5話 雷雨
黒い雲が渦巻く。
天がぐるぐると回転する。
雨。雨。雨。大地が、黒く染まっていく……。
「わあ、すごいあまぐも!」
赤い髪の幼帝は、一面ギヤマンの船尾に貼りついた。とたん、ワッと驚いて、窓にぺたりと付けた小さな両手を引っこめる。分厚い船窓が、びりびり振動しているからだった。
「なんて、つよいはどう……」
魔導帝国の総旗艦にして御座船、アズライール。
まっ白な飛空船は今、単機ですめらの宮処の上空に浮かんでいる。
〈ブラン商会の商船にして、新帝の私有船。天の浮島を住居とする新帝が、地に降り立つために必要な乗り物〉
ブラン商会取締役を名乗るアズュール卿がそのように称して、三色の神殿の承認を取り付けたのち、この船でしろがねの娘を宮処に運んできた。以来、堂々と、宮処の上空に居座っている。
商船と偽っているので、その船体に黒獅子の帝国紋はついていない。魔導帝国の帝室顧問、その上、神帝とその守護者が乗っていることは、ほとんど誰も知らないだろう。
「いくさぶね、しゅつどうしなさそうだなあ。きんきゅうじたいなのに」
即位の礼の直前まで、宮処の空には、兵団を運ぶ船影がそこかしこに見られた。なれども今、帝都の上空に在るのは、アズライール一隻だけだ。地に降り立った新帝の上を飛ぶことはまかりならんと、三色の神殿が、帝都上空に航空規制を敷いているからである。
「アズュールきょう! タイフーンの、うえにでて!」
幼帝が、船窓のそばについている金色の管に叫ぶ。管の奥から応答が来るとともに、飛空船はみるみる、上昇した。
ギヤマンの窓に、はげしい雨が打ちつけてくる。分厚い窓を通り越すほどの轟音が轟く。びかびかと、稲光が縦横無尽に暴れ狂う。
どおんどおんと、船体が大きく揺れた。しかして幼帝が、雷の眩しさに目がくらんでいるうちに、雨粒はあっという間に退いていった。船は驚くべき速さで、渦巻く雨雲の上に昇ったのだった。
見れば、眼下に巨大な暗雲が広がっていて、無残に裂けた帝都をすっぽり覆っている。
「うわあ、まっくろだ。みやこがぜんぜんみえないよ」
『ずいぶんと、派手派手しい神気だな』
「あ、パパ」
黄金の獅子が、足音静かに幼帝に近づいてきた。ぐるぐる喉を鳴らしながら、たてがみ輝く精悍な頭を、幼帝の頬に押し付けてくる。
『午睡から醒めたら、小娘が帝に昇ることになったとか、金獅子州公が魔導帝国に刃向かったとか、なかなか面白いことになっていて笑ったぞ。しかし、まだ眠くて欠伸ばかり出る。神柱は立ったのか?』
「パパ、みてなかったの? はしらはちゃんとできあがって、いまは、あそこにいるよ」
小娘の即位式など興味ないと、獅子はたてがみを揺らした。その金色の獣の眼が、幼帝が指差した先を面倒くさげに捉える。
『ほう……一応立っているな。なんとかひり出した、という体たらくのようだが』
渦巻く暗雲の中央付近に、雲を貫き、天に向かって伸びる虹色の柱がある。とても細くて長い、針のような柱だ。暗黒の雲間にバリバリと炸裂する雷が、その柱にびっしりまとわりついている。
おどろおどろしく光る雲の中を、巨大で長いものがぐるぐるうねっている……
「あれが、ミカヅチノタケリ? めちゃくちゃおおきいね」
『そうだ。迅雷大漩涡云。始龍天尊、御雷尊。体は霊体、ゆえに大きさなど自在に変えられる。やって来たのは、タケリだけのようだな。主人の気配がない』
「スミコちゃんが、かみばしらになってからくるなんて。よゆうしゃくしゃくだね」
『ふん、タケリは上位霊体となりて、一万年以上、スメルニアの守護神を務めてきた奴だ。ちょっとからかいに来てやったぐらいの感覚だろうよ』
暗雲の中心から突き出ている虹の柱が、紫色の放電にすっかり隠れてしまった。
消されてしまったのかと思いきや、放電がいきなり周囲に飛散し、粉々に弾け飛ぶ。
虹の柱が、タケリの雷撃を弾き返したようだ。かぼそいが、柱はしっかと立って持ちこたえている。
まるで、雲を突き刺す剣のように。
『全く歯が立たぬかと思ったが、なかなかどうして、善戦しているな。まあ、タケリを倒せばあとは造作もない。タケリの主人は、その内に爆弾を抱えている。哀れなことに、奴は、神獣黒獅子に憑かれているからな』
「しゅじんのぼくがちかくにきたのに、レヴテルニはしらんふりしてるよ。よんでも、こたえてくれない」
『黒き獅子は、飢えの権化。タケリの主人を喰らうのに、夢中になっているのだ』
むっつりふくれる幼帝に、獅子は心配無用だと嗤った。
