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15話 赤い糸

 髪の間をすべらかに、冷たい指がすり抜ける。

 氷の唇が炎の唇を溶かす。燃え立つ炎を口づけでふさぐ。

 一体何度、唇をついばまれたのか。この体に何度、冷たい唇が触れたのか。

 島には、朝が何度来たのだろう――。


 天に浮かぶ島は初冬の雪雲の上。地よりはるか高みに在る地の空気は、きんきん凍りついていたけれど。クナは全く凍えなかった。


「あの子はとても美しかった。君と同じしろがねの髪。しろがねの肌……」


 うっとり囁きながら髪を撫でてくる人が、片時も離してくれなかったからだ。おかげで胸の聖印は絶えずごうごう。鮮烈なる炎を放ち、クナの身を焦がしていた。


「ずっとここに、一緒に住んでいたんだ。あの子は金の林檎がとても好きで……」

「やだ……やだはなしてっ……」

「毎日食べても食べ飽きなくて……君も好きだろう?」

「お、おいしいけど! わかんない……わかんない!」


 島には林檎だけでなく様々な果樹を実らせる温室があった。檸檬、葡萄、桃。

 どれもはじめて食べるものばかり。いろんな果実を渡されながら、クナは柱国さまの腕の中でぶるぶる頭を振った。うろたえ声が、ぱっと舞い散る炎の中に消える。めらめらばちばち、激しい燃焼音の中に溶けていく。

 渦巻く熱が体外に迸るたび、クナは悲鳴をあげた。しかし炎は瞬く間に、しゅうしゅうと勢いを削がれて消え失せる。後に残るのは。


「ふあああっ」


 目じりに涙にじむほどの心地よさ。


(あつい。あつい。とけてしまう……)


 橙煌石はほどよく炎熱を食らっていた。柱国さまの胸に下がるそれは、ごくごく小さな小石ほどの塊。クナの炎に包まれた指先に触れてすら、とても冷たい。

 常人ならばたちまち、その身が凍てつく彫像と化すぐらいであろう。しかし柱国さまはまったく平気だった。その凍てつく手も唇も、クナの身を焦がす熱を愛しげに吸っていて。遠慮などなく意地悪く、「ああ寒い」とくすくす笑っていた。まるで炎には、微塵も触れてないかのように。

 クナの頭は熱でくらくら。ぐるぐる回転する意識の中で、澄んだ声の囁きが踊っていた。


「竜蝶によって生き返った者は不死となる。飲まず食わず、たとえ首を飛ばされようが死なないんだ」


 妙なる美声が冷気と共にこおこおと、あたりに舞っていた。


「一度死んでいるゆえ、私の体の五感は鈍い。寒暖もそうだし、味覚などほとんど感じぬ」


 つまり酸いも甘いも感じない。だが――。


「主人たる竜蝶の甘露だけは特別だ。この上なく甘く、美味に感じる」

「やだ! とけちゃう。とけちゃう!」


 まだ子供だからと、柱国さまはクナの中に入ることは容赦してくださった。

 だがしとどに流れる竜蝶の甘露は、見逃されることなく。クナは何度も、とろかされた。

 そのたび聖印は、ごうと燃え上がったけれど。


「ああ、あの子と同じだ……」


 甘く燃え立つ炎に触れるたび、柱国さまの声は湿り気を帯びていき、何度も何度も、誰か知らない人の名を口の中で呟いた。音には出さない。だがクナの耳にはしっかりその名が聞こえた。涙とともに呑まれるその名前が。

 それはおそらく、かつてこの島に住んでいて。柱国さまを不死身の魔人にした竜蝶の子の名前にちがいなかった。


(なんて、きれいななまえ)


 すめらの国のものとは思えぬ響き。

 音なくその名を呼ばわるたび聞こえてくるのは、殺された嗚咽。


(ないてる……)


 熱を奪われる心地よさに震えながらも。クナの胸はなぜかしくりと痛んだ。   


(その子はいつ、しんだの?) 


