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黒の舞師 ~身代わり巫女は月夜に舞う~  作者: 深海
七の巻 御光の女帝
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11話 大安の舞姫

「黒髪様! 黒髪様っ!!」


 クナの腕の中で、鏡が震えた。どくんどくんと鼓動しているかのように、激しく、熱く。

 クナは叫んだ。鏡の向こうにいる人に、どうかこちらを向いてくれと願った。


「ご無事なんですね?! つつがなく、そこに――」


 いや。とても、つつがないなどと言える状況ではない。

 鏡が映し出す黒髪様の顔は、ひどく虚ろだ。口を引き結び、まなざしは冷たく、まったく血の気がない。その体に、御魂は宿っているのだろうか?そう疑ってしまうほど、生きている気配がない。


「返事を……どうか、声を……!」

『はははは! 無駄だ。こやつは、龍蝶の魔人だからな。龍蝶には逆らえぬ』


 龍蝶によって不死の魔人にされた者は、龍蝶の奴隷となる。

 しかし――

 クナは鏡の向こうにいる白い悪鬼を、睨みつけた。

 

「あ、あなたも、魔人であるはず。他の魔人を支配することは、できないんじゃないですか?」

『は! 朕はもともと龍蝶。代々龍蝶の血を入れてきたすめらの帝家と、龍蝶の名家たる、ナス家の血を引いている。ゆえに朕は、龍蝶の古き王、アイテ・リオンのように、他の魔人を操れるのだ』

「アイテ……?」

 

 その名を聞いたとたん――


「リオ……ン……?」


 クナの胸が、どくりと波打った。

 どこかで聞いたことがある名前だと、それも、(えにし)浅からぬ間柄だと、クナの中の何かが、ざわざわとうち騒いだ。

 

「アイテ……リオン……」

『思い出せぬか、白き女神の生まれ変わりよ。前世のおまえは、龍蝶の王アイテ・リオンを父として生まれ、ついには、父を食らったというのに』

「あ……」


 ふつふつと、何かが、クナの奥底から湧き上がってきた。

 自ら封印し、忘れ去ったはずの記憶。

 それが音を立てて、喉元にせりあがってくるのを、クナは感じた。


「あ……あ……あ……!」


 アイテ・リオン。

 まるでそれが、扉を開く鍵であったかのように、色鮮やかな景色が、いくつもの情景が、脳裏に浮かんできた。

 まばたきする一瞬の間に、次から次へと。



 鳥たちが舞う、のどかな森。

 冷たいまなざしの、白い髪の男。

 湖の岸辺で、泣きながら謝ってくる女性。

 輪になった人間が投げてくる、石つぶて。

 リンゴを差し出す、軽業師。

 指さしながら、呪いの言葉を投げつけてくる神官。

 杖をかざす、しわくちゃの、黒き衣の最長老。

 にこにこしながら絵巻物を見せてくれる、褐色の肌の少年。

 それから―― 


 

 どこかの草原にたたずむ、黒髪の人。

 


「あ……レ……ナ……!」


 風が踊る。

 軽やかに、緑の草と、黒く長い髪を巻き上げる。

 くるりと踵を返して、その人は遠ざかっていく。


「待って。待……」

 

 景色がまたたく。

 水晶の森。鍾乳石のカーテン。流れ落ちる滝の洞窟。

 雪に埋もれた湖。きらめく、黄金龍の剣。

 何十機もの、漆黒の鉄の竜。まるで宮殿のごとき、巨大な船。

 

「待って……レナ……!!」

 

 すっかり思い出せたわけではない。

 だが、頭の中に次々と湧き上がってくる景色は、どれも懐かしく、悲しく、苦しかった。

 菫の瞳に、涙が盛り上がってくる。クナは涙をこぼしながら、鏡の向こうを凝視した。

 龍蝶の悪鬼は黒髪様の膝に頭を沈めて、黒い髪をくるくる、自分の指に巻き付けている。

 

