14話 神の手
(黒髪さま!!)
『どうか聞き届けてほしい! 黒の導師の守護者、エリュシオンよ! 我、黒き衣のトリオンは切に望む! 今ここに、心から願う……!!』
水晶を打ち鳴らすような、澄み切った声。
苦痛に満ちたその声は、黒くて丸いクナたちの世界から巻き上がってきて、ちりちりと火花のような光を放った。
偉大なるエリュシオンは、ごうっと轟いた。美声に呼応したかのようなその声は、霊位が高すぎて、クナには言葉として聞こえなかった。しかして、結界を張ってクナを護っているルデルフェリオには、聞き取ることができたらしい。少年は悔しげに舌打ちをした。
『くそ! あいつ、エリュシオン様と面識あったのか!』
(そうだわ。黒髪様は神託の石版を見つけたときに、上の世界へ行ったって言ってたわ。でも耐えきれずにすぐ落ちてしまったって……)
その時黒髪様は、偉大な巨人と邂逅したのだろう。ルデルフェリオが初めて、この世界に至った時のように。
『かつてあなたが私にくれた恩情が、今ここで果たされんことを! 我は望む! だから我が 伴 侶 を、 妻 を、 ど う か 』
光を散らす声は、しかして急にゆっくり聞こえてきて、ほとんど停止した状態になった。巨人が腕を伸ばして、黒い玉であるクナたちの世界を手のひらに載せたからだった。
クナをかばうように抱くルデルフェリオは、世界を載せる大いなる手からすぐさま離れた。巨人の神気に結界が砕かれるのを避けたのだが、なんて大きな手だろうと、少年は感慨深くつぶやいた。
『エリュシオンが世界に干渉した。僕らの世界の時間が、限りなく遅くなったよ。ほとんど止められてる。さすがだね。さらなる上の世界へ行こうとしている御霊の力は、実に素晴らしい』
エリュシオンは、もう一方の腕も驚くほど長く伸ばして、金色のタケリの背を撫でた。まるで宥めるように、ゆたりと優しく。飼い犬か猫をかわいがるように。そして再び、クナにも聞こえる淀みない声音を発してきた。
「哀れなシーロン。アリステルのかたわれを目の前にして、堕天が一気に進んでしまったね。これでは、我らが古巣に戻るしかあるまい。竜蝶の帝と共に歩むがよい、龍の父よ。なぜならば、今ここに在る菫色の魂は決して、そなたのものとはならないからだ」
巨人はゆっくりと自身の体を、クナには見えない塔から降ろしてきた。塔を椅子のごとくにしていた巨人は、立ち上がると恐ろしく丈が高かった。なんと神々しい偉容であろうか。無数の黒い世界たちが浮かぶ天に、頭が届きそうだ。
金の龍はあからさまに機嫌を悪くして、巨人の手を長い尾でバシリとはね退けた。
「我は完全なるアリステルを得られない? それはなぜだ、エリュシオン」
「シーロンよ。はるかな昔、黒き衣のトリオンは石版を使って、我のもとに飛び込んできたことがあった。ひどく未熟で欠けているあれは、おのが魂を砕こうとしてやってきたのだ。輪廻すら拒否して、おのれの存在を無にしたいと欲したために。それほどあれの心は飢えて荒み、孤高なる孤独に毒されていた。
なれど我は、黒き衣の導師の守護者。導師たちの信仰を受け力を増した存在であるがゆえに、導師であるあれを消滅させるにしのびなかった。だから我は、彼の自死を阻んでしまったのだ」
偉大な巨人の声は、びんびんとあたりに響いたが、ひどく優しかった。夜にさざめくフクロウのような。あたかも、昔語りをする翁のような。そんな穏やかさを醸していた。