 問えば、押し殺されている慟哭がどっと表に出てくる。クナはそう直感した。

 少しでも突いたら堰が切れる。きっと、「あの子」の名前を叫ばれる……

 たぶんそうしたくて仕方ないだろうに、冷気放つ人は必死にこらえていた。

 「あの子」に生き写しだとて、クナはその子とは別人。完全に同じものではないと、分かっているのだろう。だから必死に我慢していたにちがいない。


「もうだめ……とけちゃう……あたしとけちゃう」

「大丈夫だ。もう離さぬ、私の――」  


 泣いて訴えたクナは今一度、柱国さまの喉の奥に消え入った名前を聞いた。

 腰が折れそうなほど、きつくきつく、息が止まるほど抱きしめられたクナの胸が、またしくりと痛んだ。



 島に幾日いたのか分からない。何回天照あめてらしさまがこがねの光を落としたのか。何回月女つきめさまがしろがねの光をこぼしたのか。心地よい熱に浮かされるクナには分からなかった。

 だがその間中、クナの胸はしくしく痛んだ。

 ほのかに哀しく。





『というわけで本日、主さまの寝室が完全に修理されました。その旨を浮島の水鏡に伝信いたしましたが、ご返事がございません……』


 脇に置いた鏡の報告に、狐目の婦人はほうと肩を下げた。鏡の向こうには家の司のアオビがいる。なんともおろおろ、困り果てた体である。おおかた、正しい奥様たる巫女団長の事を気にしているのだろう。


「主さまが、まさかそないに夢中とは。ほんのり甘露に当てられたんとはちがうようやね。まあうちは再婚やから、別にどうと思うこともあらしまへんが」


 狐目の九十九つくもの方は、吐息を混ぜた声を針のごとく鋭くした。


「それでいまやぴんぴん、完全再生してはる屍龍の枷を外したもんは? たれか分かりましたんか?」

『ご指示通り探しておりますが、まだなんとも』 


 屍龍は脳が腐っており、獰猛で危険極まりない。きよらな巫女だけでなく、生き物と見たらなんでもすぐに食べたがる。ゆえに塔に在る時は、上階にせり出す発着場にて枷で繋がれ、決して屋内に入れぬよう戒められている。

 しかし。しろがねの方が龍に襲われた晩、その枷が故意に外された形跡が発見された。主様はいつも韻律と呼ばれる呪言を用いて、枷の鍵にもう一重、厳重な封印を施すのだが、その封印が破られていたのである。


『正奥様にもお伝えしました。この塔で韻律の封印を消せるのは、韻律の心得のある巫女のみ。という事実と合わせまして』

「おかんむりやろな」

『仰る通りでございます』

「巫女団をまとめる団長はんにとっては、身内の不祥事はおのれの失態。面子を潰されるも同然のこと」


 龍の枷を外した容疑者は、巫女団員たちの誰か。それは確実である。

 九十九つくもの方はその面々を脳裏に思い浮かべた。

 ふだん正奥様の使い女をしている娘は三人。九十九つくもの方のもとにも三人いる。もともとふたりが住んでいた後宮にて、下働きをしていた者たちだ。

 どの娘も主人から巫女の手ほどきを受けており、神霊の力がそこそこある。


「主様の、即室候補やからねえ……」


 先帝のものだった百臘の方と九十九の方を、今上陛下は柱国さまに押し付けた。

 とうがたった二人とちがって、使い女たちはまさに年頃。いずれも花匂う乙女たちである。身元もしっかりしているから、奥様ふたりは、いずれ彼女らを第三、第四の夫人とするのがよいと思っていた。