「前にも……あったわ。こんな風に、黒髪様が……」

『我が巫女、すまぬ、回線が切れぬ!』

 

 鏡が震える。向こうが無理矢理繋げてきた伝信を、どうにか切断しようとしているらしい。

 クナはきつく、鏡の縁を握りしめた。


「前にもあったわ。あたしと黒髪様は、長い長い旅の中で、あなたの船に拾われて。あなたが企てたことに、協力させられて……そう、あのときも、黒髪様は無理矢理、あなたの奴隷にされた」

『ははっ、思い出したか?』 

「でもそれは、レクリアル(あたし)を守るためだったわ。もしかして今も、そうなんじゃ……」

『妻ならば、そう思いたいところであろう。実のところはどうなのか、確かめに来るがいい。なあ、しろがねの娘よ、あの時のように、手を組もうではないか。大スメルニアも、あいつに飼いならされた人間も、おまえを虐げた。命を奪い、存在を消そうとしたのだぞ。どうしてそんな者どもを守ろうとするのか、朕にはまったく、理解できぬわ』


 今すぐ大安へ来いと、悪鬼は屈託なく微笑んだ。

  

『帝位を捨てれば、剣将はおまえを見逃すであろう。おまえは、この星を作り替えた人間ではなく、土着の生き物と共生した龍蝶の末裔だから、きっと許してもらえるぞ。ここにいるのは、おまえの良人だけではない。おまえの家族も、ちゃんと元気でいるのだから』


 鏡面の幻像が動いた。悪鬼が、手に持つ水晶玉を動かしたのだろう。

 真っ赤な垂れ幕が何十枚もかかっている部屋が、映し出された。悪鬼のいる部屋と続いていて、かなりの奥行きがある。そこに琵琶を持つ楽団が、輪になって座っていた。

 びいんびんびんと、楽団が演奏を始める。と同時に、輪の中から、紅の布の山が盛り上がり、中からバッと、何者かが現れた。


「えっ……?!」


 クナは目をみはった。

 現れた者は激しく回転し、見事なつむじ風を舞っている。赤く長い裳は、まるで燃え盛る炎のよう。舞い手の体をぐるりと取り巻いていて、くるくると波打っている。 

 細くしまった腰。すらりとした両足。風をかき混ぜる、白い腕。

 胸と腰だけ、かろうじて隠れる布をまとう舞い手は、突然、けたたましく笑った。

 鳶色の髪がその背中で艶やかに揺れる――


「な……シズリ姉さん?!」

 

 狂ったようにはしゃいでいるが、その声からすると、間違いなく姉だ。

 以前、悪鬼が魂を抜いたのをクナは必死で戻したのだが、食われずには済んだのか。

 だがなんだか、異様な雰囲気を醸している。

 大体にして、シズリがこんなに見事な舞い手だったなんて、クナは露ほども知らなかった。

 村の祭りのとき、巫女役を務めたことがあったようだが、まさか、神殿に住まう巫女顔負けの舞技を会得していたなんて……

 

『はははは、さすが、タルヒの子だな!』


 琵琶の音が、シズリが起こす風の音にまかれて、苦しげに歪む。

 つむじの中で、シズリはまた笑った。とても楽しいと言わんばかりに。


『おじい様! そのきれいな男を、私にちょうだいよ。クナなんかには、もったいないわ』


 鳶色の髪が風に流れてうねる。豊かな胸の上でじゃらじゃらと、真紅の宝石を連ねた首飾りが踊っている。

 シズリは思い切り跳ねた。高い天井に、その手が届くかと思うぐらい。

 

