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黒の舞師 ~身代わり巫女は月夜に舞う~  作者: 深海
七の巻 御光の女帝
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26話 顔のない者

 雨が降っているらしい。

 天が泣いている。大地も慟哭している。

 がらがらと空が裂け、ごうごうと地が唸りを上げている――

 天翔ける轟音と地震によって、クナの意識は揺り起こされた。


「ここは……」

 

 クナは、天蓋付きの柔らかな寝台に寝かされていた。寝台を囲む幕は紗で織られているのだろうか、部屋の中が透けて見える。

 今はたぶん、夜ではないのだろう。けれども大きな円窓から見える空には暗雲が垂れこめていて、異様に暗い。土砂降りの雨が降っていて、稲光が走るたび、室内が青白く浮かび上がる。


「ここは、大安にある建物のどこか?」


 壁のレリーフの絢爛さに、クナは息を呑んだ。神獣であろうか、壁には大きな鳥や獅子のごとき獣の浮き彫りが連なり、太陽紋が刻まれた扉をめざして行進している。金箔が被せられていて、きらびやかなことこの上ない。扉の上には、胴の長い龍の彫刻がとぐろを巻いている。たぶん、ミカヅチノタケリを模したものだろう。

 つんと薬臭い匂いが襲ってきたので、クナは顔をしかめた。頭にも手足にも包帯が巻かれている。べったり軟膏が塗り込んであるようだ。


「この薬……黒髪さまはよく、こういう薬を作ってた。薬草の知識がすごかったもの」 


 もしかしたら。

 クナは儚い望みを抱いた。

 黒髪さまが、治療してくれたのではないかしら……

 ああでも、薬草の技に長けている者は、もう一人いる。すらりと背の高い、影法師。


「あたしを眠らせたのは、黒髪様の分身? あのマクナタラ?」


 輝く獣でクナたちを囲んだ者は、まるで本物の影のよう。貌がよく見えなかった。

 声は黒髪さまにそっくりだったけれど……


「いいえ。ありえないわ。マクナタラは時の果てに行ってしまった。過去の世界で、花になったんだもの」


 九十九(つくも)の方がみまかった時、彼女を守る花畑も消えた。

 白い花となったマクナタラは、龍蝶の魔人だから死ぬことはない。何か別の物に変化したのだろうが、わざわざこの時代に戻ってきて、クナを妨害するようなことはしないだろう。

 マクナタラは、この世で一番美しい光景を目の当たりにした。すなわち、九十九の方が永らく待って、ついに降臨した御子を抱きしめた、あの光景を。そのとき彼は、自分がまこと、母に愛されていたことを認識したに違いない。だからもう二度と、母や自分を消してしまおうなんて思わなくなったことだろう。


「幻像の玉……!」


 焦げ臭い単衣の懐を調べて、クナは安堵した。伝信玉は失われていたが、九十九の方の記憶を収めた幻像の玉は、無事に残っていた。

 早くこれを、黒髪さまに見せたい。 

 ここが大安であるならば、どこかにいるはず。見つけたい。探さなければ――

 壁を行進する神獣たちが凝視するところ。黄金で縁取られた扉を、クナはぐっと両手で押した。扉に鍵はかかっていないようで、重い扉がゆっくり開く。


「う? ここも部屋なの?」


 びかりと空に稲光が走って、扉の向こうを照らし出す。大きな寝台のある部屋。壁には神獣たちが行進している浮き彫り。今いるところと瓜二つだ。

 いや――そこは、クナがいた部屋そのものだった。奥にある寝台の幕を思い切って除けてみれば、薬臭い体が寝かされていた形跡があった。薄い毛布や枕の位置も、そっくりそのままだ。

