終章2話 復位の宴
再建が進む内裏の西殿。後宮の一角に、月神殿の牛車が車輪を軋ませながら停まった。
地に傾けられた白い車体から、赤子を抱いた白装束の貴婦人が降りてくる。婦人は長く赤い敷物が敷かれた石畳をしずしずと進んで、御殿に入っていった。
貴婦人がまとう白い袿は、丸い月紋が織り込まれた豪奢なもの。中の単は鮮やかな赤と緑と黄色に染められている。月下の紅葉と呼ばれるかさね色目だ。頭には后の証たる黄金冠を乗せているが、付き従う者はわずかにひとり、オムパロスで雇った異国の娘だけだ。西方風の裾の長いドレスをまとうその娘は、御殿の天井を眺めあげて感嘆した。
「すめらの建物はとても美しいですね。なんと見事な梁。木造でこのように湾曲した屋根を作るなんて」
「奥間に入る時には、履物を脱いでね」
「なんと、靴を脱ぐのですか?」
「すめらの建物はみんなそう。土足では上がれないの」
白い袿の貴婦人――透家のマカリ姫は、藍色の髪を結い上げた頭をかがめ、しろがね色の月紋の垂れ幕が下がった奥間への入り口をくぐった。
後に続いた異国の娘は急いで婦人のそばにかしづき、片足を上げた彼女からベルベットの沓を取り去った。女主人が袴に隠れたその片足を一段上の艶やかな床間にあげたのに合わせて、もう片方の足の沓を脱がす。初めてと思えないぐらい息がぴったりねと、マカリ姫は娘の介助を褒めた。
「月麗殿。良い名前だわ。でもここにいられるのはたった一週間。だから私はすめら人から、〈月霊殿の御方〉と呼ばれるようにはならないわね」
「すめらの貴人は、お住まいになられるお屋敷の名前で呼ばれると聞きましたが。奥様は変わらず、レディ・コキデンのままであられると?」
「うん。大陸中にコキデンの名前が知れ渡ってるしね。これからもそのままで通すことにするよ」
朱に塗られた格子窓が並ぶ中座敷はとても広く、奥間の御簾は編まれたばかり。香ばしい草の匂いが漂ってくる。異国の娘は革靴を脱いで奥間に上がり、早足で奥へ進んで、ひざまずきながら御簾を半分巻き上げた。
「スヴェトったら所作が完璧。さすがだわ」
「御簾は、オムパロスのお屋敷でも使われてましたから。奥様、長持ちは荷解きせずに、セーヴル州行きの船に乗せる手配をいたします。ここには最小限のものしか持ってきておりませんが、不足があればレディ・ナイシノスケにお願いしまして、御殿に入れていただきます」
マカリ姫はうなずきながら奥間に据えられた畳台に座し、赤子をあやした。
しろがねの女帝の譲位を受け、オムパロスから威風堂々と帰国した主上は、新たに任命した典侍に後宮のことを一任した。共に帰国した星の大姫が選んだ星の巫女で、強く訴えたらなんでも聞き入れてくれそうな柔和な人だ。無理を言っても大抵は聞き入れてくれるだろう。
とはいえ、帰ったらまずは茶が飲みたいと月のリンシンに伝えていたのが反映されたようで、奥間には茶道具一式が揃っていた。さらには、香炉やお香を入れた箱。書見台に鏡台。文机に、筆と硯。月紋が織り込まれた几帳に、ひょうたん型の灯り玉。見渡せば何でも揃っている。ありがたいことだ。
「スヴェト、お茶を点てて」
「かしこまりました」
異国の娘はドレスのすそをふわりと広げて正座し、慣れた手つきで茶を点てた。茶釜で清水を湧かして優美な手つきで腕に注ぎ、茶筅を動かす。
