1話 龍生殿
ざあざあ、どうどう。大量の水が流れ落ちる音が聞こえる。
落水はすぐ近くにあるのだろう。あたりに立ち込めているのは絹のような細やかな霧。
よろと上半身を起こしたクナは、霧で濡れた頬を手の甲で拭った。
(ここは、どこ?)
驚き半分恐怖半分。くんと嗅いであたりを探れば、しっとりした空気は暖かい。
まだ南国にいるのだろうか? しかし塔から落ちた瞬間受け止めてくれたものは、長いこと空を飛んでいたような気がする。
(すごい光。天照らしさまみたいだった)
まばゆかった。きんきんちりちり、あたりの空気が音を立てて激しく弾けていた。
神楽でおろした魔法の気配がまだ、体にまとわりついていたのだろう。
きらめき燦々。クナはこがねいろの光を全身で感じた。
地へ落ちゆく巫女団の五人は、光にくるりふんわりくるまれた。
心地よい熱。柔らかな感触――。
(神さま。きっとそう。あれは、神さまの手)
あれが本当に手だとすれば、ずいぶん巨大だ。大きなものというと、黒髪様に乗せてもらった鉄の竜や屍龍を思い出すけれど……
(もっともっと大きかった。だって五人も乗っけたんだもの)
巫女たちはしばらく、この光はなんであろうかと首を傾げていた。眩しすぎて何も見えぬと皆うろたえていた。
聞こえてきたのは、何か歌のようなもの。その感覚は屍龍がごうごうわめいていたときと同じ。音が大きすぎて、意味ある言葉かどうか分からなかった。
そうしていつのまにやら皆は光の抱擁に誘われて。うとうとまどろみの中へ誘われた。
クナ。百臘の方。九十九の方。アカシにアヤメ。眠りに沈んだ五人の巫女は、しっかと寄り添いあっていた――はずなのだが。
「いつのまにおろされたの? みんなはどこ? ここは……」
クナは今、独り。寝かされていたところは岩場のようだ。おそるおそる這って手さぐりすれば、勢いある流水で手が濡れた。ほぼ平らな岩の周りを、滝の水が流れていっている。水に引き込まれぬよう慌てて手をひっこめると。
――「はは、大丈夫だ。この奥祭壇の堀は狭いし、ごくごく浅い」
頭上から朗たる声が降ってきた。笑い混じりでなんともおおらかで。水音にかき消されることなく、くっきりはっきり。驚くうちにその声は、今度は真ん前から聞こえてきた。
「無事目覚めてなによりだ。我が巫女王よ」
「ふの……ひめみこ? あの、巫女団のみんなはどこに?」
「心配いらぬ。表の棟にて、皆元気でいる」
目の前にいる人は――人間なのだろうか?
声は上から下へ移動してきたが、岩場にはクナの他に誰か立っている気配はない。
「水の音をけすほど大きい声……あなたは、人じゃない? もっとすごく大きい方?」
「これでもひどく声をひそめて囁いているのだが。我が声はまだそんなに大きいか?」
「はい。でもよくわかりません。なんであたしが巫女王……なんですか?」
その称号は三色の神殿に仕える巫女の最高位。太陽と月、そして星の神殿それぞれにたった一人ずつしかいない。
巫女たちの頂点に在る彼女らは、神と人とを繋ぐ者。神降ろしを行い、神託を人々に伝えるお役目をこなしている。ゆえにその権威は相当なもの。帝と同じく龍蝶の糸で織られた衣をまとい、龍蝶を飼うことが許されているほどだ。
「なぜというに、この我がそなたを選んだからだ」
朗たる声はさらりと答えた。
「我、御神槌ノ哮は三色の神同様、我の言葉を人間たちに伝える巫女を必要とする。すなわち神と人とを繋ぐ神託の巫女、巫女王を囲わねばならぬのだ」
「みっ、ミカヅチノタケリさま?!」
その名をもつものは何者か――クナは修行の際に、百臘さまからとくと講義された。
半世紀前の災厄にて、すめらを守った龍たち。ミカヅチノタケリはその父たる存在、始龍天尊にして帝国の守護神。いにしえの神獣である。
『すめらは大陸同盟の理事国のひとつ。ゆえに魔導帝国同様、太古の神獣を保有し、その力を行使することを特別に認められておる。それがためタケリ様は幾千年もの昔から、幾度もすめらを救ってこられた。しかし半世紀前、大陸が焼かれた災厄の折に、かなりご無理をなされたのじゃ』
タケリ様は巨大な星を単身で受け止め、粉々になった。不死ゆえ死んではいないが、今は龍の聖地で深い眠りについている――クナはそう教えられた。
そのタケリ様が起きている? しかも目の前にいる?
