12話 エリュシオン
結局のところルデルフェリオは渋々ながらも、「護衛」を連れていくことを了承した。黒髪様が目を細めて、もうひとつの氷結結界に居る少女の言葉を少年に伝えたからだ。
『私たち、どこかでずっと一緒に眠っていたいわ。私、眠いの。とても眠いの。何かを壊してしまう力なんていらない。義眼の中にあるものは、本当に恐ろしいんだもの』
エクステル。ルデルフェリオがそう呼ぶ少女は、結界の中でぶるぶる身震いしていた。
『お願い、黒の導師様。私はただ、ルデルフェリオと名乗っているあの人と、共に在るだけで十分なの。あなたたちのお願い事も、できれば受けてほしくないわ。上の世界へは、まだ義眼の中に残っている剣の魂に、行ってもらうのがいいと思うの』
ルデルフェリオも少女も、剣の中に後から入ってきた魂であり、剣の本体ともいうべき魂はまだ、義眼の中に残っているという。少女からさらに詳しく剣の中の様子を聞いた黒髪様は、ルデルフェリオが居る結界へと戻り、さらりと言い放ったのだった。
「もういい。お前には頼まない。我々は、義眼の中にまだ居る、聖剣の魂に望みを託すことにする。恐ろしい力を食らうために、おまえが聖剣の魂を無理やり眠らせて黙らせた……エクステルはそう言っている。しかしそろそろ、起きてくれるだろうからな」
『人聞きの悪いことを言うな。本体は光の塔を食らいまくってひどく消耗したんだ。だから少し休んでもらっているだけさ』
「おまえより本体の魂の方が古い。おまえより容易に、上の世界を渡れるだろう」
『僕で十分だよ、トリオン』
尊大でプライドの高いルデルフェリオは、黒髪様が本体と比較し始めると、たちどころにむきになった。
『いいよ分かったよ、鳥でもなんでも連れていってやるさ。おまえの望み通りにしてやるよ!』
かくて黒髪様は石板の中に、ルデルフェリオの魂を収めた。それから、鍾乳洞から連れてきた鱗鳥の魂を抜いて、それらも石板の中に封じた。
たちまち石板の中からうっとうしいだの鳴き声がうるさいだの、文句が響いてきたのだが、黒髪様はむろん、そんな愚痴にはまったくとりあわなかった。
鱗鳥は旧い原始の種であり、人以上に純度の高い魂を持つと言われている。もし上の世界で、大いなる存在たちに押し潰されそうになったら、鳥たちの魂を盾とするべし。黒髪様は石板の中のルデルフェリオにそう言い含めた。これはあくまでも、ルデルフェリオを守るための措置なのだということも今一度、淡々と付け加えた。
『ふん、ご丁寧に、鳥たちに隷属の刻印を施すとはね! 鳥たちの魂の中に禍々しい印がはっきり見えるよ。つまりこいつらはおまえの言うことしかきかない、哀れな奴隷にされたってわけだ』
動物虐待だというルデルフェリオの抗議を無視しながら、石板を抱える黒髪様は封印所から出た。
「ではさっそく、上の世界へ打ち上げる。ルデルフェリオよ、我々の世界への干渉を控えてもらうよう、第三のタケリを説得してきてくれ」
『説得ねえ。タケリと戦って勝って、あいつの主人になるのが一番いいように思えるけど』
「上の世界にいるタケリは、神と言ってよい存在だ。ねじ伏せることなど、常人にはできぬ」
『僕は、普通の存在じゃないんだけどな』
石板の中から挑発してくる少年に、黒髪様はきっぱり言い放った。
「いいや。おまえはまだ人間だ、ルデルフェリオ。かろうじてまだな」
クナ達が鍾乳洞を探索している間に、天の色は漆黒に変わっていた。
一行が地下の封印所から再び寺院へ戻り、中庭に出てみれば、さやかな瞬き様の光が、広大なる天を埋め尽くしていた。
回廊を渡り、壁画が一面描かれている広間から石階段を上がっていくまでに、クナと黒髪様は、花売りから実に不穏な情報を教えられた。
「龍蝶の帝が龍蝶たちを集めているだと?」
「あたしの村の人たちがみんな?」
