1話 朱の橋
紫明のお山の雪をすっかり溶かさんと、暑い夏風が吹き渡る日。
宮処の空は、色とりどりの花玉で埋め尽くされた。
朱。蒼。翡翠に丹黄。巨大な牡丹のごとき煙の花が、かつて五十万の民が住んでいた都市に花開いた。
「父ちゃん、見て! 空いっぱいにお花が!」
「おお、きれいだな」
黒い焼け野原が目立つ区画を、家財道具を背負った親子が歩いて行く。黒髪の父親は大きな長持ちを。同じく黒髪の息子は、やかんや鍋が入った大きな籠を背負っている。
「これって、橋の開通のお祝いでしょ? すごいなあ」
「いやいや、それだけでは、こんな派手派手しいことはしないよ。新しい帝が立つんだと、星の神官様が仰っていた。だからだろうな」
「新しい? じゃあ、前の天子様は、死んじゃったの?」
「そうらしい。御所が壊された時に、具合を悪くされたんだろうなぁ」
七ヶ月前。悪鬼が炎の雨を落としたせいで、蒼屋根ひしめく宮処は、無残な姿に変わり果ててしまった。災厄を免れた家屋はごくわずか。今でも、碁盤の目のごとき区画は、真っ黒な焼け野原ばかりだ。いまだに焦げ臭い匂いがほんのり、漂っている処がある。
負傷者は数知れず、死亡した者も多かっただろう。だが、三色の神殿は、すめらは堅牢健全だと謳い、被害の様子も死亡者も、決して民に報せなかった。
「新しい橋を渡ったら、きれいな家がたくさんある。そこのひとつが、俺たちの新居だ」
「避難生活、やっと終わるんだね。あ、谷間だ……!」
かつて御所に繋がる大路であったところに来た子どもは、恐れをなして立ち止まった。
深い亀裂が、宮処を真っ二つに裂いている。底がかろうじて見えるぐらいの暗い深淵だが、幅はさほどではない。家二軒分ほどであろうか。
谷を挟む両岸には、災厄後に建てられた、蒼屋根の新しい家がずらりと並んでいる。
そして都を裂く亀裂には――
「橋! いっぱい架かってる!」
谷間におそるおそる近づいた子は息を呑み、それからみるみる顔を晴れやかにして、すごいすごいと手を打ち叩いた。
南北に走っている谷間に、幾本も橋が架けられている。鮮やかな朱塗りで、真ん中がなだらかに湾曲しているそれらは、どれも全く同じ形だ。朱の山の連なりが、実に美しい。
「すごい! きれい……!」
壊れたら直す。裂けたところは繕う。それが、人間の性である。
炎の雨が止んですぐ、厚生と土木を司る星神殿の指揮のもと、復興建設が始まった。
太陽神殿から借り受けた常駐軍の他、避難民や出稼ぎの労働者が人夫として雇われた。
工事を手伝った者は優先的に、新しい公共区画の家に住める。そう定められたので、郊外で天幕生活を強いられる避難民が募集に殺到した。
そのおかげで、復興建設は驚くべき速さで進んでいる。復興団と名付けられた人夫の数は、なんと五万人に及ぶ。その働きはめざましく、ひと月に一本という速さで、谷間に橋が架けられていった。
橋の近くにある公共区画も、みるみる瓦礫が取り去られ、家屋が次々と建てられた。
かくて谷間の一帯はおのずと繁華街となり、以前のように、すめら百州の特産品を扱う様々な店が並ぶまでになっている。
いまだ焼け野原の御所や役所、崩れたままの帝都神殿の地区とは、雲泥の差である。
政情不安と神官族の暗殺が相次ぐ中。星神殿は、東宮母子と共に異国にいる巫女王の神託を受けて、民の暮らしの再建を優先させたのだった。
「坊、新しい橋はこっちだ。ほら、まだ通行止めしてるだろ」
「父ちゃんが建てた橋!」
「はは、七つ目の橋だから、七条橋っていう名前だ。監督はえらくおっかない神官様だったが、褒美に家がもらえるんだから、手伝わない手はないよなあ」
「俺も手伝いたかったな。そうしたらお給料でもらえる餅、もっともらえたのに。避難所でも、神殿に通わないといけないなんて、めっちゃだるかったよ。休みでいいじゃん。わざわざ、臨時の神殿、建てることないじゃん」
「いやいや、すめらの子はたくさん勉強して、善き臣民にならないといけないんだ。神殿は絶対、どこにでも必要だろうよ」
家財道具を担ぐ親子は、一番南の橋に近づいた。西側も東側も、多くの人々がひしめいている。注連縄で閉じられている橋が開通するのを待っているのだ。西側には、家財道具を背負ったり、荷車で引いている者が多い。親子のように、西郊外の避難所で天幕生活を送りながら、橋の建設を手伝ったのだろう。
東西の注連縄のすぐ前に、蒼い錦をまとう星の神官が二人ずつ立っている。橋の建設を監督した者たちだ。父親は彼らに向かって深く、頭を下げた。
そのとき――
「わあ、見事な橋ですねえ。人が成す技の、なんとたくましいことでしょう」
