12話 聖白衣(せいびゃくい)
咆哮と共にバキバキと、クナのすぐ横の窓が砕けた。 分厚く頑丈そうだった格子窓を襲ったのは、びとりびとりと貼りつくもの。勢いすさまじく取り付いた瞬間、格子窓は木っ端微塵。砕けた破片がクナの頬を掠めた。
龍が居る露天の場所からここまでは、かなりある。阻む分厚い扉は一枚ではなかったであろうに、すべてかようにぶち抜かれてきたのであろうか。力任せに、無理やりに。
「望ミドオリ、喰ッテヤルゾオオオオ!!」
長い長い咆哮。きしむ壁。揺れる床。
この龍こそは、クナが望んでいたもの。食べられたいという願いが叶う――はずなのに。いざこうなると。
(あ、あ、あたし……?)
こわい――全身が震える。がちがち歯が鳴る。
否。ただ恐ろしいと感じているだけではない。
クナは腰をかがめ、窓辺にぐいぐい背中と尻を押しつけていた。これ以上は下がれないと頭では分かっている。なのになぜか足は後ろへ後ろへ。必死にあとずさろうとしている。
(あたし……なにしてるの……?)
家族を救わねばならい――そう気負ったから。
母さんに会える――そう信じたから。
クナは龍に食べられなければと思った。それしか方法がないと、あきらめたからだ。でも本当は……。
(ま、まさかほんとはあたし、たべられたく、ない……?)
『役立たずのクナ』
そう言われたくなかった。家族に恨まれ責められたくなかった。それは死ぬよりも嫌なことだと思っていたのに。だから喰われる覚悟を決めていたはずなのに。実際恐ろしいものを目の前にすると、こうも如実に、おのが本心が出てしまうものなのか。
驚きと共にクナはおのれを悟った。
(あたし、しにたく……ないんだ……)
龍から逃げようとする体は、これ以上下がれないとやっと認識したようだ。のろのろ横ばいに動きだしている。
震える手が無意識に胸元を探る。一糸まとわぬ姿だが、唯一、取り去られなかったものがそこにあった。首から下がる小さなお守り袋。中に入っているのは、母の形見。衣の切れ端だ。
クナはその小さな袋を力いっぱい握り締めた。
(か、かあさんどうしよう。あ、あたし、し、し、しにたく、ないっておもってる。いきたいって、おもってる)
鏡は湯殿の奥に非常口があると言った。そこまで行ければ助かるだろうか? 右手に五歩? 十歩? どのくらい距離があっただろう?
思い切って右手へ駆け出そうとしたものの。その逃走はあえなく阻止された。
目の前に迫った龍から、何かがしゅるり。湿ってつるりとしたものが勢いよく出てきて、クナの頬を撫でたと思いきや。
「きゃあああ?!」
しゅるりしゅるり。次から次へと、長く湿ったなにかが体に絡み付いてきた。
「甘エ! ッハア、龍蝶ノ涙ハ最高ダナ!」
龍はヒャハァと、ひどく嬉しげな声をあげた。
「真ッ白イ甘露! サスガ不老不死の妙薬ヨ!」
涙。ああ、おのれは本当にいやなのだ。泣くほど喰われるのがいやなのだ。
しかし、不老不死?
