7話 ゲヘナの鏡
いったい何回、つむじ風を乗せた剣を薙いだだろう。
壁がすっかり崩れた高御座で、クナは必死に舞い続けた。
黒い雲を穿った虹色の柱は、紫の雷にとぐろを巻かれて、今にも無くなってしまいそうだ。それでも、空にはわずかに、晴れ間が差してきている。
青空。
鮮やかな空の色が見える。なんてきれいな色だろう――
この目で、こんなに素晴らしい物が見られるなんて、羽化する前は思いもしなかった。
宮処の、朱の橋。人々がまとう様々な色合いの衣。ひしめく蒼い瓦屋根。遠くに見える紫明の山は、その名の通り、明るい紫色だった。
世界は色にあふれていた。天も地も、実に美しい。
黒いタケリも、紫の雷も。恐ろしいが美しい。
好きなものを好きなだけ、のんびり眺めたい。のどかにゆたりと。愛する人と。そうなるために――
「負けません!」
天からこぼれた虹色の光の粒が、ひび割れた拝所の結界を包み込む。
袖をなびかせ、長袴を浮かせながら跳ねたクナは、すとんと降り立ち、天を仰いだ。
『カカカカ! カワイラシイ! 実ニ、カワイラシイ! ナンダコノ、チンケナ柱ハ!』
余裕綽々の笑い声。柱の周りをぐるぐると、雷をまとう黒い龍がうねっている。
だが……矮小なものだと豪語しながらも、ミカズチノタケリの動きはぎこちない。ゆるりゆるりと慎重に飛んでいて、柱に触れないよう、細心の注意を払っているように見える。
『アリステル。モウ一人ノアリステル。我ガモトへ来タレ!』
「それはできないと、言いました!」
『ハハハ、我ト、モット遊ブトイウノカ! 上等ダ!』
龍の体から、雷電がほとばしった。凄まじい雨と共に幾本もの雷が降ってきて、高御座の眼前にある石畳を焼く。虹色の柱がみるまに狭まり、割れた雲が閉じてきた。
『スミコちゃん! 押し返すよ!』
剣が再びくるくる踊る。クナもまた、渾身の力で舞い始めた。
「光が花吹雪のように……! 花音……!」
舞台と化した御座のふもとで、膝をついて風をしのいでいるメノウが、息を呑む。
クナは歯を食いしばり、踊る剣を薙いだ。七色の吹雪が、剣の刃先から繰り出された突風に巻き上げられていく。
「雲よ、消えて!」
ハチのひと刺しのごとく、一矢を。
クナが願った通りに、風は虹の渦となり、高く高く、天へ昇って行った。
そのまままっすぐ、天を貫くかと思いきや。渦はぎゅんと曲がり、うねる龍に巻き付いた。
刹那、虹色の渦が、黒い龍の巨体を撃ちぬいた。
剣も鏡も、クナも、メノウも、思わず歓喜の声をあげた。光が深々と、タケリの首元に刺さったからだった。
『オノ……レ! コンナモノ!』
『スミコちゃん、一気に畳みかけよう!』
「はい!」
怒りの雷光が降り注ぐ。びきびきと、拝所の屋根が剥けていく。三色の大神官たちが、神器の箱を抱えてしゃがみ込む……。
『コザカシイ! 遊ビハ飽キタ! 神器ヲ、モラッテイクゾ!』
「させません!」
クナは思い切り、剣を振り薙いだ。虹の花吹雪が天へ昇り、再び龍を刺す。
恐ろしい叫びが、空を割った。
『やった! また首に刺さった!』
連続で花音を舞うのはきつい。だがここで、攻撃の手を緩めるわけにはいかない。
クナは舞った。両手に持つ剣ごとぐるぐると回転し、美しい弧を描いて、神風を起こした。
かようにクナが必死に舞う中。舞風をしのぐメノウは、ふと、背後を振り返った。轟音の嵐の中、たれかの呼び声が聞こえたからだった。
「あれは……」
広がりゆく青空から漏れた陽光が、こちらに近づいてくる者を明るく照らしている。
「尚家のリアン殿?」
金の髪にましろの鉢巻。きらきら輝く、鉄錦。勇ましい格好の太陽の姫は、しかし顔をうつむけ、両腕をだらりと垂らしている。その右手には……
「黒い剣?」
姫が持っているものを視認するなり、メノウは高御座から離れた。
ハッと一瞬たじろぐクナに、舞い続けるよう鋭く言い放ち、太陽の姫の眼前に走っていく。
「この先へ入ってはなりません。止まりなさい!」