オムパロスにいた間、主上は大陸同盟の要人や著名人と積極的に交流したが、自国の文人も幾人か呼び寄せていた。その中には主上が幼き頃より仕えていた茶の師もいて、妃のみならず、その侍女たちにも指南してくれたのだ。
捧げられた椀を受け取り、茶を一口飲んだマカリ姫は、肩を上下させて長く息を吐いた。
「おいしい。なつかしい。これ、奥州の抹茶よ。異国には輸出されてないものだわ。ああ、セーヴルに行っても毎日飲めたらいいんだけど」
「北五州では手に入らないものですか?」
「うん。すめらはまだまだ開かれてないからね。今はリンシンにお願いして、細々と送って貰うしかないかな」
七日経ったら、マカリ姫と天藍皇子はセーヴル州へ赴かねばならない。
皇子はようやく一歳を過ぎたところだが、金獅子州公の公女との縁組みが正式に定められた。そして恐れていた通り、皇子は故国ではなく、婿入り先で成長するべしと主上が思し召したのである。
老獪な金獅子州公家が第一皇子を擁すればどうなるか。皇子を担いですめらを獲ろうとするのではないか。
星の大姫もマカリ姫も、せめて皇子が元服するまでは故国で暮らすべきだと必死に訴えたが、シガが産んだ姫を何が何でも次代の帝にしたい主上は、聞き入れてくれなかった。
『金獅子州公は朕の友人である。かの御方は朕が愛するシガを保護してくださり、朕のもとへ送り届けてくださった。オムパロスにおいてはかように豪奢な邸を与えてくださり、朕の復位に尽力してくださった。セーヴル州こそは、すめらの第一の友好国にして強力なる同盟国であろう。朕の子を利用するとか、裏切るということは、ありえぬわ』
主上は、金獅子州公家こそすめらの絶対的な味方だと信じ切っている。
とくにしろがねの女帝が魔導帝国の助力を得たことは許しがたいようで、同盟する相手を間違っていると非難囂々であった。
そんな主上に平身低頭マカリ姫は懇願して、なんとか、いっとき帰国することを許してもらった。
諸々の儀式を執り行わねばならないから、皇子はすめら本国から出立させるべきだと、星の大姫や元老院が口添えしてくれて、やっとのこと勝ち取った「帰宅」だった。
「皇子はきっと、すめらの言葉よりも北五州の言葉を流暢に話すようになる。沓を脱いで暮らしたり、正座して食べる習慣なんて、まったく知らないまま育つんだろうね。今でも主上は皇子にめったに会ってくれないから、父親の顔なんて、はなから覚えてないけど」
「奥様……」
「スヴェトには、これからもお世話になるよ。ゆっくりお兄さんのことを悼みたいだろうに、引っ越しの準備で忙しくさせてしまって、申し訳ないけれど」
とんでもございませんと、異国の娘はマカリ姫に深々と頭を下げた。
スヴェトの兄は金獅子州公家直属の騎士団に所属していて、すめらに潜入する任務についた。
だがスヴェトは州公家から、兄がすめらへ入る直前に船舶事故で亡くなったという報せを受けた。船の機関が故障して墜落。遺体は欠片も回収できなかったという。
州公家からの伝達は、明らかに偽りだ。
マカリ姫は元老院から、しろがねの女帝が異国の刺客に襲われたこと、それが発端で剣将が顕現したことを報された。
この刺客はスヴェトの兄で間違いない。マカリ姫のもとには、それを証明する確たる証拠があるのだから――
「星の大姫さまと、帝都月神殿に居る母上に伝信する」
ひと心地ついた体で、マカリ姫は幼い皇子をスヴェトに預けた。
