2話 高御座(たかみくら)
晴天吉日。夏風が勢いよく、瓦礫の山を吹き抜けていく。
その合間をつき通すように、一本、長い檜の渡り廊下が架けられている。
北から南へ、深く裂けた大地に沿ってまっすぐ、えんえんと。
真っ白な雪色を襲ねた単衣をまとい、赤い袴をはいた娘が、しずしずと、その廊下を進んでいる。
娘の背後には、夏風にはためく黄金色の大天幕がある。
災厄であとかたもなくなった内裏の跡に建てられた、急ごしらえの新内裏だ。
娘は昨夜、空より降り来たりて、その天幕に入城した。
真っ白な船から、銀色の鉄の竜に乗ってきたのである。
華奢な背中には、大剣。腕には円い鏡。しろがね色の髪は結いあげず、長く垂らしたまま。
娘の肌は磁器のようにすべらかで、まとっている衣よりも白い。
菫色の双眸は、南へ伸びる廊下の先を凛と見据えている。
『なんとも、痛ましい有様じゃのう』
娘が抱える鏡が、悲哀こもる声をあげた。
渡り廊下の果てにあるもの。それは、宮大殿の廃墟である。
帝が住まう内裏の東南に在り、もっぱら、元老院の議場として使われていたところだ。合掌の形をしていたであろう屋根はほとんど崩れ落ち、壁はところどころにしか残っていない。屋根を支えていた朱色の円柱が、無残に横たわっているのが見える。
『今の皇国そのものを表しておるかのようじゃ。ぼろぼろで、見るに耐えぬわ』
娘が進んでいる廊下は、帝が内裏から宮大殿へ下るときに使う、渡り道だ。すっかり焼け落ちたので急いで再建されたが、まだ完全ではない。
『おやまあ、そこ、床板が貼られておらぬぞ』
「大丈夫です」
娘は、廊下の穴を優雅に飛び越えた。あたかも風をまとっているかのようにふわりと浮いて、軽やかに着地する。袴の長い裾が後ろにたなびき、床を覆った。なれども娘は、足を絡ませることなく、見事に裾をさばいて、また進みだした。
『しろがねよ。そなた、袴にすっかりなじんだのう』
鏡はしみじみ、感無量のため息を吐いた。
『始めは、はき方も分からず、転んでばかり。仕方なしに、短い袴をはいておったのに』
「鏡姫さまに歩き方を教えていただいたこと、とてもなつかしいです」
『ほほほ。母さまが恋しくて、びいびい泣いておったあの娘が、こんな立派なおなごになるとはの』
山奥育ちの娘は、生まれつき目が見えなくて、いつも鼻をくんくんさせていた。
龍蝶であることを全く知らず、家族から狗那、すなわちイヌのような子と呼ばれ、親に売られた。
そこから、数奇な運命が始まった。
黒髪の人と出会って彼の妻となり。巫女となり。世に名高き舞姫となり。ついには、太陽の巫女王となった。
羽化して目の見える大人となっても、娘の運命は落ち着かないでいる。
娘は今、百州を抱える広大な国の頂に、昇ろうとしているのだった。
『我が子とも思う娘が、すめらの女帝になるのを見守れるとは。しぶとく生き永らえた甲斐があったというものよ』
御所の地底からよみがえった〈悪鬼〉が帝位を僭称し始めて、はや半年。
大安に自身の宮廷を置いている〈悪鬼〉は、三色の神殿の支持を無理矢理とりつけ、皇国内にいる帝位継承者を次々と粛清した。
娘は〈悪鬼〉の宿敵であるが、実の孫でもある。すめら百州で唯一、国内で生き残っている帝位継承者だ。ゆえに、三色の神殿は、娘に〈悪鬼〉打倒の希望を託すことを決議したのだった。
『それにしても、元老院はよくぞ、我らが求めることを呑んだものじゃ。いかな、星の大姫の神託とて、百州にあるすべての神殿の鏡を破棄するなど、正気の沙汰ではなかろう』
「でも改革は、着々と進んでいるみたいです。法令として出されましたし、ダメ押しでアオビさんたちの監察も入っています。これで古い鏡がすっかり、なくなるといいのですが……」
王朝開闢より続いていた大スメルニアの支配は、一万二千百十二年を以て、封じられた。
