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黒の舞師 ~身代わり巫女は月夜に舞う~  作者: 深海
七の巻 御光の女帝
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27話 天守の塔

 窓から見える空に、稲光が走る。雨は一向に止まないが、クナはホッとしてしゃがみこんだ。

 砂嵐以外何も映さない鏡面から、かすかに若き武官の声が聞こえてきたからだった。


『こちら、燦幸明(カンシンミン)! 特使さま……いえ、陛下(ビーシャ)、聞こえますか?』


 若き武官は、クナが鏡に向かって発した〈宣言〉をしっかり聞きとってくれたらしい。クナは包帯だらけのおのれの状況を伝えたあと、鏡に向かって深々と頭を下げた。


「シンミンさん、すみません。あたし、身分を偽っていました」

『いえ、薄々感づいてました。お付きの方々の態度から、なんとなく。だから付いて行こうと思ったんです』

「そうだったんですか……察して下さって、ありがとうございます」

『ユィン様とサン様も、私と同じ部屋におります。私が気付いたときは、なにがしかの術で眠らされていましたが、今はお二人とも目覚めておられます』


 ぶつぶつ雑音が激しいながらも、鏡の向こうから姫たちの声が聞こえてきた。


『陛下、ご無事でほっとしました。伝信玉は取られてしまいましたが、幸いこの部屋には霊鏡がありまして……』

『シンミン様が、外結界の技を行使してくださいました。そのおかげで、陛下の玉音を聞くことが叶いましてございます』


 外結界とは、月神殿が諜報活動のために開発した技だという。外交官や隠密が駆使する技だが、太陽神殿の将校たちも、おおかた習得しているらしい。通常の結界を反転させるもので、内に籠る壁を作るのではななく、外に漂う見えない霊波におのれの霊波を繋げる。これにより伝信の傍受や割り込みを行えるそうだ。


『陛下の身代わりたるナダ様へ、状況を伝えねばと思いまして、伝信飛ばしを試していただいてました。うちらの霊力も加えさしていただき、相当に感度を上げてますが、障壁が分厚うてかないまへん。大安の外に霊波が飛んでるかどうかは、かなり微妙です』


 姫たちの部屋にも霊鏡があったのは僥倖だった。聞けば、状況はほぼクナと同じ。影法師が鏡を通して姿を現し、悪鬼の消滅を伝えてきたという。加えて、クナの退位を断固阻止すると宣言してきたそうだ。


『叶うならば陛下には、末永くすめらを治めはってほしい。うちもサン姫も、あの面妖な者が言うことに賛同したい気持ちが、大いにございます。なれども陛下御自身の思し召しが、一番大事と存じますゆえ……とにかくも、急ぎおそばへ参ります。陛下がおわす場所を教えてください』


 どこかの宮殿の一室。そう答えようとしたクナは、窓辺に駆け寄った。窓の外に手を突き出すと、自分の手が消えて、手の先が自分の方にニョキっと出てくる。空間が閉じられているゆえの現象だ。なれども外の景色は本物のはず。クナは袖をひっこめながら、外の様子をまじまじと眺めた。


「かなり高いところだわ。はるか下に池がある」


 風流な山水を成す池の向こう岸に、平たい大殿が建っている。朱の柱が支える回廊に囲まれており、岸に面する壁には出入口が見える。正面口ではないようだ。屋根は一面、黄色の瓦。稲光が空に走るたび、不気味な色合いで闇の中に浮かび上がる。

 できるだけ詳しくその様子を鏡に伝えると、姫たちから困惑の声があがった。


『陛下が仰る建物は、私どもが居る帝宮本殿かと思われます。でも池の向こうには、ただただ庭園が広がっているばかりで…』

『本殿を見下ろせるような建物は、どこにも見あたりまへん』


 もしや自分だけ、遠い所に運ばれたのか。大安の宮殿と似た建物があるところに。

 クナは一瞬青ざめたが、ありがたいことにシンミンが、学生時代の記憶を思い起こしてくれた。


『そういえば、太子監の歴史の授業で、大安の古図を目にしたことがございます。その地図には、帝宮本殿の後ろに塔が描かれていました。三基ほど並び建っていたかと』


 はるか昔の地図であったから、現在その建物は失われているのだろう。シンミンはそう思ったようだが、クナの話を聞いて、塔はまだ現存しているのかもしれないと言い出した。たぶん目くらましの術がかけられているのだろうというのだった。