 クナは踵を返してもう一度、扉を押して向こうへ抜けた。確実に外へ出た。そう感じられたのに、やはり……


「部屋に戻されるわ。空間が、閉じてるの?」


 なんとも意地悪な結界だ。霊力をぶつければ、壊せるだろうか。

 クナは祝詞を唱えて気配を降ろし、たちまちのうちにつむじ風を紡いで、扉めがけて放ってみた。

 巫女の結界と同種のものならば、これで壊れるはず。そう思って扉を開けてみたが、やはり部屋の中へ強制的に戻されてしまう。

何か突破口になるものはないかと壁の浮き彫りをつぶさに眺めると、半人半馬の神獣がかかげる鏡が、雷でぎらりと光った。よくよく見れば、本物の鏡が嵌まっている。クナはそこへ近づき、鏡面を見つめた。これが伝信の力を持つ霊鏡であるとよいのだが。そう思いながらおそるおそる触れてみたとたん、鏡に人影が映った。

 すらりと細い影法師。

 クナを捕らえた、顔のよく分からない技師だ。


「目覚めたかな、今上陛下」


 声はやはり、黒髪さまにそっくりだ。でもこれは。この人は……


「マクナタラじゃない。あなたは……だれ?」

「おや。眠ってもらう前に、名乗ったはずだが」

「辰三寶は、あたしの良人が先帝陛下よりたまわった名です。見も知らないあなたが勝手に名乗っていい名ではありません」

「つれない言葉だ。君は私の伴侶。そうだろう?」

「いいえ。違います」


 なぜ顔がぼやけているのだろう。なぜよく見えないのだろう。


「本当は君を迎えにいくつもりだったが、手間が省けた。君が自ら、大安に来てくれて嬉しいよ」

「シンミンさんはどこですか? 二人の姫は?」

「心配しなくていい。君の手足をもぐようなことはしていない。別室にて歓待している。今、落雁を出したところだ」


 だめだ……声も姿もマクナタラに似せている、ということぐらいしか分からない。この直感が合っているということは、断言できるけれど。この人は一体何者なのだろう?


「我が伴侶にもお菓子をあげよう。いや、林檎の方がいいかな。ゆるりと休んでほしい。君の敵は消え去ったのだから」

「消え去った?」

「帝を名乗る龍蝶は消滅した。君の剣が、あの人の魂を砕いた。今や生ける屍だよ」

「ルデルフェリオさんが悪鬼を……剣は今どうしていますか? まだだれかを探して傷つけたりは……黒髪さまを見つけ出して、攻撃したりは……」

「剣は大安の玉座の間にいる。まだ荒ぶっているが、すぐにおとなしくなるだろう。君の良人は、ちゃんと鏡に映っていると思うが」


 いいえ、あなたは違う。そう呟いてクナが睨むと、相手の声音が急に変わった。


「遺憾だ。実に、遺憾だ」


 吐きそうなほど甘ったるい声。なぜかそれは稲光の音にかき消されることなく、クナの頭の中にはっきりと響いてきた。


「残念なことに、君は仮初めの皇帝だ。皇国が戦時状態にある時にのみ権能を与えられる、戦皇(チャンファン)。戦が終われば、お役御免となる」

「ええそうです。戦が終わったら、先帝陛下に帝位をお返しする。その約束で、あたしは帝位につきました」

「だめだ。それはいけない。君は、すめらを末永く統べるべきだ。タルヒの娘」

「いいえ、それはできません。約束を違えることは――」

「君はじっくり傷を癒してくれ。その間に私は君を、すめらの真の皇帝にしよう」

「待って、消えないで!」


 鏡から人影が失せていく。クナは呆然とへたり込んだ。

 帝室に入ってほしいと苦肉の策を提案してきた元老院も、実のところはクナが帝であり続けることを望んでいる。でもそれは、到底無理な話だ。先帝はクナが帝位についたことに、断固たる不満を表明している。これで復位が叶わなければ、大陸同盟に訴えて兵を挙げるだろう。

