19話 奇跡の幻像
『神聖暦7870年6月2日。
本日、金獅子州政府は、スメルニアの央州某所にて、スメルニア皇国の今上陛下の御身を保護せしめたことを、全大陸に宣言せり。これは、オムパロスの金獅子州公家別邸の賓客であられるスメルニアの東宮生母、湖黄殿夫人が、正式に金獅子州公家へ送られた請願によって成されたことである――』
クナが金獅子州公家の船から戻った翌々日。金獅子州から、すめらをゆるがすような大陸公報が出された
金獅子家の公子は、鍛冶師が教えた情報をさっそく利用して、お抱えの将軍に仕事をさせたらしい。
クナも花売りも、獅子たる護国卿の反応はいかばかりかと戦々恐々になったが、白い御座船の中は表向き、「平和」そのものを維持していた。
護国卿も幼い神帝も、客人の前には全く姿を現さなかったからである。
二日目の夕方近く、ようやくウサギ技師だけが呼ばれて、護国卿に謁見してきた。
ウサギはげっそりしながら、クナたちがいるロビーへと戻ってきたのだが。
「ああーん、奥さあああん! 怖かったですううう!」
「ピピさん、謁見お疲れ様でしたね」
彼は速攻で、「奥さん」なる人にすがりついた。
よしよしと彼を慰めたのは、くるぶしまで長い銀髪を垂らす美しい女性である。まとっている黒い衣はまさしく、奇妙な棺の中に居たウサギの師匠のもの。だが、髭ぼうぼうのあの男とはまったく似ても似つかない、線の細い女性――胸板は平らだが、たぶん女性――である。
クナ達が金獅子州公家の船から帰ってきた時、ウサギはこの美しい人に抱きしめられていて、おいおいと子供のように泣きじゃくっていた。
『会いたかった! 会いたかった! 会いたかったですううう!』
『すみません、ピピさん。寂しい思いをさせてしまって。私もあなたがいなくて、寂しかったです』
船員たちによると、五十二種類目の薬を使っても、アスパシオン師は目覚めなかった。しかしウサギが頭を掻きむしりながら「もうこれしかねえ」と、髭ぼうぼうの男の唇に接吻をしたとたん。みるみるその姿形が変化して、うるわしい女性となり、ぱっちりと目を開けたのだという。
「絶対、目覚めのキスを待ってたってやつじゃないかと、私は思うんだけど」
呆れ果てたように説明するモエギによれば、ウサギは本当にこの、「師匠の中にいる女性」と結婚しているそうだ。どこをどう見ても龍蝶である彼女は、アスパシオン師の前世体であり、彼の魂の中に混在している存在であるという。
「アスパシオン様は、おばあちゃんの数多ある転生体のひとつにすぎないの。おばあちゃんこそ本体なんだけど、アスパシオン様は我が強くって、なかなか表から引っ込みたがらないのよね」
アスパシオン師は黒の技を極めた黒の導師であるが、本体である女性は、ウサギと同等以上の腕を持つ灰色の技師であるそうだ。
さばさばと威勢のよかったウサギは、この「奥さん」が現れて以来、人が変わったようになっている。細腕の中のウサギは、骨がないのではと思うぐらい全身がぐにゃりと溶けていて、その声音は、サトウブナのシロップのように甘かった。
「ほら見てくださいここ、僕、護国卿に毛を引っこ抜かれたんです」
「まあ、かわいそうに。痛いの痛いの飛んでいけをしましょうね」
「えへへへ、お願いしますう」
日がな一日二人はべったりでどうにもこうにも甘い雰囲気なので、クナは二人に近づきがたく、九十九の方のことを聞きあぐねてしまった。
不思議なことに態度が変わったのはウサギだけではなく、クナのものになった聖剣もまた、ひどくおとなしくなった。鍛冶師が発した彼女への挨拶はとても礼儀正しく、まるで上臘様に挨拶する若い巫女のようであった。
『お目にかかれて感無量です、アイダ様! お元気そうで何よりです』