鏡壊しは、もともと〈悪鬼〉が始めた改革だ。しかし娘も渡りに船と、神託を騙る鏡を破壊することを、即位に応じる条件として求めた。
聖所のご神体をすべて、新しいものに変えるなど、恐そ信じがたい大改革である。しかし元老院は、首を縦に振った。
〈悪鬼〉に首を絞められるか。新しい帝のもと、新体制を敷いて生き延びるか。
選択肢はもはや、その二つしかなかったからだった。
現在、すめら百州の神官族たちにはすべからく、大スメルニアの波動を弾く力を持つ水晶玉が配られている。いにしえの巫女はどこかの鏡の中にまだいるが、もはや表に出てくることはないだろう。
「じゃが、大スメルニアは相当にしぶといぞ。妾の中に在ったあれを消すのは、ひと苦労どころではなかったわ。〈悪鬼〉を倒したのちは、鏡の根絶に力を注がねばなるまい』
「はい。百州の民が、無知蒙昧な家畜ではなく、自由な人間となるように……オムパロスにおわす東宮生母のコハク姫さまが、あたしと同じ考えをお持ちであられるのが、心強いです」
『おやおや、顔が固いのう。能面のようじゃし、声が震えておるではないか。我が巫女よ、緊張しているのか?』
「はい、めちゃくちゃ、緊張してます。正直言って、ここから逃げ出したいって思ってます。いくらあとで、オムパロスにおわす主上に帝位をお戻しするからって、このあたしがいっときでも、皇帝になるなんて……」
巫女王に昇った時は、ちゃんと力試しをした。太陽の巫女の中で一番だと認められたから、自分も納得して、堂々と大姫になれた。
だが今回は単に、「出自」だけで即位が決まってしまった。
数奇も数奇。こんなめぐりあわせなど、あるだろうか。
たった数年前には山奥で糸を紡いでいた娘が、すめらの皇帝になるなんて。黄金の衣をまとい、黄金の冠をかぶり、三色の神殿を従えるなんて。
「分不相応です……!」
『おのれをよく知っている者こそ、人の上に立つにふさわしい。僕はそう思うよ?』
背中に負っている大剣が、うっとりした声で囁いてくる。
とたんに、娘はホッと表情を緩めた。
「ルデルフェリオさん。ありがとうございます」
娘にとって鍛冶師の剣は今や、鏡姫と肩を並べるほどの相談相手となっている。
この日を迎えるまでのひと月、娘は元老院とひそかに、度重なる折衝を行った。そのとき剣は決まって、蓄積している膨大な知識を持ち出して、いかに受け答えするべきか、どんな対応をするべきか、的確に教示してくれたのだった。
『即位の礼が終わるまで、玉座にじっと座っていること。それから、国賓をにこやかにもてなすこと。君が今日やるべきことは、この二つだ。他のことは一切、考えないこと。ほら、お迎えが待っているよ。にっこり微笑もう』
「はい!」
『待って、力まないで。もっと肩の力を落として』
「はいっ!」
『おやおや。鬼のような形相じゃ。これではみんな、逃げていくぞ』
「えええっ、そんなにすごい顔ですか?」
『ほほほ、凄い眼力じゃ。よいよい、その顔で、議員たちに睨みを効かせるがよいわ』
渡り廊下のつきあたり。大殿の廃墟の入り口に、銀冠を被り、白い千早を羽織る巫女が平伏している。娘が近づくと、巫女はひたりと、床に額をつけた。
「この上なく卦の良い本日。御身つつがなく、今日この日を迎えられましたこと、心より喜び申しあげます。月の大巫女、メノウこと瑪瑙。本日、今この時より、尚侍司の長として、おそばに侍らせていただきます」
藍色の髪の巫女は平伏したまま、かろうじて残っている敷居の横に身を退いた。
「どうぞ、高御座にお入りくださいませ。皇太女殿下」
娘はうなずき、大殿の入り口をくぐった。枠組みが残っているだけの敷居は、再建工事が始まったところで、灰色の養生幕が張られている。
ふわりと浮くように敷居をまたいだとたん、あたりがフッと暗転した。