『大安の悪鬼は、喰いごたえのある奴だ。辛酸を舐め、しぶとく生き長らえた魂ほど、美味なものはない。だからレヴテルニは、ずっと取り憑いていたいと、食い意地を張っているにすぎぬ』
「そうなのかなあ……」
『鉄壁の加護であるタケリがいなくなれば、大安の大結界が解けて、悪鬼の面前に迫れる。我らは面と向かって、悪鬼に封印箱をかざすだけだ。無理に引き離す必要はない。餌と一緒に、封印箱に吸引すればよい』
守護神タケリがいなくなれば、勝利はすぐにやってくる。
そのために、小娘にはせいぜいがんばってもらおうではないかと、獅子は目を細めた。
『瀕死のタケリは、この俺が食らってやろうぞ。俺の子よ、おまえのために、もっと強くなってやる』
「パパ、タケリをたべるつもりなの?」
『それ以外のなんのために、ここまで黙ってついてきたと? かび臭い国がどうなろうと構わぬ。いっそ、内乱で滅んでしまえばいい』
「えっ、ちょっと、パパ……」
『大体にして、ここの帝都はなんだ? なんだ、あの真っ赤な橋や塔は。魔導帝国が誇る麗しの天都、大いなる神帝たるおまえが設計し、この世に具現せしめた、龍門に守られし大風水の都、かのスレイプニルの区画を、復興のどさくさに紛れて、しれっと丸パクリするなど。なりふり構わぬ、恥知らずどもめ!』
「た、たしかに、どこかでみたような、くかくだなぁとおもったけど……」
『あとできっちり設計料を請求しろ、俺の子』
「ええっ」
『まったく、尻の穴の小さい政府よ、三色の神殿というのは。即位の礼でも鎖国続行とは、愚かすぎて笑うしかなかろうよ』
一般的には、新王や新帝の即位には、大勢の国賓を異国から招くものだ。なれども、スメルニアは大々的に公報を流しながらも、正式にはだれも招いていない。半年前から依然として、異国人の入国と貿易の規制を続けている。
『金獅子州公家が余計なことをしたおかげで、大陸同盟に入っている諸国の三分の一は、女帝の即位を認めていない。なれども、三分の二は、祝ってやろうという気になっているというのに、馬鹿な国だ』
「タケリがおそってくるから、こないでくれって、いうんでしょ? おきゃくさんのあんぜんを、やくそくできないから」
『まあな。しかし、それで国賓を呼ばぬのは、国内の危機を御す力のない政府だと、自らの無力を宣伝するようなものだ。全く余裕のない体をさらしてどうする? 反対に、異国の客を国内の脅威から守り抜けば、一目置かれるだろうに。おまえなら、それを狙って、わざと大勢の賓客を呼ぶだろう?』
聞かれた幼帝は、迷わずこくりとうなずいた。
「うん。ぼくならそうする。みやこのきゅうでんに、たいりくじゅうのえらいひとをたくさんよんで、せいだいなパーティーをする。そのいっぽうで、タケリやてきのぐんたいは、ぼくのすきなところによびよせる。ぼくのぐんたいが、いちばんたたかいやすいところに。ねえパパ、こっちきて。これをみて」
衣の長い裾を引きずりながら、赤毛の帝はてけてけと、背後に置かれた円卓に取りついた。
卓上には大きな地図やら、羊皮紙のたばやらが山のように積んである。
その一番上に、すめら全土を模した箱庭が置いてあり、赤や青の旗がたくさん建てられていた。
「あかいのが、たいようしんでんのぐんたい。あおいのが、だいあんのみかどのぐんたい。かずは、あかいのがだんぜん、おおいんだけど……」
大安の悪鬼は、大陸中から集めた龍蝶たちからなる精鋭と、黄金で雇った私軍、それから地方から無理矢理徴兵した民団を保有している。概観すると、太陽神殿の大本営が抱える正規軍の、三分の一にも満たない数だ。
「でもね、りゅうちょうは、まりょくがとてもつよくて、おそろしいせんしなんだよ。だから、にんげん五にんぶんで、かぞえないといけないんだ。それから……うんやっぱり……」
幼帝は大きな赤い瞳をじっと、地図に描かれた大安の都に注いだ。
「タケリがいなくなっても、このみやこのけっかいは、とけないとおもう」
『なぜだ?』
「ぼく、おぼろげにおぼえてるんだ。スメルニアのみやこは、ひとばしらで、えいえんにまもられてるって……だれかが……おしえてくれたのを……」
『む……人柱の術か』
「みやこのちかに、いけにえをいれておくひつぎがあって、それがみやこをささえてるんだって」
『真下の都にも設置されていたやつだな。その柩が裂けて、中からあの悪鬼が出てきた。つまり悪鬼は、正確には封印されていたのではない。人柱にされていたのだろうな」