「しんじられない……ほ、ほんとにタケリさま、なんですか?」
「我の姿を視れば、たちどころにわかるぞ」
「でも、あたしは目が……」
「そなたには視えるだろうに。その方法を修行したはずだ」
なるほど魔法の気配を降ろせばよいのか。しかしひとりでできるだろうか?
クナはおずおず祝詞を唱えた。黒髪さまはたった一言であの不可思議な気配を降ろせるが、おのれは――
ぴりぴりり。あたりの空気が緊張する。しかし振動するまでにはいかない。
「はは、戦で使い切った神霊力が、まだ戻っておらぬか」
「いえこれは……あたし、まだニ臘に入ったばかりで、もともと力がないので……」
笑い声。優しくゆたりとした息使いに、クナはかあっと頬を熱くした。
「すみませんっ」
「そなたはだれよりも長く眠っていた。そんなに疲労しきるとは、まだうまく神霊力を使えぬということ。目は菫色のままだし、およそ魔力があるようには見えぬ。だが視覚以外の感覚は鋭かろう。我が声も聞こえすぎるようだし」
「はい、すごく大きい声は、あたしの耳にはひびきすぎてしまうようです」
クナはとすんと両膝を地につけた。
「あの、目のまえからほのかに熱が……あたたかいものを感じます。光っていらっしゃるんですか?」
「そうだな。かなり発光している」
「この光、おぼえがあります。もしやあたしたちを助けてくださったのは……タケリさま?」
「そうだが?」
答えを聞くなり、クナは息を呑みつつもその場に平伏した。
「ああ! 感謝します! ありがとうございます! でも、なぜあたしたちを……?」
「よく知っているからな」
「しってる? あ……! もしかして龍生殿にふうじられたシーロンさんが、タケリさまになにかうったえた……とか?」
「そうだな。それは当たらずとも遠からずだ。そなたを救うは、シーロンの望みであった」
「龍の望みを叶えてくださるなんて、すごい! タケリさまは、本当に神さまなんですね!」
感心してため息をもらせば、またぞろ声をあげて笑われる。気づかぬのかとつぶやかれたが、なにをどう気づいていないのか、クナには皆目分からなかった。
「たしかに我は神。我が目覚めたゆえ、この神殿には人間どもが大挙してやって来ている」
「神殿……」
「さよう。この滝けぶる地こそ龍生殿である。我らは南国の戦地より凱旋したのだ、我が女王よ」
「がいせん……あのいくさに、勝ったんですか?」
「当然だ。神たる我は、なにものにも負けぬ」
優しい声がクナの頬を撫でる。あたかも形を持つものののように。
これは吐息? それとも本物の手? なんと暖かい。まるで眠りに誘われているよう――
しかしクナはまぶたを閉じたくなかった。
「タケリさま、あたしお聞きしたいことがあります。遠征なさった黒髪さまは――」
「表は来客ばかりで騒がしいが、この奥宮には何人も通さぬ。時は静かに過ぎよう。そなたはしばし、ここで休んでいろ」
「あ、あの、黒髪さまは、ごぶじなのでしょうか。もしごぞんじなら、どうか教え……う……」
目の前から発せられる熱が、一瞬カッとひどく熱くなる。とたんクナの頭はくらり。体はふわり。やわらかな感触に包まれた。心地よさに体がほだされたのか、手足から力がすうっと抜けていく。
「タケリさま……?」
「そなたはまだ疲れているのだ。我が腕に包まれて眠るがよい」
あらがえない眠気がクナのまぶたを強引に下ろす。
ことり――頭を落とし、意識を手放した娘の上にそっと囁きが落とされた。
その耳に決して届かないようになってから、ひそやかに。
「婚姻の儀の準備が整うまで、ゆるりとな」
きぃんきぃん。
円い金属の殻を重ねた鈴鉢を、青白い炎をあげる鬼火が激しく鳴らす。
広間の入り口から流れるその音を聴くなり、背に黒髪流す巫女はため息をかみ殺した。
「ひっきりなしじゃな」
「江州、州都太陽神殿御一行様、ご入場ですー」
疲れた様子で告げた鬼火が、ふららと黒髪の主人に近づいてくる。
「奥様、こうたて続けでは対応しきれません。皆様待つことを嫌っております」
「祭壇の入り口に貼り紙でも貼れと申すか? 色別に時間指定させていただきます、太陽神官は午前、月神官は午後、星神官は夜に起こし下さいとでも?」
「そ、そうするのは大変失礼ですけども、激しくそうしたいです」
「ならぬ。きっちり到着順に祭壇に通せ。どの色の、どの位階の訪問団も平等に待っていただく。待ち合いの間にて、華々しき勝ち戦の話を聞かせて時間を稼ぐのじゃ」