影法師は、すめらにまたぞろ、戦を呼び起こすつもりなのかもしれない。内乱を起こして混乱を継続させる。その間に何らかの企みを成就させる。たとえば、悪鬼を復活させるとか。そんな腹づもりでいるのだろうか。

 好き勝手される前に、大安から出なければ。黒髪さまを救い出して、共に。

鍛冶師の剣も、シンミンや姫たちも、一緒に。皆で、ここから脱出しなければ。


「伝信を飛ばさなきゃ。あたしはここにいると、皆に報せなきゃ」 


 クナは鏡の枠を丹念に調べた。影法師が映ったのだから、他のところにも繋がるはずだ。枠の突起を弄っていると、ざあざあと砂嵐が映り始めた。どこかに接続されたのかもしれないと、クナは一縷の望みをかけて鏡に呼びかけた。


「だれか! 聞こえますか? どうか、この声を聞いてください! だれか!」





 全身漆黒の少年は、砕け散った玉座から舞い上がった。

 大理石の床に流れる、しろがねの髪。眼下には竜蝶が伏している。頭部が半分吹き飛んでいるが、みるみる再生している。不死の体ゆえだが、もう二度と起き上がることはないだろう。竜蝶の秘法を食らって、魂が破壊されたからだ。けれども、少年の貌に歓喜は訪れなかった。 


「くそ! 洗脳は解けたはずなのに」

 

 悪鬼の技師に修理された聖剣が止まらない。びかびかと柄の宝玉を真っ赤に輝かせ、いまだかつてない勢いで、少年の剣の力を吸い込み続けているのだった。


「カリブルヌス! 今すぐ、僕の力を吸うのを止めろ!」


 真紅の吸魂の石の中に封じられている者には、意識があるのかないのか。完全にだんまりだ。

 剣の代わりに、少年の内に在る鵺がのんびりと応えた。


「あいつ、底なしだ」

「ああそうだね。馬鹿みたいに強化されてる。でも、吸われたものは吸い返す」

「永遠に、きゃっちぼーるになるぞ」

「なるものか。力を吐かせながら、破壊する」


 黒い翼をはばたかせ、少年は聖剣に突進した。なれども真っ赤に輝く剣は、渾身の突きをなんなくかわした。ひらりと身軽に、手練れの武人が扱っているかのように動き、鮮やかに振り薙いでくる。

 紙一重で避けた少年は、負けじと猛攻した。突き、突き、薙ぎ。目にもとまらぬ速さで攻め、返しの一手で突風を叩きつける。しかして聖剣は自ら結界を展開し、いとも簡単に受け流した。


「ぜんぜん吐かない。鉄壁だ」


 聖剣の動きが速まる。瞬く間に少年の後ろに回り込み、広刃を振り下ろしてくる。

 少年はとっさに身を縮めたが、完全回避できなかった。黒い羽毛が、パッとあたりに飛び散った。


「翼が片方なくなった」

「たいしたことない!」

「いいや。こいつ強い。剣聖を相手にしてるみたいだ」

「してるみたいじゃなくて、してるんだよ。エクス・カリブルヌスは代々の主人を英雄にしてきた。剣聖ヤッハルカもこいつを使った。こいつこそ、まことの剣聖なんだ」


 聖剣が躍る。薙ぎ。薙ぎ。突き。一秒のうちに幾度となく、剣と少年は刃を交わした。

 そうする間にもどんどん、少年の力は聖剣に吸われていった。

 そしてついに。


「また、翼を斬られた。やっぱり強い」

「く……! 強化されすぎだ!」


 再び、黒い羽毛があたりに散る。翼を失った少年は軽やかに回転して大理石の床に降り立った。

 そのとき、鵺が呻いた。


「あ。だめだ。引き寄せられる」

「待て。ふんばれ。僕と同化しろ!」

「いやだ。俺は常に、俺でありたい」 


 少年の肌から闇色が抜けていく。鵺が引き剥がされたのだ。黒い影の塊が少年の頭上に浮き上がったと思いきや。それはあっという間に、沈黙の聖剣に吸われていった。


「くそ! 剣将の力もあらかた吸われたか。吸魂の力が前と桁違いだ。このままじゃ……ああ、だめだ。エクステル!」


 少年はみるまに、ましろに輝く塊と化した。力を吸われたせいで、現界する力もおぼつかなくなったのだ。しかも手に持つ剣から少女の魂が引き抜かれたので、彼は慌ててその後を追った。

