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黒の舞師 ~身代わり巫女は月夜に舞う~  作者: 深海
七の巻 御光の女帝
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23話 多々羅の舞

 霊力に満ち満ちているシズリに、まやかしは効かぬらしい。

 燃えさかる炎の中、シズリの甲高い笑い声が、黄昏の空に轟き渡った。

 それは狂いが入ったかのような陽気さにあふれていて、クナの背筋をぞくりとさせた。


「出でよ多々羅(たたら)!」


 目にも止まらぬ回転。堂々として迷いのない跳躍。

 シズリの真紅の裳は、まるで炎の龍のよう。躍り波打ち、あっという間に炎の渦を作り上げた。

 そこから真っ赤な蛇が何頭も現れて、クナたちめがけて飛んできた。


「風よ……!」


 クナはびゅうとひと薙ぎ、すばやく回転して大風を起こした。しかしてシズリが召喚した精霊は、ずいぶんと強力なようだ。燃えさかる蛇たちは消えることなく左右に割れ、みるみる風の柱を取り巻いていった。

 あまりの熱波にクナと二人の姫たちは喘いで、じりじり後退した。


「姉さん、やめて!」

「あらあら、吹き飛ばせないの? なんてちんけな風なのかしら!」


 渦巻く炎の中で、シズリが笑っている。しゃあしゃあごうごう、雄たけびをあげて威嚇してくる炎蛇たちはとめどがない。シズリが裳を薙ぐたびに増えている。

 さすが、悪鬼に見込まれただけのことはあると、クナの背後で琵琶をかき鳴らすユィン姫が呻いた。


「なんという神霊力や。神霊玉を呑んでいるようではあらへんのに、なぜこんなにぎょうさん、力が出る?」


 神殿に住まうすめらの巫女は霊力を高めるために、神霊玉を呑む。その副作用で目が赤くなるのだが、シズリの瞳はそうではない。

 

「陛下と同じ菫の瞳。霊力高き、帝家の血を引く龍蝶ゆえか。炎を操るは、巫女王(ふのひめみこ)の皆伝の技。これは炎の精霊を操る、多々羅(たたら)舞や」


 風の結界はかろうじて、炎蛇たちを食い止めている。なれど熱さがはんぱない。

 息が上がってきたので、クナはよろけてしゃがみこんだ。しかしてシズリの方は、全く疲れた様子がなかった。狂ったように激しく裳を躍らせ、まだまだ精霊たちを呼び続けている。

 こんな大技をたった一人で、えんえんと行使できるなんて。

 息を呑んでシズリを凝視するクナに、猛々しい姉はにやりと、口角を上げてみせた。


「あら大変。袖が焦げてきたんじゃない? その鉄錦(たたらにしき)、さっさと脱いだらどう?」


 シズリの顔は、およそ尋常ではなかった。菫の瞳はらんらんと異様に輝き、鳶色の髪はほとんど炎と化している。どこからこんなに無尽蔵の力が湧いてくるのか。もしかしてまだ、とり憑いていた剣将の力が残っているのか。

 ああ、じっくり考えている暇はない。風の結界が、炎蛇たちによって狭められてきた……

慌ててよろりと立ち上がり、再び舞い始めたクナを、シズリはせせら笑った。


「無様ね。それでタルヒの娘を名乗るなんて、恥ずかしいったらありゃしない。このあたしこそ、あんたが今いる地位にふさわしいわ。だってあんたが呑気に糸を紡いでる間、あたしはこっそり何年も、臘を重ねてたんだもの」


 真紅の裳が躍る。回る。舞い上がる。

 なんと冴え冴えとした舞だろう。

 生まれてこのかた三十年以上、シズリは山奥の村でひっそり、糸をつむいだり畑仕事をしたり。臘として数え上げられるような修行をしていたそぶりなんて、少しもなかった。

 何でもよく聞こえるクナの耳にはいつも、シズリが畑で土を耕す物音が聞こえてきていた。どこかに消えるときは決まって、若者と寝屋にしけこむときだ。一体いつ、巫女の修行をしていたのだろう?