「トリオンの消滅を阻止したことは、我のわがまま以外の何物でもない。我はトリオンに、生きることを強制し、それゆえに多大な苦痛を負わせてしまった。故に我は、彼に恩情を与えた。ひとつだけ、我はあれの望みを叶えることを約束したのだ。自身がここに至りて消滅する。それ以外の望みを、なんでも。だが……」
黒髪様はその時、望みを口にしなかった。
望みなどない。願うことなど、何ひとつ。自分が消えること以外、何ひとつ。
そう泣き叫ぶ彼を、エリュシオンは無理矢理、下の世界に戻したのだという。
――『魂の伴侶なんか、いないんだ! 私には! きっとどんなに探したって、現れない!』
「以来、我は時々、トリオンの様子を眺めるようになった。あれは四六時中、自身を消し去りたいと望んでいた。なれど、彼は心密かに、唯一人の伴侶を探していた。そうしてついに見つけたのだ。かけがえのない者を。美しい、菫色の魂を」
クナの前世であるレクリアルと出会った黒髪様は、その目に輝く生気を宿した。だが、レクリアルを失ってまたもや、永き絶望の中に落とされた。それでも黒髪様は、石版を手に取って、エリュシオンに願いごとをすることはなかった。
自身を消し去りたい。
再びそう願うようになったものの、それは決して叶わない望みであったからだ。
「消滅だけは、我が決して受け付けない望みである。ゆえにあれは我を頼らず、いつも独りで始末をつけてきた。友を持たず、誰にも頼ろうとせず。誰ひとりとして信用せず、助けを求めず生きてきたのだ。いついかなる時も。そんなあれが、我に願いを口にするとは……」
クナには輪郭しか見えない巨人が、顔を向けてきた。彼の双眸はクナには見えなかった。だが、威力ある強い視線がまっすぐ飛んでくるのを、クナは感じた。
「かつてアリステルであり、レクリアルであった者。すめらの星。そなたはそれほどまでに、トリオンに愛されているのだな」
(あたしも、黒髪様を愛しています! 誰よりも。誰よりも!)
黒髪様の美声の光の、なんと美しいことか。打ち震えるクナは強く念じた。大声で叫ぶように、強い意志を巨人に飛ばした。なれども、不安と悲しみで彼女の心は暗く打ち沈んだ。完全なるアリステルとなり、龍の伴侶にならなければ、姉たちを救う事は――たぶん、叶わないからだった。
(愛しています! 愛しています……! だからあたしは、できることならアリステルには、戻りたくありません……! でも、あたしが我を通したら、家族は……!)
「すめらの星よ、あいすまぬ。我は老婆心から、そなたに家族の危機を報せてしまった。シーロンを味方につけたいそなたらが、それで条件を呑むことができればと思ったのだ。なれども我は、万事を差し置いて、トリオンの願いを叶えてやらねばならない。そなたの葛藤も容赦なく無視して、今すぐそなたを、トリオンのもとへ戻さねばならない。それがそなたの本願に沿うものであることを知って、ホッとしている」
――「ああ、とっても残念だな。僕がせっかく頑張ったっていうのに」
どうにか、家族を救えないだろうか。自分と家族、両方が幸せになることはできないのか。
苦悶するクナのそばで、ルデルフェリオが嫌みたらしく、クスクスと笑ってきた。
「竜蝶の帝は黒髪と同じく、魔人だからね。スミコちゃんやシーロンと一体化したとしても、自力でここへ昇ってくるのは無理だ。この上位世界へ至るためには、神たる者の助力が要る。おそらく望みの結果を得るまで、かなりの時間がかかるだろう。となると、あの黒髪がそれまでに必ずやアリステルの魂をかち割って、君を取り戻すだろう……って予想してたんだけど」
黒髪は馬鹿だねと、少年は呆れかえったように巨人の手に載っている世界を見下ろした。