「わ、分かりましたっ」
見渡せば、朱。朱。朱。祭壇の広間を埋めゆくのは、太陽神官の朱の衣。まるで炎の海だ。
しかしつい先ほどまで、ここは白一色に染まっていた。その前には、一面青に。
「やれめでたや。守護神さまご復活とはめでたい」
「神託の巫女が選ばれまするなぁ。まあ、帝都神殿から抜擢されるのでしょうが」
「タケリさまにおかれましては、ぜひ太陽神殿の巫女を選んでいただかなくては」
「ですなあ、たっぷり布施をさせていただきますゆえ、何卒」
拝謁にきた神官たちは祭壇前の大鉢に何百本と線香をたて、深々と礼をとる。それからじゃらんじゃらんと大鈴を鳴らして、布施紙を箱へ入れていく。氏名を記した紙に金や銀の棒をくるんだものだ。
『神獣ミカヅチノタケリ様ご復活』
『タケリ様、南の国境線にて、魔導帝国軍を一瞬にして殲滅』
『タケリ様、ハディアット・ジェリの防衛軍を降伏させる――』
大陸公報が流されて以来、帝都の最北端にある竜生殿には、参拝客が引きもきらない。
この内殿には、すめら各地から各色各位の神官団がさみだれ式にやってくる。拝観順路にずらり並ばせ流したいのはやまやまだが、位階合同も混色も禁忌だ。十把一絡げの対応であるとされ、大変な失礼に当たる。
よって神官団をひとつ入れては出し、入れては出し。百臘の方はそんな対応に追われている。
「命を救われた恩。きっちり返さねばのう」
黒の塔を失った黒髪様の巫女団は、それがため龍生殿に身を寄せた。少しでも恩返しをと、内殿の雑務を手伝っているのである。
「黒女さま、お布施箱が満杯ですっ」
「む、アオビそのニか。急いで空の箱と代え、墓守どのに届けよ」
この龍生殿には、三色のどこにも属さない「墓守」と呼ばれる神官が置かれている。しかしその数はたった数十人。そのため巫女団の奉仕活動は、大変ありがたがられているようだ。
「ひゃあ、重い」
鬼火が苦心して祭壇に置いてある大きな箱を台車に載せる。しかし神官たちの波に阻まれ四苦八苦。その間にさらに鬼火がもうひとり、裏から新しい布施箱を抱えて出てきた。
これらは皆もとはひとつ、家司のアオビであったもの。塔が折れた時、アオビは爆撃を受けた衝撃で十二個に分裂してしまった。しかし人手が要る今は、それが実にありがたい。
鈴鉢を鳴らしていたアオビその一が、そろろとまた主人に寄ってくる。
「黒女さま、仰せの通りアオビその七以下六名を待ち合いの間に配置いたしました。時間つぶしの話を喋らせます」
「よくやった。とはいえ、ここはまだましなのであろうな。内殿じゃから、それなりの身分の者しか入ってこれぬ」
「はい。外殿の方はもっとすごいようです。帝都のみならず、すめらのいたるところから民が押し寄せてきておりまして、参道は長蛇の列だとか。墓守たちが悲鳴をあげておりました」
あまたの龍が永劫の眠りについているこの神殿は、墓地も同然。今まで、人などほとんど訪れぬ処であった。しかしいまやすめらのどこもかしこも、タケリ様復活の報で湧いている。竜生殿への参拝客は当分止まないだろう。
「しかし我らを救ってくれたのが、タケリ様であったとは……」
百臘の方は祭壇奥に視線を向けた。奥に鎮座する竜像は、雅びな匂いの煙に燻され、ほとんど見えない。一面金箔を貼られたその龍こそは、始龍天尊の尊名で知られる神獣、ミカヅチノタケリを模したものだ。
この神殿で目覚めた時、あれとそっくりな巨大なものが目の前にいた。
それは声高らに我は始龍であると名乗ってきた。九十九の方がとっさに「まさかあの腐れ龍か」と突っ込まなかったら。百臘の方は、いまだその正体に気づかずにいたであろう。
「よもや我が君が、あの神々しい御方を使役していたとはのう……」
黒髪様のことを考えると胸が痛む。あの方はいまだ遠い西の地にいる――はずだ。
巫女団はタケリ様に願い、なんとか連絡をつけてもらおうとしているのだが、なかなか思うようにいかない。三色の神殿を通さず他国に伝信の中継点を作るのは、かなり難しいことらしい。
「無事であられるとよいが……」
――「墓守の巫女どの、タケリ様の女王選びの儀はいつ、行われると仰ったかな?」
祭壇前にいるがたいの大きな太陽神官が振り返り、大声で問うてくる。百臘の方は、千早の白袖を口に当てながら楚々と答えた。