 いぶかしむクナを、シズリは得意げに見下ろしてきた。渦巻く炎が大輪の花のような形にまとまり、ふわりと彼女を押し上げたのだった。


「母さんはあたしに手取り足取り、巫女の技を伝授してくれた。あたしの才能に驚いて、誇らしげに何度も言ったものよ。世が世ならおまえは成人しないうちに、巫女王(ふのひめみこ)になったでしょうって。でも、母さんがもと皇女で、月の巫女王(ふのひめみこ)だったことは、誰にも秘密だったわ。あたしが巫女の修行をしてることも、絶対秘密にしなさいって、きつく言われたわ。何も知らないまま平和に暮らしている龍蝶たちを、乱してはいけないって」


 お前は何も知らないでしょう、クナ。母さんはあたしにだけ、何もかも教えてくれたのよ。

 巫女の技だけではなく、きらびやかな御所や、広大で美しい宮処のことを。なんとも懐かしげに、遠い目をして。たった一人、あたしにだけ。良人(おっと)たちにすら、伝えなかったことを、打ち明けてくれたのよ――

 ゆたりと脇息にもたれかかっているような、甘ったるい声。わざとらしいシズリの自慢に、クナは首を傾げた。


良人(おっと)たち……?」

「あはは! やっぱりあんたは、何にも分かってなかったわね。今の父さんは、母さんの三番目の良人(おっと)。あたしたち姉妹は、それぞれ父親が違うのよ」

「えっ……?」

「一番目の良人、すなわち兄さんとあたしの父さんは、里の長でとても偉かった。隠れ里にさまよい込んだ母さんを受け入れた、高貴な人徳者だったわ。でもあたしが生まれたとき、すでに三百歳を越えてて、ほどなく老衰で死んでしまった。そのあとあんたの父親が強引に、母さんを自分のものにしたのよ。顔だけしかいいところのない怠け者だったけど、あんたが生まれてすぐに、あっけなく病で死んだわ。継子に冷たくしたバチが当たったのね」


 クナの顔色を伺いながら、シズリは炎の中で目を細めた。シガともうひとりの弟の父親は、クナの父親の実弟。頑固だけれど、クナの父親より百倍ましだと、シズリは評した。


「ちゃんと働いてたし、あたしと兄さんを立ててくれたし。ああでも、隠れ里の男はみんな田舎臭くて、無知でうんざり。永く隠れすぎたせいで、自分が何たるかを知らないもんばかりだし。それどころか、文字すらろくに読めないんだもの。なんであんなちんけな山奥に、ずっとずっと籠ってなきゃいけないのって、あたしは正直、納得がいかなかったわ」


 だからあたしは今、とても嬉しい。

 里から出て、こんなに華々しく舞う巫女になったのだから。

 嬉しい。

 嬉しい……!

 大輪の炎花の上で、シズリは天高く跳ねた。真紅の裳がぐるぐると舞い上がり、空で弾けて、炎の雨となって降ってくる。まるで矢のような、恐ろしい勢いだ。クナたちは必死に神楽を奏でて、結界を分厚くした。


「ひいっ……! なんと熱い……!」

「サン姫、錦を脱ぎや! 我慢してたら、焼かれてまう」


 二人の姫がどさりと、鉄錦(たたらにしき)を脱ぎ落とす。

 クナも重い錦を脱ぎ捨てて、サン姫の歌声に合わせて歌い始めた。結界を補強したい一心でとっさにしたことだったが、おかげで、じりじり狭められていた結界の範囲が、元通りに広がってきた。