「あいつは片時も、君を失いたくないんだね」
「今の話、しかと聞いたぞ! 我の望みは束の間しか叶わぬもの。すぐに破れるものであったとは」
とぐろを巻く金の龍が怒りの咆哮を発した。しかしてぐるぐる回るその体は、なぜかみるみる、小さくなっていった。龍はクナたちを睨み上げ、呪いの言葉をひとしきり吐いた。
「残念だ。実に残念だ。完全なアリステルを、手に入れられないとは。手に入れられても、すぐに奪われる運命であったとは。呪われろ、ルデルフェリオ! 呪われろ! 黒き衣のトリオン!」
輪を成して廻る龍はどんどん小さくなっていった。どんどんどんどん、矮小な金の塊になっていき、そして勢いよく、黒い玉であるクナたちの世界に飛び込んでいった。無念の言葉と、悲しげな咆哮を残して。
「我は全力で、竜蝶の帝と共に歩もう。そして我らを阻む者に勝利しようぞ……!!」
ああ、墜ちていったかと、ルデルフェリオが感慨深くため息を吐いた。
「さてこれで、どうにかこうにか、君らの目的は達成できたってわけだ。スミコちゃん」
クナがここへ来たこと。期せずしてそれは、実に有効な一打となったのだった。
クナが眼前に来たことで、シーロンの魂は大いに揺らいだ。それがために自他が予想したよりも早く、この世界にいられる霊位を失ってしまったのである。
「シーロンが下の世界に墜ちれば、「神の力」で蹂躙することは叶わなくなる。三つの魂が合わさったシーロンは、相当な強敵になるだろうけど。理不尽な一手を打たれる可能性はなくなったよ」
おそらく勝ち目は一割もないであろうけれど――ルデルフェリオが意地悪くそう言ったので、クナはぎょっとした。
(一割?!)
「堕天した魂が合わさることで、シーロンは大陸で最高の神気を持つ神獣となる。でもここにいて時間を弄られたりするよりは、はるかにましだ。勝率がまったくの零よりはね」
(勝てる可能性はごくわずか。でも、不可能じゃない。ああでも……今、世界の時間はほとんど止まっているけれど……あたしがこの世界の中に戻ったら、普通に時間が進むように感じるんですよね? そうしたら、竜蝶の帝に殺されかけてる姉さんは……)
姉だけではない。父も弟も、帝の周りに倒れていた。魂を喰われて。
だが、クナの体は、すめらより遠く離れた寺院に在る。急いで大安へ乗り込もうとしても、そこへ至るにはどうしても数日かかってしまう。
(救えない……今すぐ瞬時に、帝の前に現れなければ……眼前に出現しなければ、助けられないわ)
「うん。君には到底無理だ。でも、僕になら、できるかもしれないよ?」
(え……ルデルフェリオさん?)
震えるクナに、少年はさらりと言った。
「幸いまだ、エリュシオン様が世界の時間を、ほとんど止めてくれている。そして僕はすでに少し、義眼の中に封じられた力を食べている」
(う……黒髪様の力を?)
「うん。おかげで余裕綽々でここにいられるだけでなく、君を護ることも簡単だった。そんなわけで、せっかくだから試してみたいんだよね。僕がどれだけ、下の世界を弄れるのか」
先に戻っていてくれと、少年はにっこりしながら、クナの背を押した。
エリュシオンが、手のひらに載せた世界をクナの眼前に近づけてくる。さらばだと、別れの言葉をあたりに響かせながら。少年に押されたクナはたちまち、するりと世界の玉に吸い込まれた。
(待って下さい、ルデリフェリオさん! し、信じていいんですか? あなたが救ってくれるって……あたしの家族や、村の人たちを……竜蝶たちを……!)
