15話 無敵のタケリ
白い蝶が群れ飛ぶ。一体どれだけの数がいるのだろう。
まぶしさに目が眩む。眼前が、光で満ちていく――
すぐそばで、モエギと花売りが息を呑んでいる。たった一瞬で、これだけの精霊を喚ぶなんてと。
クナの手の先から出現した輝く蝶たちは、列柱の間を勢いよく羽ばたいていって、竜蝶の帝が座す黄金の玉座に迫った。
「同じ竜蝶なのに! なぜ食べるの!?」
クナの声を載せた胡蝶の群れを目にしても、帝は微動だにしなかった。白い髪を床に流している彼は、玉座に座したまま、にやにやと口の端を引き上げた。
「おのが本能を失ったか、竜蝶の娘よ。共食いは、我が種族の本能であるぞ」
「本能?! 今あなたが食べた魂は、あなたの娘……タルヒの子なのに!」
「ああ、知っているとも。朕にかしづく聖衣の御霊が、朕に教えてくれた。我が娘は、朕が大スメルニアに封じられた後、竜蝶の隠れ里に身を隠したと。ゆえに朕は、我が娘の家族と隠れ里の者どもを、ここに招いたのだ」
しかしどいつもこいつも、魔力はお粗末なものだと、帝は足下に転がっている人々にまなざしを落とし、菫の瞳の中にえもいわれぬ憐れみの色を宿した。それはあたかも生みの親が、出来の悪い子どもを笑うような表情であった。
「血の薄まりがひどい。タルヒはなぜに、ほぼ人間と変わらぬ男と子を成したのであろうな。理解に苦しむ」
「え……父さんは、ほとんど人間?」
「おや、知らなんだか? 竜蝶の混血の中には、我が種族の血が全く現れぬ者が生まれることがあるのだ。そいつと番ったせいで、おぬしの母はてんで魔力のない子を何人も産んだようだが、そんな竜蝶など、まったく哀れでしかない生き物よ。朕に喰われ、朕の一部となる方が、何倍もましというものだ」
「そんな……ただ魔力がないからって、生きる価値がないように言わないで!」
白い蝶たちが帝に貼り付いていく。しかして、帝に触れるやいなや、蝶たちはちりちりと砕け散った。帝は毛ほどの苦痛も制限も感じていないようだ。白い鱗粉は帝を一瞬真っ白に染めたものの、たちまち、消え失せていった。
「ふん。ずいぶんと軽くて甘いお菓子だな。数は多いが、魔力がほとんど乗っておらぬ。おまえ、見てくれは純血に近いが、魔力はさほどではないな」
「食べたの?!」
「ああ、なんでも喰らってやろうぞ。すべてをな。朕に食えぬものはない」
帝の背に、ぐわりと黒い影が現れる。ゆらゆら揺らめく少年の形をした影だ。クナは目を見開き、その形を見極めた。
「くろすけ……さん?!」
「だめだ田舎娘! まともに当たれば負ける。いったん退こう!」
クナを抱える黒髪様は、モエギや花売りを結界で包んで、後ろに飛びすさった。その背には精霊を集めて作った羽根が顕現していたが、ひどく小さく、輝きがほとんどない。クナがこのあたりに存在する精霊をごっそり集めて、帝にぶつけたからだろう。抱かれて運ばれるクナは、如実に浮力が足りないのを感じ取った。
「ごめんなさい、この精霊量じゃ、自在に空を飛ぶことは……」
「人数も多いから、せいぜい早く動くことしかできないな。精霊をぶつけるのは逆効果だったね。みんなあいつに食われてしまった」
「くはは! せっかくの生け贄、逃がさぬぞ」
帝の頭上に輝く三つの御霊が、激しく回転している。聖衣の御霊は歓喜の歌を歌い上げていて、クナの耳に、はっきりそれが聞こえてきた。
万歳! 万歳!
我らは救われる 我らはひとつになりて救われる
完全なる、ひとつの存在となりて 君臨する!