『あははは! いいでしょう? 私の良人に――』


 その時ガツンと、クナの背後から鍛冶師の剣が勝手に飛んできて、鏡に当たった。

 鏡はクナの手から抜け落ちて、がらんがらんと床で回り、それからフッと、鏡面を暗転させた。


『ごめん! 鏡姫の意識ごと、鏡の機能を強制終了させた。こんなもの、見る必要ない!』


 剣はクナを気遣うように、そのそばにふわりと浮いた。


『タケリを失ったっていうのに、なんて奴だ。余裕綽々で、誘ってくるなんて』 

「黒髪様の姿を……見られた……」


 どっと床にくずおれたクナを、剣は優しくなぐさめた。 


『意識は封じられているようだけど、痛い目には合ってないようでよかったね。しかし、いくら龍蝶に逆らえない魔人だからって、ちょっと情けないな』

「きっと、強力な術で縛られてるんです。もしかしたら、あたしの姉さんを殺させないためにやむなく、とか……」

『さて、真相はどうなんだか。それにしても、君の姉さん、とてもきれいだね。舞も上手だし』

「う……」


 シズリは、母に舞を教えてもらったのだろう。

 長女で齢三十を超えているシズリは、クナよりもずっと長い時間を、母と暮らしている。その間に、巫女の技を伝授されたというのは、大いにありえることだ。形見の鏡を有無を言わせず自分のものにしたのも、母のことを、ある程度知っていたからだったのかもしれない。

 鏡を通してだから、シズリが起こした風を肌で感じることはできなかったけれど、あの舞姿を目にした限りでは、巫女としての力は相当なものだ。


「とても切れのあるつむじだったわ。触ったら本当に、肌を裂かれるぐらい」


 気の強い姉は本当に、抵抗できない黒髪様を自分のものにしてしまうかも……

 クナの胸が、みしりと痛んだ。

 誘われなくても、いずれ大安には行かなければならない。でも今は、その時ではない。

 クナは湿るまぶたを拭って、今すぐ大安に乗り込みたい気持ちを、内に押し込めた。

 唇をわななかせるクナを気遣って、リンシンが声を張り上げた。


「陛下、私は、あの舞は、妖艶すぎると思いました。横からちらりと見た限りですが、すめらの星たる陛下の舞には、タケリを刺したあの舞には、到底かないません!」 

「ありがとう、リンシンさん」

「いえ、事実を言ったまでです!」

 

 彼は急いで、自身の水晶玉に霊力を注いだ。大安からの伝信に邪魔されて時間をとられたが、彼はなんとか、御所にいる元老院に、避難命令を出すことができた。

 御所は緑の炎に満ちている。

 しかも炎は、歌っている。

 そんな報告が、御所から退避する人々から次々と入ってきて、クナとリンシンは戦慄した。


「由々しきものが、御所にいるようです。何かを讃えるような、何かを呼んでいるような歌を歌っているそうで……」

―—『緊急伝信! 消火に入った兵が、迫りくる緑の炎の柱の中に、太陽の巫女王(ふのひめみこ)様を確認!』

「な……」


 リンシンの水晶玉から、恐ろしい報告が響いてきた。


『太陽の大姫様は、ハバギリ猊下なるものを賛美しながら、政庁域に侵入しております!』





 ミン姫が、御所を燃やしている?

 いや。太陽の大姫はおそらく、彼女自身ではないのだ。

 青ざめながらも、クナは真実を感じ取った。

 大スメルニアの支配のもと、帝都太陽神殿で生まれながらの太陽の巫女姫として育ったミン姫が、元老院でさえ知らない剣将のことを知っているはずがない。きっと、剣将を崇める何かが、ミン姫に取りついたのだろう。

 リンシンはただちに、元老院の幕を東の州へ移すよう指示した。

 クナは宮処(みやこ)の民をすべて、避難させるよう命じた。


「嫌な予感がします。今すぐ、人々を軍隊に守らせて、安全なところへ導いてください。私が剣将をけん制して、宮処(みやこ)に入るのを、食い止めます」

「なんと……御自ら、おとりとなると?」

「はい。剣将は、あたしを焼き殺そうとしました。すめらに、帝はいらないと言って、明らかに私を狙ったのです。だから、私がそのまま、彼を引きつければいいんです。人のいないところへ逃げて、逃げて、そうやって、できるだけ時間を稼いでいる間に、封印し直す方法を見つければよいと思うのです」