「いや、確約はできないな。どこまでできるか、正直分からないから」
少年はひらひらと余裕綽々の顔で、落ちていくクナに手を振ってきた。
「まあでも、期待してくれていいかもよ? だって僕は、ピピ様とそのお師匠様の、超出来のいい弟子なんだからさ」
漆黒の空間がクナを包んだ。
少年がかけてくれていた結界が、ぱりんと割れて砕け散る。鳥たちの魂と同じく、その力の残滓も、クナの周りをぐるぐる砂塵のように輝いて回り始めた。と同時に、恐ろしい重圧がクナを襲ってきた。
だめだ。潰される――
そう感じたのは一瞬だった。きつい「瞬間」が過ぎると、息が出来ぬような凄まじい圧力が解けて、この上も無い開放感が襲ってきた。
自分が飛散するような。千の欠片にはじけ飛ぶような感覚の中。おのが世界に戻ったクナはどんどん、落ちていった。
下へ。下へ。まっさかさまに。
大地に着いた――そう自覚すると同時に、クナは自分が黒髪様の腕の中にいることに気づいた。
頬にぽつぽつ水滴が落ちてくるので、雨が降っているのかと思ったら、そうではなかった。
天は異様な白色ではなく、漆黒に晴れ渡り、無数の瞬き様がきらきら光っている。
円い月女様とその御子である小さな月も姿を現していて、煌々と岩の舞台を照らしていた。ちりちりさやさや、輝く月からかすかに音が落ちている。
(ああ、しろがね色の音だわ……)
「――! 私の――」
月の光と共に降ってくるもの。それは黒髪様の涙だった。彼は何度も、クナの名前を囁いていた。密かにクナにあげた、他の誰も知らない、あの美しい名前を。魂が抜けた体はずしりと重かったが、クナは泣き濡れる人の首になんとか腕を回して、きつく抱きしめた。
「戻ってこれました! 黒髪さまのおかげです……!」
黒髪様は返事を返せなかった。さめざめと泣いていて、全身がひどく震えていた。クナを失うかもしれない。そんな喪失の恐怖に打ちのめされた黒髪様は、クナを抱きしめたまま、しばらく動けないでいた。おそらく、かつてレクリアルを喪った時のことを思い出していたのだろう。
酷な思いをさせてしまったと、しきりに謝るクナの唇を、黒髪様は何度も口づけで塞いだ。息が出来なくなるぐらい、何度も何度も。だが、互いの鼻をつけて愛の言葉をゆっくり囁き合うことは、残念ながらできなかった。
よかった無事でと、声をかけてくるモエギ。安堵のため息をつく花売り。そしてクナたち。岩舞台にいる四人の周囲の景色が、突然、ぐらりと揺れた。
漆黒の空がぐるぐる廻る。またたく星々やしろがねの月が、幾重にもぶれる。岩も二重三重に重なって見え、それがまるで、うねる波のごとくに、ひどく揺らいだ。
「な……にこれは……!?」
地震ではない。空から、何かが落ちてきたわけでもない。あたりが揺らいでいるのに、クナたちは衝撃をまったく感じなかった。大地は微動だにしないのに、クナたちをとりまく景色だけが刻々と変化していった。
空間が歪んでいる――黒髪様が驚きの声をあげ、急いで結界を張った。モエギと花売りが肩を寄せ合い、息を呑んで、変異した景色を眺め回す。
もはや四人がいるところは、岩の舞台ではなく。ぼうっと燃えるような色の巨大な列柱がみるみる、周囲に浮かび上がってきた。モエギが息を呑む。花売りが呆然と天を見上げる。
「え?! 空間転移!? なぜ?! 今発現しているのは、黒髪さんが石版に注いだ魔力だけなのに!」
「はい、他の力は感じられません。全然。まったく。なのに空間が動いて……?!」
いや違うと、黒髪様が唸った。
「空間が動いたのではない。我々の方が、動かされたようだ」