叫びながら、月の巫女は裾をぶわりと翻した。瞬く間に下ろした結界と共に、一陣の風を放つ。繰り出された風がバチバチと、太陽の姫の眼前で、火花のような音を立てて散っていった。
なれども、太陽の姫はうなだれたまま。一向に顔を上げようとしない。
「その剣から、複数の神霊力の波動が感じられます。リアン殿、どういうことですか? なぜ、腕を負傷しているのですか?」
だらりと下がった姫の腕は、両方ともひどく焼けただれている。ただ事ではなかろうと鋭く問えば、か細い声が返ってきた。
「柱にさらなる加勢をと、太陽の巫女たちがこの剣に再び、力を注ぎました。どうかこの剣を、陛下にお使いいただきたく、参じましてございます」
「我が問いに答えなさい。なぜに、そんな深手を負っているのですか?」
姫は沈黙を返してきた。黒い刀身におぼろげながら、ある紋章が彫り込まれているのが見えたので、メノウはたちまち、貌を険しくした。
「向かい合う獅子の紋……それは、金獅子州公家の剣ですね? リアン殿。たとえ陛下の腹心の友たるあなたが持っていても、その剣を陛下に近づけることは、許しません」
なぜだと問いたげに、姫が黒い剣をぶるりと振る。メノウは凛とした声で説いた。
「内裏に降り立つ直前に、赤毛の幼き少年が教えてくださいました。新帝陛下はこれから、多くの者に命を狙われるだろうと。特に警戒するべきは、大陸でも屈指の暗殺騎士団を有する、金獅子州公家であろうと。その剣は、ゲヘナの鏡と呼ばれる剣ではありませんか? 暗殺団の黒騎士が持つという……屠った者の姿と力を奪い取る力を持つ、精霊剣!」
「ゲヘナの鏡を、知っている? 赤い髪の少年? ああ……」
いまだ顔を上げない太陽の姫は、肩を大げさに揺らして、くつくつ笑い声を漏らした。
「新帝陛下の後ろには、やはり、魔導帝国がいるのですね。あの、恐るべき神眼の帝、くれないの髪燃ゆる君が。〈すめらの星〉との間に立ったお噂は、本当でしたか!」
黒き剣が動いた。目にも止まらぬ速さで空を斬り、偃月の形の波動を放ってくる。
メノウは素早く、ましろの千早の胸元から扇子を出し、ぐるりと舞った。
風が織りなす分厚い結界が、黒い炎をばしりと弾く。
「神獣との大戦のさなかに、なんたる無礼! 陛下を裏切り、州公家に与するとは! 退きなさい!」
「その舞技、さすがの腕前です。もと帝国舞踊団指南役、朧瑪瑙」
太陽の姫が、ついにゆるりと、顔を上げた。口角の引きあがったその顔は、リアン姫そのもの。
だがその瞳は、真紅ではない。冷たい蒼色で、異様な輝きを湛えている。
「その瞳の色……違う……あなたはリアン殿ではない……。まさかその剣で、リアン殿の姿を奪ったのですか?」
「いかにも。あの姫の力は、素晴らしい。剣の結界に守られた我が身を、こんなに焼くとは。ですがいまや、姫の力は私のもの。あなたもすぐに、この剣の一部となるでしょう!」
蒼い目の姫が、剣を構えて突進してきた。黒き炎がその身を包み、一瞬のうちにごうっと猛る犬のような獣の姿に変わる。野蛮極まる変化だと、メノウは両目を嫌悪感たっぷりに釣り上げた。
「曲がりなりにもリアン殿の姿をとったからには、軽やかに舞いなさい。このように!」
扇子を持つメノウは、顔色一つ変えずに、ぎゅんと回転した。瞬く間につむじ風が巻き起こった。大いなる風のうねりは光り輝く突風となり、弾丸のような黒い獣と、激しく衝突した。
「花音亜流! 槍風!」
「くっ……! さすがの鉄壁。ですが、この剣で焼けぬものはありません! あなたを食らい、陛下の命を頂戴します!」
閃光。あたりにほとばしる、無数の黒い塵。
凄まじい熱が、石畳を焼いた。ごおっと、熱く。何もかも、溶かすかのように――
ざあざあごうごう、激しい雨の音が聞こえる……
ここは外? いや。どこか屋内だ。雨の音は分厚い壁に阻まれて、かなりくぐもっている。
雷の音がどんどん遠くなっているような気がするのは、意識が遠のいているせいだろうか。
頬に何か、柔らかいものが当たっている。枕のようなものだ。なんとも暖かくて、心地よい……
(えっ? ここは?!)
