3話 オムパロス
潮気のある夏風が、白枠の窓から吹きこんでくる。
湖黄殿の女御こと透のマカリ姫は、赤子をあやしながら、島の景色を眺めやった。無理に笑顔を作り、ひとつ、ふたつと、天にそびえる白い塔の数をゆっくり数える。
「......六つ、七つ。ほら天藍、そっくり同じ塔が、七つもあるよ」
黄海に浮かぶ島、オムパロス。白い漆喰壁の家々が建ち並ぶ、小さな都市。
月の神官族の血を継ぐ藍色の髪と、父親譲りの藍色の瞳を持つ子と共にこの島に至り、コハクではなく、本名を名乗り始めてから、はや三月になろうとしている。
オムパロスの人口は数万人ほどで、中央にそびえる七つの塔にはそれぞれ、太古の昔から、各種の学問を極めた賢者が住まっているという。
その塔の輪の内側にある大庭園に、大陸同盟の本会議場が建っている。円形で広大な大理石の建物だが、平屋建てなので、塔の外側からはよく見えない。
今朝方、すめらの主上がその本会議場へ向かった。黄色い波が打ち寄せるこの白亜の御殿から、金獅子州公家の大使と共に、怒りで顔を真っ赤に染めながら、獅子紋の馬車に乗っていった。
『すめら本国で新帝が立つことを、容認してくださいませ。もと太陽の大姫は、何か考えがおありになって、即位を受けたのでしょう』
マカリ姫と共にオムパロスに至り、今や亡命一家の後見人となっている星の大姫は、主上にそう奏上したのだが。
『朕は、認めぬ! 朕はまだ健在であるというのに、悪鬼の孫娘が高御座に昇るだと? しかもそれがあの、シガが飼っていた龍蝶……太陽の大姫になったあの娘だなどと! あれは、母上と共に、死んだはずではないか!』
主上は、耳を貸さなかった。龍蝶の娘が皇太后を殺したのではない、大いなる神鏡は狂っていたのだと、星の大姫もマカリ姫も真実を訴えたけれど、駄目だった。
この御殿の所有者にして、亡命一家を庇護している金獅子州公家が、女帝の即位を断固認めるべきではない、州公家は全面的に主上の帝位の正統性を主張すると、大陸全土に公表したからである。
すめらで、新皇帝の即位の礼が行われる――
本日、かような大陸公報が流されたことに対して、主上は抗議声明を発するために、出て行ったのだった。
「金獅子州公家が、まさか主上の身柄を確保するなんて……そこが誤算だったな」
州公家の隠密部隊に保護されたとき、主上はほとんど抵抗しなかったらしい。シガのもとへお連れすると言われたとたん、自ら率先して、州公家の船に乗り込んだと聞いている。
「やっぱり私たち、すめらの外に出るべきじゃなかったのかな。いや……外に出なきゃ、きっと何にも変えられなかった……」
異国の干渉よりも、帝ですら意のままに操る鏡の方が、はるかに恐ろしい。
マカリ姫も星の大姫も、心底そう感じたゆえに、亡命を決意した。それは苦渋の決断だったけれど、大陸諸国の力を借りればすめらを変えられると、姫たちは信じたのだった。
その結果。
三色の神殿は姫たちが望んだ通り、鏡を捨てた。なれども捨てたのは鏡だけではなかった。
異国に連れてこられた主上の廃位と、新帝の擁立――。
なんて空恐ろしいことになったのかと、火付け役となったマカリ姫はおののいた。
『まさか主上が、見捨てられるなんて。それにしてもあのスミコちゃんが、龍蝶の帝の実の孫だったとはね。驚いたよ』
『あたくしもびっくりですけれど、しろがねには、陛下のご一家をないがしろにする気持ちなんて、たぶん少しもございませんわ。すめらを落ち着かせたあと、主上に帝位をお返しするつもりなのではないかしら』
公子と共にすめらに残り、太陽神殿に戻ったリアン姫からは、そんな伝信が来た。星の大姫とまったく同じ見解である。
マカリ姫も、おそらくそうなのだろうと薄々感じている。
龍蝶の娘からしかるべき密書が来ないのは、こちらが金獅子州公家に囚われているがため。娘の腹心であるリアン姫にも、金獅子の公子が貼り付いているからだ。