 聖剣の赤い光が、少年と少女の魂を包み込む。ぎゅるぎゅると、宝玉の中へと吸い込んでいく。

 少年だった光の塊は、少女の魂をくるんで守りながら宝玉の中へと落ちていった。


「なんだ、おまえもきたのか。いじわるな鍛冶師」


 鵺が苦笑いして、真紅の渦の中から手を振ってくる。


「意地悪は余計だ」 


 ぶっきらぼうに答えた鍛冶師は、「剣の中」をざっと見渡した。


「なんだこれ……ほとんど全部、シナプスが組み直されてる。今までと全然違う構造になってるじゃないか」

「ねむいな。とろけそうだ」


 鵺の欠伸を聞いた鍛冶師は、少女の魂を包むおのが魂に結界を張った。蘇った剣は消化能力も増しているらしい。食らったものをどんどん溶かしているようだ。


「なるほどな。この組み方だと、各種機能が相乗されるのか。なんていうか、目から鱗の配列だな。エクス・カリブルヌス! どこにいる? 返事をしろ!」


 剣の意識はどこにいるのか。探してみたが、どこにも見当たらない。


「防御力を高めるために隠蔽されてる? 悪鬼の技師は龍生殿に居たらしいけど。こんなに腕の立つ奴だなんて……」


 タケリを大安へ導き。黒髪の力を自在に切り貼りし。聖剣を蘇らせて強化する。

これほどの技を駆使する技師とは一体?


「いやだ。消えたくない」


 鵺の嘆きが聞こえてくる。必死に結界を張って我が身を守っている。鍛冶師も同化の波に耐えようと、二重三重と守りの壁をくり出した。そのとき――


――「終わったようだな」


 外の世界から、勝ち誇った声が聞こえた。真紅の渦の中心に玉座の間の光景が映る。

 剣に嵌まっている宝玉に映るものがそのまま、投影されているらしい。

 伏した竜蝶の前に、いつの間に現れたのか、すらりと背の高い影法師が立っている。


――「鵺も剣将も、そしてルデルフェリオも。すべて吸い尽くしたか。我が剣はまこと、無敵の神剣となった。それにしても、哀しいことだ。私は君に再三、機会をあげたのに」


 影法師は憐憫たっぷりに、伏した竜蝶に語りかけた。


――「帝位を追われた君を、私は幾度となく助けた。君を玉座へ戻し、君の望み通りに大陸を滅ぼそうと、天から災厄を呼んだ。皇国の支配機能(大スメルニア)に封じられた君を憐れみ、棺に細工して、すぐに復活できるようにしたし。剣将を封じた刀も、すぐに封印が解けるようにした。タケリだけでなく、人智を超える黒髪の魔人の力すら、与えたのに」

「なんだって? 災厄を起こしたのはこいつ? 剣将の封印をいじったのも?」


 鍛冶師の魂が驚きで震えた。影法師は、あのマクナタラにそっくりだ。なれども顔はぼやけてよく見えない。黒き衣をまとう体の輪郭も、かなりぶれている。


「顔が無い……ってことは。もしかしてこいつは、一個の存在じゃない?」


――「やはり、これが君の天命なのか。どんなに肩入れしようとも、君は滅ぶ。そういう運命だったのか。すなわち次も、結果は同じ。不幸な終焉を見せられるだけだ。なれば私は、諦めねばならぬ。君とではなく、他の者と、歩まねばならぬ」