幾本もの蔓のごときものに手足をがんじがらめにされたクナは、龍の言葉に息を呑んだ。
「マダ若イガ十分甘イ。羽化シナクトモ効果抜群ダロウナァ。寿命倍増!」
「う、うか? なにそれっ」
「オヤァ? シラナイノカ? 羽化ッテノハ、繭ヲ作ッテ大人二成ルコトダ」
「ま、まゆ? まゆって、むしのまゆ?」
「オウヨ。龍蝶ハ繭ヲ作ル」
「え?! あ……あうっ……ひぐっ……」
クナは身をよじった。腰に。手足に。絡んでくるぬるり長いものは幾重にも巻きつき、クナの体を撫で回す。
「ちょっ……いやっ! いやああっ!」
「細イガマア、体液ハソレナリニアルヨウダナ」
肌をうごめく蔓は目の前の龍から出ている。いったい何なのか、触れられて心地よいものではない。何本あるのか、どこから出ているのか皆目わからない。
「あ、あついっ」
たちまち胸が熱を帯びてきた。印の力が出てきたようだ。あっという間にクナの体は炎の柱。全身ごうごう燃えるよう。なのに巻きついてくるものはたじろがない。
熱ナド効カヌ――聞こえてくるのは余裕の哂い声。とても楽しげだった。
「蜜ヲ出セ!」
持ちあげられる体。押し開かれる両足。太足に絡む細いものが、じわじわその中央に這い寄る。
クナは必死にもがいた。しかし体に巻きつく湿った蔓は、ぎゅうぎゅう体を絞り上げてくる。まったく自由にならない。
「甘露ヲ!」
聖印の熱にやられたクナの耳には、催促の声がいやに揺らめいて聞こえた。
手足は熱い。しとどに濡れてきたところはもっと熱い。あまりの熱にめまいがする。顔ガトロントシテイルゾと、龍が煽る。しかしその酩酊は官能を感じたゆえではなく、聖なる炎で体の全神経が焼かれているがゆえ。クナの意識はいまや朦朧とし始めた。
熱い。
熱い。
これ以上触れられたら――
「チッ、モウ体ガ、焦ゲ付イテキタノカヨ? 聖印ウゼエ!」
焦ゲタラ体液ガ干カラビル。
首ヲ飛バシテ、一気二体液ヲ吸イツクシテヤル。
おそろしいことを口走った龍からしゅるり。またあらたな蔓が出てきて、クナの首に巻きついた。
「チッ! ナンダコレハ? 邪魔ダ!」
ぐいと首にかかるものをひっぱられ、クナの頭がかくりと前に倒れた。
それは一糸まとわぬ体に唯一ついているもの。母の形見が入ったお守り袋。
「い、いやっ……それは……」
懇願すれどもその声は無力。湿っている蔓が力任せにぶちり。なによりも大事なものを引きちぎる。ああ、とクナが切ない顔を浮かべた、その刹那。
「グアアアアア?!」
おぞましい怒号と共に、あたりがぱあっと光で満ちた。
その光はどこから出たのか、一瞬にして龍を焼いた。すさまじい光量だ。クナの見えぬ目にすら、周囲が明るく輝いているのがうっすら感じられるほど。
その光は、実にまばゆかった。
「ナンダコイツハアアアアアッ!!」
ごうごうたる龍の悲鳴。揺れ動く床。龍は地団駄を踏んでいるのであろうか。みるまにしゅるしゅると、クナの体から湿った蔓が退いていく。
とたん、燃える体からすうと熱が引き、散りかけたクナの意識は混沌の底から舞い戻った。
「な、なんなの?! このひかり、どこから?!」
あたりは燦然と明るい。イタイイタイと龍が痛がりはじめる。明らかに七転八倒、転がり苦しんでいる。
床に手をつき周囲を探ったクナは息を呑んだ。信じられぬことに、光を出しているものは。
(ま、まさか! かあさんのかたみ?!)
引っ張られた時に、袋を裂かれたのか。床に落ちている小さなそれは袋が裂けていた。中身が漏れ出ており、見えぬ目にもおそろしく眩しい。思わず閉じたまぶたがちりちり焼かれた。なれど不思議なことに熱はまったく出ていない。手にしてくんと嗅げば。
(かあさん……)
母親の匂いがまだほんのり残っていた。穏やかで甘い、クナの涙と同じ匂いが。
「ソッ、ソイツハアア! 聖衣ジャネエカアアアッ!!」
転がる龍がぎゃあぎゃあ喚き散らす。
死ヌ、マジデ死ヌ。ソイツハ聖属性ダ、爪ガ溶ケタ、と。どうやらお守り袋を爪で引っかいたらしい。床を揺らし、龍は転がりながら、クナから離れていく。手に輝くものを持ったクナから、慌てふためいて逃げていく……。
くたりその場に膝を折り、クナはぽろぽろ涙をこぼした。
(かあさんが、まもってくれた……!)
