂いの色に沈めた百臘の方は、小祭壇から響いた物音に驚いて言葉を止めた。
ごうごうと燃え盛るような音が滝の向こうから聞こえてくる。
かつて一、二度目のあたりにしたタケリ様顕現の気配とは、明らかに違うものだ。
「黄金の風がさららと流れてくるはずじゃが……なんじゃこれは?」
「様子がおかしいです。みなさまお下がり下さい!」
「「「「「「お下がり下さい!」」」」」
十二個に分裂したアオビが一斉に叫び、巫女たちの前にわらわら躍り出る。
ごう。
ひときわ大きな燃焼音が聞こえた刹那。滝の水が一瞬止まった。
流水で隠されていた大穴があらわになる。そこからずずんと勢いよく、舞台めがけて紅蓮の塊が飛び込んできた。
「さ、下がれ!」「舞台から離れるんや!」
目録が積み重なった小祭壇が木っぱみじんに砕け散る。紅蓮の塊が踏み潰したのだ。
どずんどずんと舞台が振動する。橋廊下まで退避した巫女たちは、息を呑んで出てきたものを見上げた。
『小うるさい鈴ね。何の用かしら?』
タケリ様ではない。真紅のうねりが翼ある巨体を取り巻いている。しかしその姿はみるみる縮まり、なんと薄裳たなびかせる人の姿に変化した。あたりはキンキン異様な音に満ちている。強大な神霊力の気配がどっと降りてきたからだろうか。
「なんという圧力……!」
アオビたちがぶるぶる蒼い炎を震わせている。巫女たちは立っていられず次々膝をついた。
『あなたたちは捧げ物? あたくし、女は食べないのだけど』
「あ、あなたは……?」
『袁家のメイなら、見目うるわしい男子をくれるはず。おまえたちを遣わしたのはどこのだれ?』
「袁家のメイ? そ、それは太陽の巫女王様の尊名では……」
『ん? そうね。そんな肩書きだったかしら、あの娘』
真紅の人影は、ゆらゆら舞台の中央でゆらめきながら、優雅に薄裳を回転させた。
瞬間、真っ赤な炎が飛散し舞台の床に落ちる。そこからぽんぽん小さな火球が花咲くように開き、こうこうと宙に浮き上がった。
「炎の精霊?!」「すさまじい神霊力や……」
いまや真昼のように明るい舞台の上で、真紅一色の女性が妖艶に微笑んでいる。
女性が細長い手を唇に添え、こおっと息を吹くと。
「ひー!」「奥さまー!」「お逃げ下さい―!」「うああああ!」
廊下と舞台の際で盾となって固まっていたアオビたちが、いとも簡単に飛び散った。
『おまえたちは何なの?』
「わ、我らは黒髪さまの巫女団じゃ。タケリ様がおなごを一人、奥宮に連れていった。この箱はその娘に渡さねばならぬものじゃが……」
『ああ、あのちっちゃくて砂糖みたいに甘そうな子? あんな子を連れ帰ってくるなんて、タケリ様には本当に騙されたわ。死んだ黒龍の皮をひっかぶるなんて、なんてことするのかしら。あたくし、ぜんぜん気づかずに外に出してしまって……ほんと恥ずかしいったら』
よろと立ち上がり、百臘の方は真紅の女性を見据えた。
変身術にて人型をとっているが、目の前のものは龍なのだろう。
「まさか……タケリ様の御名代?」
九十九の方のつぶやきに、相手がひくりと反応する。その声はたちまちどすりと低くなり。地響きのごとき異様な轟きを乗せてきた。
『知っているなら礼をとりなさい、赤い瞳の女ども。そうよ、あたくしこそ――』
ごおう。
すさまじい音をたて、舞台から火炎の柱が立ち昇った。夜の闇を裂かんとするように。
滝の音が遠のいた。まだ眠りの中にいるのだろうか。
音が変な風に聞こえる。ごうごう、どうどうがなぜか遠い。耳に真綿でも詰めたようだ……
「いつまで寝ているの?」
腕に熱を感じ、クナはハッとまどろみから覚めた。
感覚がおかしい。腕を掴まれているのにそんな気がしない。これはまるで空気だ。とても熱い……
「起きなさい、メシコとやら」
「あ、あなたは? あたしは、クナとかスミコと呼ばれていて……」
「おまえの呼び名なんてどうでもいいわ」
タケリ様の声ではない。音高く辛辣だが、壁を隔てているようなのは――
(なにかにくるまれているの?)
「あ、熱い。熱いです」
「だからなに?」
腕が痛い。物体ではないものにぐいぐい引っ張られている。
慌てて立ち上がったら、同じ感覚のものでするりと衣を剥がされた。軽い鉄錦がかしゃりかしゃり。地に落ちたその音は、はっきり聞こえてくる。
大きな結界のようなものに囲まれているのか。声はその外から発せられているようだ。
「まっ平らねえ。甘露を出すようだけど、髪が黒いのはなぜ? 染めているの? 首に下げている布袋はなに? 力がありそうなお守りね?」
「こ、これは母さんの形見の……きゃあ!」
後ろから髪を掴まれ、思い切り引っ張られ。クナは後ろにのけぞった。足にも熱いものが巻きつく。やはり物体ではない。とても熱い。これは……
「ほ、ほのお?!」
「いやだ、焼けないわね。白い肌が焦げるのを見たいのに。聖印がついてるせいかしら」
「あ、あの、タケリさまは? あなたはだ……ひっ!」
「おまえは巫女王にまったくふさわしくないわ。処女じゃないのだから。あたくし、匂いでわかるのよ」
腰に熱い炎が巻きついてきた。クナは身をよじったが、どこへ逃げたらよいかもわからない。
巻きが絞られたと思ったら、そのままびゅん――体がすっ飛んだ。
「ほほほ。タケリ様は今、琥珀の褥でお眠りよ。あたくしの呪法で、大いびきをかいてるわ」
声が正常に聞こえてくる。びんびんと、大きく。くるまれていたものから出されたのだと気づいたとき。クナはいやというほど、硬い地べたに叩きつけられた。
「あ……! うう……」
「だから代わりに外に出てやったの。そうしたらおまえに渡せと、女たちから箱をもらったわ」
がららと派手な音がする。目の前に何かが転がってきた。しかしとても焦げ臭い。
手で探れば、箱の中のものはみな焼け焦げていた。おそらく衣装や飾り、そんなものだったのだろう。
まだ熱をもっていて、じりじりと熱い。
「女たちからって……まさか、上ろうさまたちから? こ、こんなに焼けて、無事なんですか? みんなは、無事なんですか?!」
「さあ? よく確認しなかったわね」
甲高い笑い声。全身に当たってくる熱。
クナの鼻先で、熱い何かがぎゅうと凝縮した。熱い熱い、燃え盛るものが。
「そういえばあの女たち、箱と一緒におまえにぜひ伝言を伝えてくれと言っていたわ。
黒髪の柱国将軍は、赤の砂漠に侵入したそうだけど。ぷっつり行方が知れなくなったそうよ」
「え……そ……そん……な」
「ほほほ。黒髪のトリ。あいつはあたくしの子を見殺しにしたんですもの、当然の報いね。きっと敵の将に囚われでもしたのでしょ」
「り、龍が、あなたの……子ども?」
「そうよ。あたくしは龍たちの母。タケリ様の名代にして千年の番。花龍火尊――」
ごう。
炎が燃えた。勝ち誇る嗤いとともに。
「多々羅伊吹!」
「あ……!」
炎の塊が近づく。怒りをまとう熱が、クナを包んだ。
「焼けなさい」
一瞬にして。