もとは竜蝶だっただろう御霊が、同胞が食われているのを喜び、言祝ぐなんて。クナの背筋にぞくりと、冷たいものが走った。このまま退けば、家族や村人の魂が完全に消化されてしまう。せっかく帝の眼前に来れたのに、なす術もないのだろうか……
「そんなのだめ! お願い黒すけさん! 食べたものを吐き出して!」
クナの声は、かろうじて届いた。玉座から遠ざかる身から発した声は、一羽の白い蝶に乗って帝のもとへ飛んでいった。白い髪を垂らす帝の背後で、黒い影が一瞬びくりとおののく。帝の御霊の中には、影の子の意思がきっとまだ残っている――そう信じるクナは、必死に呼びかけた。
「黒すけさん! 黒すけさんっ! お願い!」
「一体誰を呼んでいる? ああ、朕の背に在る黒い影か? これは我が内に在る黒獅子ではないぞ。つい先ほど完全なるものとなった、ミカヅチノタケリだ」
「嘘……! ああっ……!」
少年の姿をした影が、その形を崩して長い体をもつものとなり、帝の周りにたちまちとぐろを巻いた。あたかも主人を護る蛇のごとくに。ばりばりと、大いなる神気が玉座から放たれてくる。
黒髪様は結界を分厚くして、ひたすら後退した。列柱が並ぶ広間の果てに近づいたものの、しかしてクナたちは、広間の外に出ることを阻まれた。入り口とおぼしき所から、息せききってがしゃがしゃと鎧の音を鳴らす武人が十数人、入って来たからだった。
「陛下!」「お喜び下さい、わが陛下!」
髪は月女様のように真っ白。その瞳は冴え冴えとした色を湛えている。彼らを視界に入れたクナは息を呑んだ。
「竜蝶……!」
白き髪をなびかせる者たちは、おそらく公報に応えて、大陸中から馳せ参じたという竜蝶たちなのだろう。彼らが放つ魔力はとてつもなく、四人は彼らの結界に弾かれ、広間の中ほどまで戻された。黒髪様が顔を歪める。結界にびしりとヒビが入ったからだ。めげずに彼は結界を張り直して入り口に近づいたものの、クナの面前でそこはあえなく閉じられた。他でもない、帝の魔力が広間を一直線に走り来て、分厚い扉を閉めたのであった。
クナたちはすぐさま扉に近づき、押したり魔力を放ったりしたのだが、帝の意志で閉じられたそれはあろうことか、びくともしなかった。
「ははは、逃さぬ! しばしそこで、無駄にあがいているがいい」
半ば霊体のごときタケリをまとう帝は、両腕を広げて立ち上がり、広間に入ってきた竜蝶たちを迎えた。竜蝶たちは皆真っ白な鎧に身を包み、長いマントを羽織り、背に長剣を背負っている。彼らはちらりとクナたちを目視したが、誰一人構うことなく、颯爽と列を成して玉座に近づいた。
「陛下、どうか勝利をお喜びください。すめらは、緊縛の鎖から解き放たれました」
先頭の武人が、玉座の真ん前に膝をついてかしこまる。その他の武人たちは眉ひとつ動かすことなく、倒れている竜蝶たちを抱えて、広間の脇へと整然と並べた。
「ほう、勝利とな。そなたら、ついに大スメルニアを仕留めたか?」
「はい。我ら、偉大なる陛下の壱ノ師団は、大墳墓の地下に潜みし大鏡を、破壊してまいりました」
「ふふふふ、大スメルニアこそは、人間どもの守護者。絶滅回避のための人工回路。我ら竜蝶を、支配種族から引きずり降ろすために作りだされたものにして、四塩基生物の繁殖を管理し、監視し、繁栄させる。伝説では、初代皇帝の一人娘が依り代になったと言われているが、もはや耄碌甚だしい、婆にすぎぬわ」
玉座から朗々と放たれる言葉に、扉を開けようと打ち叩いていたクナは身震いした。
大スメルニアは、人間の守護者? 自由を奪って何もかも管理し、民を無知にするあれが?
