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黒の舞師 ~身代わり巫女は月夜に舞う~  作者: 深海
七の巻 御光の女帝
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28話 剣の英雄

 風よ。風よ。集まれ。舞い踊れ。

 伸ばした手の先に、稲妻が落ちた。

 青白い閃光。

 空間が裂ける音。

 裂空の精に風が巻き込まれて、雷と風が散り散りになっていく。

 それから――



 あまりのまぶしさに、クナは目を閉じた。

 再び目を開けたとき、池の水面にしゃがみこむ黒衣の人は忽然と消えていた。霊力をうまく調節できなくなったのだろう、池の中に没したのだ。

 クナはためらいなく我が身を水中に投じた。

 無我夢中だった。

 水は漆黒に塗りつぶされていたが、水面を打つ雷光が、黒衣の人をうっすら照らし出している。

 広がる黒い袖。ゆらめく長い髪。よくよく見れば、背中に何か負っている。


(剣? とても長い……まさか、ルデルフェリオさん? ああ、違う。きっとあれは)


 遠くない。すぐそこだ。

 クナは必死に冷たい水を掻いた。周囲に残っていた風の精霊たちが、そばを離れてぎゅるぎゅると水面へ昇っていく。無数の泡となって、ごぽごぽ音を立てながら逃げていく。

 

(黒髪さま!!)


 声が出せないのがもどかしい。でも、もう少しで届く。

 いっぱいに伸ばした手が。その指先が。黒い衣に触れる――


(黒髪様、お願い。どうか戦って。中にいるものを追い出して!)


 黒い髪がまとわりついている肩に触れたとたん。黒髪の人の腕がサッと動いてクナの手を掴んだ。

 目を細めた優しい微笑み。だがそれは、おそろしく異様だった。蒼い双眸が爛々と輝いているからだった。


『ああ、我が伴侶』


 クナの頭の中に直接、凛とした声が響いてきた。


『大丈夫だ。心配いらない。消したはずのものが、か弱く足掻いているだけだ』


 表に出ているのは影法師の意識か。でもやはり、黒髪さまの魂はまだ生きているのだ。

 ならば希望はまだある。なんとかして、影法師の魂を不死の体から追い出せばいい。

 なんとかして……

 相手が背負う剣をじっと見つめるクナの体に、黒い衣の袖が巻き付いてきた。

 クナは念じた。黒い衣にしがみつきながら願った。 


(黒髪さま! お願いがんばって! どうか、消えないで!)

  

 無数の泡が渦を巻く。

 クナを抱いた黒衣の人は、空いた片手で背に負った剣を抜いた。すると彼の背中に突然、羽のようなものが現われた。水の精霊を集めて作り出したらしい。黒衣の人は魚のヒレにも見えるそれを動かし、水中を昇っていった。

 

『我が腕の中に飛びこんでくるとは。実に嬉しいことだ』

 

 黒衣の人は一気に池から飛び出て、いと高き塔の前へ飛んだ。おそろしい金属の獣たちが押し寄せ、唸っている群れの真ん前に。しかして獣たちは従順だった。襲い掛かる様子は一切なく、列を成して座りこむ。剣を天にかかげて影法師がひとこと命じると、彼らはダッと庭園の奥へ駆け去って行った。

 

「すごい……」

「我が剣も我が霊力も、すべて君のために在る」


 水晶を打ち鳴らしたような、透き通った声。それは黒髪の人の声そのもの。

 クナは一瞬びくりとしたけれど、激しくかぶりを振った。


「黒髪さまを、消さないで。あたしのために何かしてくれるというなら、どうか、それだけは」

「いいや。できぬ。この期に及んで私と同化しようとしないものなど、受け入れられぬ。こんなかたくなな魂ではなく、私こそが、君の伴侶になるべきだ。なぜなら私は、君がこの星に降り立った時から見ていた。君がアリステルであった時からずっと」