『まあ、ソートアイガス? その剣の中に入っているのですね?』
美しい人はルデルフェリオのことを、導師になる前の俗名で呼んだ。その微笑みは、まさに女神のごとく、紫の瞳は至高の空のごとく澄んでいて、女であるクナですら、カッと頬を赤らめてしまうぐらい魅力的だった。
ウサギ夫婦の甘い雰囲気に遠慮してしまったクナは、剣に誘われて訓練場に入り浸ったが、夕食時にモエギが気をきかせてくれた。屈託なく物を訊けるのは、孫の位置にある子の特権と言えるだろう。
「おじいちゃんとはもう十分話したと思うんですけど、あたしたちにも教えてください。どうしておばあちゃんは、魔人を封じる棺に入れらることになったんですか?」
「アスパシオンと金姫は過去に流されました。私たちが落ちた処には、たちまち白い花園ができました。トリオンが姿を変えて花となり、大いなる結界を造ったのです。私たちはそこで永らく、過ごしました。体感で百数十年ぐらいでしょうか。もしかしたら外の世界ではもっと時間が経っていたかもしれません。時の玉の影響で、花園はしばらくの間、時間も空間も不安定でしたからね」
卓に並ぶ見事な魚介類の焼き物をつつきながら、銀髪の美女は花園に住まった思い出を語ってくれた。
「金姫は時の流れの中で別れてしまった御子が落ちてくるのを、ずっと待っていました。いつその瞬間が来るかは分かりませんでしたが、時間遡行で場所の移動が行われないことは確実であったからです。花園にめぐらされた結界が非常に強固であったがために、アスパシオンは容易に外に出られませんでした。姫を独りにすることも、心配でした。だから、姫と共に過ごすことにしたのです」
結界は近くの小川あたりまでの範囲で、そこから外へ出ることは叶わなかった。伝信がまるで通じず、アスパシオンはその時代にもいたであろうウサギや妖精たちを呼ぶことができなかった。
御子を待っている間に、姫とアスパシオンは、白い花園を自分たちが住み良いようにしていった。
花園の周囲に果樹を植え、隅には小屋を建て、アスパシオンが近くの川へのんびりと釣りに行き、のどかに暮らした。そうするうちに彼は偶然、結界内にウサギがいることを発見したのであった。
「お察しの通り、アスパシオンはウサギを殖やすことに精を出しました。姫は喜んで一緒に、ウサギの世話をしてくれました。かように、結界のおかげで、姫は外敵から完全に守られていたのですが……」
生きとし生けるものは必ず老いる。龍蝶の魔人ではないものは、すべからく。
待ち時間は永かった。
ある日突然開いた、空間の亀裂。そこから御子が落ちてきたとき、九十九の方はもはや、自力で歩くことが叶わないほど、老いていたのだった。
「アスパシオンは時折、姫を黒の技で眠らせて、できるだけ延命をはかりました。待ちに待った御子は、小さな玉に封じられた、胎児の姿で落ちてきました。姫は我が子が入った玉を抱きしめ、全身全霊で抱きしめましたが、胎児をお腹の中に再び入れて、産み直すことはできませんでした。御子には、彼を産んでくれる母が必要でした。姫ではない、誰かが」
黒の導師は迷わなかった。彼は変身術を行使して、己の本体を呼び出した。いまここにいる美しい人を。そうして銀髪の人は母の許しを得て、御子を自分の胎内に入れたのであった。
「数か月後、私は御子を産みました。金姫は無事に誕生した我が子を抱きしめました。そうしてほどなく、天河へ昇っていったのです。御子が不死の魔人の庇護を受け、健やかに育つと信じて」
だが、まことの母が身罷り、代理の母が彼女を弔った直後。白い花園は一瞬にしてどす黒くなり、枯れゆきて。そして――