この世から、無くなってしまった方が良いと思っていたけれど。もし無くなったら、竜蝶の帝の野望を阻止する抑止力が、無くなってしまうということだろうか。
「竜蝶の偉大なる王、愛照凜音の悲願を、朕が今ここに叶えよう。朕はこの大陸より、人間を滅ぼそう。竜蝶を虐げ、支配しようとした愚かなる者どもを。五塩基の上位生物たる我らの足下にも及ばぬ、ちんけな魔力しか持たぬ者どもを。完膚なきまでに駆逐してやろう!」
――『やはりおまえは、すめらの敵です』
突然。びんと、鋭い声が響き渡った。帝の目前に列を成し、頭を垂れた竜蝶たちが、不自然にがくがくと震えだす。まるで、何者かに上から押さえつけられているように。
帝は先頭でかしづく竜蝶をすっと見下ろした。
「おや、師団長。懐に何を隠し持っている? それは、鏡か?」
「いえこれは……まさかそんな……いつの間に――」
「ふん、大スメルニアに催眠の術をかけられたか。おまえの魔力も、たいしたことないな。朕の糧になるがよい」
刹那。帝を護る黒い龍の尻尾が唸りをあげて動き、先頭にかしづく竜蝶を襲った。
「タケリさま?!」
目にも止まらぬ黒の一閃が、扉を打ち叩くクナの目を射貫いた。無慈悲なかまいたちが、白い髪たなびく首を切り落とす。前のめりに倒れた首なしの体から、白い体液がじわじわ染みだしてきた。だが、他の竜蝶たちは微動だにしない。ぶるぶると不自然に震えているままだ。
『わたくしは、認めません。おまえが再び帝位につくことを、認めません』
帝を糾弾する鋭い声がくぐもる。鏡が、倒れた首無しの体の下敷きになったのだろう。
『おまえは、この星に災厄を呼びました。おまえは、人間を滅ぼそうとしました。ゆえに、わたくしは、決しておまえを認めません』
「たしかに災厄を呼んだのは、愚かなことであったわ。岩窟の寺院の最長老、レヴェラトールの甘言を耳に入れた朕の不覚よ」
あの帝が、五十年前の災厄を起こした? 大スメルニアの言う通りだった?
クナは扉を開けようとする腕を止めて、聞き耳を立てた。
「なれど朕はすぐに後悔して、レクリアルと共に災厄を砕こうとしたのだ。そう、朕はおのが罪を悔いて、改心したのだ。なのにおまえは朕をすめらの敵とみなし、永きに渡って封じこめた。神とは、万人の罪を赦すものであろうに……寛容も慈悲も欠片とてないおまえが、すめらの守護神を名乗るなど。こちらこそ絶対に、おまえを認めぬわ!」
首を飛ばされた武人の魂が、帝の中に吸い込まれていく。帝がサッと手を薙ぐと、首の無い体がごろりと転がり、真っ白い液体にまみれた鏡があらわになった。
「おまえが本体か? いや、百年の昔、朕はかつて、墳墓の地下に至りて大きな鏡を砕いた。なれどおまえはこうして、いまだ在る。おまえは、本体の複製であるな?」
『わたくしはひとつにして、万』
「ふん。しぶとく増殖する婆め」
白い体液にまみれた鏡がずるずると動き、帝の足下に至る。黒いタケリが尻尾から放った黒い風で引き寄せたのだ。帝は近づいて来た鏡を思い切り、踏みつけた。魔力をこめたのであろう、その一撃で鏡は粉々に砕け散った。
とたんに、他の竜蝶たちの震えが止まった。彼らは一斉にどっと、床に倒れ込んだ。
「鏡一枚で、竜蝶たちを操るとはな。さすが、神を名乗る婆よ。第二師団! 第三師団!」
帝が呼ぶなり、玉座の真ん前に天井から下がっている灯り玉が一つ、降りてきた。それは伝信用の巨大な水晶玉で、くるくるとゆっくり周りながら点滅した。
「同胞たちよ、朕の詔をすめら全土に伝え、広め、遂行せよ! 鏡を砕け! すめらに在る鏡を、すべて、一枚残らず破壊せよ! あらゆる生き物から奪いて、砕け! 大スメルニアの息の根を止めるのだ!」