「うん。でもあのひと、じゅんけつのりゅうちょうじゃないから、みやこをささえるちからは、びみょうだったみたいだね。でもさ、もしそのひとばしらが、きょうだいなちからをもつしんじゅうとか、ぜつだいなまりょくをほこるまじんだったら……みやこは、けっしておとせない、てっぺきのじょうさいになる」
『ああ、なるほどな。あの黒髪が、大安の人柱になっているかもしれぬと、言いたいのか』
「うん……ぼくがりゅうちょうのみかどなら、そうする。さいきょうのまじんをひつぎにいれて、ふういんするとどうじに、まじんのまりょくで、みやこをまもらせる」
幼帝は突然、ギュッと固く目を閉じた。
ぶるりと、錦に覆われている小さな体が震える。
「むかし、だれかが、おしえてくれたの。くろいふくをきてる、だれかが……。くろかみのトリオンさまは、にんげんじゃないって。あのひとのまりょくは、ふつうじゃない。かみさまだってころせる。とおいみらいに、たいりくをまっぷたつにするだろうって……だれかが……」
『俺の子?』
「ぼく、いろんなことをおしえてもらったの。なんだか、すごく、くらいところで……。あそこって……どこだったっけ? ねえ、たくさんぼくにおしえてくれたひとって、だれだったっけ?」
傷ついた魂を接がれて、再び生まれた神帝には、未だ思い出せぬ記憶があるようだ。金の獅子は、ゆっくりはっきり、優しく言った。
『俺の子。そいつのことは、思い出さなくていい。そいつはこの世にいないものだ。おまえが作り出した、夢にすぎぬ』
言われたとたん、幼帝はびくりとして、真っ赤な瞳を潤ませた。
「ゆめじゃないよ! ぼくがいろんなことしってて、いろんなことかんがえられるのは、きっとそのひとのおかげなんだ。くろいふくのそのひとが、いっぱいいろんなこと、おしえてくれたから……」
『いいや、俺の子。おまえは始めから何でも知っていた。おまえは生まれた時から、天才だった』
「パパ……ぼく、そのひとのこえを、おぼえてるの。でも、かおが、おもいだせない……なまえも……ぜんぜん……ぜんぜん……」
獅子はもう一度、優しく囁いた。まさしく、本物の親のごとくに。
『俺の子、その人は、ただの幻だよ』
「ちがう……ほんとにいたよ。ほかのことは、ほとんどおもいだせたのに。どうして、そのひとのことは、おもいだせないの? ぼく、いったいどこで、そのひとにおしえてもらったの?」
ぼろっと、幼な子のかわいらしい顔が崩れる。くしゃくしゃに歪んで、頬がみるみる、涙で濡れていく。
獅子は震える子をそっと引っ張って、豊かなたてがみの中にすっぽり入れた。
『思い出せぬのは、必要ないからだ。夢にはよくあること。忘れたままでいい』
「やだ……おもいだしたい……パパ……パパは、しってる? しってるよね?」
『いいや、どこの誰なのか全然わからないな』
「ううん、パパは、なんでもしってるはずだよ。たいりくでいちばんすごいしんじゅうだもん。タケリや、りゅうおうメルドルークより、つよくてかしこいもん」
『たしかにそうだ。俺は誰よりも強い。だが、万能ではない。他人の夢のことまでは、さすがに分からぬ』
「ゆめじゃ、ないったら……!」
幼帝がたてがみをきつく抱きしめてきたので、獅子は悦に入った笑みを浮かべた。
これは僥倖。決してこの子に、前世の真実は語ってやらぬ。
そう誓いながら、金に輝く神気で、我が子となった子をそっと包み込む。優しい唸り声が、幼帝を撫でた。
『夢だよ、俺の子。おまえは生まれる前も今のように、だれよりも幸せな子だった。そしてそばには、俺がいた。片時も離れずに』
「パパ……それほんと……? うそじゃない?」
『嘘などつくものか。おまえは真実、俺の子だった。今の子に生まれる前も、まごうことなく。俺の子だった』
船窓のはるか下で、紫の雷が砕けていく。
虹の柱が長く長く、伸びていった。天に向かって、勢いよく。
黒い天が吼え猛る。
ぐるぐる渦巻きながら、地を揺らしている。
雨。雨。雨。青い瓦屋根が。朱の橋が。真っ黒に染まっていく……。
「どうか、急いで下さいませ!」
ガラガラと、車輪の音を立てて疾走する鉄車。黒い雨を物ともせず、宮処の大路を駆け抜けるその車の後部座席で、太陽の巫女アカシは、めらめら燃える蒼い鬼火に叫んだ。
車の先頭座席に座る鬼火は、はいっと鋭く答え、車の操縦桿をぐるぐる回した。
「最高速度で、大墳墓へ向かいます! 揺れが激しくなりますが、ご容赦下さい!」
「構いません! 新帝陛下に一刻も早く、大姫様の御言葉を、お伝えしなければならないのです!