背後にある文机のそばに、小さな黒塗りの箱が置かれている。あらかじめこの御殿に運び入れるように命じた荷物はそれだけだ。数字を合わせて開ける仕組みで、マカリ姫にしか開けられないものである。中には普段使っている伝信玉と、お気に入りの簪が数本。それから、厳重に封じられた封筒の束……
マカリ姫は蓋を半ば開け、青く輝く水晶玉をサッと取り出し、星の大姫に繋げた。
蒼い衣の巫女王も、今ごろは帝都星神殿でホッと一息ついているはずだ。
明滅する玉に向かって声をかけるとほどなく、もの柔らかな声が返ってきた。
『マカリ様。力及ばず、ごめんなさいね。皇子は年頃になるまで、すめらで過ごすべきですのに』
「大丈夫です、覚悟はしていました。文官や護衛官をたくさん付けてくれるよう元老院にお願いしています」
『皇子の婿入りですもの、たくさん付けてくださるよう私からもお願いしておきますね。支度品は、マカリ様のご実家が揃えると聞きましたが』
「はい。母が任せろと」
マカリ姫がオムパロスに亡命してから、帝都月神殿に戻った月の大姫は連絡ひとつよこさない。
大巫女である母によると、病に倒れて寝込んでおり、政に口を出す余裕などないらしい。
今や色は違えど星の大姫が、マカリ姫と皇子の後見人の役割を果たしてくれている。
なんともありがたいことだ。
『わたくしも何か、差し上げたいのだけれど。そういえば今、奥州のお茶を飲んでおりましたの。マカリ様もそうかしら?』
「ええ、やっぱりすめらのお茶を飲むとホッとします」
『では、茶箱をたくさん贈りましょう。セーブル州でも毎日飲めるように』
「お気遣いありがとうございます」
伝信は和やかな雰囲気で終わるかに思われたが。実は……と、星の大姫の声が暗く沈んだ。
『しろがねの女帝の女官となった星の巫女姫たちから、由々しき伝信が齎されました。大安にある天主の塔が崩れ落ちたそうです』
「え? 塔が? でも戦はもう、終わったはずでは?」
『アオビなる竜蝶の霊が、女官たちに伝えたところによると。譲位なさったしろがねの女帝が、塔の中で刺客に襲われたそうです。塔が壊れたのは、女帝の夫君がそれを迎撃した結果だというのですが。刺客の黒幕は……』
一瞬、星の大姫は言いよどんだ。
『黒幕は、主上であるとのことです。女帝を誅せよという密勅が下されたと』
「な……」
『女帝と夫君は天に昇ったきり、もはや地上に戻るおつもりはないようです。浮き島で静かに、暮らしたいと、アオビなる竜蝶に伝えたとか。おそらく元老院にも、急報が届いているでしょう』
なんということを。
主上はなんということをしてくれたのか。
剣将を呑みこんだ大いなる剣の持ち主、暴走したタケリを鎮め、大安の悪鬼を倒した戦皇女帝。
野心など露ほども持たず、戦が終わるやすぐに譲位した彼女を殺そうとするなんて。もはや主上は、金獅子州公に洗脳された傀儡も同然ではないか。
なんとおぞましい。なんと恥ずかしい。
マカリ姫はこみ上げる怒りに震えた。大姫との伝信を終え、月神殿にいる母と話している最中も、許せぬ思いがふつふつと沸き立ち、ぶっきらぼうな話し声になってしまうほどだった。
『マカリや、そなたちゃんと聞いているのですか?』
「聞いてるよ! でもそれどころじゃないの! ああもう、あいつ最低!」
しろがねの女帝はとても優しい娘だ。后となる妹のことを思って、主上に復讐することは考えないだろう。だが、彼女の夫君はどうだろうか? 一騎当千、神獣のごとき力を持つと恐れられた黒髪の将軍は、その怒りを抑えてくれるだろうか?