 黒衣の人は、天守の塔の扉に剣の切っ先を向けた。

 力の波動がびしりと走って、分厚い扉がゆっくり開いていく。

 見上げれば、はるか塔のてっぺんで、シンミンや姫たちが身を乗り出して様子を伺っている。

 大丈夫――クナは固唾を呑んで見下ろす三人に、かすかにうなずいて見せた。

 大丈夫――なんとかする。なんとしてでも。


「黒の三の星は、アリステルこそを星妃に選ぶべきであった。完全に黒のものと成して、青への慈悲を抱かせぬようにするべきだった。そうすれば、一万の時を経た今も、平安に生きていただろう。だが、実際の結果はこの通り。アリステルの魂は二つに分かれ、黒は青に食われた。星の意志がまともに働かないのなら、代わりに私が、この星を導かねばならない」

「あなたは……一体……?」

「この世で最も純粋で、賢く、慈悲深き者に導かれたい。末永く幸せに暮らしたい。それが、この大陸に生きる、すべての生き物たちの想い。どんなに時がたとうと決して変わらぬ、心の奥底にひそむ憧れ。平安への渇望。私は、その願いそのもの」

「大陸に生きるものすべての……願い?」


 双眸を輝かせる人は、深くうなずいた。


「我が伴侶よ。アリステルは希望の星だった。何億もの、生きとし生けるものに求められていた。今の君も変わらずそうだ。扇動され、君を誤解している人間もいるが、皇国の民のほとんどが君を支持し、崇拝している。だからこそ。君をたった一人のものにするわけにはいかない。君は幾百億もの命から成された、この私のものになるべき……うっ……」

 

 塔の中に一歩入ったとたん、黒衣の人の体がよろめいた。膝が折れ、クナを抱きしめる腕の力が緩む。

 クナはすばやく黒い袖から逃れた。相手の手からとっさに剣を奪いながら、床に半ば転がった。

 ずしりと、黄金の柄の重みが手の中に落ちてくる。

 やはりこれは、鍛冶師の剣ではない。新しく鋳造されているが、柄の中央に嵌まる赤い石が放つ光には、見覚えがある。

 今世では見たことがないけれど、前世ではよく目にした。

 とてもなつかしい。とても頼もしい。これはそんな光だ。

 

「花売りさんの剣。そうよね? その石の中に、もしかしてあの剣の精霊が居るの? かつてあたしを主人と呼んだ、あのひとがいるの? それなら、返事をして。どうか起きて……!」

 

 影法師が言った通りなら。

 この剣の力が、クナのために在るというのなら。

 クナは呼んだ。願いを込めて。

 

「起きて! 戦神(いくさがみ)の剣! アクラさん!!」


 するりと口から出たその呼び名は、前世で自分が剣につけた名前。かつて白い女神レクリアルが、剣に向かって何度も投げつけた愛称。


『あ……あ……ああああ……!』


 反応はてきめんだった。柄に嵌まった赤い宝玉が、ぎらりと輝いた。

 ねぼけまなこの声と共に。


『その、名前……その、魂ノ型……覚醒、不可避……あの、でも、私、ナマクラ(・・・・)じゃ、ありません……』


 およそこの場には似合わぬ、間の抜けた音声が、円を成す塔の入り口に響いた。


『おはよう、ございます。ついこの前、百年目の契約が切れたばかりの、もと我が主』 





 黒衣の人が持つ剣をじっと見つめていたクナは、自身の奥底に眠る記憶を思い起こしていた。

 かつて、白き女神レクリアルは、聖剣の主人だった。暗き岩窟の寺院から外の世界へ出るために、そして大切な人々を守るために剣を掲げ、運命を切り開いたのだ。

 剣は大いなる導き手。どんなときも助けてくれた。

 そう。前世のように剣を使えばきっと……

 いちかばちかだったが、まさか即座に、覚醒してくれるなんて。大いなる奇跡に感謝しながら、クナは剣に願った。


「アクラさん、力を貸して!」

『あー……その名で呼ばれると、わが刀身がうずうずいたしますが。残念ながら、あなたとの契約は完了しております』

「だったら、また契約してください!」

『お』

「可能ですか?」 

『は……はい。今のところ、私と契約している者はおりません。あ。なんだか勝手に、操作された痕跡はございますが……いえ、まあ、九割九分、問題はございません』

「それならお願いします。今すぐ契約して、黒髪さまの中に入っている魂を、食べて下さい!」


 剣はあからさまに驚いているようだ。柄に嵌まっている宝玉が、どくんどくんと波打っている。

 