『急ぎ確かめたいところですが、実はこちらも閉じ込められています』


 シンミンたちが居るところは、どこをどう見ても牢とは思えない、豪奢な部屋であるらしい。香木を彫り込んだレリーフが一面壁に貼られていて、その雅な香りたるや、酔ってむせかえるほどだという。置かれている調度品も、巨大な香木に細やかな彫刻がほどこされている逸品だそうだ。


『たれかを幽閉するには、まったくそぐわぬ部屋です。窓には太陽紋の透かし彫りがびっしりで、これもまた、感動するほど見事なものです。ですが、扉はびくともしませんし、窓には、通り抜けられる隙間がありません』

「それでせめて、伝信を飛ばそうとしていたのね」

『はい。ですがなんとかなるかと。内からは決して開きませんが、外からはたやすく開く。牢とはそういうものです。外結界をもっと強めて、宮殿内にいるたれかを操れないか、やってみます。ここには、かなりの人数が詰めているようですので』

『どうにかして脱出し、必ずや御身のもとへ参じますえ』

『なんとしてでもお迎えに上がります、陛下!』


 頼もしい武官や姫たちの言葉に、クナは痛く励まされた。しかしなぜか、居ても立っても居られない気分に襲われて、黄金の部屋の中をそわそわと右往左往した。

 鍛冶師のことは、心の底から信じている。たぶん彼は、最後までクナの味方でいてくれるだろう。彼が黒髪様を屠ることはない――希望まじりの信頼だが、そんな確信がクナの胸の内にはあった。のだが……

心の臓が異様なまでに、どくんどくんと鼓動するのだ。胸の奥が痛くなるほど大きく、激しく。


「大丈夫。きっと大丈夫よ」

 

手足も冷たく、全身がぞくぞくする。包帯でぐるぐる巻きにされ、軟膏で冷やされているせいだけではない。指の先から血の気が引いている。なんとも居心地が悪い。これはもしかして、虫の知らせか。悪寒。嫌な予感。何かが起こる。たぶん、良いことではなく、悪いことが……


「いいえ」


 クナは声を出して、体の震えをぐっと抑え込んだ。


「いいえ。大丈夫。ルデルフェリオさんは、黒髪様を殺さない。あたしは再会できる。元気な黒髪様に、絶対に会える」


 顔のない影法師が何と言おうと。どんなことをしようと。

 それだけは変わらない未来。絶対にやって来る未来だ。

 もう一度唱えよう。これは呪文。大いなる音の御技。言葉にすれば、すべて実現する。

 韻律がそうであるように。祝詞がそうであるように。この言葉も、きっと本当のことになる。

 クナは窓辺に向かって両手を合わせ、膝をついた。

 天はまだ、その怒りを収めない。いまだ激しく、雷鳴が轟いている。びかびかと光り、空に何度も裂け目が走っている。避けたところから、何か落ちてきそうだ……


「あたしは、黒髪様に、絶対に会える」


 声よ。届け。

 天を見据えてクナは唱えた。力強く。





 希望の祈りが天に届いたのだろうか。ほどなく、作戦成功の狼煙があがった。

 裂空激しい窓の外。悪寒を振り払おうと必死に祈るクナの目に、本殿の一角から煙が立ち昇った。

屋根に黒いものが降りたち、しきりに壁を攻撃している。それが何なのかじっと見極めたクナは、感嘆の声をあげた。


鉄の竜(ロンティエ)! もしかして、あたしたちが使ったもの?」


 大きな鋼の翼。流線型の背中から延びる、長い尻尾。二頭の竜が操縦者なしに動いている。カッと大きく開けた口から、ごうごうと火炎を放射しているのだ。雨にも負けない炎はみるまに、大殿の壁を焦がしていった。

 鏡から、シンミンの弾んだ声が聞こえてきた。


『陛下、大安に居る者を操るより、はるかに容易な方法を実現することができました。我々が乗ってきたロンティエが健在でした。回収されて、どこぞの倉庫に格納されていたようです。現在、外結界の波動で遠隔操作しています』 