親子の隣に、笠を被った小人がひょこりと出てきた。めらめらと炎が燃えるような音を立てており、身にまとう水干から覗く手は真っ青。その手がゆらりと火のように揺らいだので、子どもはびっくりして、ひゃっと声をあげた。
「な、なんだよ、あんた」
「ああ、神殿巡りの鬼火さんか」
子どもにすがられた父親は苦笑いして、大丈夫だと、子の頭をぽんぽん叩いた。
「その人は、鬼火っていうものだ。避難所の神殿にも、来ていただろうが」
「え? そうだっけ?」
「その通りでございます。ワタクシは人工の鬼火、アオビにございます」
鬼火は被っている笠をちらりとあげて、親子に一礼した。
「七条東区に、焼け残っている神殿があると聞きまして。ついでに開通式など楽しみつつ、そこへ参るところです」
「蒼い鬼火はかつて後宮や神殿に務めていて、今は悪鬼に殺された貴人たちの霊を慰めるために、巡礼しているとか……」
「はい、方々の神官様たちによって、そのような噂を立てられておりますが。実のところは、元老院の命により、機器点検を行っております」
「点検?」
「古い部品を、新しいものに取り替えているのです」
ぼぼん、ぼぼんと、真紅の牡丹花がいくつも、青い空に咲いていく。
花玉の宴もたけなわ、まだ橋は開かないのかと、人々がそわそわし始めたとき。星の神官たちが祝詞を唱えながら、大きな鋏で注連縄を切り落とした。
笠を被る鬼火は、一斉に動き出した人波にまぎれて、開通した橋を渡りだした。
「古い部品って? 神殿のどこかが、変わるの?」
黒髪の子どもが隣にべったり張り付き、興味津々で聞く。鬼火はにこやかに、さらっと答えた。
「鏡を水晶玉に変える。それだけのことです。ほらほら、お父上が呼んでますよ。はぐれませんように。ええ、お気を付けて」
子どもの背を父親の方にそっと押した鬼火の耳に、人波のざわめきが飛び込んできた。
「新しい帝が、即位なさるそうだね」
「ああ、公報で流されたね。でも、御所はまだ、めちゃくちゃなんじゃないかね?」
「だよなあ。新しい陛下は、どこにお住まいになるんだろう」
蒼い鬼火は笠を目深に被り直しながら、言葉を投げた。誰が言ったのかは分からないように。なれども、誰にも聞こえるように。
「新しい皇帝陛下はもちろん、御所にお住みになりますよ。新しい建物ができるまでは、御所の真上におわしますけどね」
「真上?」
「それって……」
「空に、ってことか?」
ぽかんと、花玉が咲く空を見上げる人々の隙間をするする縫って、鬼火は橋の向こう側に抜けた。
店が並ぶ通りを東へ進み、公共区画に建てられた住宅街に入る。
漆喰や木の匂いを醸す蒼屋根の家々は、以前と同じく、三色の小神殿を取り囲むように建てられている。家と家の間の細い路地に、鬼火はするりと入り込んだ。
「ああやっぱり。匂います。匂いますよ」
新しい木の匂いに混じって、焦げ臭い匂いがほんのり漂ってくる。
鬼火は路地の奥にある、古びたお社に入った。
黒ずんだ壁の色からして、建てられてだいぶ建っているとひと目で分かる。
間口をくぐるとすぐに、三つの扉。三色の神殿がひとつの建物にある構造だ。土地の狭い都市によく見られる、三色混合のお社である。
鬼火は、左側の星神殿の扉を開けた。
中の広間には神官と巫女がひとりずついて、祭壇に置かれた水晶玉を拝んでいる。
「元老院より遣わされました、監察吏、アオビにございます」
鬼火は腰に下げた巾着から水晶玉を取り出し、星の紋様で飾られた祭壇や、目を丸くする神官や巫女たちを検分して廻った。
「これは一体」
「監察所が使っている水晶玉がですね、ここから変な波動が出ていると察知したんです」
「監察所?」
「はい。元老院直属の機関で、古いものを新しいものに変える部署です。ああ、そんなに驚かないでください。大丈夫です。変な波動は、ここからは出ておりませんよ」
鬼火はぴこぴこ点滅する水晶玉を見ながら、星の祭壇を辞し、隣の扉を開けた。
真ん中に位置するその扉の先には、太陽神殿の広間がある。その祭壇にも、神官と巫女がひとりずつついていて、水晶玉が置かれていた。
「はい、ここも大丈夫ですねえ。やっぱり怪しいのは、月神殿でしょう。そうでしょう」
鬼火は水晶玉をかざして、唖然とする太陽の神官と巫女と祭壇を検分し終えると、さらに隣の扉の先に進んだ。
濃い香りのお香が焚かれているが、どことなく焦げ臭い。壁が焦げているところがあって、半分黒ずんでいる。
薄暗く細長い広間の奥に、他の二つの神殿と同じく、祭壇が据えられている。
その前で、緑の榊を持つ巫女が舞っている。月の神官はどこだろう?