「し、しろがねさま」「しろがねさま!」
壊された扉のあたりで、蠢く多くの気配が聞こえてくる。めらめらばちばち音たてているところからして、鬼火たちが集まっているようだ。その気配を蹴散らす勢いで、龍が慌てふためき退いていく。
「オノレエ! オノレエエエ!!」
しかし遁走する龍の怒号は完全に遠のかなかった。ずどんと突然止まり、ひと声長く長く咆哮する。悔し紛れの雄たけびは、どうやら目の前に立ちはだかったものに浴びせたようだ。
刹那。ひときわ高く鋭い声と、びいんという鋭き弦の楽音が、あたりに響き渡った。
――「塔内に入り込むとは何事や! この、腐れ龍が!」
それからの一幕は、夢かうつつか。
龍の前に立ちはだかったのはまごうことなく、クナに舞を教えた九十九の上臘さま。
びいんびいん、あたりを穿つように彼女が奏でる琵琶の音色に、りぃんりんと鈴の音が合わさる。さらにぴーひゃら笛の音も加わり、その奏音は先の戦いのときとまったく同じ。
神聖なるお神楽が奏でられ始められるや、たちまちあたりに、あの不思議な気配が降りてきた。
見えぬものが視える。聴こえぬものが聴こえる。あたり一面に満ちるは、あの不可思議な空気。渦巻く神霊の気の中で、琵琶鳴らす九十九さまは呆れ声を放たれた。
「上階がどうるさすぎる思たら、なんやこの有様は? 我が君の犬であることを忘れ、その所有物に手ぇ出しましたんか?」
「ナンデ出テキタ! クソ婆ア!!」
「あいにく巫女団長はんはご謹慎中や。せやからうちが出なあきまへんでなぁ」
神霊の力帯びる楽の音に合わせ、ぶん、ぶん、くるりくるり。
舞の気配が聞こえてきた。先の戦いのときクナがやったように、複数の者が舞い始めたのだ。
「キキョウ、ツツジ、巻き風や!!」――「あいな!」「あいな!」
九十九の方が命令したとたん、その回転は驚くほど速くなった。ぶんぶん衣音がたつほどの、激しい速度。気配がみるみる混ぜ合わされ、うねりが生まれる。混ぜ合わされた神霊の気配の潮流は、あたかも帯のごとし。勢いよく四方八方に伸びてきて。
「龍を巻き取りや!」――「あいな!」「あいな!」
命令一過、太く長い力の帯があたり一帯に広がった。
帯はどんどん渦を巻く。ぐるぐるくるくる、その腕を伸ばす。
不思議な気配に包まれたクナは、力の渦が龍を取り囲む様子が手に取るようにわかった。
ぐるぐるくるくる。あっという間に神霊の帯が幾重も、龍の巨体に巻きついていく――。
「コンナモノニ抑エラレルモノカァッ!」
抵抗する龍が、あたりに何かを吐き散らす。しかし神霊の帯はその恐ろしげな息を押し返し、いっしょくたに巻き込んだ。
龍が唸る。あのすさまじい喚きも地団駄も、みるまに聞こえなくなっていく。
化け物はみるみる固められた。そうしてついには石のごとく微動だにしなくなり。
どうんと、轟音を立てて倒れた。その振動すさまじく、クナの体は天井につくかと思われるほど、高く飛び跳ねた。まるでよくはずむ鞠のように。
手の中でちりりと、母の形見が鳴った。不思議な神霊の気配に反応したのであろうか。
ちりりちりりと、まばゆい衣の切れ端は歌っていた。
歌詞のない密やかな歌を絶え間なく。
「まったくけったいな。一体なぜに腐れ龍が中に……」
琵琶を抱える九十九の方が、震えるクナの前にきた。ずずと引きずる衣はとても重そうだ。前の戦の時のように鉄錦をまとっていらっしゃるのだろう。
「ありがとうございます!」
クナは床に両膝をつき、深く深く、頭を垂れた。
捕縛された龍は鬼火たちによって網をかけられ、ずるずる引きずられていった。その網は非常に聖なるものらしい。巫女たちの神霊の力が並々と宿っているんやと、九十九さまはクナに仰った。