屋根は崩れているはずなのにと、見上げれば。真っ黒な大幕が頭上に広がり、青空を隠している。
「三色の紋様の天幕……」
大幕には太陽と月と星、三つの神殿の紋が染め抜かれている。
これは、元老院が開かれている、という御印の天幕だ。
娘のすぐ目の前に、八角形の建物が据えられている。壁にも屋根にも一面金箔が貼られていて、なんともまばゆい。
『すめらの帝の玉座、高御座じゃ。帝が外にお出ましになられるときに使う御帳台によく似ているが、幕の色が違う』
「はい。行幸に使われる玉座台は紫ですが、宮大殿の玉座台は黄金色です。即位と大祭のときのみ、使用されるもので、普段は宝物殿にて保管されております。ゆえに、災厄の被害を受けずに済んだのです」
メノウはちいさな扉を引き開け、娘をその中にいざなった。
「中の玉座にお座りください」
娘が入ったところは裏口である。
竜の浮彫りがなされた黄金の玉座は向かいの南口を向いており、そちらこそが正面だ。北口より間口が広く、御簾が降りている。
娘は背中の剣をおろし、後ろに控えるメノウに渡して、黄金の玉座に座した。両腕に鏡をもったまま、おそるおそる、御簾の向こうを見つめる。左右にうっすら、無残に倒れた柱が透けて見える。柱と柱の合間。瓦礫を撤去した広間には、紫の衣をまとった人々が、三列に並んで待っていた。
「元老院議員……」
『右は月。左は星。真ん中の列が、太陽の神官族じゃな。一色につき、百二十名。各州に一人ずついる州の神官長と、帝都神殿の要職にある二十名ずつ、という構成のはずじゃ。すなわち、三百六十名いるはずじゃが……』
『なんだかずいぶん少ないね。百人強ぐらいかな? ああ、〈悪鬼〉に殺されたってことか』
「はい。帝家と少しでも血のつながりのある家の者は、ことごとく……ゆえに、家格第三等の家からも議員が選ばれるという、由々しき事態となっております」
大スメルニアは穴埋めの人事を行ったが、それでも追いつかなかったらしい。
剣を抱えるメノウがそろそろと後退し、裏口から出て行った。かつかつと、八角の玉座台を巡る靴音が聞こえてくる。彼女が南口のそばに来た時、広間に荘厳なる銅鑼の音が鳴り響いた。
玉座に帝がお座りになったという、知らせの鐘である。
とたんに、議員たちは膝を折り、一斉に平伏した。
議員たちの列の前から三人は、烏帽子を結んでいる紐の色が他の議員と違う。朱の結び紐で結んでいる彼らは、各色の新しい〈九人組〉なのだろう。
「この御簾、こちらからはうっすら見えますけど、あちらからはほとんど見えないのでは……」
『そうじゃ。特に皇族が使うものは、竹に角度をつけて編まれるゆえ、そういう仕様じゃ。帝は現人神ゆえ、住まいである内裏以外の所では、人前に姿を現してはならぬのじゃ』
「帝の顔が分からない、なんて……」
『支配者は、畏怖されねばならぬ。かわいらしい娘と知ったら、真摯にかしづく者がいったいどれだけおるのやらじゃ。剣も、じっと座っておれと言ったであろ』
娘はきりりと口を引き結び、玉座から立ち上がりたい衝動を我慢した。
それから半日、娘は鏡を膝に置き、ただただ黙して、儀式の進行を見守った。
〈九人組〉による、長たらしい祝詞の詠唱。
娘の血筋を証だてる、血統書の朗読。
皇国の玉璽を受け取る、継承の儀。
議員ひとりひとりが帝に忠誠を誓う、宣誓の儀。
なべて、眠気を催すのは必須の、ゆたりゆたりとした進行だった。
娘は、じっと耐えた。
高御座のそばに立つメノウは、鋼の銅像のようだった。微動だにせず儀式の進行を見守り、やっと最後に、「新帝の詔」を発表した。
「今上となられた陛下は、〈悪鬼〉討伐に全力を尽くされます。ゆえに太陽神殿には、討伐軍の編成を命じます。月神殿には、大陸同盟への対処を。星神殿には引き続き、宮処の復興を、それぞれ、命じます。また、御所に必要な文官、武官、ならびに女官を任じます」