『そ、それでは血を一滴、私の心臓に垂らしてください』


―—「伴侶よ、なぜ私を拒む? 私は君と私の幸せを、望んでいるのに」


 影法師が呻いている。縮こまった体がまた動き出そうと、わなないている。

 クナは急いで剣の刃で手のひらを斬り、赤い宝玉に白い甘露を垂らした。


「お願いします!」

『塩基確認……声紋登録……登録済みの魂ノ型と同期……か、完了です! この身はあなたのために。我が主!』 


 剣が声高に叫ぶと同時に、刀身から真紅の光が迸った。

 クナは、しゃがみ込んでいる黒衣の人に剣を向けた。

 塔の床が揺れるほどの衝撃波。すさまじい反動が襲い来る。ずるずる後退する体を、足を踏ん張ってなんとかとどめると。剣はりんりん、小気味よい声で喋ってきた。


『我が主、黒髪の中にはずいぶんと、色んな魂が入っているようです。しかもなかば、不死の体に根付いております』

「切り離して! 黒髪様の魂だけ残して、あとは全部食べて!」

『了解、我が主。計算しましたところ、八割の確率でご命令を完遂できます。なぜか私、得体のしれない大いなる力に、満ち満ちておりますので』


―—「これは、認められない。君は私を受け入れなければならない。この運命を。アリステル……」


 黒衣の人が苦し気に息を吐く。水晶を打ち鳴らしたような声が、ひび割れた声に変わっていった。


―—「どうか、この星を背負……」


「いいえ。あたしはすべての命の想いに応えられるような者ではありません。あたしは、良人を愛する妻。ただ、それだけでしかないんです」

 

 クナはかぶりを振って剣を突き出した。真紅の光が輝きを増す。

 光は黒衣の人を取り囲んでいった。まるですっかり、焼き尽くしてしまうかのように。





「ちくしょう! なんだあいつ!」


 漆黒の深淵。黒髪の人の魂の中で、ましろに輝く稀代の鍛冶師は、悔しげに叫んだ。

 そばで清涼に輝く少女の魂が、くすくすと苦笑している。

 

「僕が必死に呼びかけたときは、うんともすんとも言わなかったくせに! スミコちゃんが呼んだら一発で目覚めるとか、なんだよそれ?!」

「おまえ、相当、嫌われてるんだな」


 鍛冶師と少女の真上で、黒い塊がぐるぐると猫の喉声のごとき音を出す。鍛冶師はむきになってそんなことはないと言い張ったが、黒い塊はきっぱり言ってのけた。


「だっておまえ、性格わるすぎる」

「いいから、急いで後押ししろよ! 黒髪に成り替わろうとしてる集合体を、残らず奥から蹴り出すんだ!」


 鍛冶師と少女。そして、(ぬえ)と化した黒獅子。聖剣から射出された三つの魂は、不死の魔人の中に在る魂の中に食い込んだ。なれども黒髪の人の魂をすっかり砕くには至らなかった。

 三つの魂の誰もが、そうなることを望まなかったからだ。

 彼らは互いを支え合い、魂の核を砕く寸前でとどまることに成功した。しかして魂に開いた傷から、世にも奇妙な物が入って来たのである。

 影法師の魂。

 それはただただ呆然とするほどの、質量のあるものだった。鍛冶師の推測通り、それは無数の無意識が凝縮した、霊的な集合体にほかならなかった。

 進入してきた無数の意識は、黒髪の人の魂をみるみる押し潰していった。三つの魂もひどく圧迫された。自我を保つべく結界を張らなかったら、たちどころに溶けてしまっただろう。

 圧倒的な質量で、ぺしゃんこにする。影法師の企みは、いともたやすく達成されるかに見えた。

 もはやこれまでか――

 鍛冶師たちが諦めかけたとき、奇跡が起こった。赤い光が、怒涛のように流れ込んできたのだ。

 聖なる剣の、強靭なる力。何物も食らい尽くす、あの吸魂の力が、影法師の〈魂〉をからめとったのだった。

 

