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21話 誓約

 ごおうごう。これは、炎の音?

 いまだ熱波に囲まれ舐められているのか。いまだ四方八方真っ赤なのか。

 凄まじい音が降っている。

 

(炎、よね?)

 

 娘は首を傾げた。こんなにものすごい音がしているのだから、辺り一面まだ火の海のはず。

 なのになぜか少しも熱くない。

 鬼火のことを心配しながら無我夢中で舞っていたら、ひどい衝撃を何回か受けた。爆発して飛び散った車のかけらが当たったのかもしれない。最後のが特にきつかった。体が砕けたかと錯覚するぐらい、何かおそろしいものがぶち当たってきたのだ。力尽きてもうだめだと、ふうっと気が遠くなった。そう、倒れた――はずだ。

 

(あたしをめざめさせたのは……なに?)


 新たな衝撃? それとも、この轟音?


「スミコさまああ!」


 ああ、起こしてくれたのはこの声か。鬼火は願い通りに回復してくれたのだ。しかし熱くない炎の音が、悲鳴まじりの声を半ば消している。

 しかも……


「スミコ! スミコを返しやこの……!!」

「団長はん、下がりや! こらあかん!」


(奥様たちだ! あたしを助けにきてくださったの?!)


 娘はたちまち自責の念にかられた。予期せぬこととはいえ、お二人をこんな危険なところに来させるなんて。


「に、逃げてくださいっ! ここあぶないです!」


 あわてて舞おうと腕を動かすと、衣の袖がほろっと崩れ落ちた。すっかり焼け焦げているようだ。

 車寮の爆発の炎はかくも凄まじい。手足はまだ動くようだが、火傷したのかヒリヒリする。

 

(あら? なにこれ、やわらかい?)


 突然娘は全身を何かにくるまれた。それはほんのり暖かく。じっとり湿っぽく。ずるずるびちびち、中で何かが蠢く気配がしている。鼻孔の奥を、泥臭い匂いが突いてくる。

 

(このにおい……!)


 たちまち娘は悟った。この湿り気は。土臭い香りは――


「しっ……シーロン、さんっ?!」

 

 では、このごうごう猛る音は炎が燃えさかる音ではなく。


「シーロンさんの声? きゃあっ!」


 娘は弾力あるものにさらに締め付けられた。この感覚はまるで、大きな手に握りしめられているよう。ずがんずがんと速い振動音が響いてくる。龍は地を蹴って移動しているらしい。

 さらなる怒号と悲鳴が、あっという間に背後のものになる。鬼火が早口で何かわめくのも。九十九(つくも)さまが百臘さまを守ろうと、下がれと叫んでいるのも。

 ジャリジャリ何かを引きずっているような音だけ、遠ざかっていかない。龍の体にひっついているようだ。たぶん長くて金属製。これは……

 

――「鎖を引きちぎって来たのか! おまえ龍舎に入れられてた龍か? それにしてもどろっどろだな!」


 聞いたことのない声が追いすがってきた。ずいぶんと快活で張りがある。


「御所の西手に来るなど命知らずな! おい待て! くそっ、神霊力を使い切ってなけりゃ止められるのに! はりきって全力出さなければよかった。逃げるなこら!」


 少年のごとき声がみるみる遠のく。


「その子を離せ――!」


 屍龍の咆哮は絶え間なし。きっと怒鳴り散らしているのだろうが、耳がよすぎる娘には何を言っているのか分からない。

 地を踏み抜き走る衝撃が止む。ずんと伝わる踏切りの振動。龍は飛び始めたようだ。


「シーロンさん、おろして!」

「チッ! 丸焼キ二ナッテネエ!」

 

 やっとこ、龍は娘に聞こえる声を放ってきた。


「た、助けてくれたんですね? そうですよね? ありが――」

「ケシカラン奴ガオマエヲ焼イテ食オウトシタノヲ、阻止シタマデダ! 他ノ奴二クレテヤルモノカヨ! オマエヲ食ベルノハ、コノ――」


 咆哮。いや、怒号か。鼓膜が破れそうだ。

 

「きこえないです! ぜんぜん、きこえないです!」


 アア?! としゃくりあげるように返事を返す龍に、娘はどうか静かに喋ってくれと願った。どうか奥様たちのもとに戻してくれとも。陛下の御前で舞わねばならぬことも。ふと浮かんだ疑問も、必死にまくし立てた。