「信じられないことが起こりました。そのとき私の表には再びアスパシオンが出ていて、そろそろ結界の外に出ようかと考えていたのですが、いきなり、花に姿を変えたはずのトリオンが顔のない影の形をとって出現したのです。おそらくトリオンはずっと前から、御子を消し去ろうと待ちかまえていたのでしょう。でも母君が亡くなるまでは、手を出さずに我慢していたのだと思います」
ウサギたちはみな、逃げ散った。花園の楽園は跡形もなく消え去り、影はアスパシオンから御子を奪った。影は別の次元から恐ろしいものを次々召喚して魔人の動きを封じ、奇妙な棺を召喚して、あっという間に封じてしまったのであった。
「トリオンの力は圧倒的でした。彼は花に変じていた間に魔力を貯めこんでいたのです。トリオンが奪い去った赤子がどうなったのか……私には分かりません。おそらく殺そうとしたのでしょうが、それは成せなかったのでしょうね。赤子は黒の導師トリオンとなり、今は龍蝶の魔人となっているのですから」
自分が幸せになる資格はない。トリオンはそう思って、赤子たる自分を奪ったのだろう。
「不甲斐なくてごめんなさいね。まさか、封印されてしまうなんて」
「そんなことないです! 黒髪を産んでやるなんて、さすが奥さんです! すごいです!」
「ありがとう、ピピさん。トリオンはどうなったのでしょうね。そして赤子は、どんな風に成長して寺院に入ったのでしょうか……」
美しい人が申し訳なさそうにうなだれると、クナが負う剣が囁いた。
『トリオンの行方はわかりませんが、赤子がどうなったのかは知っています。僕が入っていた聖剣はかつて、黒髪の魂を食らったことがあります。そこで僕らは黒髪の過去の記憶を洗いざらい、見ました。でも、黒髪がはっきり覚えているのは三歳ぐらいからのことで、それ以前の記憶は……母親の記憶は、まったくありませんでした。もしかしたら、トリオンが消したのかもしれません』
「そんな……お母さんのぬくもりを消すなんて……」
『黒髪は有機人形と間違えられて人体研究所に入れられたあと、孤児院に送られました。そこで院長に虐待されて魔力を暴発させたので、寺院送りになったんです。でもまさか、アイダ様が、彼をお産みになったなんて……』
鍛冶師は深いため息をついた。
『心底、うらやましい……。なんであんな奴が……いえ、本当にうらやましいです』
僕もできることなら、アイダ様の子として生まれたかった。
鍛冶師がぽつりと呟いたのを、美しい人は聞き逃さなかった。
「ありがとう、ソートアイガス。私の唯一人の弟子。私はあなたを、我が長男と思っていますよ」
『アイダ様、あなたにはご実子がいるのに、その言葉は光栄です』
「私同様、兄弟を大事に思ってくれたら、とても嬉しく思います。聞けば黒髪さんは今、大変な目に遭っているそうではないですか。どうか、助けてあげてくださいね」
もちろんですと、鍛冶師は請け負った。若い巫女が師に威勢良くうなずくような勢いであったので、クナは剣がますますやる気になってくれたのだと嬉しく思った。
『そうか。九十九は、我が子を腕に抱けたのじゃな。本懐を遂げて、逝ったのか』
クナの腕の中でしみじみ囁く鏡姫に、美しい人はそうですとうなずいた。
「姫は常々、そしていまわの際にも、レイ姫やしろがねさんにもう一度会えたらと仰っていました。アスパシオンは自分の水晶玉に姫の幻像をたくさん写し取って保存していたのですが……トリオンに襲われたとき、ピピさんたちを呼ぼうとしたので、割られてしまいました。この数日、ピピさんとなんとか修復を試みましたが、サルベージできたのはたった二つだけです」
