20話 風の結界
漆黒の天を、白金色の竜が飛ぶ。
見上げれば、瞬き様が無数に輝いている。
雲一つない晴れ渡った夜空だが、月女様の姿はどこにも見えない。
眩しいところを見るのはまだ苦手だけれど、暗いところなら大丈夫。そう思っていたクナは、しろがねの女神の姿を捉えられないことが、なんだか心細かった。
「真っ暗だわ。どこもかしこも」
びゅうびゅう、湿った夜風が頬を打つ。天だけではなく大地も、墨を流したように黒い。
クナが乗っている鉄の竜は、さきほど白い御座船から飛び降りたばかりだ。
竜の長い首元にある座席にまたがって操縦しているのは、アズュールという名の貴人である。魔導帝国の最高顧問官であるそうだが、武装はしていない。ターバンに錦衣をまとった恰幅の良い姿で、長い裾が風にはためいている。
「陛下、旺平原に進入しましたぞ」
アズュール卿が、ちらりとふくよかな顔を向けてきた。クナの後ろの座席には、赤毛の神帝がちょこんと膝を揃えて座っている。
「りょうかい。じゃあ、てはずどおりにね」
「陛下の父君を演じるとは大いなる光栄、謹んで務めまする」
クナは恐る恐る、かわいらしい幼帝に確かめた。
「あの、護国卿は……本当に、一緒じゃなくて大丈夫なんですか?」
「うん。パパはね、ぼくがうまれてから、ほとんどねむってなかったんだ。とってもつかれてるから、おねがいだからちょっとやすんでねって、ぼく、パパのあたまをなでてきたの。おやすみなさいって、いったら、ころんとねちゃったよ」
金の獅子は幼帝の守護者。少年のそばから離れることなど、決して望みはしないだろうに。
しかして赤毛の帝は屈託なく、心配いらぬと請け負った。
「ぼくのたましいには、パパのたましいがすこし、はいってるんだって。だからなにかあったら、パパはすぐにおきて、こっちにきてくれるよ。でもたぶん、そういうことにはならないとおもう。すめらのおともだちとはなしたら、ボクはすぐにもどるから」
君が僕の船に戻るかどうかは、君次第だけれど――
真紅の瞳が閉じられて、まぶたが柔らかく二つの山を作る。
魔導帝国神帝に最高顧問官。錚々たる二人と共にいるクナは今、すめらの帝位継承者として、「神帝の友人」なるすめら人と会見しようとしているのだった。
『すめらのミカドになってよ、スミコちゃん』
赤毛の神帝がそう乞うてきたとき、クナは、それは無理だと即答した。
今上陛下と東宮母子。つつがなく在る帝家が、すめらに戻って復位すべきだろう。きっぱりそう返したのだが、三色の神殿は、すめらの外に出た帝家を再び受け入れることはないだろうと、幼帝は言うのだった。
『だって、レディ・コキデンのそばにいた、つきのふのひめみこが、すめらにまいもどってさ。とうぐうぼしや、ミカドのわるぐちをいいまくってるんだよ?』
コハク姫と共に金獅子家の船に乗っていた月と星の巫女王は、ついぞ主張を同調させることがなかった。
星の大姫はコハク姫の後見人としてオムパロスへ同行し、金獅子家の客人となることに甘んじた。
しかし月の大姫は、異国の者に囚われるのはまかりならんと、船がすめらの領空を出る前に下船した。そうして宮処近くの避難所たる、月の周神殿へ入ったのだという。
幼帝の友人によると、月の大姫は月神殿の中枢へ戻るやいなや、「湖黄殿の女御は売国奴だ」と、大スメルニアに吹き込んだらしい。
国外逃亡などもってのほか。金獅子家に助けを求めるなど、かの州にすめらを売り渡したようなもの――等々、オムパロスにいる東宮母子をひどく非難しているというのだった。
『大姫さまたちのことは、リアンさまから少し聞いてました。でもまさか、月の大姫さまがそんなことをなさってるなんて』
『リアンさんには、こんかいのことはしばらく、ないしょにしててね。きんじしのふねには、すぱいがいっぱいいるから』
『でも陛下、あたしは一度、大スメルニアに断罪された身です。あたしはすめらの敵だと、はっきり認定されているんです』
『うん、しってるよ。でもきっと、だいじょうぶ。とにかく、ぼくのともだちにあって、はなしをきくだけきいてみてよ』
かくてクナは幼帝にぐいぐい背中を押され、外に引っ張り出されたのだった。