討伐軍の将軍。オムパロスへ派遣される使者。復興の監督官。それから、御所で帝に侍る人々の名を、真ん中の列の一番前にいる太陽の大神官が読み上げた。序列は帝都神殿の第一位だが、陽家の人ではなかった。目元の涼やかな若者で、太陽の神官族特有の金髪を、長く腰まで垂らしていた。
「陛下の後宮に住まう女官は、十二名。すべて女御の位が叙せられます。各帝都神殿より四名ずつ、任じます。帝都太陽神殿より、尚家のリアン姫、照家のサン姫……」
『ふああ、まだ終わらぬのか?』
「もう少しだと思います。あとは、太陽の巫女王の神降ろしで、儀式は終わりです。誰が大姫になったのか、知らされてませんが……」
『ほほ、それは、聞くまでもなかろう』
星の大姫はオムパロスにて、先帝の一家と共にいる。
月の周神殿に入った月の大姫は、しぶしぶ鏡の破棄を受け入れた。なれども、体調不良であると称して、神殿にひきこもっている。
太陽の大姫は空位だったが、娘の即位に合わせて、新しい大姫が選出された。
即位の礼では、太陽神の神託が必要だからだ。
事前の折衝で、元老院の使者は、新帝の意思を反映させることができると言ってきた。意中の者を、太陽の大姫にできると。だが娘は、ちゃんと選抜戦を行うことを望んだ。朱の聖衣をまとうにふさわしい巫女は、おのずとあの人しかいるまい。その人はみごと勝ち残るはずだと、娘は確信していた。
―—「星神殿より、輝家のフアン姫。曇家のユィン姫。王家のキン姫。同じく、王家のリー姫。以上です。ではこれより、神降ろしの儀を行いまする。陛下、かしこみ、申しあげます。どうか、大殿前の広場へお移りください」
太陽の大神官に移れと言われたが、娘は玉座から動かなかった。
黄金にきらめくそこから動く必要はない。裏口から入ってきたメノウに、そう言われたからだ。
どうやって神降ろしを見るのかと思っていると、ずずっと、床が音を立てた。
「高御座が……」
『御帳台と同じじゃ。鬼火どもが運んでいくのであろ。今の音は、内臓されておる車輪の留め金が外されたのじゃ』
広間の向こうから、緑色の鬼火たちがわらわらと入ってくる。
その姿を見て、娘は一瞬、ぞくりとした。
しかしてもはや鬼火たちは、大スメルニアに操られる駒ではない。鬼火たちは緑の炎をめらめら燃やしながら、娘が入っている高御座の周りに並び、えっさほいさと押し始めた。
太陽の神官族の列が左右に割れる。ゆるりゆるりと、開かれた広間を、高御座が進んでいく。
『大昔、すめらの皇帝の高御座は、戦場で使われる天幕そのものであったそうな。動かされるのは、そのなごりであろうぞ』
元老院議員たちに見送られる形で、黄金の御座は宮大殿を出た。
崩れた大殿の南には、石畳の広場がえんえんと広がっている。
大殿の敷地が、いくつも入りそうな広大さもさることながら、驚くべきは、そこに並ぶ人々の数だった。
大殿のすぐ前には大きな祭壇がしつらえられており、注連縄で囲まれた聖なる炎が燃え上がっている。その後ろにずらりと、すめらの神官族が平伏していた。
「宮処住まいの官だけではありません。百州より多くの官が、参っております。西から、女官、文官。武官の順に、そして品位に準じて、並んでおります」
万を軽く超える数だと、玉座の後ろに控えるメノウが、目を見張る娘に言った。
「官たちの後ろには、太陽神殿が集めました軍団が、一万。御所の周囲には、三万配置されております。ですが本日、宮処の上空に船は飛んでおりません。御所の上空にあるのは、陛下が内裏が再建されるまでの仮住まいと定めました、天の浮島だけにございます」
―—「そこで止めてくだされ!」
官の誘導を受けた鬼火たちが、高御座を押すのをやめた。