ハッと、アカシは我に返った。なれども、体は動かず、まぶたは重く。体の自由がきかなくなっている。下腹がじんじんと熱い。息があがって、はあはあ言っている。
黒き剣の一閃は、容赦なくアカシの胴を裂いた。真っ二つになるのはかろうじて避けられたが、なす術なく倒されてしまった。おそらく刺客は、人目につかぬよう、どこかの屋内にアカシを放り込んだのだろう。
(まだかろうじて、私の魂は体の中にあるのですね。でも……)
斬られた直後、ずるりと、何かを抜き取られる感覚がした。臓腑ではない。その中にある、とても大切なものを、奪われてしまった。
巫女の力の源である、神霊玉。幼き頃に呑み、臘を重ね、神霊力をその玉に溜め続け。ついには、巫女王の従巫女になれるぐらいまで練り上げた力。
引きずり出された神霊玉は、黒き炎に焼かれて砕け散り、砂塵のごとく舞い上がり。炎と共に、黒い剣の中へと吸い込まれてしまったのだった。
(私の力は、すべて、奪われてしまいました。すべて。きっともう、この瞳は赤くない……)
アカシは無念に喘いだ。おのれが傷つくことは、少しも怖くはない。なれども、ミン姫から託された任務を完遂しないまま、斃れてしまうなんて、そんな結果を許容するわけにはいかなかった。
なんとかして、新帝のもとへ行かなければ。そして、伝えなければ。新帝の命が狙われていることを。そして、新帝が目にする未来を――
(恐ろしい未来。近づけては、なりません。陛下に、あれを近づけては……)
突然、体がふわりと浮いた。魂が体から離れたのだと思って、アカシは必死に念じた。このままなにもしなければ、天河に引き寄せられて、輪廻の波に呑まれてしまう。だが、高御座へ行きたいと、強く願えば……
(ああどうか。天照らし様。百臘様。我が魂を、しろがね様のもとへ、お導きください!)
新帝は必ずや、アカシの魂に気づいてくれるだろう。伝えたいことも、読み取ってくれるかもしれない。
なれども。
(う? 昇って、いかない?)
アカシの魂はふわりと浮いたまま。上にも下にもいかず、その場にとどまって動かなくなった。どうしてなのかと思った瞬間。
「薬膏布を巻きます!」
緊張を帯びた声が、ごく近くで弾けた。
「止血は終わりました。布を固く巻いて、自然縫合を促します」
それは、アカシがよく知っている人の声だった。
「カンタレラ草の抗菌剤を投与します。針で直接、体内に注入します」
(花売り様?!)
ピリカレラ・サンテクフィオン。北五州の北端、トウヤの町を拠点としている花屋だ。彼のそばにもう一人、誰かいる。その人が、悲痛な声で呻いた。
「君が御所に潜入してくれていて助かった。ありがとう、サンテクフィオン!」
花売りの腹心、イチコではない。震えるその声音は、若い男性のものだ。
ふわりと浮いたのは、錯覚だった。この男性と花売りが自分を抱きかかえて治療を施しているのだと、アカシは気づいた。男性が、一体誰なのかということも。
(グリゴーリ様!?)
白鷹州公家に仕える若き貴公子、グリゴーリ・ポポフキン。舞踊団の一員として北五州を巡ったとき、熱心に贈り物をくれ、帰国後も手紙を送ってくれた人だ。
アカシの体が、驚きのあまりびくりと動いた。姿を見たいと、なんとか重たいまぶたをうっすら開ければ。金の髪のりりしい若者がすぐそばにいて、目に涙を浮かべていた。
「アカシさん! よかった、気が付かれましたか! 大丈夫……もう大丈夫ですからね。サンテクフィオンはただの花屋じゃない。薬草もたくさん、取り扱ってるんですよ。だからきっと、治ります!」
これは夢だろうか。最期に味わう、断末の幻ではなかろうか。
アカシの唇が、歓喜にわなないた。
九十九の方の廃位と光の柱の事件があったがため、白鷹州公家とすめらの関係は、ほとんど国交断絶というところまで冷え切っている。鏡の監視下にあった中、グリゴーリ卿とやりとりした手紙は検閲され、墨で潰された。それゆえに、最近は互いに手紙を書いたり連絡を取り合うことが、なくなりかけていた。
このまま、自然に消えてしまう関係なのかもしれないと、アカシはおぼろげに思っていた。なれど、嬉しいことに違ったらしい。
でも。
「どう、して……みや、こに?」