「シンミンさん、すごいです!」

『私ひとりの霊力ではとても無理でした。姫君たちの霊力の、なんとお強いことか』


 鉄の竜が、鋼連なる長い尻尾を大きく振り薙ぐ。焦げた壁がたちまちぼろっと崩れて、人影が三人、大殿の中から出てきた。


「シンミンさん! ユィン姫! サン姫!」


 大殿の方は、空間をいじるような大掛かりな障壁は施されていないようだ。シンミン、そして姫たちは、黒い鉄の竜に乗り込み、急いで地面から飛び立たせた。


「気をつけて。どうか気をつけて」


 びしゃんびしゃんと、池の周囲に雷が落ちる。まるで狙って穿ってくるかのように。庭園の高木が裂け、燃え上がる。鉄の竜は、果敢にその合間を縫って池を越えた。


『陛下、こちらサンでございます。本殿より脱出成功、シンミン様とユィン様がロンティエを操っています。鏡を壁から剥がしてきました。距離が近づいたのでしょうか、雑音が減ったように思います』

「待って! 岸辺のすぐそばに降りて!」


 クナは慌てて鏡を壁からもぎとり、窓辺に戻った。


「塔は、池のすぐそばにあるんです! そのまま飛んだら――」


 ああ、建物に衝突してしまう。クナは思わず目をつぶった。そのとき窓のすぐ真ん前に雷が落ちた。何かが砕けるような恐ろしい音が響き渡る。

 鉄の竜が撃たれたのか。それとも塔の壁に激突したのか。 


『……なんとか着陸しました!』


 サン姫の声に、クナはへなへなと窓辺に寄りかかった。


「よかった……」 

『竜の翼が雷に撃たれましたが、降りる寸前でしたので、墜落を免れました』

『ああもう、竜の操縦やなんて、巫女のする仕事やありまへんわ。豪華な客船で、ナダ様に迎えに来てもらいまひょ』

 

 ユィン姫の愚痴には、雑音がほとんど入っていない。お互いの距離が縮まったからだろう。

 姫たちは庭園を調査すると伝えてきた。空間を捻じ曲げるには、大きな結界が必要だ。それを支える柱が四方に設置されているはずだという。


『ほんに、けったいな。手を突っ込んだら、すぐ隣からにょきっと出て来るやなんて』

『ここが境界線ですね。隅は……ああ、ありました。文字通り、柱が建っております。一か所壊せば……陛下、シンミン様が鉄の竜で破壊してくださるそうです』


 鉄の竜が一騎、池の岸を走っていく。どずんどずん、重い足取りで進み、そして……フッと消えた。窓から様子を見ていたクナは目をこすった。空の暗さに呑まれたわけではないようだ。

空間を閉じる柱とその周辺は、こちらからはどうにも見えないものらしい。


『ああ! 庭園の奥から、金属の獣が駆けてきます!』

『さすがに、柱を守る守護者がおりますのんか。うちらも竜の操縦席に戻って、援護しまひょ!』


 姫たちの竜が走り出し、そして消えた。とたん、鏡を抱き締めるクナのもとに、姫たちの姫委が流れてきた。 


『シンミン様!!』

『きゃあああ!!』

「だっ……大丈夫ですか?!」


 しばらく、返事がなかった。

 クナは震えながら何度も鏡に呼びかけた。 


「お願い……お願いだから無事でいて。どうか……」

『……陛下すみません、鏡を弾かれてしまって、いっとき報告ができなく……全員なんとか無事です。柱も破壊できました』

「見える……ええ、窓から見えるようになったわ」


 クナは窓から身を乗り出した。閉じられた空間が解放されたようだ。体が捻じ曲がることなく、外へとちゃんと出てくれた。見れば左右に、同じような塔がそびえている。右手の奥に、真っ二つにへし折れた太い円柱と、ぎらぎら燃え上がる金属の獣たちの残骸がある。翼と尻尾が砕けた鉄の竜が二騎、その真ん前にしゃがみ込んでいた。


『塔が姿を現しました!』


 擱座した竜から姫たちが転がり出てきて、こちらを見上げた。二人とも、どうやら無事らしい。安堵したクナは大きく手を振った。


「ここです! あたしはここにいます!」

『なんて高い……これを丸ごと、隠していたなんて』

『あかん、急いで塔の中に入ったほうがよろしいわ。庭園からまだまだ、獣たちがやって来よる』


 シンミンがよろよろと竜から出てきた。片腕をおさえて、びっこを引いている。彼は無傷では済まなかったようだ。それでも若き武人は姫たちと共に、三基ある塔の真ん中に進んできた。