「いっそあいつを殺してほしいわ、ほんとに」
『な、なにを物騒なことを』
「ああ、母上、とにかく支度品は、船に乗ったあとにじっくり見るから。長々と今、説明しなくていいよ」
月の巫女たちを引き連れて飛行場に見送りにくるという母は、月の大姫の容態が芳しくないとも告げてきた。今は第一位の従巫女が代行している状態で、おそらく大姫は近々、その巫女に譲位するだろうとのことだった。
帝都太陽神殿でも、巫女王の空位を埋める動きがあるらしい。
近日、宮処を守って死したミン姫の葬礼が執り行われる予定であるが、弔いの儀が終わり次第、新たな太陽の巫女王が選出される見通しであるそうだ。
母曰く、若手の太陽の大神官たちは、しろがねの女帝に仕える女官から次代を選びたがっているらしい。
『しろがねの女帝陛下が、候補者を推したのですよ。まさか私が身支度を調えて黒髪の将軍に差し上げたあの娘が、ここまでの御方になるとはねえ』
「母様、太陽の大姫様の葬礼も次代就位も、延期になるかもしれないわ。大変なことが起こったから」
のんきに感慨にふけっている母にいらつきながら、マカリ姫は水晶玉の伝信を切った。
その夜、マカリ姫と皇子は新たに建て直された太極殿に呼ばれた。主上が、帰国を祝う宴を開いたためである。
御帳台におわす主上はことのほか上機嫌。すぐ右隣の畳台に、鮮やかな赤の袿に紅葉のかさねを羽織ったシガを据え置き、はたはたと黄金の扇をなびかせて、酒杯を煽っていた。
シガの頭にはマカリ姫がつけているものよりさらに大きく、幾本も垂れ飾りがついている。小さな姫は、シガの後ろに控えるすめら人の乳母が抱いていた。
登殿したマカリ姫は御帳台のそばに座ることは許されず、袿姿の女官たちによって、庭にしつらえられた月見の席に案内された。それは良い香りを醸す木の長椅子に赤絹がかけられたもので、左右向かい合わせにずらりと長く並んでいた。
マカリ姫は右手の、赤い紙傘が立つ一番の上座に座した。スヴェトに抱かれた皇子も、母のそばに居るよう命じられた。
「第一皇子が、父君のそばに座れないなんて。まったく」
マカリ姫はぎりりと御帳台を睨みつけた。
「叶うならばこの私が……ああもう、変なことを考えてしまうじゃないか」
内裏に昇れる資格のある元老院議員たち。三色の神殿の役職者たちがあらかた呼ばれたようで、月見の席に続々と現れ、座していく。彼らは御殿におわす主上とシガに礼を取ってから、マカリ姫と皇子にも深々と頭を下げてきた。ほとんどが同情するような貌つきで、異国の娘に抱かれた幼い皇子を注視しながら。公達たちも、主上の強硬な考えには同調しがたいのだろう。
マカリ姫は万の加勢を得た気持ちになり、背筋をすうっと伸ばした。
堂々と気高く座っていようと思った。笑顔を浮かべられたらよかったが、沸き立つ怒りのためにそれは無理だったけれど。
「今宵は朕の復位を祝す宴であるが、無礼講である。皆楽しんでくれ」
主上が快活に酒杯を掲げて玉音を垂れ、始めに歌合わせが行われた。
話せないシガが甲乙の札を持ち、招待された者たちが読む歌を採点するという趣向であった。
公達たちは空気を読んで、主上の復位を言祝ぐ歌、御代が永遠に続くようにと祈る歌を次々と披露した。マカリ姫も、女官が渡してきた短冊にさらさらと筆を走らせた。
幼子の成長とすめらの未来をかけあわせ、すめらの繁栄を願う歌だったが、詠みあげるなり、主上は盃を御帳台の外に放り投げた。
「なんだ今のは。皇子こそは将来、すめらの帝になるべきだという思いがみえみえではないか」
「いえ、幼子というのは、天藍のことだけではありません。シガさまがお産みあそばされた内親王のことも指しておりますし、引いてはすめらに生まれ育っている幼き子ら全部を表現していて――」