夜空はもはや、見えなくなってしまった。あろうことか四人は、どこかの屋内に居た。ずいぶんと広い建物の中のようだ。くるくる廻る人魂のごとき灯り玉が、朱に塗られた柱一本一本に提げられていて、壮麗な天井絵を写し出している。銀の雲間に躍る龍たちを描いたそれは、いと高い列柱に支えられているのだった。
「これは神の一手か? 上の世界にいるタケリのしわざか?」
クナはたちどころに、一体誰がこの奇跡を成したのかを察した。
「いいえ、ルデルフェリオさんが奇跡を起こしてくれたんだわ……!」
「なんだと?!」
「タケリ様は堕天して、上の世界にはもういません。でもあたしの家族が竜蝶の帝のもとで、危機に瀕していて――」
事情を話すとたちまち、黒髪様は気色ばんだ。
「な……つまり鍛冶師が、神の真似事をしたというのか?!」
きっとそうだ。今すぐ、瞬時に竜蝶の帝の眼前に行かなければ、姉は救えない。クナはそう嘆いた。だから少年は、クナの願いを叶えてくれたのに違いなかった。クナたちを岩舞台から一瞬にしてすめらの大安に移すという、神の一手を打ってくれたのだろう。
「ごめんなさい! あたしが望んだから……姉さんたちを救いたいって、願ったから……!」
「じゃあここは、大安の御所なの?!」
目を丸くしてあたりを見回すモエギは、後ろを振り向いたとたんに悲鳴をあげた。
「黄金の玉座……?! その周りに人がたくさん……!」
間違いなかった。クナが上の世界でエリュシオンに見せられた、痛ましい光景。たくさんの竜蝶が黄金の玉座の前に倒れている、恐ろしい場面。それとそっくり同じものが、クナたちが運ばれたここでまさに、たった今、繰り広げられていた。
「玉座にいるのは、竜蝶の帝なの? 真っ白い髪のあの人が……」
「そうだモエギ。まごうことなくあいつは、竜蝶の帝だ。くそ……! 前振りもなしにいきなり転移なんて! ふざけるな!」
黒髪様が怒りで青ざめながら、急いで結界を重ねていく。クナはモエギが凝視する方向に、思わず片腕を伸ばした。
「ごめんなさい! ごめんなさい! こうしないと間に合わないって思ってしまったから……! ああ、姉さん!」
玉座に座している者が、こちらに気づいた。
銀糸のような白い髪。磁器のような白い肌。突然出現した四人を捉えた菫色の双眸が、たちまちきらりと光る。帝は龍紋の入った黄金色の衣をまとい、黄金の帝冠を被っている。まさに皇帝。威風堂々たる出で立ちだ。
「なんだ突然。朕の玉座が在るここには、誰にも破れぬ結界を張り巡らせているはずだが。なぜに、おまえらが出現したのだ? 上にいるタケリの本体が、悪ふざけでもしたか?」
「タケリ様の力ではありません! 別の人が、上から干渉してくれました!」
「ほう? そいつは哀れな獲物をわざわざ、朕に差し出してくれたというわけか」
玉座に座す帝は、本物のタケリの魂が上の世界に在ることを知っているようだ。彼は魂を抜いたばかりの竜蝶の女――クナの姉を足で押しやり、片肘を玉座につけて頭を左に傾け、にやりとした。長く白い髪がさらりと横に流れて、鏡面のごとき艶やかな床に落ちていく。きらやかなその髪も面立ちも、実に美しく若々しい。頭上に在る三色の御霊が、ちりちりしゃらしゃらと、彼を讃えるかのように歌っていた。
「ふん、タケリ以外の〈神〉がこの世界に興味を示すとはな。では、神の力で成されたものは、タケリに喰ってもらうとしよう」
「それは不可能です。タケリ様はもう、上の世界にはいませんから!」
「ほう? 〈我は墜ちかけている〉と、朕は上にいるタケリから神託を受けていたが、本当にそうなったというのか?」
「そうです!」
「そうか……なるほどな。それは……」