太陽の巫女王に昇った陽家のミン姫は、第一位の従巫女に自身の師匠であったビン姫を指名した。ミン姫は、幼き頃より自分を慈しみ、災厄の時に身を挺して護ってくれた師の献身に、応えたかったのである。なれども、二位から四位の従巫女は、私情では選ばなかった。
二位はアカシ。三位は照家のラン姫。四位は袁家のメイ姫。この三人は、選抜戦の順位で任命された。
メイ姫が上位に食い込んだのは、御三家の姫を支援する者がたくさんいたからだ。ラン姫も素の霊力はさほどではないが、兄が大神官となったゆえに、ひそかに霊力を送って応援する巫女たちが激増した結果、三位となった。
アカシはそんな支援付きの姫たちを抑えて、堂々と、選抜戦で準優勝をもぎとった。
もしリアン姫が参戦していたら、その栄誉が得られたかどうか分からない。だが、尚家の姫は新帝に仕えることを望んで、選抜戦を辞退したのであった。
『あのしろがねには、気兼ねなく尻をひっぱたく者が必要ですわ。ええ、このあたくしがね。それにね、あたくしったらもしかして、金獅子州公家に、輿入れしなければならなくなるかもしれませんの。だから、大姫になることはできませんの。というわけでミン様、あたくしあなたに、大姫の位をお譲りしますわ。ええ、譲るんですのよ。決して、勝ち目がないから、棄権するのではありませんわよ!』
内裏勤めの女官として登用されたリアン姫は、今、高御座の後ろに控える軍団の中にいる。まずはそこを目指してくれと、アカシは蒼い鬼火に頼んだ。
「リアン様に、陛下への取り次ぎをお願いいたしますので」
「了解しました!」
女帝と大神官たちは、暗雲をまとう神獣と渡り合っている最中だ。降りしきる黒い雨は激しく、空を裂く稲光の筋は数え切れない。神柱と化した高御座は虹色の輝きを昇らせているが、雷に翻弄されて、今にも消えそうになっている。
「しろがね様に、ご無事に凱旋していただくために、なんとしても。大姫様の御言葉を、届けねば……」
後宮に運び込まれたミン姫は、従巫女たちの看護を受けていた。高熱が出て数日うなされていたが、本日ようやく、しっかりと意識を取り戻したのである。
『たれかひとり、今すぐ、しろがね様のもとへ……この水晶玉を……わたしの霊力を貯めた玉を、高御座へ届けてください。巫女王の力を、柱に注ぐ。そのような名目で、しろがね様のもとへ行って、今から言うことを伝えてください――』
ミン姫は弱々しい声をさらにひそめて、由々しきことを従巫女たちに告げたのであった。
『わたしは、天よりいただいたご神託を、しろがね様に、告げませんでした。しろがね様に望みをかける人々が何万人もいたあの場では、とても口にすることが、できませんでした。その恐ろしい神託をどうか、しろがね様にだけ、伝えてください……できるだけ早く……』
思い出すだに恐ろしいと、アカシは両手でおのが貌を覆った。面と向かって、新帝に奏上できるであろうかと、ため息を吐く。
「ああ……なんという予言が下されたのでしょうか。これがまこと、天照らし様のご意思であるのなら、回避する方法は、いったいあるのでしょうか……ううっ?!」
突如、鉄車が急停止した。びしゃりと、すぐ前に雷が落ちた――どうやら、それだけではないようだ。ざあざあ降りしきる雨の中、蒼い鬼火が慌てて脇の車窓を開けて、叫んだ。
「ちょっと! 大路のど真ん中に、立っていないでくださいよ! 急いでますので、どいてください!」
長細い正面の車窓に、人の姿が見えたらしい。風雨を避けようと、家に急いでいる民たちだろうか? 蒼い鬼火はしばし待ったが、人影が動かぬのでしびれを切らし、鉄車の扉を開けて外へ出て行った。