「黙れ! 今上は朕であるぞ。朕を言祝げ。子どもなど、どうでもよい!」
疑心暗鬼に囚われている主上は、酒気を帯びたゆえに、さらに認識力が低下しているようだ。
いや、これがこの人の芯からの本性なのか。不機嫌そうに唸り、御帳台の前に転がった盃を拾えと命じてきた。
「はよう拾え! 酒を注いで、朕に捧げよ」
まずは陳謝をと、マカリ姫は渋々頭を下げた。抵抗すれば皇子など要らぬと、その場で手打ちを命じてきそうな雰囲気ゆえ、唇を噛んで耐えた。席を立とうとすると背後にいるスヴェトが、抱いている皇子をマカリ姫の腕に預けて、制止してきた。
「代わりに私が。奥様は座ったままでいてください」
ふわりと西方風のドレスのすそを揺らしながら、異国の娘は御殿に据えられた御帳台に向かって、優雅な仕草で一礼した。片足を引き、ドレスのすそを両手でつまんで身をかがめる、西方風の所作だ。
「レディ・コキデンの名代。そして、金獅子州公家に属する者として、陛下に祝杯を捧げます。陛下の御名が、大陸の津々浦々で幾久しく輝きますよう、祈願するものでございます」
返事を待たずに、スヴェトは軽やかに御殿の床間に至る階段を昇った。
転げた朱色の盃を拾うと、女官の一人が慌てて酒を注ぎに来る。帝の反応はぶすりとだんまりだ。おそらくは許容してくれたのだろう。
西方式で失礼しますと前置いて、スヴェトは盃を片手で抱え上げ、陛下万歳と叫んだ。
本来なら、支えのついたゴブレットで行う所作だ。
そうして身をかがめて御帳台に近づき、盃を主上に差し出した。
巻き上げられた御帳から、錦をまとう帝の腕が見えた。と思ったとたん。
「スヴェト!?」
マカリ姫は目を見開いた。
異国の娘が盃を盛った主上の腕を突然掴み、ぐっと引き寄せたのだ。白い煌めきがカッと閃いた。
これは、刃か――
刹那。恐ろしい悲鳴が宴の席を覆い、だれもが凍り付いた。
声が出せぬシガが驚愕の貌をして、姫を抱いた女官をかばうように立ち上がる。しかして彼女は果敢にも、短刀を持つスヴェトのそばに走った。
帝を救うつもりかと、マカリ姫もはじかれたように席を立ち、御殿の床間ヘ至る階段を昇った。
「なにをす……! やめろ! ぐああっ!」
シガと共に異国の娘を主上から放そうとしたマカリ姫は、呆然と固まった。
シガは恐ろしい形相で短刀を持つスヴェトの腕を握っていたが、それは攻撃を止めるためではなかった。歯を食いしばり、貌を歪ませて、異国の娘と一緒に、主上に体に短刀を振り下ろしていた。何度も。何度も。激しく。憎しみをぶつけるかのように。
「シ、シガ、どうして?!」
頬から涙を流し始めたシガに対して、スヴェトの貌は無表情だった。口を真一文字に引き結び、ぞっとするほど冷酷で、あたかも淡々と、与えられた仕事をこなしているかのようであった。
「だ、だめ、やめて、二人とも」
恐ろしい光景を衆目から隠すように、マカリ姫は御帳台の正面に立ち、祝詞を唱えた。風を起こして二人の動きを止めようとするも、動揺しているためか、風はほとんど出てこなかった。わずかに起こったそよぎが巻き上げられた御帳の結び目をほどき、帳をすっかり降ろしてしまった。そのとき、ここは危険ですと女官たちがわらわらと出てきて、マカリ姫を御帳台から引き離した。
「スヴェト! シガ!」
御殿の階段の下までじりじりと退避させられながら、マカリ姫は鮮血が漏れてくる御帳台に向かって叫んだ。
どうして、異国の娘が。どうして、シガが。
「違う! これはあたしが……あたしがやるべきこと……」
「何も仰ってはなりません!」