 いける。さあ、一気に。

 クナは力を込めて、つむじを舞った。


 風よ唸れ 炎を蹴散らせ 

 白き虎となりて 駆け抜けよ


 半月の刃の形をした風の精霊たちが次々現れ、果敢に炎の壁へ飛び込んでいく。じりじりと、炎蛇が成す輪がさらに広がった。

 クナは炎の向こうで舞い続けるシズリを見据えた。分厚い炎蛇の壁が薄くなったせいで、姉の姿がよく見えた。

 躍動する真紅の裳。シズリはなんとも楽しげに舞っている。やはり、息を切らせる様子は微塵もない。目を凝らせばその胸元に、きらりと光る円いものが下がっている――


「あれはまさか……!」


 この目で見るのは初めてだ。

 なれどもクナは、シズリが首からかけているものが何なのか、ひと目で察した。


「母さんの鏡……!」


 クナの胸がどきりと高鳴った。シズリの胸の上で、それは煌々とまばゆく輝いていた。

 空高くに座する、天照らし様のごとくに。





 病で母が亡くなったあと。形見分けのとき、シズリは有無を言わさず、母の鏡を自分のものにした。シガが泣いて欲しがったのを、櫛をあげるからいいでしょうと、姉は優しく宥めすかしたけれど。クナに対してはとても冷たかった。


『目が見えないあんたには、必要ないでしょ』


 当時はっきり、シズリにそう言われた。


『実を言えばあんたには、なんにもやりたくないわ。その着物の切れ端だって、あんたにはもったいないぐらいよ』


 もらった布の切れ端は、月の巫女王(ふのひめみこ)が羽織る聖衣だった。

母がいつも使っていた鏡も、おそらく普通のものではないだろう。

ずっとただの鏡だと思いこんでいたけれど……


「なんて神々しい……」

 

 陽を見て目を焼かれたのと同じく、クナの目は眩んだ。鏡からかあっと、恐ろしい熱が放射されている。まばたきしてもなかなか、視界が戻らない。なんというひかり。なんという……

 巫女となった今なら分かる。あの鏡はおそらく第一級の霊鏡。仙人鏡と同じく、方々に伝信できる機能を持っているだろうし、もしかしたら鏡姫と似たような力を持っているのかもしれない。

 クナは舞い続けながら耳を澄ました。分厚い風と燃え盛る炎に阻まれているが、クナの耳はかすかに、母の鏡が発する音を拾った。

 

ちるちり。ちりちり。ちりりりり。


「なんて美しい声」


 あたかも誰かが歌っているような。そして誰かが楽器を奏でているような。そんな音だ。

唄い手と奏手。シズリの鏡は二役をこなしながら、膨大な力をシズリに注いでいるのだろう。

 薄くて白い単衣の袖で目をかばいながら、クナは思わず聞いた。


「誰? 誰が中に、入っているの?!」

「あら、やっと気づいたの? ふふふ、たくさん入ってるわよ。あんたがわざわざ救おうとした、三番目の父さんや、兄さんや、弟。隠れ里の龍蝶たち。大安に集ったつわものたち。手あたり次第、詰め込めるだけ詰め込んでもらったわ。あんたが大好きな、黒髪の男にね」


 いや、違う。その黒髪の人は別人だ。アオビたる龍蝶が教えてくれた。大安の悪鬼のもとには、似て非なるものがいると。

 クナがきっぱりそう返すと、シズリはけたたましく笑った。


「ふん、黒髪には違いないわ。あいつはとっても腕の良い技師よ。今はおじい様にしか口をきかないけど、剣が(ぬえ)を倒したら、きっとあたしにかしづくわ。さあ、あんたも観念して、あたしに譲位しなさい。タルヒの長女にして、もと里長の娘。血統正しき、このあたしに!」


 すぐ耳元で声が響いた?

 そう思った瞬間。


「くは?!」


 クナはおのれの結界を突き抜けて、はるか後方、平たい船体から突き立つ尾翼に叩きつけられていた。肩にしっかと、燃えるシズリの腕がかかっている。姉は目にも止まらぬ速さで突進してきて、クナたちの結界を破り、クナを運び去ったのだった。


「相変わらず、鈍いわね」

「あ……う……!」


 ずるりと甲板に落ちたクナは、歯を食いしばって起きようとした。なれどシズリはクナの胸を片手で抑え、阻止してきた。

 