「でもどうして? あたしが火事にまきこまれてることが、なぜわかったんですか? 龍舎ってずいぶんとおくにあるんでしょ?」


 分からいでかと、龍はたちまち上機嫌。


「愛ノチカラダロ!」

「はぁ?!」

「オマエノ甘イ匂イハ、千里先カラデモ分カル。ソレニ愛ノ証ヲオマエに引ッ付ケテルカラナァ」

「愛の、あかし? なんですかそれっ!」

「クククク。サスガノ主人モ気ヅイテナイヨウダガ――」


 しかし悦に入った龍の声はぶっつり途切れた。何かがびきびき貫かれる音と共に、ぐはっと大きく息を吐く。なんといきなり地上から攻撃を受け、翼をやられたらしい。穴を開けられたのだろう、空気をはらめずたちまち失速している。


「ウガァ! 射光銃デ射抜イテ来ルトカ! 容赦ナサスギダロ!」


 落ちる――娘はぎりぎり両手を動かし、耳をふさいで身を固めた。どうんと激しい衝撃が、柔らかい肉質を通じて響いてくる。地面に叩きつけられたのだろうが、しかし龍は娘を放さなかった。ずるると前進するも数歩のところでぐうっと止まる。


「チクショウ俺ノダ!」

 

 障害物。龍を落とした者がすぐ近くにいる。おそらく目の前に。

 頬にその気配を感じて、娘は身震いした。

 なんと鋭い殺気だろう。千の刃のごとき波動が刺してくる。いや、気配だけではない。


「グハ! グオ! ウガァ!」


 龍の翼に穴をあけたものがいくつも飛んできて、龍の体にぶすぶす穴を開けた。

 冷酷な射手は御所の衛兵たち――赤い鬼火ではなかった。雪舞う空気に吐かれる息遣いはたった一人分。そのだれかは唯独り、龍の前に立ちはだかっている。

 

「オ、俺ノダ!!」


 その怖ろしい気配に向かって龍が叫ぶ。ぜえぜえと息を乱しながら。しかし娘が聞き取れるほどの声ということは、まったく威勢のよいものではないのだろう。龍は明らかに相手を恐れていた。恐怖を覚えて震えていた。


「オマエノジャネエ!!」   

「なんということをしてくれた」


 責めてくる射手の声に、クナもたちまち身が縮んだ。

 龍と自分。ふたりの身を貫いたのは、怒りの色を潜めた美しい声音。

 

「龍舎は全壊。挙句の果てに、西手に押し入るとは!」


(ちゅ……柱国さま!)


 なんとも不思議だ。声はこわいのにもっと聞きたいと思ってしまう……。

 龍の咆哮は御所中を震わせたのだろう。飼い主は瞬時に気づき、急いで捕まえにきたのだ。


「カア! モウ一歩コッチ二入ッテ来ヤガレ! ソウスリャオマエモ、越境大罪人ダァ!」


 ガボガボ濁った声で龍が叫ぶ。もはや苦し紛れの体で。

 

「火事の鎮火に集まった巫女団を狙うとは、なんと卑しいことを。呆れ果てたぞ腐れ龍。今朝方、餌をくれてやっただろうに」

「ハ! 聖別サレタ兎ナンザ、子供騙シヨ! 俺ガ食イタイノハ――」


 龍が思い切り主人に瘴気を吐き出した気配と。


「グギャ?! 手ガ! 手ガアアアア!」


 それを難なくかわし、主人が瞬時に龍の手を斬り落とした気配が伝わってきた。クナをくるむ肉質の柔らかいものがぱっと離れる。

 

「な……君なのか?!」


 刹那、美声の人は驚き叫んで走ってきた。ついさっきまでしごく冷静、規則正しかった息はどこへやら。龍が握っていたのが誰なのか気づいて、一目散に近づいてくる。


「だ、だめ! きちゃだめ! ここ、西手なんでしょ!?」


 クナの制止虚しく。美声の人はあっという間にクナを抱きしめてきた。


(うそ。こんなにあたしが大事? こんなに?)


