17話 一臘の巫女(いちろうのみこ)
外は雪じゃと、正奥さまが静かに仰った。
呼ばれて出向いた松の間の床は、氷のよう。正座するクナの足を、じんわり冷やす。今日は一段と冷え込みが厳しい……。
「さても、我が君がここにお戻りになられるのは、年明けになるのう。一の月の末ごろじゃろうな」
正奥様が残念そうにごちながら、火鉢にさくさく。火箸を刺していらっしゃる。
(おかえりは、ひとつきもさき……)
クナは、ぎゅっと痛む胸に手を当てた。
十二の月半ば。独りの夜は、指折り数えて三夜を過ぎた。
家の司が受け取った伝信によると、柱国さまは内裏のお隣の官殿にお泊りだという。
新年の行事が終わるまで伺候せよ――陛下は、そうお命じになられたそうだ。
『かがみさん、ちゅうこくさまは、りゅうちょうのことをなにかいってませんでしたか?』
クナはすがるような思いで仙人鏡に聞いたのだが。
『ええはい。陛下の竜蝶は田舎娘より若いが、可憐さも美しさもはるかに及ばぬと、ぶつぶつ』
『はい?!』
『なんかひとしきり、のろけていらっしゃったような』
『え。あの、ほんとにそれ、そういってたんですか? いえあの! ほかになにか』
『いえ、これといって竜蝶さまのことはなにも……』
なぜ頬が火照ってしまったのか。もっと詳しい情報をくれたらよいのにと、憤るべきだったのに。
最近クナは、自分はものすごく変だと感じる。
どうか無事に――
遠慮しながら糸巻きに願ったことを、なぜか真剣に願うようになってきているのだ。祈りの言葉にして、そっと唱えてしまうほどに。
(あたし、ちゅうこくさまにあいたい……?)
問えばこくりと、自分の中にいるもうひとりの自分がうなずく。
(うん。あいたい……)
柱国さまが帝のそばに留め置かれているのは、戦で金星をとって、おぼえめでたくなったから。
クナはそう思ったのだが、ことはそう単純ではなかった。
クナを部屋に呼んだ百臘の正奥さまがおっしゃるには、柱国さまは、先月内裏で行われた新嘗祭への出席をすっぽかしたそうだ。こたびの招聘は、そのお咎めであるという。
「新嘗祭は、その年の作物の収穫を祝う行事。帝宮においては、新年の行事の次に重要とされる大祭じゃ。今上陛下が、献上された初穂を祭壇に捧げて神々に感謝し、次の年の五穀豊穣をご祈願なさる」
御所には、やんごとなき名士や元老院議員が軒並み呼ばれる。儀式の重要度もさることながら、帝の招きを断るなど、本来決して許されるものではない。
「我が君は病み中だと、仮病をかましたようじゃがの。本当は違う、陛下のお呼びを無視して龍蝶を愛でていると、キキョウをはじめとする使い女らが、外に漏らしたのじゃ。それを知った陛下や太陽神官どもに、えらく突っつかれたらしいわ」
密告されたことは、まったく申し開きのできない事実だ。そのころ柱国さまは、クナと天の浮島にこもっておられた。
しかし美声の人は慇懃厚顔にも、事実無根としらを切り通したらしい。
いったいどこでおのれが龍蝶を手に入れられよう?