 塔の中にも敵がいるかもしれないが、大きな獣のような手ごわいものはいないだろう。人型のものならば、霊力でなんとか対処できる。三人はそう踏んだらしい。


『扉に鍵が……』

『うう、霊力で吹き飛ばせない!』

『落ち着きやれ! もう一度集中して、霊波を――』

『だめ! 獣たちが駆けてきます! 間に合わな……』

 

 塔の真ん前に獣たちが迫る。だめだ。間に合わない。もはや鉄の竜という鋼の鎧もない今、生身の人間三人が、大きな相手にかなうはずがない。クナは鏡に叫んだ。


「上へ逃げて! 浮遊の術でしのいで!」

『陛下?!』

「風を! 風を送るから!」


 迫りくる獣に翼はない。そんなに高くは飛べないはずだ。

 クナは窓から手を突き出して、祝詞を唱えた。

 

 われかしこみ、ねがいもうす

 空裂く風よ、わが腕と成れ!


 この風雨。たくさんの精霊たちが荒ぶっている。彼らの力を借りればいい。

 クナは包帯だらけの腕をいっぱいに伸ばし、広げた手から霊力を放出した。

 風よ。風よ。風よ……!

 押し出した霊力に風の精霊たちがからめとられて、つむじの風が巻き起こった。荒ぶる風の精霊たちは窓の外でぐるぐる回り、大きな渦となっていった。

 ましろの竜巻がシンミンたちを巻き上げたのと、獣たちが塔の扉めがけて飛びかかってきたのは、ほぼ同時だった。

 もっと高く。高く。舞い昇れ――

 クナは歯を食いしばって腕をぐっと引き寄せた。

 腕に巻かれた包帯が勢いよくはじけ飛ぶ。びきびきと腕の骨がきしむ。渦は重たく、今にもあらぬ方向へ行ってしまいそうだ。精霊たちの勢いがすごくて、ずるずると窓の外へ引っ張られる。すんでのところで窓枠にしがみつき、腰を落としてじりじりと部屋の中へ後退した。


「陛下! なんという御技を」

「ありがとうございます!」


 姫たちの声が鏡からではなく、直接聞こえてきた。窓の外に渦に持ち上げられた三人の姿が見える。クナは力をふりしぼって、精霊の渦を部屋の中に引っ張り入れた。

 目を見張るシンミンや姫たちが床に転がったのを見た瞬間、クナは手綱をゆるめた。竜巻がはじけて周囲に散っていく。


「すめらの星と呼ばれた陛下は、相当な舞姫と聞いておりましたが。なんと見事な……!」


 シンミンが舌を巻きながら起き上がる。だが、すぐに膝をついた。肩からの出血がひどい。ユィン姫が急いで自分の袖をはいで、彼の肩と足にきつく巻きつけた。

 窓から精霊たちを解放したクナは、サン姫のそばに駆け寄った。足を怪我したのか、太陽の姫が起き上がれずに身を縮めたからだった。


「だ、大丈夫です、足を少しひねっただけですから」

「きっと骨が砕けてますわ」


 ユィン姫が蒼い顔でクナに伝えた。


「鉄の竜が獣の突進を食らったとき、操縦席が押し潰されたんです。結界でしのぎきれへんぐらいの衝撃でした。こん状態でよう、塔の前まで走ってこれましたわ」


 陛下のもとになんとしても。そう思ったのだとサン姫は微笑んだ。

 サン姫は自分の袖を裂いた。足に巻くのかと思いきや、姫は迷わずそれをクナの両腕に巻いた。クナも満身創痍。包帯が破れて血まみれだったからだ。真っ白い甘露が腕からしたたり落ち、部屋には甘露の香りが満ちていた。


「サン姫……!」

「じっとしてください。救出にあがるつもりが、助けていただいて、面目次第も……」 

「だめよ、あなたもちゃんと処置しなくちゃ」


 クナは自分の袖を裂いて、サン姫の足にせっせと巻き付けた。シンミンに肩を貸しながら、ユィン姫が苦笑した。

 