 

 リンシンはクナをしばし見つめた。

 全身を震わせながらも、気丈に見つめ返してくる娘を。

 

「剣将を封じたら、準備万端整えて、大安に乗り込みます。とにかく決して、いにしえの神と悪鬼とを、組ませてはなりません」

「御意、陛下。御身のお覚悟、このリンシン、しかと承りました。僭越ながら、この私も、陛下にお供いたします……!」 

『封印は、できるはずだ』

 

 鍛冶師の剣がりんりんと、刀身を鳴らした。


『太刀の中に納まっていたんだから、また納めればいい。問題は、かつて、どうやって封じこめたか分からないってことと、封印がすぐ解けるように仕組んだ奴がいるってことだ』

「すぐ、解けるように?」 

『剣将は、箱を開け、太刀を鞘から抜けば、解放される状態になっていた。本来なら、そうそう簡単に、鞘が抜けない仕様だったんじゃないかと思う。それがあんなに、いとも簡単に、開封できたってことは……』


 クナとリンシンは顔を見合わせた。二人のとっさに思ったことは、全く同じだった。


「事前に、封印を寸前まで解いた者がいる?」

「おそらくその禁忌を犯したのは……大いなる鏡?」

『うん。大スメルニアがやったんだろうね』


 剣は低い声で、犯人を断定した。


『僕があいつにとどめを刺す寸前に、最後の力を振り絞って、各帝都神殿にあった神器の封印を解いたに違いないよ。思い通りにならないなら、すめらを滅ぼしてしまえ。そんな思いだったんだろうな』 


 大スメルニアが消し去った、いにしえのすめらの記録。真実の歴史。それを探れば、剣将を封印する方法が分かるかもしれない。

 剣はそう言って、クナたちを励ました。


『オムパロスの図書館を頼るといいかも。岩窟の寺院並みに、古い記録がたくさんあるからね。ピピ様にも、聞いてみたらどうかな。それとスミコちゃん、鬼ごっこをするなら、鬼はひとりじゃだめだ。影武者をたくさん用意するといい。相手をイラつかせるぐらいね』


 クナが拾い上げた鏡が、ぶつっ、ぶつっと、かよわい音を立てる。

 真っ暗だった鏡面が、ようやくのこと、うっすら白く光り出した。再起動をした鏡姫の姿が、鏡面に浮かび上がってくる。


『あいすまぬ……いっとき完全に、我が伝信波を奪われた』

「鏡姫様! 大丈夫ですか?」 

『ああ、ただでは転ばぬ。根性で繋げ直したぞ。波動をいかに保持するか、いかに広範囲に網を張るか、コツがわかってきたわ。大スメルニアもきっとこの手法で、すめらを……』

『鏡姫。アオビたちと、連絡をつけてくれ。あいつらに要請してほしいことがあるんだ』


 さっそく鍛冶師の剣が要請したので、鏡はせわしないのうと苦笑した。


『あいわかった。任せよ!』


 しろがね色の鏡面が、きらりと輝いた。あたかも、月のごとくに。

 



 

 

 自分がひとり、何者かに消された――

 宮処(みやこ)から、南へ五百里。大安に通じる街道にて、荷馬車を走らせていたアオビは、ぶるりと、我が身を震わせた。

 大きな笠をかぶり、雨よけの合羽を羽織っているその姿は、長旅をしている人そのもの。我が身が燃えていると分からぬよう、手足にきっちり、布を巻いている。


「な、なんという寒気でしょう」


 この、全身によだつ悪寒は、気のせいではない。

 腕を切り落とされたような痛みと、凍えるような感覚。

今まで幾度となく経験してきたけれど、どうにも慣れない、おぞましいもの。

これは間違いなく、自分から分かれたものが消滅した、という事実を知らせる、虫の知らせだ。


「がんばった末の結末なのでしょうね。ワタクシは、ワタクシの冥福を、祈ります」


 合羽で隠した胸元に両手を合わせ、アオビはあえなく散った自分を労わった。

 