典侍が、真っ青な顔でとっさに言ってきた。集まった公達たちが皆立ち上がっている。太陽の大神官が大声で衛兵を呼ばわった。もはや内裏には緑の鬼火はいない。剣と盾を持つ軍部の軍人が、警護にあたっているのだ。
ガシャガシャと鎧を鳴らしながら、兵たちが駆けてくる中。マカリ姫は、御帳台の中から聞こえる悲鳴がごぶごぶと液体を含んだものになっていくのを、そして儚い泡のごとくに消えていくのを、総身を震わせながら聞いていた。
周囲が怒鳴り声とどよめきと、鎧の音で満たされていながらも、なぜかその音はとても明瞭に聞こえた。まるで、耳元で聞いているかのように。
美しい月夜だ。しろがねの光が、御殿のそばにいまだ残っている瓦礫の山を照らしている。
マカリ姫は後宮域の外れにしずしずと足を運んだ。
共はいない。身にまとっているのは、黒に薄墨の喪のかさね。朝方断髪して、おかっぱよりも短髪にしている。良人を失ったすめらの貴婦人は落飾するべしと定められているからだ。
内裏で恐ろしいことが起きてから、あっというまに三日経った。
血に染まった御帳台の中で、主上は息絶えた。
蘇生を試みようと言う者は誰もいなかった。驚きゆえか恐怖ゆえか。いや、だれもがそう望んでいたからか。
主上の崩御が確認されたとき、ただちにその場に紫の幕が広げられ、元老院が開かれた。
『いやはや、内裏には強力な結界を施しておりましたが、まさか内に居る女官が刺客となるとは』
『大安に出向しておりました三色の大神官たちが、急ぎ宮処へ戻っている最中にございます。月のリンシン様は特に、主上がしろがねの女帝陛下になさったことに大変ご立腹でして。女帝陛下へ謝罪をしていただき、手厚い措置を行っていただくよう主上に直訴なさると仰せでした』
『宴に参じた我らも頃合いを見て、嘆願する手筈でいたのです。どうか女帝陛下には、これ以上何もなさらないでいただきたいと。資格の刃ではなく、しかるべき報償を授けていただきたいと』
『なれどまさか、かようなことになるとは――』
すめらの中枢はいまだ混乱の極み。宮処に戻ってきた月のリンシンが指揮を執っているが、てんてこ舞いでせわしなく動いている。
異国の娘はすぐに拘束され、獄に繋がれた。
シガも自分を縛ってくれと身振り手振りで訴えたのだが、シガは凶刃を止めようとしたのだと、スヴェトは断固として言いはった。
シガの錯乱ぶりを見た典侍は、やむなく沈静の薬で眠らせた。数日たった今も、シガは塞ぎ込んで泣いてばかりいる。スヴェトひとりに罪を負わせたくないという気持ちでいるようだ。
だがマカリ姫もきっぱりと、元老院に証言した。
シガは、刺客を止めようとしたのだと。
「君齎してくれた恩恵と好意を、ないがしろにしたくない。そう思ったんだ」
宵闇に沈んだ御所を歩いて獄に降りたマカリ姫は、太い格子の向こうにいる異国の娘に頭を下げた。
獄舎と呼ばれる上物はいまだ再建途中だが、地下の牢は天変地異に見舞われても無事に残っていた。壁も格子が並ぶ部屋も、少しも壊れていない。
太陽紋の鎧をまとった看守がひとりついていたが、目配せひとつで上階へ退いてくれた。
「でも正直、どうしてあんなことをしたのか。その理由が……」
「父君にほとんど無視され、異国へ追いやられる皇子様が不憫で仕方なかった。というだけでは、不十分ですか?」
異国の娘の言葉に、マカリ姫はうなずいた。咎人のドレスは返り血でひどく汚れている。顔や金の髪にも血しぶきがかかったままで、みるだに心が痛む姿だ。なれどもわずかにこちらを振り向いた娘の貌は、まぶしいほど晴れ晴れしい笑顔に包まれていた。
「少しだけ恩返しが出来たと、私は思っています」
「恩なんてなにも」
「奥様は、私に黙ってくださっていました。私の兄が、本当はどうやって死んだのか」
異国の娘は目を細めて静かに話した。