「祭壇の上には水晶玉がちゃんとありますね。でも匂います。匂いますよ」
アオビは目を細めて、巫女の舞をしばし眺めた。
「上手ですねえ。ああ、しろがね様の舞を思い出します」
藍色の髪を振り乱し、月の巫女は何度も祭壇に礼をとりながら、ゆるりと回転している。
巫女が息継ぎのために動きを止めたとき、鬼火は大声で名乗って、つかつかと祭壇の裏側に入った。
「待って下さい、何を――」
「だめですよ、鏡は廃棄しないと」
止めに入ってくる巫女をするっとかわし、鬼火は祭壇の裏を覗き込んだ。
白い衣をまとう神官があぐらを掻いて座っていて、鏡をしっかり抱きこんでいる。
「あのう、鏡は廃棄しろって、元老院から通達が来たはずですが」
「で、ですが、鏡から、月女様のお声が聞こえるのです。捨ててはならぬと……」
「そうだ、控えよ! 我が巫女は、巫女王に匹敵する神霊力に開眼したのだ」
巫女がおろおろ弁明し、神官が歯をむき出す。鬼火はにこやかに、首を横に振った。
「いいえ、違いますよ。この巫女さまのお力は、ごくごく普通。神降ろしの域には達しておりません。それなのに鏡が声をあげるのは、壊れているという証拠です」
「いや違う、我が巫女は、本当に最近、力が増したのだ! この私が直々に、巫女に力を与えたゆえに、かように――」
神官が訴えてくる。なれども鬼火は「いいえ」とにこやかに一蹴し、蒼い炎をごうっと、鏡に吹きかけた。とたん、鏡にびしりと、ヒビが入った。
「な、何をする!」
「鏡は不要です。水晶玉だけ、お使い下さい」
慌てふためく月の神官から、鬼火は壊した鏡をサッと奪い取った。
「お二人の仲は、黙っておいてあげますからね。どうぞどうぞ、お幸せに」
声を詰まらせる神官と顔を真っ赤にする巫女にひらひら手を振り、鏡を抱える鬼火は軽やかに羽飛んで、小さな神殿から走り出た。
東宮母子についていった多くの鬼火のうち、半分ほどが星の大姫の傘下として帰国した。
鏡を破棄せよという神託を採択した元老院は、鏡を廃するために遣わされた鬼火たちの一団を、ひとつの機関とした。それが、監察所である。
鏡を探知する水晶玉を持つ鬼火たちは、宮処だけでなく、すめら全土に散らばっている。分裂を繰り返し、数千という数となりて、百州の神殿という神殿をくまなく巡り、「すめらの鏡」を探し、破壊しているのであった。
「しらみつぶしに一ヶ月。それでもまだまだ、鏡が残っていますねえ。怖いですねえ」
大スメルニアは瞬時に、どんな鏡にでも乗り移れる。滅ぼすには、鏡をすべて壊すしかない。
すめら全土に建てられた数千数万の神殿から、ことごとく鏡を一掃するのは至難の業だ。
大安に在る竜蝶の帝が、私軍を用いて精力的に鏡を壊しているが、鏡を守ろうと隠している処も多いと聞く。
「大スメルニアは今一体、どこにいるんでしょうかねえ。スミコ様の剣が、月の周神殿にある鏡に封じ込めたというのは、本当なのでしょうか……」
蒼い鬼火は、先日拝顔した皇太女のことを思い起こした。
元老院はひそかに大安に在る帝に抗しようと、新たな帝を立てようとしている。
その白羽の矢を受けたのは他でもない、鬼火がかつて命を賭けて守り、世話をした、しろがねの娘であった。
久方ぶりに目にした娘は、みごと、美しい大人に羽化していた。
鏡姫と呼ばれる霊鏡を両腕に抱き、背には大きな剣を背負っているという、少々異様な姿ではあったが、御所の廃墟にたたずむその姿は、凜と咲く百合の花のごとくであった。