 そう思ったのもつかの間――

 

「無事かレク! 私のレクリアル!!」

「あ……」

 

 できれば聞きたくない、美しい名前が降ってきた。焼けて焦げ臭い娘の頭上から、無情にも。


「レク……! なぜここに? ああ、会いたかった! 君に会いたかった……!」



  


「……というわけでご主人さまは皇極門、すなわち刑部省庁舎にて、大理卿の尋問を受けることとなられました」


 きんと凍った茜色の朝焼けきらめく空気の中。めらめら蒼い光を放ちながら、鬼火が雪の積もる庭先でゆらめく。


「刑部は軍部と同じ太陽神殿の管轄ですので、我が君は情状酌量される余地があるかと存じます。しかし龍舎を壊した屍龍は、捕縛後ただちに竜生殿へ送られました」

「竜生殿じゃと? 神獣タケリさまから龍を生み出す、あの聖地へ?」

「はい。あの龍は永久封印される見通しです」

「なんと……」


 冷え込む屋内にかかる御簾向こうから、長い黒髪垂らす百(ろう)さまがずいと出てこられた。

 その目の下にはうっすら、くまがある。

 さても大変な一夜であった。

 龍に連れ去られた娘は、龍の飼い主に救い出された。斬られてのたうつ龍は御所の衛兵たちに引き渡され、いまや鎖でがちがちに固められている。

 柱国さまは夜が明けぬうちに、娘を連れて御所から下がった。龍が龍舎をこわして西手に越境した責任を取り、ただちにご領地にて蟄居するとの思し召しである。

 アオビ経由でもたらされたその伝信には、巫女団への指示も添えられていた。

 ただちに黒の塔へ戻るようにとのことだったが、百(ろう)の方はその思し召しを即座に拒否する伝信を返した。


『黒の塔の巫女団は、帝に叛意なきことを示すべく、御所にとどまります。竜蝶の娘を勝手に連れてきた罪を、どうかつぐなわせてくださいませ』


 みずから帝の人質になる覚悟を示した伝信は、受理された。

 そうして明けた日の昼過ぎ。はやくも上から、御沙汰がくだされたのだった。

 

「刑部の長官たる大理卿自らが、我が君をご尋問? 下の官に任せぬとは、形ばかりのものか。すでに沙汰の内容は勅令にて決まっておるということじゃな。しかし刑部預かりにされるとは、なんと不名誉このうえない……」


 御所内にて臣が犯した不祥事は、今上陛下の裁断を仰ぐこととされている。陛下の下知で即刻首を落とされても不思議ではないし、寵愛が深ければ逆に沙汰なしもありうる。

 司法を司る刑部預かりにされたということは、陛下の心象を相当に悪からしめたと判じて間違いない。つまり最悪、囚獄(ひとや)に投獄される可能性もある。

 黒髪の柱国さまは、粛々と大理卿の下知に従わねならねばならぬ……のだが。


「ご主人さまにおかれましては、越境はなかった(・・・・)とご主張されておられます。ですので追及されるは、龍の管理不行き届きの件のみ。そして蟄居の続行を臨まれ、大理卿のご招聘に、代理を立てられました」


 ふるふると緊張著しい様子で、鬼火は言葉を連ねた。


「不肖このアオビが代理役を仰せつかりました。人身の写し身をまといて沙汰を聞きに行けとの思し召しです」

「スミコは元気なのか?」

「はい。ご安心くださいませ。龍がさらったのはわが巫女団付きの使い女。蟄居のついでにご領地に戻すというたてまえになっております」


 百(ろう)さまはホッと肩を落とした。陛下より直々の処分とならなんだは、寵愛が薄れたゆえ。柱国さまは心象を少しでも良くするべく、自ら御所から下がり、蟄居なさったのだろう。

 これに加えて巫女団を人質として御所に置くことは、最善の一手。百(ろう)の方が考えられうる最大の援護だった。


(お役目、みごと果たしてみせようぞ)


 しかし刑部は、西手車寮の放火犯を挙げねばならぬ。炎に惹かれて飛び込んできた虫やその主人が、その捜査の犠牲にならねばよいのだが……。

 雪がちらつく。夜にはまたこんこん降り出し、さらに積もるのであろうか。

 本日一の月の八日は女叙位、すなわち後宮づとめの女性たちの、今年一年の官位が公表される。昇進する者、辞職せよと命じられる者の他、後宮へ新しく入る婦人の名と官位も披露されるのだ。