「すめらは、即位の礼に異国人を招きませんでした。そのため、相当数の大使級の要人や隠密が、密かに、宮処に潜入しております。僕はそんな者たちのひとり。白鷹州公家より特命を受けた大使です。その、つまり、あなたに会いたくて……志願しました」
「わ……に……会う、ために……?」
「サンテクフィオンは新帝陛下と一緒に内裏に降りて、留守役として内裏を守っていたそうです。彼が、慌てて一人で出ていったあなたのあとを、追ってくれたんです」
「そうです。僕はこっそり後宮域に入って、あなたがた太陽の巫女たちの近くについていました。メノウさんが、陛下が痛く心配しているから、ミンさんたちを護衛してくれと依頼してきたんですよ。でも……」
花売りは表情を暗くした。
「申し訳ありません。胸騒ぎがしてあなたを追いかけたものの、刺客の異様な結界に阻まれて、襲撃を阻止できませんでした。モエギさんからもらった爆発玉とか黄金ハンマーとか、いろいろ試したんですが、ことごとく弾かれてしまって……本当にすみません」
アカシが倒れ、刺客が去った直後、花売りはすぐさまアカシのもとに駆け付けて、安全なところへ運び込んだ。刺客の目的は新帝の暗殺に相違ないと気づいて、花売りはメノウに緊急伝信を飛ばそうとしたのだが。
「神柱とタケリの結界が伝信波を阻んでしまっています。なのでメノウさんとは今、連絡がつきません。イチコさんに応援を頼みたかったのですが、彼女とも伝信が通じません。女官の大天幕にいるリアンさんやメノウさんで、なんとか食い止めてもらうしか……」
「伝信が通じない。なるほど、刺客はその好機を狙ったんですね」
弱々しく目を開いたアカシは、室内の様子を見て取り、ああ、と息を呑んだ。
雨がばちばちと、大きな円窓を洗っている。その窓の向こうには、暗い雲の塊がある。もはやそれは遠く、しかも、下の方にある……
「ここは、船……の、中?」
グリゴーリ卿はそうだとうなずいて、アカシの手を温かい両手で包み込んだ。
「僭越ながら、僕の私船にお乗せしました。船は今、宮処を離れています」
「な……」
「勝手に連れ出してしまって、すみません。でも僕は、わが思いを叶えたかったのです。アカシさん。僕はあなたを、ユーグ州へお連れしたい。僕の妻にしたいのです」
ぽとりと、アカシの頬に熱いものが落ちてきた。グリゴーリ卿の蒼い瞳から、涙がこぼれている。
アカシの心は震えた。自分の居場所は、この人のそば。そうありたいという願いが、ふつふつと湧いてくるのを、彼女は感じた。
「お願いします。どうかこのまま、ユーグ州へお連れすることを許してください」
(だめ。待って。まだ行けない。伝えなければ)
歓喜に満ちていく心をたしなめながら、アカシは口を必死に動かした。
「待って、ください。しろがね様に、し、神託……を!」
「神託?」
「お伝え、しなければ、ならないのです!」
やっとのことで、アカシは声を絞り出した。どうか、伝わってくれと願いながら。
「どうか、戻って……高御座へ……!」
まだ嵐が止まない。大鳥居の柱を流れ落ちる雨水が、まるで滝のようだ。
うんざりだと、雨に打たれるリアン姫は、顔を歪めた。雨も雷も飽きた。天照らし様のお姿が見たい。百歩譲って、月女様でもいい。分厚い雲なんて、もう見たくもない。
(まったく、しろがねは、何を苦戦してるんですの。さっさとタケリ様を、串刺しにしちゃいなさいったら)
余裕で文句をたらたら考えられるのだから、この体はまだまだ、大丈夫なはずだ。
太陽の姫はじんじん熱い下腹を抑えながら、気丈にそう思った。
黒き剣の一閃は、姫の胴を容赦なく斬り裂いた。そうしてリアン姫の姿に変じた刺客は、姫の腹からずるりと、大事なものを抜き取った。
神霊玉。幼き頃に呑み、臘を重ね、こつこつと練り上げた力の結晶である。
刺客に奪われた玉は、砂塵のように砕け散って、とぐろを巻く黒い炎とまじり合い、剣の中に吸い込まれていった。
だからもう、リアン姫には巫女の力がない。どんなに念じても、なんとか祝詞を絞り出しても、あの不思議な力の気配は少しも、降りてこない。
(ああもう……巫女としてダメになっちゃったんなら、やっぱり、どこかのお妃になるしかないですわ。しろがねが帝を降りて、平和にどこかで暮らすようになったら、あたくしも、どこかの王族と……金獅子家の公子殿下は、顔はそこそこだし、将来手にするだろう権力もすごいですけど……でもねえ……)
