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黒の舞師 ~身代わり巫女は月夜に舞う~  作者: 深海
六の巻 不死の皇帝
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13話 虹色の龍

 燃えるような赤。鮮やかな橙。

 まぶしい黄色。冷めゆく萌黄。

 透き通った緑。さやかな蒼。それから、神々しい紫――

 巨大な虹は、ルデルフェリオとクナの周囲を取り囲んだ。それは恐ろしい轟音を放ちながら、クナのすぐ目の前、すなわち巨人の真下に長く伸びていき、丈の高いとぐろを巻いた。おかげでクナは、巨人の下に細長く高い物が建っていることに気づいた。それこそは、ルデルフェリオが言っていた、うるわしの塔なのだろう。

 ごうごうどうどう。虹から放たれている音は、咆哮なのだろうか?

 クナたちを護る鳥の御霊が、苦しげに鳴いている。クナを(いざな)う少年は、鳥が砕かれないよう虹から少し離れた。


「始龍天尊! おい、シーロン!」


 少年はしきりにタケリを呼んだ。未熟なクナとは違って、少年はまるで受肉しているかのように、この世界で声を発することができた。なれども巨大な虹は反応せず、塔を締め上げて吠え猛った。びりびりと放たれる波動が、クナたちを激しく揺らした。まるで地を跳ねる鞠のように、少年とクナは上下に弾んだ。


(雄叫びが凄いですっ。そのせいで、こっちの声が聞こえないんじゃ?)

「いや、あいつは僕らに気づいている。塔にとりつく直前、こっちを睨んできた。たぶん僕らのことは、小バエ程度にしか思ってないのさ」


 少年は、巻き付く虹を見下ろす巨人に向かって叫んだ。


「エリュシオン様! お願いします!」


 とたんに、七色のとぐろが震えた。きゅるきゅるこうこう、巨人から異様な音が放たれて、巨大な虹を鋭く刺したのだ。虹の轟音も、巨人が降らせた鋭い音も、おそらくは上位霊体たちの「声」なのだろう。 ルデルフェリオには、それはちゃんとした言葉として聞こえているらしい。だが魂が未熟なクナには、あたりのものが全然見えないのと同様、言葉としてはまったく耳に入ってこなかった。


(ふたりは、怒鳴り合ってるんですか?」

「いや、エリュシオン様は余裕で笑ってる。蛇よ落ち着けって言ってる。タケリの方は、ぎゃあぎゃあ騒いでる。自分は蛇じゃない、我の世界玉を返せと怒鳴り返してるよ。あ……エリュシオン様が今、タケリを指で弾いた」


 巨大な虹が突然、とぐろを崩した。塔から落とされたのだ。虹は眼下で大きな輪を成し、ごうごう吠えながら高速で回り始めた。


「エリュシオン様は、塔のてっぺんで僕らの世界を手のひらに乗せながら、タケリに言っている。僕らと会話しろとね」

(あたしたちのために、タケリ様と話してくださるなんて。エリュシオン様は、とても親切な方なんですね)

「いや、これは正当なる対価によって成されたことだ。僕はかつて、エリュシオンに大いなる喜びと力を与えた。だから彼は、僕に協力してくれているんだよ」


 神託の石版を作ったのは僕だと言っただろうと、ルデルフェリオはふふんと胸を張った。

 石版の試作品を作り、初めにこの上位世界へ至った時、少年は束の間、エリュシオンに会うことが叶った。まだ未熟であった魂はすぐに砕け散りそうになったが、少年が黒の導師であることを見て取ったエリュシオンが、手を差し伸べてきて助けてくれたという。


「そのときエリュシオンは僕が作った石版のことを知り、黒の導師たちにたびたび、神託を授けてくれるようになった。エリュシオンもまた、大いなる恩恵を受けた。愛する導師たちに頼られ、崇められることによって、ますます、この世界で霊位を高めることができたんだ」

(崇められると、霊位が上がる?)

「うん。愛し敬い、信じる人の思い。信仰は、神たる者を大いに強くする。でも、この世界に在る者たちのほとんどは、下の世界に干渉して、信者を増やそうとは思わない。下の世界に固執して弄り続けたら、霊位が下がってしまうからね」

(下がる……それって、元の世界に戻っちゃうってことですか?)