下手に動けば、金獅子州公家を余計に刺激してしまう。ゆえに、連絡をとることを自重しているのだろう。
マカリ姫はうとうとし始めた赤子を、天蓋付きのゆりかごにそっと寝かせた。西方風の腰の締まった服の裾をゆたりと広げ、ゆりかごのそばのソファに座る。
すると、すぐ目の前の大理石の卓に置いている水晶玉が激しく点滅した。
「星の大姫様から……ということは」
『ごきげんよう、東宮太后様。シガ様のお産が始まりましたよ』
「やっぱり。十月と十日、ほぼ予定通りですね」
『わたくしはこれより、産屋の前でご祈祷を行います』
「分かりました。私も参加します」
マカリ姫は、続きの部屋で縫い物をしている乳母を呼んだ。
金髪の乳母はうやうやしく頭を下げながら、姫を隣の衣装部屋に入れた。
乳母の名は、スヴェトという。金獅子州公家公子の船に乗っていた侍女で、まだうら若い娘だ。
船に乗っていたときは、公子の乳母であった侍女長が、天藍皇子の乳母として侍っていた。だが、主上がオムパロスに来るやいなや、彼の意向によって、配置換えが行われた。侍女長は現在、シガに付けられている。今日明日中にも、彼女はシガの子の乳母となるだろう。
「単衣と袴を出して。ご祈祷で舞うから」
「はい? ハカマ、ですか?」
「ああ、ごめん。自分で出すよ。すめらの衣のこと、よくわからないよね」
まごつくスヴェトを制して、マカリ姫は自分で、獅子紋が彫られた洋服箪笥から、真紅の袴を引っ張り出した。
星の大姫もシガも自分も、西方風の服を着るようになってしまったけれど、いざというときの正装はやはり、千早に袴の巫女姿である。
三色の神殿は亡命一家を完全に無視していて、伝信ひとつよこさない。だが、今や月の大神官となっているリンシンが、こっそり衣や道具や調度品を送ってくれた。すめらでしか食べられない醍醐や餡餅も差し入れてくれて、実にありがたいことである。
太陽神殿にいるリアン姫も、皇子にと、玩具や反物を送ってきてくれた。
リアン姫は、自分こそが天藍皇子の乳母であると豪語するぐらい、皇子のことを気にかけてくれている。
『もし将来、殿下がセーヴル州に住まなければなくなったら、あたくしがついて行きますわよ! ええ、あたくしも腹をくくりますわ。金獅子州公家の公妃になって、セーヴル州を第二のすめらにして差し上げます!』
北五州は街並みが綺麗で結構住み良いところだと、リアン姫は冗談めかして伝信してきた。
あの姫の声を聞くと、なぜか元気が出てくる。威勢が良くて、まさに、輝く太陽のような巫女だ。
「ふふ、また会えたらいいな」
月の紋がうっすら織られた白い千早を羽織り、長い鉢巻きを締めたマカリ姫は、皇子を若い乳母に託した。
「今、寝入ったばかりなんだけど、お昼までには起きると思う」
「かしこまりました、奥様。殿下が起きられましたら、浜辺への散歩にお連れいたします。そのあと、離乳食を差し上げますね」
「うん、頼むよ」
大陸共通語で話すことに、すっかり慣れてしまった。最近は星の大姫と話すときも、共通語を使っている。すめらの言葉を忘れそうで怖い。
舞は……大丈夫だ。こっそり毎日、少しだけれど練習している。たぶん、ご祈祷で失敗することはないだろう――
マカリ姫は産屋に急いだ。
実をいえばこの御殿には、御所にあるような白壁白屋根の、産み籠もり用のかまどが完備された産屋はない。
御殿の離れをシガの産屋として使わせてほしいと、主上が御自ら、家主の金獅子州公家に掛け合ったのである。庭園を挟んで本邸の向かい側にある、列柱美しい神殿のごとき小館がそれだ。
主上はシガをそこに住まわせて、ずっと入り浸っている。
船に乗っている間、ずっとおどおどしていたシガは、主上と再会するなり号泣して、彼にしがみついて離れようとしなかった。
やはり二人は、深く想い合っているのだろう。
「産屋というより、愛の巣だよね」
姫が苦笑した、その時。円柱並ぶ産屋の廊下から、怒鳴り声が聞こえてきた。