「あらまあ。みんな、袖無しになりましたわ」





 クナは負傷者たちを寝台に座らせたかったが、武官も姫も一様に首を横に振った。

 大技を使って疲れているクナこそ、そこで休んで欲しい。

 皆口を揃えてそう言うので、クナが渋々寝台に座すと。シンミンはクナに深く拝礼し、古図に記されていたというこの塔のことを述べてきた。

 曰く、この塔は三基そびえたつものの真ん中にあり、天守の塔と呼ばれていたという。太子監に所蔵されていた他の資料によれば、大安の天守は内裏の奥に在るまことの内裏とされ、大殿の玉座には影武者が鎮座していたそうだ。


「皇帝は至高の神である。三つの塔は、そのような思想のもとに建造されたらしいです」

「すごい。シンミン様は、勉強熱心であられたのですね」

「いえ。卒業試験に通るために、一夜漬けで叩き込んだ知識です。昨年のことで、まだ記憶に新しいだけですよ。試験を受けたときは、大安の防衛機能なんて何で学ぶ必要があるのかと、ぶつくさ言ってたんですけどね……左右の塔の名前も古図に書かれてたはずですが、いやはや思い出せない」


 もっと真面目に勉強しておくのだったと、若き武官は頭を掻いた。


「まことの皇帝が住まいし処とは。そんなたいそうなところに閉じ込めるやなんて、あのけったいな影法師、ずいぶんと陛下に執心ではあらしまへんか?」


 ユィン姫が眉根を寄せる。クナは困惑顔でこくりとうなずいた。

 影法師はクナの良人だと名乗ってきた。自分こそ黒髪の人だと、臆面もなく。

 背中がぞくりとする。なぜだろう、胸が痛い。しくしくして、とても座っていられない気分だ。

 クナはそわそわと扉に視線を投げた。


「扉には鍵がかかってません。空間の閉鎖が鍵だったからです。だからたぶん、すんなり廊下に出られると思います。でも、塔の中に何がいるのか、警備兵がいるのかどうか、まったくわかりません」

「陛下、このまま外へ出るのは危険です。今一度、大安の外へ伝信を飛ばせないか試してみましょう。留守を預かる御方に援軍を求めるのが得策かと」

 

 サン姫が大殿から持ち出した鏡は、塔の真ん前に落ちてしまった。この部屋の鏡でなんとか伝信を飛ばそうと、皆はクナが床に置いた鏡を囲んだ。

 普通に結界を張るように霊力を出して欲しい。シンミンにそう乞われたクナは、両手を組んで集中した。

 たちまちあたりに神霊の気配が降りてくる。

 誰もが傷を負い、一人一人の霊力は弱っていたけれど、四人は互いの力を支え合った。

 シンミンが武官に伝わる祝詞を唱えて、その波動を外へと反転させた。真白の波動が鏡から湧きたち、ぐるぐると穏やかに回る渦巻きを作っていく。


「やはり陛下の力が一番強いですね。これならきっと外に……回線を走査。繋げます……!」


 白い渦を立てる鏡の中に、うっすら何かが映った。長い髪を垂らした人影。輪郭が徐々にはっきりしてきた。髪は白い。頭には冠。見事な錦を羽織った龍蝶……


「アオビさん!」


 クナは鏡に映った者に呼びかけた。


「アオビさん! あたしです! あたしは今、敵方の技師に捕らえられて、大安の塔に閉じ込められています。剣が悪鬼を退治したと、技師は伝えてきました。彼は私たちに与してくれるそぶりですが、あたしが譲位しないことを望んでいます。ですがあたしは決して、受け入れるつもりはありません。どうか今すぐ、譲位を――」


 鏡に映る龍蝶の青みがかった瞳が見開かれ、その口が開く。


『陛下――』


 だが、アオビたる人の言葉は、こちらに届かなかった。ぶつりと大きな音がして、龍蝶の姿が消えた。闇色の煙がもくもくと鏡面に流れ込み、別の人影をかたどっていく。


「うう、回線に割り込まれました」


 シンミンが悔しそうに呻く。クナはハッと身を硬くした。

 映ったのは黒い影法師。その姿がどんどん、はっきりしていく。前はぼんやりとしていた顔が、今回はよく見えた。涼やかな目。鼻筋の通った端正な面立ち。長い黒髪……


「黒髪さま……」


 思わずそうつぶやくと、鏡の中の人はこの上なく優しい微笑みを投げてきた。


『そうだよ。私は君の良人だ。君を誰よりも愛する者。結界が壊れたようだね。張り直しにいくよ』

 