「ああ、そうだ。きっとそうだ。こいつは『個人』じゃない。何かの集合体だ。でも、天体や自然現象の精霊とは違う。こいつはたぶん、大地に生きるものが、無意識に生み出したもの……」 


――「さらばだ、運のなかった皇帝よ。君の跡は、君の孫が継ぐ。君と同じ魂を持つゆえに、私は誠心誠意、彼女を愛するだろう。豊かなる百の州。輝くまほろば。永遠(とわ)に栄えし大皇国は、彼女と共に、大陸を統一するのだ」 


「やっぱりそうだ。こいつは……すめらを誇り、愛する人々が織り成した、無意識の概念……!」

影法師は、天井に浮かぶ聖剣に向かって手を差し伸べた。ゆるやかに回転しながら、剣が彼の手の中へ舞い降りる。黒い衣が影からできていることを見て取って、鍛冶師は自分の確信を深めた。


 影法師は本物の影。実体はない(・・・・・)。だから顔がないのだ。


――「私は、我が伴侶にふさわしい者とならねばならぬ。ゆえにこの姿かたちをまとったが、それでも我が伴侶は納得せぬ。かくなる上は、本物になるしかなかろう」

 

 影法師は片手に剣を持ったまま、すうっと砕けた玉座の背後に回った。彼が至ると音もなく、大理石の床がずれていき、地下へと続く階段が現れた。足音ひとつ立てずに、影法師は大理石の階段を降りていった。

 いにしえの帝宮の地下は、大迷路の様相を呈していた。

 通路は狭いがひどく明るい。組まれた壁石自体が煌々と光っていて、まるで真夏の炎天下にいるようであった。

 影法師はいくつもの分かれ道を迷わず選んで進み、最奥にあるのであろう、巨大な両開きの扉を開いた。

 扉の先には、巨大な空洞が広がっていた。

 壁は一面、透き通った岩で覆われ、まぶしく発光している。迷路のような通路の石は、ここから切り出されたものにちがいなかった。鍛冶師は思わず、光り輝く空洞に見とれた。


「一体なんの鉱石だ? もしかして、ましろの光り石? 何万年も、太陽の光を封じ込める力を持つ……希少な宝石の原石がこんなに」


 空洞の奥に、いっそう美しいものがある。光る岩石を加工したものだ。それは完璧な球体を成していて、真ん中に植物がからみあったような複雑な文字が、帯のごとくに彫られていた。

 影法師がその帯に触れ、いにしえの文字を読み上げると、岩の球面に音もなく、入り口が現れた。

 球体の中は想像したよりも広かった。壁は表面と同じくすべらかで、完全に丸い。

中央に水源がある。三つ連なる円の泉で、神秘的な色合いの水をたたえている。

 聖剣を持つ影法師は、まったく足音をたてずに、その泉に近づいていった。

 鍛冶師はその泉がなんたるかをひと目で悟って呻いた。


「時の泉じゃないか。灰色の技師が作り出す、最も神秘なるもの」


 なぜに三つ連なっているのかというと、泉は過去、現在、未来という、三つの時の流れを具現化したものだからだ。すなわち左右の泉は、それぞれ過去と未来へ流れている。そして現在である真ん中の泉は、時間が止まっている。