『すめら全土を巡って、鏡を壊すお役目、どうかよろしくお願いします』
しろがね色の長い髪を穴だらけの床に垂らし、皇太女はアオビたちに小鳥のような御声を下した。
『大安の近くにも、潜入してくださるとのこと、痛み入ります。どうか、黒髪様の御身のことを、調べてきてください。ご無事であられるかどうか……お願いします。お願いします……!』
現在、大安には、十体の鬼火が赴いている。
大々的に鏡を壊し、大安の帝に従属するそぶりを見せながら、あらゆる情報を元老院に知らせる
お役目を担っている。
「黒髪様は、ワタクシどもの、もとご主人様。何においても、その情報はいち早く、皇太女殿下にお届けされることでしょう。ワタクシも、もとご主人様のつつがなきを、お祈りしております。どうかどうか、ご無事であられますように」
皇太女が即位すれば、良人たる黒髪の柱国将軍は、その帝配となる。
実質、皇帝と変わらぬ権力をもつことになるが、元老院はよくぞ、異国人がその位に昇ることを承諾したものだ。いや――
「今は背に腹を変えられない状況ですから、皇太女殿下の機嫌を取っているだけなのでしょうね。きっとそのうち、しかるべきすめら人を良人にするよう、迫ったりとかしそうです。やれやれ……」
元老院が鏡を廃棄すると決めるまで、各色の周神殿は、上を下への大騒ぎだった。
月の大姫がどんなに神降ろしをしても、鏡がうんともすんとも言わなくなり、オムパロスからは星の大姫が鏡を壊せという神託を送ってきた。皇太女も、鏡を廃棄しなければ元老院の要請には応えないという条件を出してきた。
鏡をこわすなど、大安で猛威をふるう悪鬼の行いを助長するのか――
元老院も三色の神殿も、眉をひそめた。星の大姫から遣わされた鬼火たちの実力行使団は、再三、周神殿へ入ることを阻まれた。
だが、皇太女が持つ新しい鏡こそは、本物の神託を告げるらしいと月の大巫女が主張したおかげで、元老院は苦渋の決断を下すに至ったのだった。
元老院は大安の悪鬼に同調するふりをして、すめら全土に新しい水晶玉を配り始めた。龍生殿の墓守たちが元老院の指示によって作りだした、古い鏡の波動を受けない特別製のものだ。
「ひと月。ほんと、てんやわんやでしたねえ。古い鏡はまだまだありますから、大変です」
鬼火はヒビを入れた鏡にもう一度、ごうっと蒼い炎を吹きかけた。
鏡の鏡面がみるみる割れて、砕け落ちる。
「とにかくも。古いすめらは、終わります」
新しい御代が始まる。
鏡の支配を受けない、新しい国が。
蒼い鬼火は、朱色の橋が連なる谷間に戻った。笠をくいっと押し上げ、橋が重なるはるか先、北にある御所に目をこらす。
今、皇太女は御所に在る。
すでに公報は流された。即位と同時に、元老院は大安の帝に反旗を翻す。
鬼火たちは大安の帝に恭順しているふりをして隠密行動を続けるが、主人と仰ぐのは、この宮処に立つ新帝、ただ一人だ。
元老院ではなく。三色の神殿でもなく。
かつて、百臘の御方と呼ばれていた人の御霊を抱える、竜蝶の娘。その者だけが、鬼火たちの主人である。
「しろがね様。大いなる奥様が我が巫女と認めるあなた様を、ワタクシたちは、命を賭けて、お守りいたします。あなた様の望みは、ワタクシたちが必ず、叶えましょう」
夏風が、朱色の橋を吹き抜けていく。
紫明の山を背負っているかのように見える御所に向かって、びゅうびゅうと。
今だ瓦礫の山である帝国の頂に深く一礼し、蒼い鬼火は橋を渡る人ごみに紛れた。
きらきらと、蒼い炎が朱色の橋に落ちた。
まるで、鳥の羽のように。