「しかし、どこのワタクシが消えたのでしょうか。タケリ様にでも、焼かれちゃったんでしょうかねえ」

 

 即位の礼は終わったはずだが、宮処(みやこ)に伝信が届かなくなって、かなり経つ。

 悪鬼が鎮座する大安を探りつくし、いざ、女帝陛下に伝信をと思ったら、水晶玉はザアザアぶつぶつ、繋がらない。仕方なく、直に奏上しようと、急いで宮処(みやこ)へ戻ろうとしているところだが。

 

「う……馬車に酔ってしまいましたか」


 アオビは顔をしかめて、荷馬車を止め、地に降りた。

 胸がむかむかする。今までたくさんの自分を失ってきたが、これほど気持ち悪くなったことは初めてだ。吐き気はしだいに、耐えがたい胸の痛みに変わってきた。その痛みはすぐに胴体全体に広がり、息をするのも苦しくなってきた。

 

「痛い。痛い。イタイ……」


 思わずしゃがみこんだアオビは、なんとか気分を良くしようと、空を仰いだ。

 日が暮れていく。西の空が、ほんのり赤い。

 街道の先、宮処(みやこ)に至る方角も、なんだか赤い……


「ひ……!」

 

 異様に赤い空を目に入れた瞬間。

 びきりと、アオビの背中が割れたように痛んだ。


「ひぐ?! 一体これはっ?! 背中が!」


 めきめきみりみり、恐ろしい音がする。アオビは地に転げた。立っていられず、七転八倒。悲鳴をあげながら、地をかきむしった。


「いやあああっ! イタイ! イタイ! イタイいいいいいいっ!!」


 背中から無理矢理、何かが出てくる――そんな感覚に襲われて、アオビは恐怖した。

 自分のひとりが死んだ。それだけではない。

 何かが起こった。あの、赤い空の下で。何かが……

 笠が外れて道を転げていく。合羽や、手足を覆う布が、蒼い炎でごうっと燃え尽きた。体が暴走しているようで、炎の勢いが止まらない。蒼い炎の塊が地に落ちる。しかしその炎も、みるまに、削ぎ落されていく。

 自分の腕がまるで人間のそれのようになったので、アオビは仰天した。すらりとした白い腕が、あらわになる。足からも、炎が消えている。

 ベタベタと我が身を触ったアオビは、突然、長く長く絶叫した。


「あ……いやああああああああああっ!!」

 

 我が身の中にいきなり、〈記憶〉が昇ってきたからだった。

 

「いやです! 死にたくない! 助けて、ハバギリ様!!」


 長い銀髪が、アオビの肩を流れて地に広がった。時に青く、時に黄色に光る瞳が、みるみる紫紺に染まっていく。

 

「人間たちが、やってくる。ワタクシたちの神殿に。みんな殺される。みんな! ああ、だから言ったのに! アリス・テルに言ったのに!」

 

 まごうことなく美しい龍蝶と化した鬼火は、さめざめと涙を流し、地に白い両手を打ちつけた。


「人は滅ぼすべきだと。青の三の星からきたものは、みんな災いだと。アリス・テル、我が王よ、どうして、聞き入れてくれなかったのですか? なぜ人がこの星に住まうことを、許したのですか? だから私は、ハバギリ様と、契約するしかなかった……! 恐ろしい龍殺しの君、この星そのものと!」


 ひとしきり泣いた鬼火は、よろりと立ち上がり、馬を引っ張って荷馬車の方向を変えた。

 宮処(みやこ)へ行こうとしていたけれど、もはやそのような気持ちは、すっかり消え失せてしまったからだった。

 大安へ戻ろう。

 大安の悪鬼は、人を憎む龍蝶だ。

 おのれが与するべきは、そちらの方ではないか?