我がもとへ来たりしは月神殿の大神官の娘、トウのマカリ姫のみ。
その姫は、すでに龍の餌と成り果てた――
「我が君は堂々と、そう主張なさったそうじゃ。それでこたびはあの月神殿が、柱国さまをかばってくれたらしい」
月神殿が八人の巫女姫を龍に捧げたのは、勅命によるもの。その思し召しを違えたことが発覚すれば、月神殿は反逆の罪に問われてしまう。
マカリ姫が生きのびていることは黙っておいてやる――柱国さまは陛下のおそばに侍る月の大神官トウイに、無言の脅しをかけて助力を得たらしい。
「しろがね。我が君が姫の身代わりを秘し、そなたを陛下に献上しなんだは、月神殿にとっては破格の幸運。我が君は先方に、多大な恩を売ったのじゃ」
とはいえ。太陽神殿が黒髪の柱国さまと仲違いすることは、月神殿にとって願ってもないこと。それがために、こぞって口添えしたという下心もあるだろう……
正奥様はかくおっしゃり、ため息をつかれた。
「さてこちらの状況じゃが。今朝もひとり、使い女が里へ帰ったぞ」
柱国さまのご様子を密告したのは、自害したキキョウのほか、いったいだれであったのか。正奥さまは、五人の侍女たちにおのが身を省みる時間を与えた。
キキョウの喪が明けたら、厳しい追及を行う。もしそれで諸々のことが発覚すれば断罪する。猶予のあるうちにおのれの進退を決めよと。
「わらわの三番目の侍女じゃ。昨夜ここから下がらせてくださいと言うてきたゆえ、長持ちにたっぷり金子と衣を入れて、送り出したわ」
さくり。燃える灰が寂寥こもる音をだす。これで去ったのは三人。残る侍女はあと二人だ。
「わらわは、去る者らの命を見逃してやった。恩を着せたゆえ、今後あれらが真の主人たちに何か聞かれても、わらわたちの立場を悪くするようなことは決して言うまい。しかしまあ、なんという貌じゃ? おのれのせいで、とでも思っておるな?」
「とうぜんです。だってあたしのせいで、みこだんが……めちゃくちゃです」
黒の塔の巫女団は今、機能していない。塔を守る者は日々減っていき、自害したキキョウの主人であられた九十九さまは、自主的に謹慎なさっている。クナは自責の念に押しつぶされそうだった。
「ふん。悪いのは、そなたを勝手に争いの道具にした者どもじゃ。そなたは堂々としやれ」
そんなことを言われても。眉を下げるクナに、正奥さまはサバサバと仰った。そなたの悩みになどかまっておれぬと言いたげに。
「まあなんじゃ、舞うものが軒並み去ったゆえ、その補充はしたいところじゃの。しかし、わらわたちのつてを使えばまたぞろ、嫌な息のかかった娘たちが、送られてきそうじゃわ」
塔に聖結界をはるには最低三人要るそうだ。
歌うもの、奏でるもの、そして舞うもの。
クナはぐっとくちびるを噛み、それから勇気をふるって言葉を出した。
「あの、あたし……まいたいです」
塔を守る戦でくるくると舞った。あの時たしかにクナは、役に立てたと感じた。
歌はうまくない。楽器は持ったことすらない。だが、舞ならば……。
「しかしそなたは戦に出てはならんと、我が君に命じられておる」
「おゆるしを、いただきます」
クナは冷たい床に手をつき、深く頭垂れた。こつりと額が冷たい床につく。
「とうをまもるひとがいなくなったのは、あたしのせいです。それにちゅうこくさまがあたしをおくさんにしてくださるなら、あたしはじょうろうさまといっしょに、おいえをまもるつとめをはたすべきです。ですからどうか……」
もうひとつクナには秘めた願いがあったが、それは口には出さなかった。
(「あのこ」のかわりじゃ、なくなりたい……)
女神のような子には永遠にかなわぬ。
しかし無理だとあきらめ何もしなければ、このまま何も変わらない。柱国さまに、えんえん「あの子」を偲ばせるだけだ。
それは嫌だった。クナは示したかった。
自分が、「あの子」とは違うことを。
ただの田舎娘だから、努力しても天に煌く星のような、そんなにたいそうな者にはなれぬだろうけれど。
クナは「あの子」とは全然違うものになりたかった。なにか、別のものに。
だから――
「どうかまた、しゅぎょうさせてください! おねがいします!」