「陛下!!」

「馬鹿な! 結界を抜けてくなんて、ありえへん!」


 舞い手がいなくなっても、風の渦はしばらく残る。クナは仰天しながらも、炎蛇の輪の中に取り残された姫たちに叫んだ。


「や、破れた結界を元に戻して!」

「あの子たちを心配してるひまは、ないわよ!」


 シズリはぐいとクナの胸倉をつかんで、再び尾翼めがけて投げつけた。

 細腕のどこにそんな力があるのか、クナは勢いよくそこにぶつかり、また甲板に落ちた。やっとのことで身を起こしたところへ、真紅の裳が伸びてくる。それはたちまち、クナの首にしゅるりと巻き付いた。


「あはは! 榊を落としちゃったわよ、クナ。ほら、風を起こしなさいよ。ぐるぐる舞って、かまいたちで早く裳を斬らないと、死んじゃうわよ」


 真紅の裳がぎりぎりと、首に食い込んでくる。必死にかきむしるが、裳は緩まない。

 このまま絞め殺されるのか。

 そう思ったとたん、体が宙に浮いた。裳にまとわりついている炎の精霊たちが、クナの体を押し上げたのだった。


「う……ぐ……う……!」

「あんた本当に、花音(かのん)とかできるの? じたばたもがいてるだけで、ちっとも風が出てこないじゃない」


 ちゃんと遊びなさいよ――シズリがつぶやいた瞬間、炎の精霊たちが左右に散った。かなり高いところまで持ち上げられていたクナは、まっさかさまに船の背へ落ちて行った。

 必死で手を薙ぐも、風が出てこない。手も足も自由なのに、息ができないから力が出せないのだ。

 なんとか受け身をとったものの、甲板に打ちつけられた体は全身しびれて、目から火花が散った。


「やだ、なにその無様な尻もち。頭から落ちて、首の骨が折れたらよかったのに」

「おのれ、なにをしやるか! 陛下を放せ!」

「や、やめてください!」


 結界を維持しながら、ユィン姫とサン姫がこちらへ来ようとしている。

 だめだ来るなとクナは叫ぼうとしたが、絞められた喉からは少しも声が出なかった。

 

「ほらほら! あたしの頬にかすり傷ぐらいつけなさいよ!」


 炎の精霊がまた、クナの体を持ち上げてきた。上へあげては突然散り。またクナを押し上げては散っていく。

 あっという間に何度も甲板に落とされるうち、あたりに甘ったるい匂いが充満してきた。

 自分の血が、あの甘くて白い龍蝶の甘露が流れているのだろう。

 クナは何とか落ちた榊を拾いあげ、力なく振り薙いだ。

 ひゅんとかすかな風が起きてやっとのこと、首を絞める裳が緩んだ。

 クナを持ち上げていた精霊たちが消える。裳から解放された体がまた、落ちていく。

 ぐしゃりと叩きつけられる寸前に、ユィン姫が真下に滑り込んできた。

 

「あんたたち、邪魔よ!」


 シズリはクナを受け止めた狐目の姫の腰に裳を巻き付け、思い切り振り飛ばした。

 サン姫が走りこんできたが、クナに届くかどうかというところで、やはり裳にからめとられてしまった。シズリの裳はこの世で一番恐ろしい生き物ではあるまいか。真っ赤にうねるそれは、抵抗する姫たちをあっという間に、炎の蛇たちのところへ押しやった。


「ちょっと、もっと真面目に戦いなさいよ。あたしを少しも楽しませてくれないなんて、やっぱりあんたは役立たずね!」


 シズリは咳き込むクナの胸倉をじかに掴み、無理矢理立たせた。


「這いつくばって降参したら、命だけは助けてあげる」

「姉さ……」

「大いなる慈悲をもって、御殿の端っこに住まわせてあげるわ。そこで糸つむぎだの掃除だの、日がな一日おやりなさい。あんたなんかが巫女だなんて。しかもすめらの帝だなんて。あたしは絶対認めないんだから!」