 違う。あなたは違う。

 うろたえて否定すると、相手は首をわずかに傾げた。


『まだどこかに不備があるかな? 体は君の良人そのものだし、臓腑に残っている記憶も全部読み取ったんだが』 

「え……黒髪さまの体を……」

『剣が邪魔なものを取り除いてくれたから、すんなり体内へ入れた。ちなみに、排除作業をしたのはルデルフェリオの剣ではない。私が直した本物の戦神の剣を使ったんだ。だから、ルデルフェリオを責めないでやってくれ』

「邪魔なものって……排除って……」 


 胸が痛い。喉から心臓が飛び出そうだ。


「まさか、黒髪さまの魂を……? そんな……そんな……!」 


 鏡の中の人は怪訝な顔をして、首をさらに傾げた。


『なぜそんな哀しそうな貌をする? 私は完璧に、君の良人そのものになったのに』

「だってあなたは、絶対違う。黒髪さまじゃない!」

『いいや、同じ物だ。たしかに、古いものよりも君のことをもっと愛しているだろうが、それは困ることではないだろう』

「器じゃない。見かけじゃない。あたしが愛しているのは……」


 クナの言葉は、涙に呑まれた。体が震えてくる。涙があふれて止まらない。だが、鏡に映る人は大丈夫だと目を細めた。


『記憶を読んだと言っただろう? 私の魂もじきに、君の良人そのものになる。君にとっては何も変わらない』


 嘘だと思うなら、実際に会って確かめたらいい。結界を直したらそちらに行く。

 黒髪の人になった者はそう言って鏡から消えた。

 シンミンはクナの様子にたじろぎながらも、アオビとの回線を回復させようとした。なれども相手は防衛結界を強めたのだろう、鏡は真っ暗になり、うんともすんともいわなくなってしまった。


「陛下……その、なんと言ってよいか」

「うち、外を見てきますわ」


 ユィン姫が口を引き結んで窓辺に寄る。とたんに姫は、池を渡ってくる人がいると、緊張した面持ちで告げてきた。


「く、黒髪さまの体を奪った人が、来る?」

「はい。ひたひたと、水の上を歩いて来よります。長い黒髪で黒衣の……」


 食い入るように池を眺める姫は、あっと声をあげた。


「歩みが止まりました。なんや、様子がおかしいです。しゃがみ込んで頭を抱えて――」


 姫の言葉が、雷鳴にかき消された。

 両手で耳をふさぎながら、頬を濡らすクナは、窓辺に駆け寄った。

 池をめがけて、雷の雨が降っている。狙っているかのように、何本も。何度も。黒い天から雷が池へと落ちていく。そのただなかに、黒い人が居た。立ち上がろうとしているが、足がおぼつかない。

何とか歩き出すも、突然くるりと背を向け、大殿の方へ戻ろうとする。また塔の方へ踵を返すが、足が進まない。頭を抱えて、唸っている。


「体が言うことを聞いてない、そんな風やあらしまへんか?」

「これは……」 

 

 クナは湿る目を見開いた。雷の光が、黒い人を照らす。その顔がカッと輝く。

 苦悶の表情。何かと必死に戦っているような。何かをしきりに追い出そうとしているような。


「いるんだわ……まだ中に、いるんだわ……!」


 それは一縷の望みだった。

 そう思わずにはいられなかった。

 黒髪の人は生きている。きっとまだ、魂はあの体の中にいる。

 クナは、そう信じようとした。


「黒髪さま!!」

「陛下!?」


 ただ、腕を伸ばしたつもりだった。そばに行きたい。そんな思いで。

 なれども気づけばクナの体は、窓から飛び出していた。慌てて祝詞を唱えて風を呼び、落ちゆく体を浮かせ、クナは飛んだ。手を薙ぎ、まるで翼ある天女のように。されど空裂く弓矢のように。


「黒髪さま!! 黒髪さまぁああっ!!」


 目の前に雷が落ちる。池の水が吹き上がる。丈高く立ち昇る水しぶきの向こうに、クナは手を差し伸べた。

 どうか届けと、願いながら。

 

 



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[一言] 黒髪様。黒髪様。頑張って。どうか。再会を……
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