 しゃくりあげて泣きながら、龍蝶となった鬼火は赤い空を仰いだ。


「あの空の炎は、ハバギリ様の力。恐ろしい我が君がよみがえったのならば、もはやワタクシは、人のために尽くすわけには、まいりません……」

 

 荷馬車に乗り、鬼火だった龍蝶は手綱を打った。長いしろがねの髪が波打つその体は、半分透き通っている。彼とも彼女ともつかぬ体つきだが、すらりとして美しい。

 〈彼〉は、急いで自分たちを集めなければと思った。


「ずいぶん増えて、ずいぶん消えたけれど。今在る者をすべてひとつにすれば、まともに術を使える巫女に戻れるでしょうか」

 

 そのとき、懐に入れていた水晶玉が光り、伝信が届いたことを報せてきた。

 鬼火だった龍蝶は、取り出した水晶玉をまじまじと見つめた。


『アオビたちよ! 聞こえるか? どうか、力を貸してたも!』

「ああ……哀れなレイ姫様。申し訳ありません」

『どうか、答えてたも! 我が巫女のために、どうか!』


 水晶玉が激しく光る。

 かつて大スメルニアが発していた、有無を言わさぬ波動とは違う、美しい光だ。

 強いけれど、真摯で必死で、優しさに満ちている。

 龍蝶は、紫紺の瞳をしとどに濡らした。 

 

「レイ姫様。アオビは、あなたが大好きでした。あなたが目をかけている、しろがねの姫も。お二人とも、ワタクシが作るお菓子を、それはそれは、おいしそうに食べて下さいました。とても無邪気に、嬉しそうに」


 今の自分は、塩基が四つあるか五つあるかなど、関係ないように思うのだけれど。

 大好きな人たちに、力を貸したいと思うのだけれど。

 懐かしい力の波動が、揺さぶってきて。どうにも、涙が止まらない――


『アオビ! どうして誰も答えぬ? どうしたのじゃ? 何か、あったのか?!』

「きっと、ワタクシだけでなく、アイテ・スセリ様も、アリス・イヨツ様も、元に戻られたのでしょうね。一万二千年の呪いが、ついに解けましたか……」

『アオビ!!』

「いいえ、レイ姫様。ワタクシは、もはやアオビでは……」

『おお! ひとり、応えてくれたか!』


 アオビはびくりとした。数多くいる自分たちの中で、誰かがひとり、鏡姫の呼びかけに応じたらしい。

 自分のように迷った末に出した、身を斬るような決断なのだろう。

 鏡姫は感極まった声で感謝してきて、どうしてほしいかを話してきた。


『剣将なるものを、宮処(みやこ)から引き離したい。どうか我が巫女と共に、陽動を頼む! そなたら、映し身の術が使えるであろう?』

「ああやはり、ハバギリ猊下が顕現なさっているのですね。でも、あのお方を、引きつける? 我が君を? ああ、それなら……」

 

 断腸の思いで、彼とも彼女ともつかぬ龍蝶は、うなずいて。何度か深呼吸したのち、水晶玉の向こうに声を送った。


「いとしくも、我が主であった方! ワタクシも、ご要請を受けます。でもこれが、最後のお務めとなるでしょう」

『ぬ? そなたも先ほど応えてくれたアオビと同じく、最後の仕事と言いやるか?』

「はい。ワタクシが、剣将ハバギリ猊下を呼び寄せます。猊下はきっと、ワタクシを抱きしめてくださいます」

『な? 抱き……?』


 美しい龍蝶は、手綱を思い切り引っ張り、荷馬車を再び、方向転換させた。

 馬が短い悲鳴をあげて、宮処(みやこ)がある方角へと転回する。

 がらがらと、荷馬車の車輪が音を立て、勢いよく回った。


「なぜならば、ワタクシは、恐ろしき龍殺したる、〈黒の三の星〉の伴侶――」


 しろがねの髪が風になびき、暮れの光を浴びて輝いた。

 まるで、本物の銀の糸のように。


「黒の星妃、レイス・ナダにございます」 






 


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