 ぜえぜえと肩で息をしながら、クナは榊の枝をもつ手先に力を貯めた。

 だらりと腕を降ろして力尽きたふりをして、目を閉じて、静かに静かに集中した。

 シズリを倒すためには、鏡を壊すしかない。母の形見だけれど、そうしなければ、シズリを止めることはできない。剣は持っていないけれど、大丈夫。きっとできる……

 

「さあ、ひれ伏して言いなさい。帝位を譲るって。さっさとしないと、殺しちゃうわよ。だって本当は、そうしたくてたまらないんだもの」

 

 クナをぞんざいに船の背に投げおろしたシズリは、いらいらとぼやいた。


「母さんを殺したあんたを、あたしは決して許さないんだから」

「か、母さんが死んだのは、あたしのせいじゃ……」

「いいえ。あんたは本当に、母さんの命を削ったのよ」

「えっ……?」


 二人の姫たちがまた、クナを助けようと果敢に近づいてきている。シズリは舌打ちしながら再び裳を揮って、二人をはるか船首の方へとはじき飛ばした。


「しつこいわね。あいつらも一緒に殺してやろうかしら」

「待って。命を削ったって、どういうこと?」


 聞くなり、がふっと、クナの口から甘い液体が噴き出してきた。

 甘露だ。龍蝶の血。はらわたがやられてしまったのかもしれない。胸が痛いが、まだ力が十分に貯まっていない。あともう少し。もう少し時間を稼げれば……

 床に潰れてうなだれるクナに、シズリは冷たい声を浴びせてきた。


「どんくさいあんたは、ひどい病にかかった。母さんは、巫女王(ふのひめみこ)の技を使って、あんたの病を肩代わりしたの。お願いだからやめてって、あたしは頼んだわ。でも母さんは、躊躇しなかった。もう十分生きたからって、あんたに自分の命を与えた……」

 

 これはあたしだけが知っていること。母さんから巫女の技を受け継ぎ、唯一人、母さんの過去のことを打ち明けられた自分だけが知っている秘密。ああでも。今こそ言ってやる――

ごうごうと足元から炎の柱をいくつも立たせながら、シズリは叫んだ。怒りと憎しみを込めて


「母さんはあたしに口止めした。だけど、こんなの納得できるわけないじゃない。だからあたしは、家族のみんなに言ってやったのよ。母さんが死んだのは、あんたが変な草を飲ませたせいだって。

あんたが売られて、本当にすっきりしたわ!」 

「母さんが、あたしの身代わりに……」


 シズリはまたもや、クナを思い切り投げ飛ばした。

 真紅の裳が巻きつこうと襲ってくる。すんでのところで転がりよけたクナは、怒りに身を焦がす姉を見据えた。


「母さんが、あたしに命を、くれた……」

 

 姉の胸元で輝く鏡。あれを壊さなければ。

 砕けば、中に囚われている魂は昇天してくれるだろう。

 ああでも。母への思いが、邪魔をする。母が大事にしていたあの鏡を割るなんて……

 

 とめて


 そのとき鏡の中から、誰かの声が聞こえてきた。


 早く鏡を割って

 シズリをとめて

 

 炎に妨げられて、その声はかすかで儚かったけれど、クナはしっかり聞き取った。

 中にいる誰か。兄さん? それとも弟? 父さん? それとも……

 

「まさか、母さんも……いる?」

「なんなの? あたしに向かって、そんな憐れむような貌をしないでちょうだい!」


 やっぱり殺すわ。あんたなんか、大嫌いだもの。

 そうつぶやいて、シズリは高々と、裳を薙ぐ両腕を天にかざした。

 剣将に勝るとも劣らぬ炎の柱が、轟きながら立ち昇る。巨大な火球がみるみる、シズリの頭上にできあがっていく。

 

「受けるがいいわ。あたしの怒りを。悲しみを。受けて、燃え尽きるがいい!」


 渾身の霊球が放たれた。甲板を焼き焦がすだけでなく、瓦礫を巻き上げながら、その破壊の弾はクナに迫ってきた。

 