『なんと、それがためにずっと、二人で頭を突き合わせて……かたじけない。永き時を我が友のために付き合いて、腹まで痛めてくれたというに、さらに幻像まで。感謝以外の言葉なぞ、何ひとつ出てこぬ。まこと、かたじけない……』
鏡姫の声が湿る。クナも深々と、美しい人に頭を下げた。御子を抱きしめて微笑む九十九の方の姿を想像すると、目が潤んだ。
「本当に、ありがとうございます……!」
かくてその晩、クナはできるかぎり修復された幻像が入れられた水晶玉を借り受けて、鏡姫と一緒に、中を覗き込んだ。始めの幻像はひどくおぼろげで、記録されている声は所々途切れていた。
『ここはほんまに、楽園です。唖然とするぐら……ウサギばか……花はかぐわしく……』
映っているのはクナが知っている九十九の方の姿そのものだった。草を器用に編んで作ったような質素な服を身に着けていて、周りに群がるウサギを撫でている。
しかしウサギのフン害がひどいと、九十九の方は苦笑していた。
『ああほんまに。皆はんのところにも、ウサギを送りつけたいですわ。百臘はんが身罷って、しろがねはんが大姫さんに昇りはったて、アスパ……いうてますけど。ほんまやろうかと…… それにしても増えすぎですやろ。少し間引き……その丸々と太ったのんを、丸焼きに――』
『だめー! ジンちゃんそれはだめー! ウサギ愛護……誉会長として、今の発言は断固……する!』
『はあもう。なんやのその……まあ、このレイはんとしろがねはんは、決して食べようとは……』
九十九の方は、ウサギに大好きな人たちの名前を付けていた。アカシやアヤメもいたし、アオビもいた。彼女はえんえんと、アスパシオンと小気味良い掛け合いを繰り広げていた。
二つ目の幻像は、音が完全に潰れていた。最後まで無声で、九十九の方の顔は下半分しか映っていなかった。焦点は終始、彼女が抱いているものに合わせられていた。
皺が目立つ細い腕に抱かれているのは、黒髪の赤子だ。安心しきったあどけない顔で、すやすやと寝入っている。
九十九の方の顔がゆっくり降りてきた。口づけするつもりだったのだろうか。それとも頬ずりだろうか。慈愛に満ちた貌が映ったとたん――
幻像が切れた。ふつりとあっけなく。
『ああ……まさしく、女神の貌であろう……』
永い沈黙の後、しみじみと鏡姫が囁いた。クナは無言でうなずいた。
おのが目でまさか、この光景を見られるなんて。こんな奇跡を与えられるなんて……
目にたちまち、涙があふれてくる。クナは、借りた水晶玉を抱きしめた。
「黒髪さま……黒髪さまに、これを見せなきゃ……絶対見せなきゃ……!」
『そうじゃ我が巫女よ。必ずやお見せして、母君のことを思い出してもらうのじゃ』
そうするためには、龍蝶の帝のもとから救い出さなければ。
決意を新たにしたクナは、夜だというのに剣を背負って訓練場に走った。
「ルデルフェリオさん! お願いします! 習った剣舞をもう一度復習したいです!」
『任せて』
剣は明るい声で答えた。すっかり、クナの味方であるかのように。
クナが剣舞の技を磨く一方で、同盟軍は数日のうちに三万を超える船団となり、ようやく大安へとゆるゆる、進軍を始めた。
その間に今一つ、金獅子州から大陸公報が出された。
『神聖暦7870年6月3日。
本日、金獅子州政府は、オムパロスへ赴かれるスメルニア皇国の今上陛下を護衛するべく、州公軍を乗せた船団を展開させた。今上陛下は間もなく、東宮とそのご生母との再会を果たすであろう。金獅子州公家は陛下の復権に全面的な協力を付すものである』
同日、オムパロスの同盟本部が、大安から公報発布の要請があったことを報じた。
『神聖暦7870年6月3日。