帝はまったく驚くことなく、くつくつと、形良い口から笑い声を漏らした。口の端をこの上もなく、にやりと引き上げながら。
「面白い。墜ちた神が降臨するとは。朕のタケリは、ますます漆黒に染まるのだな」
「家族を……すめらの人々を苦しめるのは、もう止めて下さい!」
クナは叫んだ。喰らわれたばかりの魂は、まだ消化されていない。今なら救える。まだ間に合う。
玉座に向かって片腕を伸ばすクナの手の先から、真っ白い蝶がうわっと、群れを成して飛び出した。クナに引き寄せられたあたりの精霊たちが、具現したのだ。それは黒髪様の結界を貫通して、玉座めがけて飛んでいった。
「どうかお願いします! 姉さんたちの魂を、返して……!」
ましろの天がきらきら煌めく。浮かんでいる無数の黒い玉が、蛍のように明滅しているからだ。
――「おや、それでいいのかね?」
あまたの世界が浮かぶ、その神々しい天のもと。いと高き塔に座す巨人は、おのが手のひらに載せた世界に手を突っ込んでいる少年に尋ねた。
「勝ち目が薄いというのに。いきなりフンミーの前に置いてしまうのは、まずくはないか?」
いや、これでいいと、世界を弄っている少年は肩をすくめた。
「駒移しって、思ったより簡単なんだね、エリュシオン様。それにしても、僕って本当に有能で優しい奴だよな。スミコちゃんの願いを、ちゃんと叶えてあげるなんて」
「しかしこれでは、帝が勝つであろうよ」
「あいつらが竜蝶の帝に敗れたって、僕は全然構わない。むしろ、そうなればいいと思ってる」
「おや……そうなのか。そなたは永らく剣であったから、剣の主人に忠実かと思っていたが」
「黒髪以外は、助けてあげるさ。完全蘇生を試してみたいな。それから、時送りも」
次はどこを弄ろうか。
黒く渦巻く世界をぐるぐるかき回しながら、銀髪の少年はくすくす笑った。しかし彼の目は、まったく笑っていなかった。深遠なるその蒼い双眸は、真っ白な螺旋の塔のてっぺんに座り直した巨人をくっきりと映している。黒き衣をまとい、長い金髪を垂らす老人の姿が。しかして、上位なる存在を捉える瞳の中には、冷たい怒りが宿っていた。
「手を出さないでね、エリュシオン様。僕にしばらく、弄らせて」
「ふむ。大恩あるそなたの望みは、なんでも叶えると約束したからな。致し方あるまい。しかしなぜに、そんなに怒っているのだね?」
「だって黒髪は、僕に耐えがたい苦痛を与えたんだ。あいつ、僕のエクステルを人質にしたんだよ」
少年は世界をまさぐった。そして指の先に触れたものを優しく撫でた。
低い声で、囁きながら。
「僕の伴侶を利用するなんて。黒き衣のトリオン。あいつだけは、絶対に許さない――」
少年が撫でたもの。寺院の地下に在る氷結結界に、びしりとヒビが入る。中にいる少女の魂がびくりと震えた。大丈夫だよと、少年はほのかに光るその小さな魂に言葉を送った。
「僕のエクステル。君を、新しい体の中に入れてあげるね」
少年は少女の魂を両手で包み込んで、そっと移した。真っ赤な熱砂が広がる、魔導帝国の帝都。その壮麗なる帝宮の、宝物庫の中へと。
「くれないの髪燃ゆる君は、寺院から奪った宝物をここに収めてる。この中には、実に素晴らしいものがあるんだ。さあ、入って」
少年は宝物庫の中に在るひとふりの剣に、小さな魂を落とした。
黄金の龍をかたどった柄。その中央に嵌まっているのは、真紅の宝石。それはかつて少年が入っていたあの聖なる剣と、瓜二つだった。
「心配しないで。すぐに僕も同じ所に入るからね。そうして僕らは屠るんだ。僕らを苦しめた奴を。あの黒髪を」
少年は目を細め、心細げに光り出した赤い宝石に囁いた。にこやかに。なれども、凍り付くように冷たい声で。
「あいつを。絶対に、殺してやる……!」