「姉さん、ごめんなさい! 何も知らなくてごめんなさい!」


 叫びながら、クナは跳んだ。やっとのことで貯めた力を使って、シズリめがけて跳躍した。

 高く。高く。天を舞う仙女のように。

 

「クナ……!!」

 

 クナは迫りくる火球を、榊の枝で斬り裂いた。あたかも剣を使うように、両手で持って、一気に。

 刹那、炎の塊はみるみる、散り散りに散っていった。

目を見開くシズリの眼前に舞い降りると、クナはすばやく腰を落として枝を突き出した。


「砕けよ!! ひかり!!」

 

 炎が燃え移った、真っ赤な枝。クナはそれに、おのれの力を全部詰め込んだ。

 姉の胸元で輝く鏡に触れたとたん、榊は黒い炭となって砕け散った。シズリが無駄だと言わんばかりに口角を引き上げる。なれどその嘲笑は、たちまち驚愕に変わった。


「な……そんな! 鏡が割れ……!」


 びきびきと鏡が割れていく。急速に光を失いながら、黒ずんでいく。


「なんてことを! よくも……母さんの鏡をよくも……!」

 

 真紅の裳が首に巻き付いてきた。シズリが両腕でしっかと持っていて、力いっぱい絞めてくる。

 

「クナ!! 殺してやる!!」


 恐ろしい声で吠え猛ったものの、シズリの力はみるみる消えていった。

 炎の精霊たちは、鏡の光に引き寄せられていたのだ。眩しい太陽がなくなると同時に、精霊たちは霧散し、シズリの裳はゆるゆるとだらけて地に垂れた。鬼の形相でシズリはクナの首を絞め上げたが、クナはやすやすと裳を外して、転がり逃げた。

 もはや炎は消えゆくのみ。

 光は、無くなってしまった。世の終わりのごとくに、失われたのだ。

 解放された、魂たちと共に。

 

「絶対に許さない! 死ね! 死ねえっ!!」


 霊力が枯れ果てた。そう悟ったシズリは、懐から短刀を取り出して、がむしゃらに振り回した。完全に正気を失って、その動きは混乱の極み。舞っていた時の艶やかさは、すっかり消えていた。

 床に尻を落として、クナはシズリの攻撃を紙一重でかわしていった。猛然と繰り出される刀が、クナの肩をかすった時。次のひと刺しで勝てると確信して、シズリは刀を天にふりあげた。

 その瞬間――


「失礼、いたしますえ!」


 再三に渡って吹き飛ばされたユィン姫が、シズリの背後に走り寄り、琵琶を思い切り、シズリの頭に叩きつけた。


「は……!!」

「ね、姉さ……」


 どさりと倒れたシズリの肌が、黒ずんでいく。精霊たちに命を食われすぎたのだ。だから体が燃え始めたのだろう。 

 クナはシズリをかき抱き、祝詞を唱えた。

 クナが何をしようとしているか、ユィン姫は瞬時に察して、声を合わせた。

 やっとのこと駆けつけてきたサン姫も、急いで和合した。

 星が隠れていく。空に顔を見せ始めた月も、雲に覆われていった。夜の色と同じ色の雲が、空を覆っていく。

 ぽつりぽつりと、空から水滴が落ちてくる……


「ああ……! 剣の炎が大安の中に。黒い霧が小さくなっていきます」


 サン姫がはるか、大安の城壁を指さした。小さな雨雲にはきっと気づいていないだろう。鍛冶師の剣の炎は、姫の言う通り、大安の中へとじりじり進んでいた。


「剣が、勝ったんだわ」


 クナたちが呼んだ水霊は、ぶすぶす焦げて黒ずんだ船の背を洗っていった。

 シズリの怒りも、どうか洗い流してほしい……

 クナは目を潤ませ、切に願いながら、燻る姉を抱きしめた。


「許して……姉さん……」




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― 新着の感想 ―
[良い点] シズリちゃんにもクナちゃんを恨むちゃんとした理由があったんだ……。しかし、それはそれとしてやっぱり、彼女の取った手法は許されるものではないものなぁ。そりゃユイン姫も目をつりあげるさ!
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