「兄は奥様に、手紙や伝信を頻繁に送ってきていましたよね。奥様は黒檀の箱に大事にしまっておられますが、実は私、あの箱を開けることができます。ええ、こっそり毎日、伝信玉に刻まれた記録に目を通していたんです。兄だけでなく、元老院や大姫さまがもたらした情報もすべて」
「伝信記録は消さない限り、幻像になって玉の中に残るからか。ということは、スヴェトは間諜の仕事をしていた、ということなの?」
「そうです。州公閣下から直々に、奥様を監視するよう命じられていました。だから私は知っています。兄がしろがねの女帝陛下を暗殺する任務についていたことを。ちゃんとすめらに入国して、即位の礼の行列にまぎれこんだことも。そして、女帝陛下を襲い、返り討ちにあったことも」
スヴェトの兄から最後にきたものは、伝信ではなく紙にしたためられた手紙だった。それはまさしく遺書のごときもので、彼の仲間であるらしい、黒い頭巾を被った者が、手ずからこっそりオムパロスへと持ってきたのだった。
『あなたに勝利と平安を与えられることに僕は歓喜を覚えている。
目標は今や目前。あの高御座に乗っている。
女帝と称する者の首を、あなたに捧げよう。あなたこそが女帝だから。
もしこの身が打ち砕かれても、僕の思いは届くだろう』
おそらく、しろがねの女帝の即位の礼が行われている最中に、書き残したのだろう。
「兄は主人の密命を果たすことができませんでした。しかも、剣将なるものの顕現を呼んでしまい、すめらを必要以上に破壊してしまいました。金獅子の州公閣下は慈悲深くも真実を隠してくださいましたが、これは私にとっては大いなる恥です。真実を知ってのうのうと、本国に帰ることなどできません」
「北五州の貴族は、とても誇り高い人々だと聞いているけれど」
「ええ、そうなのです。私たちには、一点のシミもあってはなりません。だから私は、自殺しなければと思いました。ああ、でも……でも……」
異国の娘の青い瞳からつうっとひと筋涙が伝って、どす黒くなった血で汚れたドレスに落ちていった。
「奥様が陛下に虐げられる光景を見るのが、どうしても耐えられなかった。私の奥様が、お美しい奥様が、あんな男に何度も侮辱されて、あげく……の、望まぬ御方と、同衾するよう命じられるなんて……」
「ああ、大陸同盟の理事官、だっけか。機嫌をとりたいからその人に体を捧げろって言われたけど、自信満々でこれは外交戦術だなんて言われたらさ、これ以上心証悪くされたくないし、従うしかないっていうか――」
その一夜のことは忘れたいのに、頭の中にこびりついている。
晩餐つきの舞踏会が終わったあと、マカリ姫は四肢を鎖でつながれ、口では言えぬ辱めを受けさせられた。これは単なる趣味なのだと、相手は腰を激しく動かしながら下品に笑い、何度も鞭を揮ってきた。まるで奴隷を犯しているかのように。
「奥様を差し出すなんて、最低です。奥様のお背中にはまだあのときの、傷の跡が……せめて、その恨みは。大切な私の奥様を傷つけた怒りだけは、晴らしたかったんです」
「スヴェト……ありがとう。本当に、ありがとう」
マカリ姫は格子の隙間から手をのばし、血がこびりついた娘の頬に指先で触れた。
異国の娘はすがるようにその手を両手で包み込んで、頬ずりした。
「奥様。私の、お美しい奥様。どうかこのスメルニアで暮らしてください。いつまでも、ここで。そしてどうか、本当に愛する御方と幸せになってください」
この娘を救う方法はないのか。この恩人をどうにか、生きながらえさせることはできないのか。
マカリ姫はまぶたを濡らしながら暗い天井を仰いだ。
言葉にはしてはならない思いを、姫は地の底から天に放った。
ああ。私も一緒に殺したかった――