赤毛の神帝は、とても人なつこい。クナの腰に腕を回してきて、小さな体をひたりとつけてきて。まるで母親に甘える子どものようだ。
宵闇の中をするする飛んだ鉄の竜は、細草が一面そよぐ広大な平原に降り立った。
すぐそばに、巨大な岩の円環がそびえている。なんと丈の高い岩だろうかと、クナは宵空を刺す岩を見上げた。
「すめらの属州である西郷。ここはその東端……ここが、待ち合わせの場所なんですか?」
「いかにも。ここは西郷人が太古の昔に使っていた祭壇。星を観測する神処なのである。念のため、索敵しますぞ」
アズュール卿が力ある言葉を唱えて、ちりちりと魔法の気配を下ろす。しかし彼が韻律の力を発揮する前に、相手は三人いるみたいだと、幼帝が囁いた。くれないの髪燃ゆる君の瞳は、宵闇でもはっきり、ものが映るらしい。
クナは、真っ暗な岩の円環の中にじっと目を凝らした。
巫女姿の女性がひとり、おぼろげに見える。あとの二人はどこかに身を隠しているのだろうか。女性の周りにはいない……
『あれが月神殿の使者か。どうやら巫女のようだね』
クナが背負う鍛冶師の剣が、ふふんと笑う。まるで合いの手を打つように、クナが抱える錦の袋の中から、鏡姫が囁いた。
『我が巫女よ、先方は大スメルニアを携えているやもしれぬ。警戒せよ』
「はい。ご加護を、よろしくお願いします」
クナは慎重に、岩の円環の中に進んだ。
幼帝と帝国顧問官がその後ろについていく。まるで護衛のような位置取りだ。三人が円環の中に入るとたちまち、ごうっと岩の周囲から低い風の音がして、渦巻く風の結界が立ち昇った。
幼帝がすごいとつぶやき、キラキラと大きな瞳を輝かせる。
アズュール卿は一瞬怯んで足を止めたが、咳払いをしてクナの真横に進み出た。
「魔導帝国大使、インディゴ・ブラン。第二子のイルシュ・ブランと共に、故垂氷皇女殿下の姫を、お連れしたのである」
「遠路はるばるご苦労様です。テシュ・ブラン様のご親族ですね。父君と、弟君であられるとか」
「さようでござる。月神殿がこたびの会見に応じてくれたこと、心より感謝申し上げる」
「テシュ様ご本人に、お目にかかりたかったのですが……」
「長男は帝都スレイプニルにて、神帝陛下の勅による仕事をしておりまする。この場に参じれなかったこと、まこと、申し訳ない」
アズュール卿が、クナの後ろで深々と頭を下げた。
クナは女性が放った声に驚きながら、彼の動きに我が身を合わせた。
(まさか、この御方は……!)
宵闇の中にぽうっと丸い灯り球が灯される。女性の背後にひとつ。両脇にひとつずつ。
クナは目をしばたいた。目を焼く光が、眼前の女性の姿をくっきりかたどっていく。輪郭しか捉えられないのではと思ったが、闇の中の光量はさほどではないようだ。
色が見える。白い千早に真紅の袴。首に下がっているのは、白金の月の紋様。
すらりとした細身の体は針金のようだが、その姿勢は一本芯が通っていて揺るぎない。
深い藍色の髪は、きっちり結い上げられている。
細い頬。きりりと引きあがっている眉。まっすぐこちらを見据えている、髪と同じ色の双眸。
身じろぎしてしまうほどの、固い視線——
(この御方は、このようなお姿をしていたのね。ああ、想像していた通りの、凛々しい御顔だわ)
目の前の人が、一体誰なのか。たぶん声を聞かずとも、この姿を見れば一瞬で分かっただろう。
「わたくしは、先月より帝都月神殿の大巫女位に昇りし巫女にて、月の巫女王の従巫女も務めさせていただいております――」
クナを見てもまったく動じることなく、帝都月神殿の巫女は、優雅な物腰で上の半身を丸め、礼をとった。
「朧家傍流の、瑪瑙。通り名を、メノウと申します」
こうこうびゅうびゅう、岩の円環を取り囲む風の結界が唸る。
これは容易に、外に出られそうにない。会見が終わるまでは、このままか――
クナは驚きで目を丸くしながら、すらりと背の高い月の巫女を見上げた。
すめらの舞踊団の指南役であったメノウ。彼女が今や、月神殿の重鎮に在るのは何ゆえであろうか。
クナが訊ねる前に、メノウはクナの貌を読み取り口を開いた。