さくり、さくり。ぱちり。火鉢の中で炭がはぜる。
灰をかき混ぜていた正奥さまは、ふんと鼻からひとつ力強い息を出し、よかろうとお答えになった。
「もし許しが出ず、戦時に舞台に上がれずとも。巫女としての仕事はごまんとある。負傷者の治療や炊き出し、つくろいものに、つわものらへの加護の祈願。修行をするにこしたことはない」
「ありがとうございます! じゃあさっそく、したにおりて、おへやをきれいに――」
「待ちやしろがねの」
声明るくして立ち上がりかけたクナを、正奥さまは呆れ声で止めた。
「修行は掃除だけではない」
「はい?」
ぱんっと景気良く、炭が大きく弾けた。
「そなたはもっと、いろんなことを学ばねばならぬ。何も知らぬ娘よ」
かくしてクナは黒曜の塔にて、本格的に巫女修行を始めた。
雪降りしきる冬の日が続いたが、百臘さまは容赦なし。厳しくクナを指導した。
巫女団の巫女の起床は明け方と同刻。まずは屋外にせりだす清め場にて衣を落とし、きんと凍るような冷水を、体の左右にえんえんかけ続けるという荒行をする。
悲鳴が出そうになるのをなんとかこらえ、クナは穢れを祓う祝詞を唱えながら水を被った。
「きよらに輝く神の水
穢れ祓いたまえ 清めたまえ
まばゆく輝く天の水」
百の上臘さまも、いまだ塔に残った侍女たちも、同じ修行を共に行った。
露天の清め場は寒風がびゅおうびゅおう。雪がさくさく積もっている。
しかしみな、氷水などものともしない。ばしゃりばしゃり、なんとも小気味よい速度で水をかける。クナは感心して、その水音に聞き惚れることしばしば。そのたび手を止めるなと叱られた。
「抑揚をちゃんとつけて歌うのじゃ」
祝詞はしょっちゅう修正された。
「音程が半音下がっておるわ。頭のてっぺんから声を抜けさすようにしやれ」
やはりクナは、かなりおんちの部類に入るらしい。
祝詞は、力ある気配をあたりに下ろし、神霊の力を放つのに必要不可欠な呪言である。ほんの少しの音の乱れで、力の具現に差が出てくる。
「無我の境地に至るのじゃ。何も考えてはならぬ」
荒行の次は瞑想。柱国さまのお許しを得ていないので、クナは袴をはくことが叶わない。ゆたりとした昼星の錦の衣をまた着こんで、正座した。
精神を集中させる祝詞を唱えたのち、静寂の中で無我の状態になることを目指すのだが。
「身じろぎはもってのほか。鼻をひくつかせてはならぬ」
音や匂いに反応してはならぬゆえ、これはクナにとってはかなり辛かった。
目が見えぬ分、クナには無意識に耳や鼻を使う癖がある。意識せずとも動かしてしまうのだ。
それを「無意識に何もしない状態」にしないといけないのである。
「鼻。ほら鼻。鼻っ」
百臘さまが指でつんと突いてくるのは、決まってクナの鼻。
しかしどうしても息をしなければならない器官ゆえ、なかなかくんくんを止められない。
クナは何度もばしんと肩を、平たい板のようなもので叩かれた。
聞けば瞑想は臘を重ねた熟練の修行者にとっても、はなはだ難しいもの。
するりと魂を体から抜けるようになれる巫女は、なかなかいないという……。
――「おや。だいぶ狗っ気が無くなりはりましたなぁ」
謹慎を解いた九十九さまが一緒に修行に加わったのは、年の瀬押し迫る週のこと。そのころには、クナはなんとか、鼻と耳の動きを抑えることができるようになっていた。
九十九さまの声はかなりやつれておられた。部屋にこもっておられた間、我が身に断食の苦行を課していたらしい。
「ご主人様、まずはなんぞ腹に入れてくださいませ」
手元にのこった侍女が、いたく主を気遣った。
喪を過ぎてなお、二人の侍女は塔を去らなかった。お二人の奥様のもとにひとりずつ残った彼女らは、一方は太陽の神官族。もう一方は星の神官族で、奥様方の遠縁にあたる娘たちだ。
彼女らから、自害した侍女の事情がある程度分かった。
死した侍女は、出世を望む父親からかなりの圧力を受けていたそぶりがあった。父親はキキョウの妹を、姉と同じ下女ではなく、正式な女官として後宮に入れたがっていたようだ。それで帝都太陽神殿にとりいろうとしたらしい。