本日、スメルニア復古政府を名乗る反乱軍は、スメルニア中央部にある五州のあらゆる神殿に存在する鏡を破壊せしめたことを公表するよう、本部に要請してきた。砕鏡運動は野火のごとくスメルニア全州へと広がりつつあり、三神殿の帰属を求めている反乱軍は、その証左として砕鏡運動を行うことを各神殿に求めている。
復古政府は鏡の代わりに、西方より輸入した水晶玉を神殿に配布し、旧体制の終焉を言祝いでいる――』
大陸公報は、各諸国にある同盟支部が各政府より公表内容を受理し、オムパロスの本部へと伝信する。黄海の孤島にある本部は公正に、伝信を受け取った順番通りに各国の公報を大陸全土に流すことになっているのだ。
しかし竜蝶の帝は、大陸同盟に国主として認められていない。ゆえに本部はこたびの復古政府からの公表事項を大陸公報として受理せず、大陸諸国への〈警告〉として発信したのであった。
同盟軍が州を一つ越えてさらなる船団と合流したとき、同盟本部はまたもや、由々しき〈警告〉を流してきた。
『神聖暦7870年6月4日。
本日、スメルニア復古政府を名乗る反乱軍は、月神殿が帰順したことを、大陸全土に公表するよう、同盟本部に求めてきた。
月神殿は金獅子州に降った現帝室を廃することを主張し、太陽神殿と星神殿に、復古政府への帰順を働きかけている。両神殿は数日のうちに復古政府の傘下に入るであろうと、復古政府は主張している』
どうやら金獅子州が勇んだことで、月神殿は龍蝶の帝を担ぎ上げる方向に傾いてしまったらしい。
異国に牛耳られるぐらいなら、かつて曲がりなりにも帝であった者とすめらの守護神獣におのが身をゆだねる方がましだと、判断したようだ。
月神殿はすめら全土に隅々まで行き渡らせている教育機関を利用して、龍蝶の帝が求める砕鏡運動を展開し始めている――そんな情報もちらほら、モエギとつながりのある龍生殿経由で流れてきた。
『龍蝶の帝が大スメルニアを追い込んでいるのは、良きことじゃが。金獅子州のせいで今上どのが見捨てられるとは、まさかの事態じゃ』
すめらの異国嫌いは異常なレベルだと、鏡姫は呻いた。
『帰順はそぶりで、本気ではあるまい。月神殿は龍蝶の帝に尻尾を振りながら、新しい帝を物色しているに違いないぞ。ほどなく、国内にいる帝のご親族に、白羽の矢を立てるつもりであろう』
これは外圧を退けると同時に、龍蝶の帝を油断させるための苦肉の策なのだ――
鏡姫はそう読み解いたが、おかげでクナは大安に近づけなくなった。
すめらの政体そのものである三神殿の一角が復古政府の傘下に入ったことで、大陸同盟軍の進軍に待ったがかかったのである。「同盟の進軍を止めてくれれば、暴走する神獣の鎮静化に最大限務める」と、渦中の月神殿が打診してきたからであった。
かくて、オムパロスで緊急の同盟会議が開かれることとなり、軍を出した諸国は急遽、オムパロスへと使者を送った。
クナは悶々と、白い御座船で待つことを強いられた。
魔導帝国の使者は会議に臨んでの第一声にて、金獅子州が余計なことをしてくれたと、非難声明を出すことを忘れなかった。
だが、金獅子家が流した大陸公報は、はったりなどではなかった。
なんとオムパロスへ護送された帝が自ら姿を現し、自身と金獅子州公家への支持を訴えたのである。帝は壇上に立ち、敵に寝返った月神殿を非難して、大陸同盟に自分を支持してほしいと訴えたのであった。
同盟会議の様子は大陸公報で逐次流されてきたので、鏡姫は帝の身を憐れんだ。
『気の毒じゃのう……ご自分のみならず、妻子もシガどのも金獅子家に人質に取られておる。だから、今上陛下は、金獅子家に抗えぬ。しかしこの状態では、太陽神殿も星神殿も、陛下を見限るであろうぞ』
「えっ? たくさんの国が、陛下への支持を表明したのに……ですか?」