「たった六人で祈祷をするだと? もっとたくさん、巫女や神官を呼べぬのか?!」
「主上?」
見れば、西方風の燕尾服に身を包んだ主上が、巫女服姿の星の大姫に食ってかかっている。シガが産気づいたという報を受け取って、主上は議場から飛んで帰ってきたらしい。
「すめらの皇帝の子が、生まれるというのに! なぜに三色の神殿は、朕たちを無視するのだ?!」
「上皇陛下、落ち着いて下さい」
「上皇と呼ぶな! 朕はまだ、今上であるぞ!」
「今上陛下!」
マカリ姫は本人が望む呼び方で、良人を呼んだ。
「少人数ですが、祈祷に参加する巫女は強い霊力の持ち主ばかりですから、ご安心ください。安産でありますよう、誠心誠意、祝詞を天に捧げます。陛下はどうか、産屋からお離れになって――」
「黙れ、トウイの娘! そなた、朕の見ていない間に、シガの子を呪い殺すつもりであろう!」
「な……そ、そのようなことは決して」
「いいや、そなたが祈祷するは、まかりならんぞ! どさくさに紛れて呪詛を送られてはかなわぬ。部屋に戻って、二位の皇子の面倒を見ているがいい!」
「おそれながら陛下、」
星の大姫が柔和なかんばせを曇らせて、主上の言葉をやんわりと訂正した。
「シガ様の御子は、まだお生まれになっておりません。ゆえに天藍殿下はまだ、東宮にあらせられますよ」
「いいや! シガが身ごもった時から、朕は決めていた。シガを皇后にすると。その子を、世継ぎにすると!!」
シガは主上と相思相愛。しかも、本日すめらの皇帝に昇る龍蝶の娘、〈白銀太皇女〉の実妹である。
すなわち、シガが産む子は、古い帝家と新しい帝家、二つの皇統の血を引いている。血筋をよくよく鑑みれば、シガの子の方がはるかに高貴なのだと、主上は口角泡を飛ばして怒鳴った。
「シガの子が女でも、世継ぎとするぞ! 絶対にな!」
「ええ、古い帝家が復活した今、陛下のお言葉に異論はございません。ご血統を第一に考えるのであれば、シガ様の子こそ、将来すめらの皇帝になるのにふさわしゅうございます。このことに不服なしと、わたくしも女御様も、陛下に同意いたしましたこと、お忘れになられましたか?」
「ああ、言質はとった。なれども、この女御は、あのトウイの娘だ。あろうことか、姫は生け贄に捧げたと朕を騙した上に、別人として後宮に送り込み、無理やり入内させろだの、皇后にしろだの、ねじ込んできた奴のな。絶対心中では、我が子こそ、次代にと思っているに違いなかろう!」
「へ、陛下、三色の神々に誓って、そのようなこと、露ほども考えたことは、ございません!」
マカリ姫は青ざめ、やっとのことでそう答えた。
オムパロスに来た主上に、姫はすべてのことを打ち明けたのだ。自分はマカリであることや、身代わりに龍蝶の娘が龍に捧げられたことなど、すべてを。
『よい。赦そう。トウイは死を以て、その罪を償ったとしてやろうぞ』
主上は微笑んで許してくれた――はずだった。
なのに、父の罪を掘り起こされて責められるなんて。
確かに、自分が東宮太后と呼ばれるのも、御子が儲けの君と呼ばれるのも、おそらく今日限りだ。
明日からは侍女たちが減らされるだろうし、東宮生母として大陸同盟に声明を発することは、叶わなくなる。母子ともに、完全に日陰に追いやられるだろう。
だが、それでよしと、マカリ姫は思っている。
野心あふれる父の姿を間近で見てきたせいか、後宮に入った時から、皇后になりたいとか、権力が欲しいなどとは少しも思えなかった。ただただ、父に従い、よろこばせたいとだけ思っていた。
今の望みは、母と子で、静かに暮らしたい。ただそれだけだ。
「女御様、申し訳ありませぬが、ここは陛下に誤解されぬよう、お部屋にお戻りになられた方が……」
星の大姫が恐る恐る、こちらの顔色を伺ってくる。
亡命一家の守護者となった大姫は、本国ではやはり、微妙な立場だ。