しろがねの新帝はいずれ、オムパロスの上皇に帝位を戻すにちがいない。
新帝の女官となって四日、だがいまだ、しろがねの陛下に直に会って話すことは叶わず、尚侍のメノウは何も言ってこない。それでもリアン姫は、そう信じている。
金獅子州公家の公子にも、そう伝えた。公子は父親に奏上してくれたが、金獅子州公も家臣団も、それは確定事項ではなかろうと、半信半疑の体を崩さなかった。
薄々、この状況はまずいと思っていたが、刺客を送って来るなんて。やはりかの家は恐ろしい。嫁ぎ先にするには、相当な胆力が要る。
(力を失くしたあたくしでは、しろがねは守れない……うう、でも、一撃を防ぐ盾ぐらいには、まだなれますわね)
あの黒い剣は、巫女王が束でかかっても、太刀打ちできないほどの代物だ。屠った者の力を吸い込むようだが、その蓄積の力がはんぱない。メノウひとりでは、たやすく突破されるだろう。
腹の痛みをこらえて立ち上がった姫は、しかしぴしゃりと、背後から何者かに諭された。
「無理は、禁物です」
「う……?」
やっとの思いで振りむけば。針金足の女性が、大鳥居を背に、大きな竹傘で雨を受けている。
「イチコ、さん?!」
「駆けつけるのが遅れまして、申し訳ございません」
花売りの腹心は、深々と頭を傘を下げてきた。
「金獅子の公子殿下が内々に、私に依頼してまいりました。暗殺団が動きだしたので、巻き込まれぬよう、リアン様を護ってほしいと。ですが私は昨日まで大安におりましたので、こうして一歩遅れた形となってしまいました。しかも、メノウ様とも社長とも連絡がつかず、正直焦っております」
「は……あたくしの、護衛なんて。何言ってるのよ、あのバカ公子。守りたければ、自分で守りなさいよ……」
リアン姫の体がぐらつく。イチコはサッと姫の体を背後に回し、背に負った。
「急いで治療を」
「いいえ……高御座へ、連れて行って、ちょうだい」
「無理です。まだ出血しておられます」
「いいえ、行くのよ……!」
―—「だめだっ」
サクサク歩き出したイチコの後方。大鳥居の陰から、声があがった。
リアン姫は目を剥いた。ばしゃばしゃ、石畳に被った水をはね散らかし、全身鎧に身を包んだ男が、走り寄ってくる。
「愛するリアン!」
「こ、公子様?!」
「我が姫よ、無事か? うう?! 目が赤くない? なんと美しい……翠玉のようじゃないか」
鎧男はまごうことなく、金獅子州公家の公子だ。なぜここにと問えば、イチコと共に、リアン姫を護るつもりでやって来たという。
「最強の用心棒を雇って連れてきている最中に、こんなことになるとは、痛恨の極みだ。この埋め合わせは、百倍にして贈る。どうか君は無理をしないで、傷の手当を受けてくれ」
「でも――」
「刺客はゲヘナの鏡を持つ騎士。恐ろしい奴だが、私の臣下だ。だから、任せろ。未来の州公妃である君を斬り捨てるなど、言語道断。世継ぎの公子として、断罪する!」
ガシャガシャと鎧の音を盛大に立てながら、金獅子の公子は勢いよく大鳥居をくぐっていった。
「だめ……! あたくしも、行かなくては」
「いいえ、なりません」
姫を背負うイチコは、針金足を大きく広げ、あっという間に数十歩の距離を跳ね飛んだ。
「任せてよいと思います。姫はしばし、治療に専念してください」
後ろ髪を引かれる思いで、リアン姫は離れ行く大鳥居の向こうを見やった。鎧姿の公子の背が、雷にびかびかとまばゆく光る。
どうか間に合うようにと、姫は祈った。そしてそっと、鎧男に向かって囁いた。
「ありがとう。あたくし、あなたのこと――」
しかしてその言葉は、空を這う雷にかき消された。
いいのだ、聞こえない方がよいと、太陽の姫は目を細めてほほ笑んだ。
「ねえ、イチコさん。今の、聞こえなかったでしょう?」
「そうですね。そういうことにしておきます」
姫を背負うイチコもほほ笑む。雨がぱらぱらと止んできた。二人は、天をちらと見上げた。
青空。
なんときれいな色だろう――
雨雲と晴れ間の際に、円い虹が架かっている。
七色の円輪の中央で、虹色の柱がどんどん、太くなっている。
「しろがね……!」
神の柱は、燃えていた。そのてっぺんに、のたうつ龍を深々と刺して。
燦然と美しく。勝利を寿ぐように。