開け放たれた扉から、土砂降りの雨の音が流れ込んでくる。
カッと空が白く光り、ひときわ大きな轟音が、空に響き渡ったとき。
「ぎゃあああああっ?!」
蒼い鬼火の悲鳴が、アカシの耳を襲った。
「アオビ、さん?!」
まさか、雷が鬼火に落ちたのではなかろうか。
大丈夫なのかと、アカシは傘を持って、車から飛び出した。広げた傘を、激しい雨が襲ってくる。ざんざんと、傘を打ち抜くような凄まじい勢いだ。
アカシは目をこらした。おそるべき雨量の雨のせいで、周囲がよく見えない。めらめらばちばち、かすかに前方から、鬼火の燃焼音が聞こえてくる。そこへ向かって慎重に進むと、蒼い鬼火が分裂しかけているのが、なんとか見えた。
「アオビさん! どうしたのですか?!」
鬼火の目の前に、黒い人影がある。まさかその人が、鬼火に何か、危害を加えたのか――
そう悟った瞬間。
「う……あ?!」
どすりと、アカシの下腹に、何かが突き刺さった。
「おや。急所を外れましたか。雨のせいでしょうか。それとも……」
「う……あ……あ……?!」
「もしかして、無意識に避けましたか? まあ、そのご立派な結界ごと、貫いてしまいましたが」
冷たい囁きが、黒い人影から流れてくる。鋭い何かがますます、アカシの腹に食い込んできて、容赦なく、背中を突き破った。
「太陽の女王の侍女、宋明石。通称アカシ。新帝に拝謁するべく、大墳墓に向かっている……で、間違いありませんね?」
「あなた、は?!」
「アカシ様っ!」
二つの炎の塊となった蒼い鬼火が、黒い人影を白く不気味な色に照らしだす。
にやりと口角を上げている男の顔が、見えたと思ったとたん。その顔がみるみる、信じられないものに変化した。蒼い瞳が真っ赤で細い目に。角ばった頬が細くなり、金の髪がどんどん伸びて、よく見知っている女の顔になっていく。
「な……わたしの、顔?!」
腹から何かが抜かれ、アカシはドッと、倒れこんだ。
「あ、あ、アカシ様の姿に!? おのれ、何奴!」
「なるほど、分裂型の人工精霊ですか。ユーグ州を食い荒らしたものと、同じ型でしょうか」
「ひぎゃ!!」
雨の中に、黒い一閃が走る。
おのれを貫いたものは、そして今、鬼火を薙ぎ払ったのは、剣なのだろうか。じゅうじゅうしゅうしゅう、異様な音を立てている、あれは……。
「ほの、お?」
アカシは、なんとか顔をあげた。自分と瓜二つになった者が、黒い炎を蒼い鬼火にかざしている。鬼火はみるみる、その炎に吸い込まれていっている。まるで、むしゃむしゃと食らっているかのようだ。
「アカシ様! 逃げて、くださ……!」
大路に貯まった水をはね散らかし、必死に後退しながら、アカシは鬼火の断末魔を聞いた。
下腹が熱い。燃えているのだろうか。
だめだ。倒れては。しろがねの新帝のもとに行かねばならないのに。まことの神託を、伝えなければならないのに。ああ、でも――
蒼い炎を食らい尽くした黒い炎が、みるみる迫ってくる。
「ど、どうか、お見逃しを……! わたくしは、新帝陛下に、大姫さまの御言葉を、お伝えせねばならぬのですっ……」
「ご心配なく。あなたの代わりに、私が陛下に、死の言葉をお伝えします」
「ああっ……!」
黒い雲が渦巻く。天がぐるぐると回転する。
雨。雨。雨。
雷が轟く中。漆黒の炎が、雨を焼き払う……。
「百臘様……! ご加護を!!」
真紅の血潮が、濡れる大路に飛び散った。
おどろおどろしい雷が、その花びらのような飛沫を眩しく照らした。
無残に。何よりも、鮮やかに。