 そのあと、のべ一週間に及ぶ大祈祷、護国のための御斎会(ごさいえ)が始まる……


「晒しもんにならずに済みましたな」


 御簾の向こうに戻った百(ろう)さまは、琵琶の弦をいじる九十九(つくも)さまにホッと息をつかれた。


「アオビの報告、聞こえてましたで。うちら黒髪の柱国さまの巫女団は、こたびのご祈祷への参加は遠慮せよ……妥当な思し召しですやんか」

「我が君が心配じゃ。屍龍は金星をあげた龍ぞ? なのに永久封印、我が君の沙汰は刑部預かりにされるなど……」


 固い貌でつぶやく巫女団長に、九十九(つくも)さまは仕方ありまへんわと肩をすくめた。


「いまや陛下は飼うてる龍蝶によって、月神殿の傀儡(くぐつ)のようになってはります。昨夜の月の舞姫。車寮鎮火のご活躍、陛下より絶賛されてはるようですわ」

「あれこそ、あやしいものじゃわ!」


 不機嫌に畳台の上に座った百臘さまは、広げた扇を台のへりにばんばんと叩きつけた。恐る恐るアオビが告げてきた言葉の、なんと腹立たしいことか。


『ご養女ということで、コハク姫は更衣(こうい)の位で後宮入りするはずでしたが。こたびの鎮火の功労により陛下の覚えめでたく、さらに高位の女御(にょうご)の位にて輿入れとなることが、急遽決まりまして……本日の叙位にてその旨が宣じられます』 

 

 西手のどこに泊まっているか知らぬが、コハク姫の巫女団はどこよりもいち早く現場に駆けつけていた。他の巫女団が様子見の者を出してきたときにはすでに、火は鎮められていたほどの対処の早さである。

 あの迅速さ、あらかじめあそこで火の手があがると知っていたのではあるまいか。

 こたびの車寮爆破の黒幕は、もしや月神殿なのではあるまいか。

 疑心暗鬼が闇夜のように昏く広がる――

 

「まあ、スミコが無事というのがもっけの幸いですやろ。我が君はよくぞうちらに、罪滅ぼしの機会をくだはりましたな」


 九十九(つくも)の方はくすりと苦笑なさり、手入れした琵琶を螺鈿の箱にそっとしまった。


「まったくじゃ。我ら巫女団、身命を賭して、我が君のお立場の向上に務めようぞ」


 ぱたと扇を止め、百(ろう)さまは凛と背筋を伸ばした。おのれを奮い立たせるように。そうして巫女団長は昏い疑念に浸かる心を、覚悟で固めた。決して、我が君に容疑をかけられてはならぬと。

 




 ここは帝都よりだいぶ南なのだろう。雪は積もっていなさそうだし、鼻を通る空気が心もち暖かい。

 目を覚ましたクナは起き上がらずに毛布をひしと掴み、頭からすっぽりかぶった。身を横たえていた長椅子にそのまま身を縮める。

 柱国さまは陛下より下されたご領地をいくつか持っていらっしゃる。ここはそのひとつだ。昨晩御所で助けられたとき、天の浮き島に行こうと誘われた。だがクナは泣きじゃくって拒否したのだった。

 

『いや! ぜったいいや! 行きたくない!!』


 敬語も礼儀もふっ飛ばして、涙をぼろぼろ。ひどくもがいて、抱きしめてくる人を思い切り罵倒した。


『はなしてバカ!! あたし、あの子じゃない!!』


 それでようやく美声の人は、おのれが娘をなんと呼んだか気づいたらしい。すまぬとひとこと謝ってきはしたが。


『でも君は忘れているだけだ。私にはひと目で分かる。髪を染めていようが目の色を変えていようが、君はレクだ』


 まったく悪びれずに断定するので、娘はますます胸を痛くした。だからついに言ってしまった……。

 