「うん。干渉した世界に引きずられて、墜ちてしまうんだ。だからこの世界の者たちにとって、下界から信仰の力を得ることは、とても難しいことなんだけど。それを可能にしたもんだから、僕はエリュシオンにとっては大恩人なんだよ」


 久方ぶりに「恩人」であるルデルフェリオが訪れたので、エリュシオンは歓喜の渦中にあるそうだ。そのかんばせは、喜びのせいで太陽のように輝いているという。

 残念なことに、クナにはかろうじて巨人の輪郭が見えるだけだった。たぶんどんなに近づいたとしても、未熟な魂には見ることができないのだろう。

 虹の輪がせり上がってきた。偉大なエリュシオンのおかげで、タケリはクナたちと話してくれる気になったようだ。いきなり七色の光が眼前に迫ってきたので、クナたちの周囲を巡る鳥の御霊に、ばきばきと亀裂が走る。ルデルフェリオは舌打ちして、急いで虹から距離を取った。


「おい、シーロン! 僕らの世界への干渉を止めてくれ!」


 エリュシオンを味方につけているルデルフェリオは、怯まなかった。この世界では実にちっぽけな存在であるにもかかわらず、彼は堂々と虹に向かって叫んだ。

 

「矮小なる世界を弄って、何がそんなに楽しいんだ? まことおまえが、高尚な上位の存在であるならば、小さな世界をいたぶるなど、考えもしないだろうに!」


 ごうっと、虹が吠えた。鳥が悲鳴を上げる。だめだ。もう羽根がひび割れて、今にも砕けそうだ。

 

「は? なんだと? 墜ちてもかまわない? ごめん、もう少し静かな声で話してくれ、シーロン。あんたの声は、大きすぎる!」


 鳥の翼が片方、木っ端微塵に砕け散った。きゅるきゅると奇妙な音を立てて、クナの周囲を巡る砕けた鳥の魂の欠片が、恐ろしい速さで回り出す。ルデルフェリオはクナを護るべく、抱き寄せてきた。ついに自分で結界を張り始めたらしい。きらめく砂のような円環が、軋んだ音を立てて光りだした。そのむこうから、ごろごろと雷のごとき声が聞こえてくる。タケリはようやく、声を低くしてくれたようだ。クナの耳にやっと、言葉が入って来た。


『小さな世界の小さな御魂たちよ。我は偉大なる竜蝶の女王、すなわち我が主人であったアリステルを失ったのち、悟りを開き、天に昇った。だが人間たちは、我の骸から魂の残滓をかき集め、新しき魂を練り上げて吹き込んだ。神々しきシーロン。そして、禍々しきシーロン。人に造られた二つの魂が、我を絶えず喚んでいる。我を、この天から堕とそうとしている』 


 美しいアリステル!

 雷のような声が、あたりの空気を裂いた。残っていた鳥の翼が完全に砕けて、守護の鳥たちはついに一羽もいなくなった。ルデルフェリオが短く韻律を唱える。するとたちまち、きらめく流砂の範囲がぐっと狭まり、その粒がクナを覆うように貼り付いてきた。


『アリステル……有栖照(アリステル)……そは、懐かしき我が主人。我が残滓より生まれた二人のシーロンは、永いこと彼女を探していた。

アリステルこそは、偉大なる竜蝶の王。

紫の四の星より大陸に降り来たりて、大陸全土を一千年治めし者。

上の世界へ逝く事を拒み、運命の伴侶に出会うがために、永遠に輪廻することを望んだ者。

残念ながら、アリステルが求めた伴侶は、この我ではなかった。

ゆえに我は、あの女王をつがいとすることを諦めた。

我が魂はあらゆる感情を捨て去った。それゆえに、我はこの世界へ至れたのだ。

だが……

愛しき主人を失って、万に届こうかという年月を経たのち。二人のシーロンは、アリステルを再び見いだしたのだ。かつてアリステルであり、同時に、アリステルを継ぐ者として生まれた者を。自分自身とレイスレイリ、そしてアイテリオンの血に連なりて、かの王は再び大陸に顕現した。

その人は、かつての彼女ではない。輪廻しているがために、アリステルの記憶はもはや一片のかけらもない。だが。その魂の色は、まったく変わっていなかった。うるわしき菫色の御霊。至高なる天の色を成すうるわしの魂。懐かしき輝き。

それゆえに。我は、そなたらの小さな世界に、吸い寄せられた』


大いなる虹が、クナたちの周りを囲み、渦巻き始めた。

赤。橙。黄色。萌黄。緑。蒼。紫。七色の光が、ごうごうと渦の柱を作っていく。クナはルデルフェリオにしがみつきながら、まばゆい光の洪水に耐えた。

まぶしい光はとても重かった。全身がぺしゃんこにされそうなほどで、クナは潰されまいと歯を食いしばった。


『アリステルを見つけた二人のシーロンは歓喜に躍り、嬉々として、アリステルに仕えた。

竜蝶の帝。偉大なる陛下(ビーシャ)。ナス・ティリスの子、フンミーに』

(竜蝶の帝が、アリステルの生まれ変わりだったんですか?)