『帝を異国に連れ去られ、人質に取られた。すめらにとって、これほどの恥辱はない。我が巫女よ、三色の神殿はきっと、オムパロスにいるのは偽の帝じゃと、言い出しよるぞ』
鏡姫の言った通りだった。大スメルニアが支配する国は、恐ろしくかたくなで、異国の介入も助けも決して認めようとしなかった。
翌6月7日、太陽神殿と星神殿は共に、同一の声明を出したのであった。
『今上陛下が異国に脱出された事実はないことを、三色の神殿は確認した。
オムパロスにいるのは、真の陛下にはあらず。
すめらは、陛下の名を騙る者を担ぐ同盟軍の侵入を、断固拒否するものである』
その直後。復古政府は、二神殿も復古政府に帰順したことを公表するよう、そして当政府を国家として認めるよう、同盟本部に要求した。
すめらの政体が龍蝶の帝を認めた――大陸同盟はそう判断せざるをえなくなり、同盟軍の一時撤退が囁かれ始めた。
「今上の帝が、見捨てられるなんて。そんな……」
御座船で進軍を信じて待つクナに、鏡姫は皇族の名を幾人か数えあげた。
異国へ逃れた東宮母子も、三色の神殿は無視すると宣言した。おそらく帝国内にいる帝の兄弟の誰かがすでに次代に選ばれていると推したのである。
しかして、三色の神殿がそろって龍蝶の帝に帰順したことが確定してほどなく、復古政府は恐ろしい事実を公表するよう、大陸同盟に要請したのであった。
『神聖暦7870年、6月9日。
スメルニアの復古政府を名乗る反乱軍は、「帝位継承者」を騙る反乱分子をすべからく、処刑したことを公表せり――』
それはすなわち、三色の神殿が目論んでいたことを実現不可に追い込む措置であった。
『龍蝶の帝は、三色の神殿の思惑を読んでいたようじゃな。おそらく帝位継承者はことごとく……』
「そんな! それなら、オムパロスにいる陛下をもう一度——」
『いや。そんな体裁の悪いことなど、できぬわ。神殿の動きはなべて大スメルニアの指示であろうが、ついに焼きが回ったのう』
クナの不安は頂点に達した。軍団は、解散の憂き目にあうのだろうか。
時間が経つごと、黒髪様が遠い存在になっていくような気がしてならない……
『とりあえず、訓練場へ行って、気を紛らわしたらどうかな』
鍛冶師が優しく誘ってくれたので、クナはなんとかうなずいて、剣を背負って船室から出た。
とたん、目を丸くした。
真っ赤な髪の幼な子が、目に飛び込んできたからだ。
「ねえ、スミコちゃん」
思わず周囲を見回したが、金の獅子の姿はない。長い裾を引きずる幼帝は、クナの袖をくいと引っ張ってきた。
「スミコちゃんが、りゅうちょうのミカドのマゴだっていうのは、ほんとうだよね?」
「は、はい。あたしの母さんはタルヒといって、龍蝶の帝の娘だったと、聞いてます」
「みしきのしんでんは、りゅうちょうのミカドにちゅうせいをちかった。つまり、かれのかぞくを、こうぞくとしてみとめた。だから、かれのかぞくには、けいしょうけんが、はっせいするんだけど」
「え……?」
「ぼく、こそーっと、ゲッしんでんにいるトモダチに、きいてみたんだ。もしかして、あたらしいミカドを、さがしてるんじゃないですかって。まえのこうぞくでこうほしゃがいなくなったんなら、いまのこうぞくから、りっぱにくにをおさめられるヒトを、えらんだらどうですかって」
「と、トモダチ?」
「で、そのヒトにスミコちゃんのことをおしえてあげたんだ。そうしたら、ぜひしょうかいしてって、いわれたの」
「え……えええっ?!」
「だから、ねえ……」
神帝は、大きな瞳でじっとクナを見上げてきた。
まるで、これから気軽にすごろくでもして遊ぼうと誘うかのように、彼はクナにねだった。
とてもかわいらしい声で。
「おねがい、スミコちゃん。すめらのミカドになって」