 奥向きの女性が巫女団を組織するすめらにおいて、巫女修行とは、花嫁修業に他ならない。

 かように手塩にかけている娘たちがいるゆえ、柱国さまが龍に食わせる巫女たちを連れてくると、正奥様はやきもきなさるのが常であったのだが。


「今回はあん人が、しろがねはんをめっさ気に入ってはる……娘らが嫉妬を抱くんは、無理もなしか」

『引き続き、調査いたします。ところで奥様、松の間の正奥様が、琵琶の音色をご所望でございます」

「あいな。ではさっそく参りまひょ」


 謹慎の反動であろうか、巫女団長は毎日、九十九つくもの方をお呼びになる。琵琶の弾き手は薄重ねの衣をひきずりながら、いそいそと竹の間から出た。


「さて今日は、なんの今様いまようを聴かせやろうか」


 ここが帝の後宮のようにならねばよいが。

 呪詛飛び交う魑魅魍魎ちみもうりょうが跋扈するところには、ゆめゆめなってほしくない。

 ゆえに九十九の方は願うのだった。

 アオビの空騒ぎが、これからも空回りし続けるようにと。






 天あめの浮き島の泉の水は清らか。火照った体を冷やすのにちょうどよい。


「こごえるよ」


 行水しようと入ったその泉に、柱国さまは一緒に入ってこられた。触れていないと胸の印が燃えぬので、クナの体が凍ると仰るのだが。


「きついです……はなしてください」

「溺れる」

「おぼれないです。ここ、あさいですよね?」

「深いよ。君は泳げないだろ?」

「およげま! ……せん」

「なら、このままでいた方がいい」


 クナはずっと、柱国さまの腕の中。水に漬けられると、泉に流れる甘露がもったいないと、柱国さまは真面目な声で言ってきた。

 甘露は竜蝶の魔人にとって、命の水に値するもの。一滴受ければ何年分もの活力となるが、目の前にあればあるだけ、欲しいと思うものらしい。

 おかげでクナはずいぶん貪られた。その感触を思い出すと、顔から火が出そうだ。


「あの、いつ、とうにもどるんですか?」

「あの塔は住処に適さない。できればここにまた住みたいな」


 島には平屋の石造りの建物が一軒ある。クナを抱いて放さぬ柱国さまは、屋内を丹念に確かめた。

 部屋数は多く、一本通る廊下の両翼にずらりと並ぶ。柔らかな褥がある部屋。居間らしき部屋、厨房らしき部屋……。かなり古いようだったが、そこにはいまだ、ほのかに生活臭が残っている。柱国さまは時折、うっすら埃をかぶる調度品や生活用品を懐かしげに撫でておられた。


(ここで、「あのこ」といっしょにくらしてたのね)


 地階もある。えたいのしれぬ箱がずらり並ぶ部屋や、がらくたのごとき物品があふれかえっている部屋が、いくつもあるらしい。


「昔ここは兵器工場で、兵士の目にはめる人造義眼があったんだが……」


 柱国さまはクナを片手で抱いたまま、その地下室をほっくりかえした。片手でいとも簡単に重そうなものをほいほい。あれよあれよと廊下へ投げ出す。がしゃがしゃ鳴る音からして金属の固まりであろうか。魔人の腕力は、実に人間離れしているらしい。

 一騎当千は龍の力でと思っていたが、この腕力、敵兵をたやすく薙ぎ払いそうだ。


「残念ながら義眼はないね。あれば君に嵌めてやったのに」


 でもそうなると瞳の色は菫色ではなくなる。だから今のままでよいだろう――

 部屋の中の物が廊下にいくつもの山となったあと、柱国さまはそう結論を下した。

 目の色が変わったら、「あの子」ではなくなる。

 そう言われた気がして、幼子のように抱かれるクナは、唇を噛んだ。


「ふくれっつらだな。期待させて悪かった」


 そんな理由でしくしく胸が痛むのではない。なぜ痛いのか、よく分からないけれど。義眼が見つからなかったせいではない……

 かつかつ靴音たてて地上階へ戻る柱国さまは、ぽそりと囁いた。


「ここにずっといたいのはやまやまだが。本願を叶えなければならぬ」

「ほんがん?」

「あの子を殺した奴を倒す。くれないの髪燃ゆるレヴテルニを――」


 憎悪込もるその声音にクナはびくりとした。許すまじきと心に誓った仇敵の名は、先の戦いで戦った国の皇帝ではなかろうか。


「昔……天から災厄が降ってきて、海が干上がり大陸中が焼けた。レヴテルニは、災厄を止めようとしたあの子を殺した……あいつが邪魔したせいであの子は死に、炎の雨が降ったのだ。だから必ず復讐してやる。あいつの血をあの子に捧げる。そのために私はすめらの将となった。公然とあいつを殺せる者になるために」


(なんてくらいこえ)


 柱国さまはクナの手にほとりと何かを落とした。歌う衣の袂から出されたものは、とたんにふるふる震え出し、クナの手をじんじん揺らした。


「涙糸だ。あの子の涙を吸ったものだよ。真っ赤な涙を……。いつもこの真紅の糸に誓っている。いつか仇を討つと」


(しんく? あかと、にたようないろ? かまどのほのおより、あつい……)