娘はその声を聞いて、ハッとした。どこかで聞いたことのある声だ。この声の主は……
「尚侍さま、陛下に冷やし茶と落雁をお持ちしました!」
「それは、かたじけのうございます」
メノウがさっと裏口を開ける。
ちらりと、声の主が垣間見えた。紫の衣をまとっているから、元老院議員だろう。藍色の髪をしていて、胸には月の紋様の首飾りが光っている。二十代前半ぐらいであろうか、鼻筋のよく通った美丈夫だ。
「リンシン、さん?」
『おや、知り合いか?』
「はい。あのお方はたぶん、あたしを買って、帝都月神殿に連れてきた人です」
「月の第一位の大神官となりました、リンシンにございます。どうか、お見知りおきを、というか、私のことを思い出していただきますれば、光栄に存じ奉り――」
「余計な売名はお慎みください」
同じ月神殿の、しかも第一位の神官となった者に、メノウはそっけなく返し、裏口をぴしゃりと閉めた。
娘は苦笑しながら、ありがたく冷えた茶と菓子をもらった。
しかし娘は慌ててそれを飲み干し、玉座から立ち上がった。
「鏡姫さま、祭壇の前に伏していた大姫さまが、立ち上がりました。ああ、やっぱり……!」
娘は喜びいっぱいの顔で一礼した。
メノウがそれはとたじろいだが、娘はそうしないと気が済まなかった。
「だって、その身に神を降ろす、巫女の中の巫女ですもの。敬意を表さないなんて、ありえません!」
巫女王が被っている金の冠が、晴天の光を浴びてきらめいている。
朱の衣も鮮やかなることこの上ない。冠や衣は、星の大姫が下した神託により、西の大墳墓で発見され、回収されたという。結いあげた金の髪によく似合っていると、娘は菫の瞳をきらきら、喜びできらめかせた。
「ミンさま、とてもきれいです!」
剣を抱えるメノウがまた裏口から出て行って、高御座のそばについた。
直後、祭壇の両脇に伏していた巫女たちが一斉に顔をあげ、笙や笛の伴奏を奏でだした。
帝都太陽神殿の巫女たちだ。
右手に一所懸命鈴を鳴らしているメイ姫、それから、歓喜にむせぶ涙顔で笛を吹いているビン姫がいる。
「新帝陛下のために。天照らし様のご神意を、受け取りたく! かしこみ、かしこみ、願い白す!」
新しい太陽の大姫は、眼鏡を外している。娘ほどではないが色白で、端正な顔立ちだ。
緑の榊を勢いよく振りながら、彼女は優雅に舞い始めた。
朱の聖衣の裾が浮いてくる。ゆたりとした袖も、ふわりふわり、鳥の羽のごとく羽ばたいている。
巻き起こった風に、目の前の御簾が揺れた。
鏡を外に向けて、娘は食い入るように、ミン姫の舞を見つめた。
この目で姫の舞を見ることができるなんて、なんという幸せであろうか。
「大したものです。北五州にいたときより、回転軸がしっかりしておりますね」
メノウが感心してつぶやくのが、耳に入ってくる。
「ええ、ほんとに。素晴らしいです!」
太陽の巫女たちが、衣の袖に手を突っ込み、隠し持っていた白い花びらを散らした。
舞い上がる風に乗せられて、花吹雪が青空に昇っていく。
「花音だわ! すごい!」
娘は手を打ちたたいて喜んだ。ミン姫は、舞は得意ではないと言っていたけれど。きっと死に物狂いで練習したのだろう。
花びらの雨が広がっていく。高御座にも、降り注いでくる。
ふわりふわり、姫の体が浮いてきた。
日の光が、朱の衣を焼いている。
「がんばって。もう少しよ。がんばって……!」
もっと高く飛べば。もっと手を伸ばせば。きっと、降りてくる――
娘がそう思った瞬間、太陽の大姫は高く高く飛んだ。
あの飛天ではなかったけれども、榊に陽光がきらりと宿った。何かを得たかのように姫はカッと目を見開き、そして地に降り立った。
伴奏が止まる。
静寂が、広場を覆っていく。
娘は、固唾を呑んで見守った。
ミン姫は、どんな神託を自分にくれるのだろう?