『そうだ。それゆえに、フンミーが斃れそうになるたび、我は手を出してしまった。皇帝の座を追われた時も。大スメルニアに封じられたときも。必ず復活するようにと、神の一手を施した。かくて今、かの大陸に、フンミーと二人のシーロンは共に在る。我が望んだ通りに』

 

 雷の声がごうと嘆いた。


『我は悟りを開いたはずであった。

 我は、アリステルの伴侶となることを諦めたはずであった。

 喜びも悲しみも感じぬよう、感情を捨て去ったはずであった。

 だが、我が残滓が喜びに打ち騒ぐうち、我が魂は思い出したのだ。

 アリステルと共に生きた千年の平和を。幸せに満ちた、あの生を。

 あれをもう一度味わえるのなら。我は……』


虹の輝きが濃くなっていく。透けていた光の色がどんどん輝きを失っていく。

雷の声が、大人しく静かな声に変わってきた。まだあたりに響き渡るほど大きいけれど、これは囁きであろうと、察せるほどのものに。


『我は、この世界から墜ちてもかまわない。そう思ってしまったのだ。フンミーの望みは、我の望み。人の世を滅ぼし、竜蝶の世を蘇らせることこそ、わが悲願』

(そんな……どうか人を滅ぼすのは、止めて下さい!)


 虹の色合いが混然としてきた。もはや輝きはすっかり失せて、七つの色はどぎつく、べたな色になっている。しかもくっきりと長く太い巨体の輪郭が浮かび上がってきた。

 蛇――いや、背中に翼がある。クナの目にしかと、大きな龍の姿が映し出されてきた。龍の体から色鮮やかな虹色が急激に失せ、ぎらぎらと黄金色一色になっていく。固そうな鱗一枚一枚がびっしりと美しく連なっているのも見えてきた。

 それは龍生殿で見た、神々しいタケリと瓜二つ。

 今やあのミカヅチノタケリそのものの姿が、クナの真ん前に顕現していた。


『そなたはそう望むのか。菫色の魂を持つ者よ』


 神々しい龍は哀しげにクナを見つめてきた。


『そなたがそう望むのなら、我はフンミーを止めることにやぶさかでは無い。なぜならそなたもまた、我が主人。アリステルであるからだ』

(えっ……?!)

『愛しいメシコ』

 

 呼びかけがまっすぐ自分を穿ってきたので、クナは驚いた。メシコとは、まごうことなく自分のことだ。だが、クナがアリステルであるというのは一体どういうことなのだろう。


『何千年も生きたアリステルの魂の霊位は、神と同等のものになった。そのままでは上の世界へ引き寄せられてしまうため、アリステルは自身をわざと、ふたつに分けた。そうして二つの魂は幾度か輪廻を繰り返し、今はフンミーとメシコとして、この世に生まれ落ちている。メシコよ、だからこそ、二人のシーロンはそなたを龍生殿に囲ったのだ。ただの竜蝶ではなかったゆえに』

(あたしと竜蝶の帝は……かつて、同じ魂……一人の竜蝶、だった?)


自分の前世はレクリアル。そう認識するのすら恐ろしく時間がかかったのに、さらなる過去世を告げられるなんて。

  

(信じられ……ないわ……!)


 たじろぐクナを抱く少年が、ああ、そうなのかとくつくつ笑い出した。


「アリステル。レイスレイリ。そしてアイテリオンの血に連なる者。君の前世であるレクリアルは、かく謳われる竜蝶の王統、すなわちアリステルの直系の子孫だった。もしかして、今の君もそうなんじゃないか?」

(今のあたしは、竜蝶の帝の孫にあたります)

「なるほどね。竜蝶の帝はナス家の血統だけど、それはレクリアルの実父、アイテリオンを祖としている。すなわち帝もアリステルの直系だ」

(ただ、子孫っていうだけじゃ……)

「ないね。竜蝶は竜蝶以外のものに生まれ変わることは、ほぼ無いらしいよ。しかも、自分の子孫や末裔として生まれ変わる確率が高いって、アイダ先生が言ってたな。人間に生まれ変わるには、特殊な術式が必要になるほどだって」


 自分が望めば、まことのタケリは竜蝶の帝を止めてくれる? 本当に?