「大安で御三家の長たる〈九人組〉が謀殺され、すめらは乱れました。元老院はただちに立て直しを図り、|急いで三色の新しい大神官を定め、新体制を確立したのです。わたくしは稀代の舞姫、すめらの星を生み出した功労によって、月の巫女を束ねる者として選ばれた次第です」
舞踊団は、初春に再び西国にて巡業することになっていた。なれども、宮処に降りかかった災いによって、活動の停止を余儀なくされているという。
クナは大きな目を潤ませ、あふれる思いを口にした。
「メノウさま……! お元気そうで、嬉しいです。メノウさまが、魔導帝国の方々と繋がりがあるというのは、北五州で起こった出来事ゆえですか?」
「その通りです」
無表情を保ったまま、メノウはうなずいた。
北五州でメノウの娘がさらわれたとき、クナたち太陽の巫女は力を合わせ、娘の救出に尽力した。
クナたちの援護を受けながら、娘を助けた者。それこそは……
「魔導帝国の大商社、ブラン商会。その社員であられる、赤い髪のテシュ・ブラン様。我が娘は、その御方によって救い出されました。以来わたくしは、大恩あるブラン様と親交を持っております。実のところ舞踊団は、ブラン様のご紹介で、魔導帝国やその属国を巡る計画を立てていたのです」
魔導帝国はすめらの第一位の仮想敵国。だが元老院は渋々、舞踊団がかの帝国を巡ることを容認したそうだ。大いなる鏡が、計り知れない国益を得られるという神託を下したからであるという。
「現在、三色の神殿は、大安に巣くう悪鬼に対抗するべく、帝家の血筋を引く帝位継承者を擁立しようとしております。そのさなか、わたくしはブラン様から、スミコ様が旧帝家の血を引く御方であられるとの打診を受けました」
金獅子家の手で国外へ逃げた帝も東宮母子を、大鏡は切り捨てた。
しかして、帝のご兄弟も親戚筋もみな、悪鬼に暗殺されてしまった。
旧い帝家の血を引く者。なれども、悪鬼に対抗する意志のある者。
すめらは、そのような者を探している――
(まさしく、くれないの髪燃ゆる君が言った通りの状況なのね)
幼帝の慧眼の凄さに、クナは息を呑んだのだが。でも無理だと、首を横に振った。
「メノウさま、あたしは咎人です。大いなる鏡は、あたしを断罪しました。鏡は決して、あたしを許さないと思います」
「いいえ、スミコ様。今現在、すめらの領内にいる帝位継承者は、あなた様だけしかいないのです。ゆえに大いなる鏡は、帝位につくのはあなた様しかいないという神託を告げられました」
「え……?」
「すめらは今、国家存亡の危機に立たされております。〈九人組〉だけではなく、元老院に議席をもつめぼしい皇族、神官族たちも次々と、悪鬼が放った刺客に斃されたゆえに。すめら全土においては、神殿の鏡がことごとく壊されるという事態が起きているゆえに。伝信は西方諸国と同じく水晶玉にて行われるようになり、大いなる鏡の御言葉が、各所に届かぬようになってしまいました」
大スメルニアは死にかけている。手足を失い、追いつめられているのだ――
クナの頭の中に、そんな確信がよぎった。
「そのような中で、わたくしは大いなる鏡に、ブラン様からいただいた情報を奏上いたしました。
スミコ様は、垂氷皇女殿下、通称タルヒ様の娘御であられると。ゆえに、スミコ様を、我らの救い主としてはどうかと」
「メノウ様が、あたしを推してくださった……んですか?」
「そうです。すると大いなる鏡は、月の大姫様を通して、我らに御神託を下されました。
〈もしもタルヒの娘がすめらに忠誠を誓い、すめらのために悪鬼を屠るのならば。すめらはかの娘の罪を、赦すであろう〉と……」
「すめらに忠誠を……誓えば……」
クナの眉間にたちまち、しわが刻まれた。
大スメルニアは、クナを味方にしなければならないほどの窮地にある。藁をも掴む心境で、あがいているのだろう。しかしそれでも、尊大な態度は決して変わらぬようだ。
「スミコ様。まずは三色の神々に、赦しを乞うてください」
こおっと、風の結界が悲鳴を上げる。と同時に、メノウの背後にしずしずと二人、連れの者が現れた。
クナは鏡が入っている錦袋をぎゅっと抱きしめた。