廃位されるかもしれないと噂されているが、彼女を慕う従巫女たちが、オムパロスに駆けつけてきた。その星の巫女たちが、大姫の背後で主上の様子をこわごわ眺めている。
ここは退くのが良かろうと、マカリ姫は渋々うなずいた。
「そう、ですね。陛下が疑心暗鬼から解放されるというなら、そういたします」
とたん、主上の顔がみるみる和らいだ。大きくうなずき、姫の肩を優しく叩いてくる。
「すまぬ、トウイの娘。そなたもそなたの子も、決して悪いようにはしない。ああ、約束するとも。朕は必ずや、すめらにはびこるニセの皇帝どもを、廃してみせる。金獅子州公がさっそく、手を貸してくれたぞ。即位の礼にて、朕の帝位の正統性を訴える一団を、ひそかに送り込んでくれたそうだ」
「えっ?! そ、それは」
儀式の最中に騒ぎが起これば、それは凶兆と見なされる。新帝を支持する者は激減するだろう。
「悪鬼もその孫娘も、おそるるに足らぬ。さあトウイの娘よ、そなたの子のもとへ行け。そしてどうか、よき子に育ててくれ。東宮を敬い、支える子にな」
「は、はい」
素直にうなずき、マカリ姫は産屋に入らず、本邸へと踵を返した。
そうだ、儀式をやらなくてはと、主上が弓を持って来いとわめき立てる声が、背中に刺さってくる。
弓の弦の音は、赤子にとりつく悪霊を祓うと言われている。ゆえにマカリ姫のお産の時には、トウイが帝都月神殿で何百人もの神官たちに、鳴弦の儀を行わせた。
ビュンビュンと弦が鳴らされたのだが、数が多すぎてまるで空が割れるような騒音であった。
月の巫女たちによるご祈祷も、帝都神殿のみならず、地方神殿の巫女たちにまで課したと聞く。
「ああもう。やりすぎなんだよ、父上は。だからトウイの娘トウイの娘って。私、全然、名前覚えてもらってないじゃない」
仕方ない。父は、主上を騙したのだから。
主上は、マカリ姫のことなどまったく眼中にない。シガを心底愛している。他の女性が入り込む隙間など、塵ほどもない。
仕方ない。
仕方ない……
ああでも……
涙がつうっと、姫の頬を伝い落ちた。
「舞いたかった、な......」
私室に戻ると、皇子はまだ、すやすやと眠っていた。
ご祈祷の人手は足りていたとスヴェトに言って、マカリ姫は衣装部屋に入った。袴を脱ぎ、腰を絞る装具を身に付ける。スヴェトが手際よく、装具の紐を結んでいく。
『決して悪いようにはしない』
主上はそう仰ったけれど、本当だろうか。
オムパロスは常夏だし、魚介類や果物は美味しいし、大陸随一の学園都市で、大陸中から才ある学生が集まってくる。
大陸同盟の議場があるがゆえに、諸国の要人も大勢やってくる国際的な都市だ。どの国にも属さず、戦乱に巻き込まれることは決してない。
絶対に安全な場所で、世に名だたる七賢者のもと、大陸最高の教育を受けられる。
子を育てるのにこれ以上の環境はないが、ずっとここにいられるだろうか?
(至れり尽くせりで金獅子州公家の庇護を受ける以上、干渉を受けることも、ある程度利用されることも、覚悟の上だ。でも一体どのぐらい、代償を払わないといけないんだろう?)
金獅子州公家は決して、亡命一家の庇護者であることを止めないだろう。
天藍皇子には、すでに縁談が提示されている。
相手はむろん、金獅子州公家の公女だ。
自分と皇子は、一生、金獅子州公家の客人として、すなわち人質として、生きなければならないのでは。生け贄として、州公家に差し出されるのでは。
マカリ姫の心中には、そんな予感がよぎってしまうのだった。
(シガは、主上と幸せになればいい。子供だって、どんどん生めばいい。でも二人がすめらに戻ってつつがなく暮らすために、私の子が、犠牲になるのは……)
自分自身は、どうなっても構わない。皇后シガを団長とする巫女団の一員として、亡命一家を支えなければという気持ちは、大いにある。
けれど自分の子は、できれば自由に生きてほしい。
せっかく、鏡の支配から逃れられたのだから。
そう思うのは、わがままだろうか?