「おい、すごく抵抗してるぞ。黒髪の魂に、しがみついてる」

「からみついてるところをほぐして、外に押し出すんだ」

「わかった。でも、俺たちも吸い込まれそうだ」 


 黒い獣がぐるぐる唸る。


「抵抗しないで、剣の中に行きましょう」


 少女が透き通った思念を飛ばした。


「私とルデルフェリオは何百年も、聖剣と共にありました。だから、聖剣の中こそ、私たちの家と言えます」

「でも、俺は?」 

「あなたも、剣の中で待つのが良いと思います。あなたの主人が迎えに来てくれるまで」

「そうか。そうだな。俺は永らく、くれないの髪燃ゆる君の、義眼の中にいた。剣の宝玉と同じものに。ならばやっぱり、剣の宝玉の中に入っているのが、落ち着くんだろう。でも、黒髪の魂の傷は、どうする? ゆっくり繕ってるひまがない」 


 無数の〈魂〉を蹴り流しながら、黒い塊が呻くと。きらきら輝く鍛冶師は、苦笑しながら答えた。


「悪いけど、縫い閉じる作業は、スミコちゃんに任せよう」


 聖剣の光が、しがみつく影法師の〈魂〉を次から次へと引っ張り出し、吸い込んでいく。ごうごうと魂の隙間から出ていく怒涛の流れは、いつまでも続くように思えた。黒い(ぬえ)は蹴り出すのに飽きてきて、何度もあくびをかますほどだった。  

 

「一体どれだけの意識が、集まってるんだ?」

「たぶん、生きてるものだけじゃないよ」


 やっとすべての〈魂〉が吸い込まれていったのを見届けてから、鍛冶師と少女と黒い塊は、赤い光に身を委ねた。


「おそらく何百何千、いや、一万年ぐらい蓄積された、生きとし生ける者の残留思念も、加わってたんだろう。魂は輪廻するけれど、記憶は天河に洗われて消されてしまう。それを嫌がって、強い想いを大地に残して逝く人が多いからね」

「剣の中。ぎゅうぎゅう詰めで狭そうだ」

「消化するか浄化するか。それは聖剣次第だ。まあともかく、剣の中に入ったら、まずは抗議だ。ていうか、どついてやる。ほんとふざけるな、カリブルヌス!」


 三つの魂は手を掴み合うように繋がり、くるくると回転しながら赤い光に運ばれていった。

 しろがね色の髪ゆたかな龍蝶がかかげる剣。その柄に輝く、紅き宝玉の中へ。





「黒髪さま!」


 剣の柄から光が消えたとたん、クナは剣を床に落として黒衣の人に駆け寄った。

 剣はずいぶん長いこと、影法師の魂を吸い込んでいた。

 クナが剣を掲げている最中に、塔の最上階から息せき切って、シンミンと姫たちが駆けつけて来た。若き武官と姫たちは果敢にも、塔の螺旋階段を突破することに挑んだのである。

 幸いにして、道中にいたのは鎧をまとった衛兵数十人。金属の獣や罠などには、一切遭遇しなかったという。三人は武術と巫女の技を駆使して、敵をことごとく眠らせてきたそうだ。


「陛下、塔の入口と中の扉に結界を張り終えました」


 若き武官は自身の負傷をものともせず、足をくじいたサン姫を背負ってきた。鏡を抱えてきたユィン姫が窓の外を伺い、晴れ晴れとした貌をした。


「空の様子が、変化してます。雨も雷も収まり、空が青うなってます」

「陛下、黒髪の御方の御具合は……」

「だめ。目を開いてくれないの」


 あっというまに塔の一階の守りを固めた武官と姫たちが、固唾を呑んで見守る中。クナは、黒髪の人の頬を軽く叩いて覚醒を促した。床にしゃがみ込んだ不死の体は、濡れそぼってひどく冷たい。すっかり硬直していて、彫像のようだ。目は見開かれたままで、光が失せている。

 