メノウの連れは白い衣をまとった月の神官で、大きな鏡を左右から抱えている。御前で神おろしをした時に祭壇に飾られていたものと、瓜二つだ。灯り球に照らされた白銀色の鏡面を目にするなり、クナの体にぞくりと、おぞけが走った。
メノウは鏡の方を向き、地に伏して深々と、輝く鏡に頭を垂れた。
「さあスミコ様。あなた様も、三色の神々に平伏を。そして忠誠を誓ってください」
『そうすれば、我が巫女の罪が帳消しになる、というわけか?』
クナが抱く錦袋の中から、鏡姫が低い怒りの声を放った。瞬間、メノウは振り返り、ぴくりと片眉を動かした。
「仙人鏡を、お持ちなのですね? 大いなる鏡を」
『いいや。妾は、すめらを牛耳る鏡の手足ではない。そこな大鏡とは一切、交信する気はないぞ。この身を乗っ取られるのは、まっぴらごめんじゃ』
「な……スミコ様、あなた様の鏡は一体何を……」
メノウの瞳にかすかに、驚きの色が入ったそのとき。
――『タルヒの娘よ。まずは、名を改めなさい』
神官が抱える鏡から突如、ひび割れた鐘のような音が響いてきた。
『咎人となった娘よ。そなたはこれより、タルズ、すなわち垂頭と名乗りなさい。そして母と同じく月の巫女となり、このわたくしに、忠誠を誓うのです』
「な……大いなる鏡から、神の御声が……!」
メノウが目を見開き、大鏡を見上げる。神おろし無しで神託が降りてくるとは、思いもよらなかったらしい。驚いた彼女は、神々しいものに目を潰されないよう、額を地につけた。しかして鏡の正体を知るクナは膝を少しも折ることなく、身構えた。
「大スメルニア……」
『出てきおったな。しかしなんという名を、我が巫女に押し付けよるのじゃ。別人になれと抜かしよるなど、なんという……』
「鏡姫さま、落ち着いてください」
クナは錦袋を抱く腕に力を込めた。鏡姫が怒りの波動を振りまき、ぶるぶる震えだしたからだった。メノウは眉をひそめ、首をわずかに傾けた。
「スミコさま、お持ちの鏡は一体何を言っているのですか? 大いなる鏡は今、月女様の御言葉を伝えているというのに、なぜ、あなた様は礼をとらぬのですか?」
「メノウさま、その鏡の声は……」
月女様ではないと言おうとしたクナは、言葉を詰まらせた。
この指南役が、クナのために一体何をしてくれたのか。こちらを振り向くメノウの、固くも真摯なまなざしを見て察したからだった。
メノウは自分にも他人にも厳しいが、本当は優しい人だ。太陽の巫女たちに冷ややかな態度を取りつつも、メノウはクナの技量を認めてくれた。旧い記録の中に囚われた時には、助けてもくれた。
テシュ・ブランから打診を受けたメノウは、クナを救いたいと思ってくれたのだろう。だからクナがすめら人として復権することを、月女様に祈願してくれたに違いなかった。
鏡に服従することは、断固拒否したい。なれども……
(メノウさまのご好意を、そのために払った尽力を、無にするなんて。それは……)
それはできない。おのれを想ってくれる気持ちを、無残に潰すなんて。
クナが拒否したら、起死回生を狙う大スメルニアは、メノウに八つ当たりをするかもしれない。役に立たぬ臣だと、断罪するかもしれない――
いかなる言葉をかけようかと迷うクナの背後から。突如、くすくす笑いが起こった。
『女神ツキメの御言葉? おかしいなあ、空に月は、出ていないのに』
クナの背にある剣が、ついに声をあげたのだった。
『メノウさん。その鏡から出ているのは、神様の声じゃないよ。神様のふりをしている、大スメルニアっていう奴の声さ』
「な……? 今度は、一体誰の声ですか? 大いなる鏡の御声をけなすなど……」
『ねえ、大スメルニア、状況的にそっちは窮々なんだろう? なのに上から目線の態度を貫くなんて、さすがだね。高慢ちきな、月の大姫。〈九人組〉に騙されて鏡に入れられた、哀れな皇女』
「誰なのですか?!」
メノウが声を荒げて問う。とたん、鍛冶師の剣がすうっと動いた。長い刀身をもつ身が、クナの背から自ら出てきて、クナとメノウの間に自力で浮かんだ。
「ルデルフェリオさん?! ま、待って!」
『ふふっ、僕は剣だよ。一万二千年生きた聖剣の複製だけど、本物より強い。鼻もちならない鏡を、一撃でかち割れるぐらいね!』