「天成粛々……この卦の良き日に……」
肩を上下させる姫から、囁き声が漏れた。娘は、耳をそばだてた。
ゆっくりと姫が顔をあげる。汗にまみれたその顔に――
「涙……?」
姫の口が、動いた。しかし声は、聞こえなかった。
突然、大きな爆音が広場に響き渡ったからだった。
何事かと思う間に、ひざをつくミン姫の背後から、黒い大玉をもった男が乱入してきた。
「オムパロスにおわす陛下を無視するなど、言語道断! 新帝の即位など、認めぬ!! これでもくらえ!!」
男は、手にもつ玉を思い切り、鏡の置かれていない祭壇に投げつけた。ぼんと、大きな爆音とともに祭壇が砕け散る。
「姫さま!」
ビン姫をはじめ、太陽の巫女たちが、慌てて大姫を守ろうと、悲鳴を上げながらも飛び出していった。しかし、神降ろしの場を穢した男は、次の瞬間、ばたりと倒れた。
「なんてことを! 聖なる場から、出ていきなさい!!」
ミン姫がこれでもかと力を込めて、男に手を突き出し、いまだ残っていた風の力で吹き飛ばしたのだった。
「天照らし様は、今の行為を決して、お許しにならぬでしょう! 天に輝く大御神は、新帝陛下の御代を、祝福しておられます! 陛下、万歳……!!」
叫ぶなり、ミン姫はふっと気を失って倒れた。ビン姫が血相を変えて、我が娘と思っている巫女に抱きすがる。
「姫様! 姫様っ!!」
―—「ミンさま!!」
なんということか。まさか、オムパロスにおわす帝を支持する者が、こんな冒涜を犯すなんて。
娘は玉座から離れ、御簾から飛び出しかけた。
倒れた姫のもとに、駆け付けたかった。だが、表にいるメノウが押しとどめてきた。
「なりません! 出てはいけません!」
「でも!!」
「大姫は大丈夫です。陛下は、動いてはなりません!!」
『我が巫女、こらえよ!』
『スミコちゃん、だめだ。玉座に座って!』
鏡と剣にも止められた娘は、御簾の真ん前で立ち尽くした。
官の列が割れ、武装している神官兵が、わらわらと祭壇の前になだれこみ、男を拘束する。
娘はその様子を、御簾ごしに立ちはだかるメノウの背から、歯を食いしばってかいま見た。
「怪我はしていないの? 大丈夫なの?!」
残り香のように漂うミン姫の風が、仁王立ちのメノウの髪と、御簾を揺らした。
さらりとかすかに。大丈夫だ、心配するなと、囁くように。
だが娘は、ずっと立っていた。
やはりここは、自分が座る場所ではないように思えてならなくて。いつまでも、御簾の前に立っていた。
「ミンさま……どうか、無事でいて……」