明滅する大きな玉から、「御意」と返事が返ってくる。帝のもとに参じた竜蝶は、まだまだいるらしい。それゆえなのか、帝は手をすうっと天にかざし、倒れた竜蝶たちから一斉に魂を奪い取ろうとした。
「やめて! もう食べないで!」
帝もユーグ州に現れた、あの光の塔のごとくになってしまうのか。すべてを呑み込むものに。止めなければと叫んだクナに、帝は目を細め、にたりと禍々しい微笑を投げてきた。
「鏡にあっさり支配されるなぞ、魔力が足りない証拠だ。そんな者は存在する価値がない。朕と同化する方がよいのだ」
「そんなの、いいわけがないわ!」
「ふふふ、実体験すれば悟れるであろう。喰らってやろうぞ、すめらの星!」
「そうはさせな――」
幾重にも張られた黒髪様の結界が、ばりばりと砕けた。帝を護るタケリが長い尻尾をこちらにかざしている。あたかも杖のように長いそれから、漆黒の弾が勢いよく飛び出して。
「黒髪様!」
結界を張り直そうとする黒髪様に直撃した。
「だ、大丈夫だ。私は魔人。不死身ゆえ……う?!」
片膝をついた黒髪様は、その場に身を固めた。肩を穿った光弾から、じわじわとどす黒い何かが広がり、網のように黒髪様の体をがんじがらめにしていく。
クナは慌ててその黒い網を引きちぎろうとしたが、手に触れるやいなや、雷撃のようなしびれが走り、がくがくと体がしびれて、たちまち動けなくなった。
花売りも網を引っ張ろうとしたが、手がしびれてうずくまる。モエギが灰色の衣の袂から、小さな玉を出して黒髪様に投げつけた。だが、魔力をこめたその玉はかすかな煙を上げただけで、黒い網をちぎることはできなかった。
「なんなのこれ! ただの結界網じゃないの?!」
「はははは。始龍天尊こそは、暴走する魔人を懲らしめるために、竜蝶の王が造り出したもの。かつてアリステルはタケリの力でもって、幾人もの魔人を従え、封印したのだ!」
「ぐ……!」
「その網は、魔人の体の再生速度を著しく遅くする。すなわち――」
クナは悲鳴をあげた。ぎりぎりと食い込んだ黒い網が、黒髪様の右腕を切り落としたからだった。容赦なく、一瞬のうちに。
「傷つければ、しばらくはそのままだ。さあ、魔人が韻律を使えぬうちに、おまえを食ってやる!」
帝の言葉が飛んでくると同時に、黒い龍が高々と尻尾を掲げた。とたん、黒い波動が飛んできて、クナをたちまち絡め取り、天井近くへと持ち上げた。
「やめろ……!」
動けぬ黒髪様が目を剥く。怒りが、蒼い双星のごとき瞳を燃やした。モエギがしきりに小さな玉を、クナを捉えた黒い網に投げつける。だが、魔力の玉はやはり焼け石に水であった。クナはあっという間に、玉座の真ん前へ引っ張られていった。
「田舎娘!!」
『アリステルのかたわれ。そなたは我の願いを拒否したが。我はそなたが、陛下に食われてひとつになることを望む』
タケリの声と共に玉座の前に叩きつけられたクナは、よろめきながら立ち上がるも、がくりと両膝をついた。目の前で、黄金の衣を羽織る帝が笑っている。とっさに手を前に広げると、白い蝶がうわっと出てきた。
広間にはまだ、これだけの精霊がいるのか。ああ、それでもこの蝶たちもたちまち、帝に食われてしまうにちがいない。そう思って眼前を見上げたクナは、驚いて目を丸くした。
帝が片手で胸を押さえている。まるで、鋭いもので刺されたかのように。
「ぐ……おまえ、朕が食った精霊を奪ったな?」
「えっ……!? 奪っ……」
帝は今や、精霊たちが寄り集まっている依り代。クナはそこから強引に、精霊たちを呼び寄せたらしい。
「引き出せるの? じゃあもしかして……!」
よろけながらも、クナはぎゅんと我が身身を回転させた。その背中から背負い袋が落ちて、鏡姫がころがり出てくる。
「ぬ? 鏡?」
風よ。風よ。風よ……! かしこみ、かしこみ! 願い、奉る……!