剣はさらに動いた。待ってくれとクナが差し出した手から逃げて、宙を躍り、そして――
『人にものを頼むときは、どうかお願いしますって、君の方が頭を垂れないといけないんだよ。すめらちゃん!』
『聖剣……!』
恐ろしい音を立てながら、剣は驚きの声をあげた鏡に食い込んだ。深々と、いとも簡単に、果物を砕くように。
『砕けろ、東の魔女。お前はもう、眠るべきなんだ。安らかに。永遠に』
白銀色の鏡面に、びきびきとひびが入る。
クナは右手で剣の柄を握った。引っ張ってこれ以上鏡を割らせまいとしたが、無理だった。
剣は勝手に沈みこみ、鏡を真っ二つにした。
月の神官たちが悲鳴をあげて、その場に尻もちをつく。
「うわあ、たいへんだ。かがみがわれちゃったよ?」
それまでじっと静観していた幼帝が、わざとらしく大声をあげた。
「でもだいじょうぶ、スミコちゃんは、きっとミカドになってくれるよ。みしきのしんでんが、へんなことをいうかがみをつかわないって、やくそくすればね」
「か、鏡は、三色の神々の御信託を語るものです……! 大スメルニアなどというものは、知りませぬ!」
叫ぶメノウに、幼帝はそうだねとにっこりうなずいた。
「スミコちゃんがもってるかがみは、まともだよ。そのかがみのいうことを、きくといいとおもう」
『そうそう。旧い鏡は、すべて廃棄してほしいな』
鍛冶師の剣がするりとクナの背に戻る。彼は合いの手を打つがごとく、幼帝に同調した。
『すめらの鏡は古すぎて、おかしくなってる。だから大安の悪鬼は、鏡を壊せって命じたんだよ。僕らは悪鬼に対抗しているけれど、あいつがやっている鏡壊しは、全面的に支持せざるを得ない。なぜなら鏡は、神々の言葉なんて、少しも伝えていないんだからね』
「そん、な……」
『三色の神殿が率先して、神官族が持つすべての鏡を放棄することを、僕の主人は今ここに求める。それが完遂されたとき、僕の主人は、君らが用意した玉座に座るだろう』
『全面同意じゃ』
鏡姫が声を上げた。
『我が巫女を帝にしたくば、すめらに在る鏡をすべて壊せ。悪鬼を駆逐したければな』
「ぼくも、そうするほうがいいとおもうよ。ね、おとうさま」
「さようである」
魔導帝国の最高顧問も幼帝も、ここぞとばかりにうなずき合う。
「ま、待ってください、あたしは……」
帝位につくなんて、とんでもない。そんなことは許容できない。今上陛下と東宮母子の復権を、条件にするべきだろう。
しかし、金獅子家の台頭を阻みたい魔導帝国も、賢い鍛冶師も、そしてクナの師も。皆、クナを帝にしたくてたまらないようだった。
『我が巫女よ。妾は、そなたにつけられた咎人の汚名を、雪ぎたい』
「鏡姫さま……!」
『だから頼む。どうかいっとき、すめらの帝として立ってたも。なに、心配することはない。のちのち東宮母子を呼び戻し、そなた自身が譲位を行えばよいのじゃ。帝の意志なれば、誰も反対するまいぞ』
「あたしが、譲位を?」
そうか。その手があったのか。
ハッと得心したクナは、鏡を抱く腕にますます力を込めた。
太陽の巫女王になっても、できなかったこと。それが、帝になったら叶うのだろうか。願いがすべて、実現するのだろうか。
「たとえ帝にならなくたって、あたしは龍蝶の帝を倒して、黒髪さまを絶対に助け出すわ。でも、コハクさまを呼び戻すには……」
「スミコ様」
驚愕に呑まれそうな心をなんとか立て直したメノウが、鋭い視線でこちらを射抜いてくる。
「今すぐ……そちらが提示されました条件について、元老院に打診いたします。必ずや、お望みの通りになるよう、中枢の皆さまを説得いたします。ですからどうか、」
風の結界がふっと消え去った。
他人にも自分にも厳しい人は、地に額を付けて乞うてきた。固くて、圧倒的な声音で。
「どうか、ご即位を」
クナは、目を閉じた。
たぶん瞬きほどの一瞬であっただろうが、永遠にも感じるいっときを、じっと噛みしめた。
どうするべきか――
じっくりと考えてから、剣と鏡を持つ娘は、ゆっくりと瞼を開いた。
「わかりました」
覚悟を決めた貌でメノウのまなざしを受けながら、クナはうなずいた。
「帝位に、つきます」
宵の空にきらりと、流れ星が流れた。
何かの予兆を告げるかのように。