「はい。三日後の三の月の十五日、早朝より執り行われる予定でございます」
「候補はたくさん出されておるのだな」
「はい、それはもう」
出されたというものではなかった。
タケリ様復活をことほぐ訪問団の皮切りは、各色の帝都神殿特使団。どの陣営もそれぞれ五人以上の巫女王候補を引っさげてきた。
麗しく描かれた肖像画、履歴を記した分厚い巻物。そしてよしなにという暗黙の贈り物、すなわち金銀財宝を山のように。帝都神殿だけではない、州都神殿からも続々、もしよければ……というだめもとの打診が相次いでいる。
九十九の方とアヤメは裏で墓守たちを手伝い、候補の巫女たちの膨大なる情報を整理しているところだ。
「黒女さま」
と、思い出せばのアヤメが裏からトトトと走り寄ってきた。どうしたのかと思いきや、ただならぬ顔で耳打ちしてくる。
「タケリ様からご命令が……。しろがね様のために、巫女選びの儀のお支度をせよと」
「なんじゃと?!」
「ま、舞衣装や嫁入り道具をそろえよと……タケリ様は、どうやらしろがね様を巫女王としてお選びになるつもりのようです」
百臘の方はたちまち眉間に皺を寄せた。
「九十九は……なんと文句を?」
「お聞きにならない方が」
屍龍は異様にしろがねの娘を喰らいたがっていた。だから本体のこの思し召しは自然なことなのかもしれない。しかし人妻を欲しがるのは少々問題である。本来なら、巫女王は清らな娘でなければなれないものだ。
「しろがね自身はなんと?」
「分かりません。起きておられるのかどうかもまったく」
もしかして本人はまだ起こされていないのでは。タケリ様は強引に白い娘を得るつもりなのだろうか。
龍とは、とかく人間とはかけ離れているものだが――
「それともうひとつお知らせが。アオビその十二が、黒髪さまより直々の伝信を受け取りました」
「おお! それは僥倖」
「アオビはこちらの状況をお伝えし、ご帰還を要請いたしましたが……」
若い巫女の声が震える。
「黒髪さまは、撤退なさらぬそうです。タケリ様の復活とハディアット・ジェリでの勝利は、遠く西に在る敵軍までも恐慌に陥らせていると。この機に乗じて、進軍を続けると……」
「なん……じゃと?!」
きぃんきぃん
新たな神官団の入場を告げるべく、鈴鉢が鳴らされた。蒼ざめる百臘の方の胸を、かち割るように――。
黒い大地に白い船が音無く降りる。流線型で黒い獅子紋のついた、なんとも美しい船だ。
動力機関が音をたてぬのは、砂漠で採れる翠鉱を燃やしているからだろう。
胴体から伸ばされた細いタラップが大地につくと、ふわりふわり。そこにほとんどつかぬと見紛うような動きで、真っ赤な髪の少年が地に降り立った。
「こげくさい。溶解温度どれだけ?」
白い長衣の上にまとった真紅の薄絹が、風に吹かれて舞い上がる。
「……咆哮ひとつでこれ?」
胸にきらめく銀のウサギを片手できゅっと握りしめ、赤毛の少年は哀しげに黒い大地を見渡した。
ウサギの目に嵌まる真っ赤な赤鋼玉のように、少年の目は赤い。その片方はまぶたから頬にかけて一本通った刀傷のせいで半分閉じているが、視力は失われていないようだ。
まるで血を吸ったかのようなその両眼に、いびつなものが映る。
巨大な、黒い筒型の残骸。
それは途中からぼっきり折れ。すっかり焼け焦げ。すでに数多の時を経て遺跡化したような風貌をしている――
「守護の塔だな。焦げた……いや、もとより黒かったのかな。どうしてここが、ドラゴンブレスの起点に?」
折れて地に落ちた部分に、大きな時計がついている。文字盤は半ば割れ、針は辰の字のところで止まったままだ。
湿った春風が焼かれた地を吹きぬける。
赤い瞳の少年はじっと前方に目を凝らした。しゅんとかすかにその眼が音を立て、折れた塔のはるか向こうに在るものを映し出す。
ゆらゆら揺らめく蜃気楼のような塊を。
「ハディアット・ジェリ。ここからあそこまで……」
何も生えぬ黒い大地の帯の先には、大きな都がひとつ。
はるか先に在るその都市の真ん中は――
なにもなかった。
分厚い城壁も。そこにあるべき街の中心部も。黒い大地の幅の分だけ、すっきりと。
「ミカヅチノタケリ……なんて力だ」
赤毛の少年はしばし無残な光景を見つめていた。
都を真っ二つした黒い帯は、さらに地の果てまで続いていた。
死んだ都を越えてまだまだ果てしなく、どこまでも。
どこまでも――