 それは糸巻きに巻かれた細い糸。ふおんふおんと音の波紋をかすかに広げながら震動していた。

 耳に当てるとかすかに囁きが聞こえる。ひそやかで、今にも割れそうなギヤマンのような声が。

 クナはその囁きに息を呑んだ。


 あいしてる

 あいしてる

 あいしてる……


 糸巻きから、はっきりそう聞こえた。歌う糸を慌ててつっ返そうとしたら。糸巻きを持つ手は、冷気放つ人の手ですっぽり包み込まれた。


『あいしてる……』


 刹那、糸巻きからはっきり声が聞こえた。不思議な糸は震えながら、りんりんと歌った――


『あなたに、幸ありますように』


 それは祈りの歌であり。


『無敵の守りがありますように』


 愛を語る歌であった。



『この涙が、あなたを癒しますように』



 肌身離さず身に持っているのだろうその糸巻きを、柱国さまはクナの手ごと、強く握りしめてきた。

 震えるクナの目尻が、じわと湿った。

 どうしてだろう。またしくしく、胸が痛む……


「これは白綿蟲しらわたむしの糸で、あの子が紡いだんだ。あの子の涙には本当に、癒しの力がある。触れるだけでたちまち、傷が癒える。だから人々はあの子のことを、白の癒やし手と呼んだ……」


 糸にこめられた歌声は止まらない。えんえん歌い続けている。


 あいしてる

 あいしてる

 あいしてる……


「きれいな声だろう? 君の声と似ている」


(うそ。ぜんぜんにてないわ。あたしのこえ、こんなにかわいくない)


 歌ってごらんといわれたが。クナはそんな気分になれなかった。

 躊躇するクナにもうひと声かけようとした柱国さまは、ひたと言葉を止めた。短くうなり、しゃらんと鳴る袂からもうひとつ、何かをとりだす。手のひらに載せたのか、それは糸巻き同様かすかにふるるると、細やかな振動音を立てていた。


「今上陛下から下された水晶玉だ。国姓をたまわって以来、あの方は直接これで話してくる」


 柱国さまは渋々、水晶玉に返事をなさった。ほどなくそこから聞こえてきたのは――まだうら若そうな男の声。

 これが玉音? 輝ける天孫、天照らしさまの御子と崇められる方の声?

 ずいぶん曇った音だと、クナは眉根をひそめた。

 声が途切れると、柱国さまは重苦しいため息をつかれた。


「呼び出された。先日お会いしたばかりだというのに。何の用であろうな」


 衣擦れの音がすんと落ち込む。がっくり肩を落としたようだ。


「塔の強度が少々心配だが、君をまたあそこに置き、巫女団に守らせる。今度はシーロンに乗っていくから、危険はあるまい」


 柱国さまは、直接陛下に呼ばれるほどの方。それほどの地位にあるのなら……。


「君は、陛下のもとにいる竜蝶を助けたいのだろうな」


 ありがたいことに相手はクナの貌を読んでくれた。一も二もなくぶんぶん頭を振って肯けば、くすりと苦笑された。


「いつもそうだ。君は他人の心配ばかりする……まあ、陛下が手に入れた竜蝶の様子を見てきてやろう」

「あ、ありがとうございます。おねがいします!」


 いつもそう? 他人の心配ばかり?

「あの子」もそうだったと言いたかったのだろうか……。

 柱国さまは渋々、鉄の龍に乗り込んだ。歌う衣でくるりとくるんだクナを腕に抱きながら。クナは反射的に、冷気放つ胸にひたと頬をつけた。

 たちまち熱を帯びる頬は心地よく溶けていき、しゅうと炎が消えゆく音がした。


(かわり。みがわり) 


 はじめは巫女姫の代わり。そして今は――。


(あたしは「あのこ」じゃない。「あのこ」のかわり……)


 竜蝶の「あの子」はクナに瓜二つ。だからいきなり妻にされたのか。一緒の部屋にされたのも。同じ長持ちを並べられたのも。「あの子」に似ている子だからか。

 似ているということは、その子はクナと血のつながりのある者なのかもしれない。もしかして父や母とつながりのある者? それとも……


(それとも、なに?)


 何にしても変わらぬだろう。

 柱国さまがまなざし熱く見つめているのは。

 きつく抱きしめているのは。

 切に求めているのは――。


(あたしじゃない)


「大丈夫。すぐに戻るよ」


 頭を優しく撫でられるクナの胸は、またしくりしくりと静かな悲鳴をあげた。


(ちゅうこくさまがすきなこは、あたしじゃない……)

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