『そう思いたいだけでしょ! あたしが、あの子の生まれ変わりとか、そんなもんだって! でもちがうっ。ぜったいちがうから!』

『いや、まちがいない。しかし嬉しいな…‥すぐにでも、君のところに帰りたかったんだ。髪を染めてまで、私に会いに来てくれるとは』

『ち、ちがうわ! そんなんじゃない!!』


 御所に来たことを激怒されるかと思ったら、まったくそんなことはなく。うっとり囁かれて娘は腹が立った。涙があとからあとから出てきて、しばらく止まらなかった。

 一晩過ぎた今も、じわじわまぶたが湿ってくる。

 菫色の瞳を見たいと言われ、赤い眼膜は即座に取られてしまった。

 髪も薬湯ですぐに色を落とすからと湯を用意されたものの、娘は断固拒否。


『いや! ぜったいこの色、おとしたくない!』

『ああ、私の髪の色だからか。おそろい――』

『ちがううううう!!』


 胸が痛すぎて、とにかく相手が喜ぶことをさせたくなかった。

 だから一緒に眠りたくないと叫んで、主人の部屋から逃げだした。すると大勢の使い女たちが後ろからわらわら、長蛇の列。いったいどれだけの足音が鳴ったのか、すごい人数の女たちが、とりあえずこの室にと案内してくれた。

 柱国さまはいつのまに入ってきたのだろう。朝になった今――そこにいらっしゃる。部屋の隅にその気配がある。

 

「今少し、後悔している」


 毛布ごしでも透きとおる美声。冷たい手の感触が、毛布を被った頭に降りてくる。娘に触れるために、あの橙煌石を身に着けているのだろう。

 

「死んでも記憶を失わぬようにする方法がある。それを行使すればよかったかもしれない。だがその方法は怖ろしい呪いを伴うから、躊躇したんだ。だって、そんなことしなくとも、ひと目で分かるし……」

「あたしは、わかんない!」

「君も、私のことが分かると信じていた」 

「わかんないから別人よ!」


 冷たい手がさりげなく毛布を外そうとしてくるので、クナはますます意固地になって身を縮め、毛布を堅持した。

 

「夢を送っていいだろうか? たぶんそれで少しは思い出すから――」

「いや!!」


 それで何も思い出さなかったら。それこそ別人だと確定したら……。

 だめだ。また涙が出てきた。どうしてこんなにぼろぼろとめどなく?

 娘は痛む胸の内から、湿った言葉を吐き出した。


「わかんない。わかんない……! どうしてあたし、自分があの子だったらいいなって思うの?! あの子のこと、だいきらいなのに!」

「田舎娘……」 


 毛布を取ろうとする手がひたりと止まった。なぜか嬉しげな吐息と共に。

 

「もしかして君は、私のことが好きなのか? 何も思い出さなくとも?」

「す……き?」 

「前世のことはかけらも覚えていないのに。泣きじゃくるほど私を?」

「え……ち! ちがっ……!」


 好き? この人が?

 呆然とした娘の手から力が抜けた。嘘だと思って思わず身を起こすと、するりと毛布が落ちる。


「もし記憶がなかったら、私もこんなふうになるんだろうな……ああ、それなら信じてくれるのか? 記憶を失っても君を好きになったら。この愛は本物だと」


 濡れた頬を冷たい指が撫でてきたと思ったら。すぐにしっとりしたものが触れてきた。唇だと気づいて身を固くする娘の耳元で、微かに笑いの混じった妙なる美声がりんりん響く。


「消していいよ」

「え……」

「あの子との記憶を封じてもいい。それで君が安心するのなら。私だけ覚えているのは、たしかにずるいものな」


 その言葉には、躊躇も迷いも全くなかった。

  

「だができれば本願を果たしてからそうしたい。あの子を殺した奴にどうしても復讐したいんだ。それまで、待ってくれるかな?」

「あ、あの……」

「そんなには待たせない。君が願いをかけてくれたこの赤い糸にかけて、誓う」


 美声の人はあの糸巻きを出し、うろたえる娘にそっと触れさせた。まるで厳かな儀式を行うように。


「あの子との記憶だけでなく。たとえ今の記憶をすっかり失っても、私は君を愛する」

「そんなこと、でき――」

「できないことは誓わぬ。この声が私を導くだろう」


 美声の人が糸巻きから糸を引き出すや。糸はふるふると振動して声を再生した。おずおずとした、だがびっくりするほど澄んだ声を。



――どうかぶじに……かえってきて、ください――

  


「ひっ」 

「毎日この声を聴いていたよ。何度も何度も」


 あわあわして頬を染める娘に、美声の人はくすくすと笑いを落とした。甘い囁きと一緒に。


「愛している、田舎娘」


 

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