「ねえスヴェト、好きな人ができるって、どんな感じなんだろうか」
「はい?」
「好きな人と結ばれて、その人との子どもを産んで……って、すごく自由なこと、だよね。私たちは今、大変な境遇のただ中にいるけど、主上とシガは、うらやましいぐらい自由だって思うんだ」
「そうですね。恋愛は、素敵で自由なことだと思います」
「私はそういうこと、考えもしなかったけど。天藍には、好きな人ができるといいな。そして好き同士で結婚して欲しいなって……主上たちを見ると、思っちゃうんだよね」
「奥様は、恋愛をなさらないのですか?」
金髪の乳母が神妙な顔で聞いてくる。マカリ姫は、えっ? とたじろいだ。
「後宮入りは親が決めたことだし、あの主上には、そういう感情は持てないっていうか」
「セーヴル州でも、貴族の結婚は親が決めますが、皆様、自由に恋愛を楽しまれておりますよ」
「う?」
「恋愛は結婚に至る過程ではなく、生涯に渡って、人の精神を豊かにするものです。配偶者が認めれば、恋人との同衾も咎められません。州公妃様も、何人もの恋人をお持ちです」
「え? 結婚してるのに……あ、そうか、後宮じゃないから、男子禁制じゃないんだね。いやでも、それって……」
「恋人と結婚できれば最高ですけれど、そんなことはなかなかできませんわ。だから夫婦公認の恋人を作るのは、れっきとした貴族の慣習なんです。奥様もいかがですか? よろしければ、セーヴル州の貴族を幾人か、ご紹介しますよ」
一瞬たばかられているのではないかと思ったが、スヴェトはしごく真面目に、伯爵やら男爵やらの名前を挙げ始めた。マカリ姫はあわあわと若い乳母を制した。
「ま、待って! 私はいいよ、そういうのいらない」
「ここは男子禁制の後宮ではございませんわ、奥様。セーヴル州の慣習になじんでおくことは、大変よろしいことと存じます」
激しくかぶりを振って遠慮した姫の脳裏に、なぜか藍色の髪の男の姿が浮かんだ。
父の腹心であった、若い月の神官。
藍色の髪の男、リンシンだ。
『姫様、姫様。一緒にお餅を食べましょう』
リンシンの姿がみるみる縮んで、少年に変化する。
姫がまだ幼い頃から、彼はトウイに仕えていた、けれど……
「な、なんで今? どうして?!」
なにゆえ、リンシンを思い浮かべてしまったのか。
理由が分からず、姫はぼっと頬を染めた。とにかくも御子のもとへと逃げ腰で後退する。そのとたん、背中が誰か、体温ある者とぶつかった。
「ひ?!」
衣装部屋にいつの間にか、侍女とそっくりな、金髪の貴公子が入ってきていた。まったく気配を感じなかったので、マカリ姫は息をのんだ。
「いつの間に?!」
「兄様、奥様は今、お着替え中です」
スヴェトにたしなめられた貴公子は、いきなり片膝をついて、マカリ姫に貴人の礼をとった。
「レディ・コキデン。ご無礼をお許し下さい。あなたにご報告したいことがあって、こうして参じました」
「み、ミハイルさん?」
貴公子はスヴェトの兄で、この御殿に住まっている州公家大使付きの秘書官である。遠くから妹を見守っている姿を、マカリ姫はしばしば目撃していたが、こうしていきなり目前に現れたのは、今日が初めてだった。
「レディ・コキデン、どうかお喜び下さい。本日私は、あなた様の敵を消し去る大任を仰せつかりました。ミハイル・ツルヴェネフ、漆黒の騎士隊の隊長として、任ぜられましてございます」
「漆黒の……?」
貴公子は、歓喜にきらきらと輝く蒼い双眸で、マカリ姫を見上げた。
「漆黒の騎士隊とは、金獅子州公家が有する、要人暗殺部隊の筆頭部隊です。五百年の歴史を持ち、暗殺に失敗したことはただの一度もございません。数日の内に、スメルニアの皇位継承者は、この御殿にいる皆様だけとなるでしょう」
「なん……だって?! そんなこと誰も頼んで……」
「スメルニアの、まことの今上陛下の思し召しです。部隊一同、急ぎ、スメルニアの帝都へ参ります。ですからどうか、しばしおそばを離れますことを、お許し下さい」
マカリ姫が呆然としている間に、貴公子は姫の手に薔薇の花を一輪ねじ込んで、足音もなく衣装部屋から消えた。
「兄様ったら。私がきちんと、恋人候補として紹介するはずでしたのに、待ちきれずに……なんて無礼を」
スヴェトが眉をひそめて謝罪してくる。マカリ姫はハッと我に返り、渡された薔薇を侍女に押し付けた。
「大変だ……スミコちゃんが危ない……!」
「奥様?」
「待って、どこ?! ミハイルさん! 行かないで! すめらに行かないで!」
姫は、廊下に出たはずの貴公子を探した。
なれど、白亜の床きらめく空間には、誰の人影もなかった。
湿った夏風が勢いよく、吹き抜けていく。びゅおうと、いやに大きな音を立てて、まるであらゆるものの気配を消すかのように。
「ミハイルさん!!」
姫の呼び声も風に消された。無残に、あとかたもなく。