 この龍は竜蝶の帝のために、たびたび神の一手を打ってきたという。同じアリステルの生まれ変わりだというクナのためにも、そうしてくれる気があるという。だが―― 


『我の感情は、フンミーによって喚起され蘇った。それでも我は、下界へは墜ちたくないと抗っていたのだが、その努力は無に帰した。そなたが、下界のシーロンの前に現れたゆえに。愛しいメシコ。帝は我に約束したぞ。竜蝶の国を打ち立てた暁には、永遠に、我が伴侶となってくれることを』

(帝は、竜蝶の国を作ろうとしているんですね)

 

 青ざめるクナに、黄金の龍はごうごうと控えめな音を出した。どうやら笑い声を立てたらしい。その長い髭が生えている巨大な顔に在る双眸が、糸のように細くなった。


『そなたには無理であろうな。我の伴侶となるのは』

(う……)

 待ってくれと、結界でクナを護るルデルフェリオが、慌てて口を挟んだ。

 

「スミコちゃんがあんたに望んだら、帝を止めてくれるって話。つまりそれには代償が要るってことだな? 竜蝶の帝が提示した以上のものを、あんたにあげないといけないんだな? スミコちゃんがあんたの伴侶になる。それだけじゃなくて、何かおまけをつけないとだめってことだな?」

(ルデルフェリオさん、それは……!)


 たじろぐクナのまん前で、黄金の龍がゆっくりうなずいた。いかにもそうだと。

 

「よし、じゃあ迷うことはないね。答えは明白だ。すめらを救いたいなら、大人しくこいつのものになるしかないってわけだよ、スミコちゃん」

(ま、待って下さい。あたしには、良人(おっと)がいます)

「そうだけどさ。ここはひとつ、離婚とかっていうものをして――」

(絶対しませんっ!)

「あとついでに、おまけとしては、竜蝶の帝をつけよう!」

『なんだと?』


 少年はそうだよそれがいいと、くつくつ笑い出した。


「シーロン、スミコちゃんのために、竜蝶の帝を打ち負かしてくれ。そうしてくれたらスミコちゃんは帝を吸収し、完全なるアリステルに戻るだろう。そうして君の、永遠の伴侶となるだろう」

『完全なるアリステル……だと?』


 細くなっていた龍の双眸が、大きく見開かれた。


『ひとつに戻れば、昇天してしまうのではないか?』

「大丈夫。君も喰われて、スミコちゃんと一体となればいいさ。もはやすっかり堕天しちゃったみたいだけど、アリステルと永遠に一緒になって、またここに戻ってくればいい」

(る、ルデルフェリオさん! あたし、他の人を吸収することなんかできませ――)

「できるよ。君じゃなくて、帝の中にいる黒獅子がその能力を持っている。魂を喰らって一体化する神獣の力を使えばいいんだ」

(でもあたしは……!)

 

 何かを成すためには、その対価が必要だ――ルデルフェリオはすっと眼を細めて冷たく言い放った。


「まさかタケリを、無償で働かせるつもりじゃないだろうね? アリステルである竜蝶の帝が、自分が伴侶になるって言ってる以上、僕らは完全なるアリステルを差し出すしかないんだ」


 それは、そうだけれど……

 せっかく大人になれたのに。黒髪様の子を産んで、ずっと幸せに暮らせる未来が来ると、信じていたのに。すめらを救うために、竜蝶の帝と同化して、タケリの伴侶となる? 

 それは……

 それは……


「竜蝶の帝を倒したいなら、そうするしかないよ。スミコちゃん。だから……」


 少年はぐっとクナを抱きしめ、宥めるように背中をとんとん叩いてきた。


「決断してくれ」


 



 ようやく得られた幸せを全部捨てて、龍の花嫁になる?

 竜蝶の帝が復活したのは、自分が死んで、影の子が暴走したせいだ。宮処(みやこ)は破壊され、多くの人々が家を追われた。クナは、その始末をつけなければならない。

竜蝶の帝は、どうあっても封印し直さなければならいのだ。

 でもそのために、黒髪様と別れなければならないなんて。死別ではなく、彼の伴侶となることを、未来永劫諦めなければならないなんて。

 それは……

 それは……


(無理、です……できませ……)


 クナは震えた。それだけはできないと思った。黒髪様と、別れることだけは。

 命を差し出せと言われたら、迷いなくできるだろう。輪廻できれば、また黒髪様と会うことができる。そう信じられるから。

 でも、黒髪様ではない誰かの伴侶になることは。それだけは――


(できません……それだけは、できません……!)