「魂は、完全に壊されてないはず。だけど……」

「魂に深刻な傷を受けたのかもしれません。意識を持てないほどに」

「そんな――」


 黒髪の人の魂を霊視したのだろう、シンミンの顔はこわばり、明るさは欠片もない。

 サン姫が無理に笑顔を作って、クナを励ました。曰く、太陽神殿には、魂を修復するような効能を持つ宝物が絶対にあるだろうという。ユィン姫も、その言に深くうなずいた。

 

「星神殿にも、そのような物があると聞いたことがあります。せやからきっと、黒髪の御方は回復するでしょう。そしてうちらは、必ずや宮処へ帰れることでしょう。塔より発した伝信は、一瞬なれども、ナダ様のもとに通じましたゆえ」


 狐目の姫が予言した通りだった。それからほどなく、ユィン姫が大事に抱えてきた鏡が、ぎらぎらと点滅し始めたのだった。


『しろがねの陛下。ご無事ですか?』


 鏡面を覆っていた砂嵐が、ゆっくり晴れていく。銀の髪を長く垂らす龍蝶の姿が、はっきりと映し出された。


『さきほど陛下よりいただきました玉音、しかと聞こえました。やはり、大安に囚われておいでだったのですね』

「すみません……」

『いいえ。斥候隊の報告から、そうではないかと推察しておりました。

(ぬえ)が消滅した直後より、厳かなる公報が何度も大安から流れてまいりました。

 すめら百州は、大安に入城したしろがね様にひれ伏せ。しろがね様こそが真の皇帝に即位する、というのです。駐屯地にいる私をしろがね様だと信じる元老院は、悪鬼の残党が降伏の意志を掲げたと解釈しました。ゆえに私は内心、陛下は大安におられることを確信しつつ、すめらの軍五万に、大安へ進軍するよう命じました。相手の言葉通りに大安に入城し、陛下をお救いしようと思ったのです。

 ですが進軍中に、予期せぬことが……大安が、巨大な雷雲に覆われてしまったのです』

「大安の技師が、進軍を警戒して結界を張ったんですね?」

『いいえ。雷雲は、魔導帝国の金の獅子が作り出したものです。獅子が西方の空より現れて、大安を封じたのです』

 

 驚くべきことに。大安の上空には現在、金の獅子が滞空しているらしい。

 雷雲が現われた直後、赤毛の幼帝が、介入を許してくれと伝信で伝えてきたそうだ。


「金の獅子が、戻ってきてくれたの?」

『そうです。くれないの髪燃ゆる君が仰るには、金の獅子は剣将を凌ぐ力を得た、それゆえに約束を果たしにきたと』


 剣将が顕現したとき、幼帝はたしかに、そんなことを去り際に言っていた。獅子をもっと強くして、クナを助けるために戻ってくると。一体どんな方法を駆使したのか分からないが、幼帝は一所懸命手を尽くしてくれたのだろう。


『幼い皇帝の思し召しは、完全に好意によるものだと思われます。ですが、老獪な獅子の本心は分かりません。もしかしたら、剣将の力を食らおうとしているのかもしれません。不安はありましたが、我々は、獅子の力添えを受けることにいたしました。なぜならば、〈金の獅子〉は、剣将よりも恐ろしきものが大安にいる、だから容易に手を出せないと、警告してきたからです。以来、丸三日、我らすめらの軍は、ぐるりと囲んだ大安に、雷が轟き渡る様を眺めておりました』

「三日も……」

「なるほど。落雁を食べてもまだまだ空腹なのは、そういうわけですか」


 伝信を阻んでいたのは、影法師が作った結界だけではなかったようだ。

 獅子は雷雲の中で、大安で起きた一部始終を見ていたのだろう。影法師が黒髪様に乗り移ったことも、シンミンたちが塔に逃げ込んだことも。そして、クナが塔から飛び出したことも。もしかして面白半分に、池に雷を落としていたのだろうか。

 獅子が警戒していたものは、排除された。えたいのしれない影法師。それは今、かつて光の塔を吸い込んだときのように、聖なる剣の中に収まっている。

 クナがそのことを伝えると、鏡に映る龍蝶は、こちらにもその報告が来たと答えた。

 