「この泉は、時間遡行に使われるだけじゃない。真ん中の泉は、完全に時間が停止してる。だから……ああ、やっぱり……!」


 影法師が、真ん中の泉の前に立つ。その泉の中に、何かが沈められていた。

 蒼い水の中に、黒い衣と、長い黒髪がたゆたっている……


「見つけた。黒髪。うん、魔人を凍結するには、この泉が最適だよね」


――「浮き上がれ。不死の魔人よ。我が伴侶の良人よ」


 影法師がなにやら古めかしい呪言を唱えた。と同時に、泉の中にいる者が、ゆっくり浮き上がってくる。濡れた黒髪から。黒き衣の袖や裾から。蒼い滴が水面に落ちる。

影法師は、蒼き水面を割って宙に浮いた黒髪の人を、そっと泉の前に降ろした。


――「その不滅の体、もらい受ける。黒髪の者がそばに在る。それが、我が伴侶の望みゆえ。伴侶と永遠に歩む。それが私の望みゆえ」


「なるほど。こいつ、黒髪にとって代わろうっていうのか」  


 影法師は聖剣を振り上げた。剣の中には鵺がいる。顔のない者はむろん、それを利用するつもりらしい。鍛冶師が使った竜蝶の秘法。魔人の魂を砕く韻律を、ぶつぶつ唱え始めた。


「あは。僕の代わりにこいつが黒髪の魂を砕く? それは――」


 鍛冶師は笑った。声をあげてしばし、思い切り笑った。

 そして突然黙り込み、氷のような冷たい声で囁いた。


「それは嫌だな。復讐を、誰かに肩代わりさせるなんて」

「俺もいやだ」


 鵺の呻き声が聞こえた。


「黒髪の魂を砕いたら、甘いのが泣く。だから嫌だ。でも、抗えない。外に引きずり出される」


 剣の柄が赤く輝く。秘法の術式が組み上げられ、あたりに魔法の気配が満ち満ちていく。

その時。途切れ途切れに、だれかの呼び声が聞こえてきた。

 聖剣が、あるところから飛ばされた伝信の波を受け取ったのだった。


『だれか! 聞こえますか! あたしはしろがねの帝です。悪鬼が消滅したと、あたしは敵の技師から聞かされました。それがもし本当ならば、あたしはただちに、先帝陛下に譲位します!』


「ああ……スミコちゃん……」 


 ひたむきで。必死で。まっすぐな声。

 鍛冶師の魂が震えた。 


『あたしの名のもとに、だれかが戦うことのないように。必要のない戦に巻き込まれないように。どうかこの宣言を聞いて下さい! あたしは、譲位します! ルデルフェリオさん! 聞こえますか? シンミンさん! 姫たち! だれかどうか、可能ならば一緒に、外に発信してください! 

あたしは、ただの竜蝶に戻ります! あたしは……あたしは、良人と共に、静かに、平和に、暮らしたい……だから……』


 気丈な声が、涙で崩れていく。嗚咽に呑まれながらも。はなから途切れ途切れながらも。クナの声は、剣の中に響き渡った。



『お願い……あたしたちに、自由をください……』



――「……くそ! 掴まれ、鵺!」

 

 鍛冶師の魂が、今一度震えた。

 刹那。

 光る魂の塊は、ぎゅんと輝く腕を伸ばして、黒い魂を掴んだ。


「今こそ踏ん張れ。外に出るな!」

「だめだ。穴から出される」

「もっと結界を張れ! どこかにしがみつくんだ」


――「私も手伝います!」


 鍛冶師がくるんでいる少女の魂が飛び出した。白く輝くその魂も、黒い鵺に腕を伸ばし、しっかとつなぎ止めた。


「エクステル……!」

「どうか。私たちのあの子に、笑顔を。白い髪のあの子に」


 りんりんと、美しい声が鍛冶師を打った。


「うん……分かった。そうだね。今はそうしよう。得たいのしれない奴に好き勝手させるのは、嫌だもの」


 少年少女、二つの魂が、黒い魂を包み込む。

 なれども、秘法の力は桁外れだった。

 外へ通じる真紅の渦が、ごうごうと回り始める。三つの魂はじりじりと渦に吸い込まれていった。 


「なんて強力な……!」

「やっぱり出される」

「あきらめるな……!」


 鍛冶師が。少女が。必死に腕を伸ばし、聖剣の中に取りすがろうとする。

 なれども、三つの魂はみるみる渦に絡め取られ、外へと押し出された。


 一条の光が剣から走り、不死の体を穿った。

 黒髪の人の魂めがけて。一直線に。




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