鏡を拾ったクナが、それを両手で高々と掲げ、祝詞を唱えながら舞い始めると、鏡はすかさず、共に唱和を始めてくれた。たちまちあたりに神霊の気配が降りてきて、ぎゅんぎゅんと鋭い風が巻き起こり、クナの周囲で吹き荒れ始める。鏡に一瞬気をとられた帝は、低く呻いて体を二つに折った。クナと帝を取り囲むタケリが、なんだこれはといぶかしんで、動きを止める。
来たれ! 来たれ! 我がもとに!
『そうじゃ、来たれ!』
クナと鏡姫が織りなす祝詞が、風の性質を変えた。あっという間にごうごうと、何ものも吸い込む渦柱が立ち昇る。すると帝の体からぼろぼろと、白く輝く蝶たちが大量に出てきた。まごうことなくそれは、帝に食われた魂たちに違いなかった。
「なんだその鏡は! おのれ!」
無数の蝶たちが発生する中、帝は歯ぎしりしながらタケリに渦を砕けと命じた。クナと帝を囲む龍は、バシリバシリと、渦柱に真っ黒な波動を当ててきた。稲光のごとき煌めきが何度もほとばしる。
一度ぶつかるごとに渦の力が大きく削がれていって、クナはあえなく吹き飛ばされた。
「大スメルニアめ! この娘まで凋落したか」
「ちがうわ! この鏡は――きゃあ!」
クナは太い柱の一本に叩きつけられた。鏡はなんとか落とさずに済んだものの、タケリの波動がクナの体を柱に縛り付けた。黒髪様を捕らえたのと同じ、黒い網がぎりぎりと食い込んでくる。
これで終わりだと、帝はけたたましく嗤い、タケリに命じた。
「娘の体を粉々にしろ! 魂を絞り出せ!」
ああ、だめだ。体が砕かれる。
「タケリさまが、こんなに強いなんて――」
クナの全身に恐ろしい痛みが襲ってきた。四肢がちぎられる……そう感じたとたん、ぐらりと周囲の景色が揺れた。柱に打ちつけられた頭が酔ったのだろうか。
否。違った。
あたりの景色が、ぐらぐら揺れる。この玉座の間に来た時と、同じような感覚が襲ってくる……
「嘘?! まさか……」
天変地異でも起きたかのごとく。周囲の景色が激しく揺れだした。
「ま、待って! お願い!」
食われた魂たちはなんとか、帝から吐き出させることができた。だが。だが――
「いやよ! 待って! ここから離れるわけには……! やめて! ルデルフェリオさん!」
『ぬう!? これは一体!?』
クナと鏡姫の叫びは、揺れ動く空間の中で虚しく響いた。耳にする者が一人とていない、虚無の中で。
「わあ、危なかったな」
真っ白い天のもと。巨大な塔の真ん前で、ぐるぐると黒い世界玉をかきまぜている少年は、あははと楽しげに笑った。
「間一髪でスミコちゃんを移せたよ。あーあ、柱が一本折れちゃったね」
玉の中を覗き込む少年の瞳に、玉座の間の柱が折れて倒れていく光景が映る。活きがいいな、びちびち動いてるとぼやきながら、彼は指先でつまんだものをすばやく移動させた。
「とりあえず、星の裏側に落とそうっと。真っ赤な砂漠の真ん中あたりに」
「おやおや、意地悪だね」
「大丈夫だよエリュシオン様。真っ白い船の、すぐ近くに置くから」
少年は塔の上に座す黒衣の巨人に、屈託のない微笑みを投げた。