『たった今、金の獅子が、脅威が去ったと伝信してまいりました』

「だから空が晴れた……伝信も鮮明に通じるようになったのね」 

『はい。大安を覆っていた雷雲はすっかり消え失せました。もし御身のそばに、剣将やそれと同等の力がそばにあるのでしたら、どうか警戒を。私はただちに大安へ入り、陛下のもとへ参じます。それまでどうか、ご無事でいてください』


 アオビはきっと間に合わない。

 塔の入り口にはシンミンと姫たちが結界を張ってくれたが……たぶん、もたないだろう。

 伝信が切れるやいなや、塔の扉がさらさらと、砂のように分解されて塵の山と化した。

 硬直したままの黒髪の人を、クナは背中で隠すようにかばった。

 扉の向こうに、燦然と輝く獣がいる。

 幼い少年を背に乗せた、金色の獅子だ。

 

「陛下、あれは金獅子……ですか?」

「そうです。くれないの髪燃ゆる君も、おられます」


 シンミンが。姫たちが。クナを守るために盾のごとく、入り口の前に並び立った。

 刹那、獅子は吠えた。

 明らかに威嚇しようと、長く長く咆哮した。

 床がじんじん揺れる。空気もびりびり震えている。


「パパ、おねがいだから、こわがらせないで」


 背に乗っている赤毛の子が慌てているのを見て、クナは微笑んだ。安堵の想いが心に満ちる。

 幼帝が一緒なら、獅子は無茶なことはしないだろう。

 思った通り、獅子は塔の中には入ってこなかった。金色に波打つ背中からするりと降りてきた幼帝だけが、遠慮がちに入口から一歩、中に入ってきた。


「スミコちゃん、たいへんだったね。あの、その剣。すこしだけ、かしてくれない? なかに、くろいししがはいってると思うんだけど。それだけ、ぬきとらせてほしいんだ。くろいししは、ぼくの神じゅうだから……」


 金の獅子は入り口の前から動かない。いらいらと眉間に何本も作っているが、我慢してくれているようだ。クナは急いで聖剣を拾い、赤毛の子に渡した。

 

「アクラさん、黒すけさんを、吐き出してあげて」

 

 命じると、剣は素直に従った。

 柄に嵌まった赤い宝玉が輝いたかと思うと、黒い煙をしゅうしゅうと出し始めた。

 その煙がきゅるきゅると、幼い子のまっかな片目に入っていくのを、クナは黙って見守った。


「トリオンさま。めざめない?」


 おずおずと、クナの後ろを伺いながら、赤毛の子が聞いてくる。クナがうなずくと、彼は赤い紗がふんだんに使われた自分の服を探って、小さな卵のようなものを取り出した。


「これ、つかって」

「これは……」

「パパが、きずついたぼくのたましいをなおすのに、つかった。ぼく、ずっとおまもりにして、もってたんだけど。たぶん、やくにたつと思う」


 クナの手に、虹色に輝く卵が乗せられた。

 なんと美しい光だろうと、クナは息を呑んだ。


「陛下、なんとお礼を言ったらいいか…」

「ごめん。パパ、ぼくのために下におりていかなかった」


 赤毛の子は今にも泣きそうな顔でクナを見上げた。


「トリオンさまがあぶないの、みえてた。でも、たすけにいかなかった。こわくてへんなものが剣将の力をあやつってるから、ぼくにちかづけたくないって。だから、みやこをふうじることだけしかしなかった。ほんとに、ごめんね」  

「いいえ、陛下。十分です」


 クナが影法師に屈していたら、獅子は容赦なく、クナもろとも、大安を永遠に封じてしまったのかもしれない。

 刺すように睨んでくる獅子がまた咆哮した。赤毛の子が、地を揺らす獣のもとへ駆けていく。

 クナも虹色に輝く卵を握りしめ、踵を返した。


「黒髪さま……! 必ず助けます!」


 両手で掲げると、入り口から差し込む陽の光がきらきらと卵を照らした。

 クナは思わず振り向いた。

 入口から見える空の青さに、自然と目が細まった。

 晴れ渡った空はとても美しかった。

 本当に、とても。とても。美しかった。

 

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― 新着の感想 ―
[良い点] おー!!ここで剣が……! あと少しだ、クナちゃん、頑張れ!
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