『それでいいのかね、トリオンのレクルー』


 穏やかな声がクナを打ってきた。少年が言ったのではない。タケリでもない。クナには見えない塔のてっぺんにいるエリュシオンが、クナに語りかけてきたのだった。


『君の世界を見てごらん。君たちの言う竜蝶の帝が、大変なことをしているようだよ』


巨人の手から小さな黒い玉が離れて、こちらに飛んできた。近づいてくる玉を見たクナは、呆然と固まった。

 玉の中には、まっ白に輝く竜蝶の姿が映し出されていた。彼は愉悦に満ちた貌で、黄金の玉座に座している。その背後にいる真っ黒な巨体は、タケリだろうか。

 

(竜蝶の帝……!)


 玉座に座す帝の足下には、累々と真っ白な液体にまみれた人々が倒れていた。

 

(これは……血……だわ……竜蝶の、血……ここに倒れているのは……ああ……!)


 玉座に座す帝が、誰かの胸ぐらを掴んでいる。鳶色の髪の女。放せとひどくもがき、泣き叫んでいる。その声がかすかに、クナの耳に届いた。


――いやよ! 放して! 父さん! 兄さん! ああ、シガ! シガは、どこなの?! あたしの妹はここにはいないの?! どこに連れて行かれたの?!


(まさかこの人は……シズリ姉さんなの?! じゃあ、玉座の周りに倒れている人たちって……!) 

「ああ、これは大変だね。竜蝶の帝が同胞を喰らっているのかな」

 

 ルデルフェリオがため息をつきながら、玉を指さした。


「スミコちゃん、激しく震えてどうしたの? まさかこの竜蝶たち、君の知り合いかな? じゃあ、急いで助けなきゃ。喰らったばかりなら、捕食者の体内で消化されるまでには、若干の猶予があるから……」


 玉の中で、竜蝶の帝が竜蝶の女の首に歯を立てた。真っ白な血が、悲鳴をあげる女の首から流れ墜ちていく。


(ね……姉さん……!?)


 噛まれた女はたちまち、だらりと腕を下げ、全身の力を失い、意識を失った。


(魂を喰われた……ああ、同化している黒すけさんの力なのね。でもなぜ同胞を? なぜ竜蝶を喰らっているの?!)

「ユーグ州を破壊した光の塔のように、こいつもあまたの魂を喰らって成長しようとしてるんだろうけど。竜蝶は、人より格段に魔力が高いからだろうね」 

 

 竜蝶の帝の頭上に三つの玉が見える。朱。蒼。白。聖衣に宿っていた御霊だ。

 まだ帝に喰われずにいるのは、守護霊のような役割を果たしているからだろうか。


(助け……なきゃ……)

「そうだよ、スミコちゃん」


 呆然とつぶやくクナを、ルデルフェリオは明るい声で励ました。


「同胞を救えるのは君しかいない。さあ、タケリと約束するんだ。帝を倒してみんなを助けてもらう代わりに、君と帝を、タケリのものにするって」

(う……) 

 

 玉の中で、黄金の玉座が怪しくきらめく。帝の膝の上に倒れ込んだ竜蝶の女を、帝はぞんざいに押しのけ、竜蝶たちが折り重なる山に転がした。

 

――全く期待外れだ。有能なる魔法戦士が欲しかったのに、魔力供給以外に役に立たぬ劣化品とは。

(だめ)

――こやつらの体はもう要らぬものとなったな。細かく刻んで秘薬を作らせるか。

(だめ!)

――ぎゃあぎゃあ、わめいていた今の女。まずこいつから……

(やめて……!)


 タケリさま!

 クナはたまらず、叫んだ。

 約束します――そう言いかけたが、言葉に詰まった。

 嫌だ。約束したくない。でも。でも。今、決めなければ。帝のすぐそばに寝ているタケリ。それをすぐに起こせる人に、頼まなければ。あの女は。姉は、救えない――


(タケリ、さま……あたし、は、あなたの伴侶に……な……)


――『待て!!』


 そのとき。

 なんとか絞り出されたクナの声が、ごうっと巻き上がってきた声にかき消された。

 

『神託の石版より、偉大なるエリュシオンに願い奉る!』


(黒髪、さま……!)

 

 美しいその声は、クナをみるまに勇気づけた。どんなときもそうであったように、その声は今度もまた、力強くクナを励ました。


『どうか今すぐ、我が伴侶を、返していただきたい!』


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