去っていった侍女たちにも、きっと似たり寄ったりの事情があったのだろう。
五人すべて去ると見ていた奥さまたちは、表向きは警戒の体を解かないでいる。しかし内心は嬉しいのではなかろうか。
よろめく九十九さまが、侍女を我が身の支えとしている気配を感じて、クナはそう思った。
「正奥様、しろがねはんにご講義はされてますのんか?」
「むろんじゃ。瞑想のあとにいろいろ教えておる。開闢神話より始まる神々の話に、天文学に暦学。香道に薬草学……文字も少しな」
「文字を?」
九十九さまが訝しむも、百の御方は迷いなくきっぱり。
「目が見えぬゆえ無駄とか言うでないぞ。人というものはな、思考するにはある程度、言葉の形象を覚えておいた方がよいのじゃ。特にすめらの文字は、もともと絵文字からできておるからの」
「たしかに、共通語のように音だけを表す文字ではあらしまへんけど」
大きな紙に、墨ふくませた筆。
生まれてこの方持ったことのないものを、クナは初めて持ち、腕を動かして形を描くことを学んだ。
筆ではじめに描いたのは大きな円。それから四角。そして三角。
まっすぐな棒。幾本もある棒。縦に伸びるもの。横に伸びるもの……。
円の中にぽつりと円い点。それが「日」という文字であるとクナは知った。月は三日月の形で。星は日から生まれたものだと表す形で表される。
こうして文字を覚える一方で、クナは師が語るすめらの歴史に耳を傾けた。
帝国開闢一万年を越えるすめらの国は、大陸共通語では大スメルニアとかスメルニア皇国と呼ばれている。帝室を担う家名は目まぐるしく変われども、帝国が存亡の危機に陥ったことはほとんどない。
初代皇帝より何百代と続く、皇帝たちの系譜。すめらの版図を広げた軍神たちの勲詩。
正奥さまはすらすら、偉大な国の歴史を語られた。覚えた文字の言葉が出てくると、クナの頭の中には絵文字の形がおぼろげに浮かんだ。
(日。日の光。光はなつ、あめてらしさま……)
クナは夢中になって、筆をもたぬときでも、字の形を宙に描いた。
(月月。月の光。ちりちり音たてる、つきめさま……)
「あんさん、どんな字を覚えはったん?」
「火はこうで、水はこんな字と習いました」
ふわりふうわり、大きく手を動かし字を描いてみせると。九十九さまはころころ、おかしげにお笑いになった。
「なんやそれ。あんさん、まるっきり舞のしぐさですやんか」
九十九さまが巫女団にお戻りになられてから、クナは午後中いっぱい舞の指導を受けるようになった。
琵琶持つ人は団長よりも容赦なし。舞の型をとるクナの手や足をびしりばしり。しなる棒で幾度も叩いてくる。
「足がふらついてますわ」「腰落としなはれ」「指先垂れてはる」
瞑想では体の全神経を放棄しなければならないが、舞では足先指先まで神経を行き渡らせなければならない。
正反対のことをやらねばならぬため、クナの体は大混乱。
どちらも、おのが体を自在に支配する訓練だ。しかし頭では分かっても、そうそうすぐにできるものではない。
「手が震えてはる」
基本の凪が一番難しかった。けっして微動だにしてはならぬ、静止の形。息をしていると悟らせてはならぬぐらい、気配をひそめ、手足の先をぴんと緊張させる。
「舞は風。巫女は風の化身とならなあかん。凪いでいるものが徐々に渦を巻き、大きな旋風になるまでを、すべからく体現できるようにならんとあきまへん」
厳しい叱咤は嵐のよう。
それでも、体を動かすのはとても楽しかった。
一日に一体何回、回転しただろう。夜にこてんと柱国さまの褥に身を投げると、クナは疲れのためにたちまち、眠りに落ちるのだった。
(かぜ……かぜ。風になる……)
風の字は、翼持ちて風起こす龍の形。その字を書く時の動きは、そよ風の舞の手の動きにとても似ていた。
(風に……)
夢の中でもクナはくるくる舞った。
くるくる、くるくる。軽やかに回転して、そしてふわりと空を飛んだ。
突然匂い立つ花の香りがして。
辺り一面からぶわっと花びらが舞い上がったような気がした。
(なれるわ。きっとなれる)
芳しい夢を見ながらクナはにっこり微笑んだ。
(あたしきっと。風になれる……)