「さっき弄って、時間を進めたところにかね?」
「うん。くれないの髪燃ゆる君と金の獅子が居るところに。だってそこにピピ様がいるんだもの。あの人なら、スミコちゃんの面倒を見てくれるだろうからさ。モエギちゃんと花売りくんも、一緒にそこに落とそうっと。残った黒髪が帝の玩具になってる間に、僕があいつに埋め込んだ爆弾が、作動するだろうね。でもここから眺められそうにないな。色々弄っちゃったから、堕天しちゃいそうだよ」
巨人が呆れ声で、弄りすぎだとたしなめてくる。だって面白いんだもんと、少年はいたずらっ子のごとくぺろりと舌を出した。
「霊峰ビングロングムシューに彫刻したし、大河の流れを変えたし。うん、この大陸、かなり僕好みの形になったな。さて、最後の仕上げに……」
世界を弄る少年は、再び大陸の東へ手を伸ばした。黒い万年杉がそびえ立つ森をまさぐり、ああ、ここだとあたりをつける。つい最近ここで次元開闢があったんだと、彼は巨人に説明した。
「知っておる。不死のウサギが世界を創った所だな」
「うん。そこで、時の玉も作り出されちゃってさ。過去に飛んじゃった人がいるんだけど……さっきちらっと見たら、地中深くに埋もれてるのが、見えたから」
少年はぐりぐりと指先で、真っ白い塔がそびえているすぐ近くをほじった。ここ……いや、もうすこし右かとつぶやきながら、黒っぽいものをつまみあげる。とたんに少年は嬉しげに目を細めて、そうっと優しく白い塔の真ん前に、掘り出したものを置いた。
「ぐっすり眠ってるけど。起こさなくても、自然に目覚めてくれるかな」
それは黒い衣をまとった人間で、大きないびきをかいていた。
「地面の中に、何百年も埋まってるとか。やっぱり竜蝶の魔人ってすごいね。いや、ここはさすがアイダ様って感心するべきかな」
「愛打……灰色の技師にして黒き衣の導師。ウサギの師、アスパシオンか」
「過去に戻されて、どんなことを体験したのか、直に話を聞きたいな。ピピ様に、僕らを一緒に連れて行ってくれるように頼もうっと」
少年はまたぞろ赤い砂漠に手を伸ばし、魔導帝国の帝都をまさぐって、最愛の少女を入れた剣をつまみあげ、白い船の中にすうっと挿し入れた。そうしている間に、彼の体はどんどん小さくなっていって、するりと黒い玉の中に吸い込まれていった。
ひとつの星を大きく写し出していた、世界の玉の中へ。
「ああ、墜ちていったか。さよならをいう暇も無しに」
塔に座す黒衣の巨人は、名残惜しげに世界の中へ戻っていった少年を、しばし眺めていた。
それから超拡大していた縮尺をみるみる縮小させて、渦巻く銀河を世界の玉に写し出した。
ああまったく。我が古巣は美しい。
そうつぶやきながら、巨人は手のひらに載せた世界を厳かに天上へ掲げ、そっと飛ばした。優しく息を吹きかけて、はるかな高みへと。
「永遠に栄えよ、無限の銀河を持つ我が古巣よ。終わりなき開闢を続けるがよい」
飛ばされた世界はましろの天の中に至るや、明滅し始めた。他の無数の世界と同じように、その光は巨人が住む世界を照らした。
煌々と、艶やかに。