「みなで祝詞を何百回と歌いながら、編んだものや。我が君がお帰りにならはるまでは、十分もつやろ」
「すごいまいでした。ほんとにすごい……」
「あんさん、巫女修行をし始めたんは、龍に喰われたいがため。そうきいたんやけど、ほんまにあないなものに喰われたいんか?」
「それは……」
食べてくださいと言えなかった。
死にたくない――クナはたしかにそう思った。心の底から恐怖して、嘘偽りなく思った。
もっと生きたいと。
「あたし、く、くわれたく、な……い……です」
床に額をひっつけてじわじわ涙ぐむクナに、九十九さまはふんと鼻を鳴らした。
「まあどうでもよろしいわ。それにしてもその布。おかげさんでだいぶ龍が弱って、すんなり事を処せたんやけど。あんさんはなにゆえ、それを持ってはる?」
じろり手元を見られている視線を感じ、クナはそっと隠すように母親の形見を胸に当てた。衣の切れ端からは、今はもう輝きが消えている。
「それは聖衣や。聖属性を帯びた真っ白い絹ということは、月の最高位の巫女がまとうもんや。すなわち月の巫女王が……」
「え…?」
クナは仰天して口をぽかんと開けた。
三色の神殿には、最高位の巫女がそれぞれいらっしゃる。
巫女王と呼ばれるその方々は、生涯きよらな貞潔を貫き、お仕えする神より神託をたまわるのを役目とする。婚姻により穢されぬゆえ、その神霊力のすさまじいことこの上ない。その予言はほぼほぼ必中と言われている。
「太陽の巫女王は聖朱衣を。星の巫女王は聖青衣を。そして月の巫女王は聖白衣をまとうんや。いずれも聖属性を帯びた、大変神霊力あらたかな衣や。あんさんがもってはるんはまさしく、白い聖衣。聖白衣の切れ端や」
本当にその衣は母親のものか?
聞かれたクナは呆然とうなずいた。
母親が死んだとき、姉のシズリは母の着物をおのがものにしたり売り払ったり。ずいぶん好き勝手したものだ。その中で唯一クナに渡されたのがこの衣の切れ端である。それは白いからと死に装束として母に着せられた。シズリはじょきりとそのすそを少し切り取り、クナに押しつけたのだ。
あのとき姉は、ずいぶん擦り切れ汚い衣だとぼやいていた。だいぶ着古したものらしく、たんすの奥にしまわれていたという……。
しかし九十九さまはきっぱり仰った。
「いや。それは決して、あんさんの母親のものではあらしまへん。竜蝶であるあんさんの母親は、竜蝶ですやろ。おそらくそれは月の巫女王から……飼い主から、得たものやろね」
飼い主?
なんとも異様な言い回しに、クナは首をかしげた。
「あの、りゅうちょうというのはいったい……まゆをつくるとかなんとか、シーロンさんがいってたんですけど……」
「ほんまにあんさんは、なんも知らんのやなぁ」
クナは呆れられ、深いため息をつかれ。ぴしゃり厳しく、突き放された。
「知りたかったら、そこらへんのものに訊いたらよろしいわ。でもまあとにかく風呂に入り。あんさん、えらい臭いで」
頭下げるクナに、九十九さまは楚々と踵を返された。
出がけにずずっと、重い鉄錦を鳴らしながら。
「そこらへんのもの……」
クナはふらと部屋を探った。ぺたたと床に手をついて這い、卓を探る。
幸い、鏡は無事にまだ、そこにあった。
「あの……」
胸がざわつく。ひどく嫌な事がわかりそうな予感がする。なれど、これは知らねばならないという気がした。おのれのこと。そして母のことを。今ここではっきりと。
ごくり息を飲み、クナはためらいながらも訊ねた。半ば、覚悟を決めて。
「かがみさん、おしえてください。りゅうちょうって……なんですか?」