「それだけではないようです。帝が公報で呼びかけたので、大陸各地から、どんどん龍蝶が集まっているようですよ」
「まさか、龍蝶だけの国を建てようというのか? かつてそれを試みた、最長老レヴェラトールのように?」
黒髪様の言葉に、クナはぞくりと背筋を冷たくした。
レヴェラトール。
レクリアルの師であったという、この寺院の最長老。その人は……
「龍蝶の国を作ろうとした……んですか?」
「うん。最長老レヴェラトールは、龍蝶と人間の混血だったからね。彼は今からちょうど百年前、レクリアルや死した弟子たちを利用して、この寺院に龍蝶が栄える理想郷を作ろうとしたんだ。その野望は、寺院を支配することを目論んだ黒き衣のセイリエンに邪魔され、レクリアルが師のもとから去ったことで完全に潰えたんだが……龍蝶の帝も最長老のように、種族的な野望に目覚めたのかもしれないね。大スメルニアが彼を封じて、龍蝶を虐げたせいで」
「大スメルニアが推し進めてきた、龍蝶への弾圧……それを知って、人間が憎くなってしまったということでしょうか」
「龍蝶の帝と合体した黒獅子は、龍蝶がどんな仕打ちを受けたか目のあたりにしている。君の死に恐ろしい怒りを見せたあれに、帝は少なからず影響を受けているはずだ。急いでタケリを味方につけよう。でないと、龍蝶対人という、嫌な構図の戦が始まってしまうかもしれない」
石階段を昇りきると、岩壁から巨大な岩が突き出しているところに出た。
先頭を行く黒髪様は、まるで舞台のようなその岩場に、しずしずと進み出た。
岩の幅は広く、間口を十ほど並べてなお余りあるほどであったが、長さはさほどではない。せいぜい十数歩ほどだ。
「途中からぼっきり折れているね。魔導帝国軍が、砕いてしまったんだろう」
黒髪様によれば、かつてここは、もっと奥行きのある広場であったそうだ。黒の導師たちが朝と晩に勢ぞろいして、〈風編み〉なるものを行っていた場所であるという。
「湖を一望できるここで、導師たちは声を合わせて歌い、魔力をひとつに練り合わせて、とても強力な結界を作っていた。舟を押し戻すほどの強風と深い霧が、この寺院をずっと守っていたんだよ」
花売りが、崩れた岩の先にランタンを向けた。崩れた岩の舞台はほんのり傾斜していて、煌々と輝く月女様へと昇っていく道のように見えた。
「なんてきれいな月!」
「本当、見事な満月だわ」
月の白さに感嘆するクナとモエギのそばで、黒髪様は白い砂を使って魔法陣を描き始めた。袋にいっぱいの砂は、寺院の倉庫に運良く残っていたものだ。導師たちが修行や技を行使する時に使う聖砂で、手に取り、少しずつ地面に落として特殊な印や紋様を描いていくという。
さらさらと手際よく、円や聖なる文字を砂で描いた黒髪様は、出来上がった魔法陣の中央に神託の石板をそっと置いた。
星が一面輝く空の下。クナは鳥たちを捕らえた時と同じく、舞って欲しいと黒髪様に乞われた。
「風の渦を作ってくれ。石板の中の魂を天上へ巻き上げる、強い風を起こしてほしい」
クナはさっそく鏡を取り出し、鏡姫がかもす祝詞の歌声を伴奏にして、魔法陣の前でくるくる舞い始めた。たちまちあたりに大いなる気配が降りてきて、砂の円を覆い尽くした。
不思議なことに、白い砂の文様は巻き起こる風にびくともしなかった。聖なる文字がほんのり光を帯びて、宵闇の中で燦々と煌いている。
(不思議な砂だわ。少しも舞い上がらない。黒髪様の魔力で固まっているの?)
魔法陣の中央にいる黒髪様は、石板に手を当て、韻律を唱え始めた。それはいつしか鏡姫の歌に合わさり、りんりんとさやかな和合をあたりに打ち放った。
クナの体はまだ鈍っていて、始めは思うように速度が出なかったけれど、ほどなく見事な渦を成した。
渦柱が、みるみる星空へ舞い上がっていく。鏡姫と黒髪様の歌声を混ぜ合わせて、天の高みへと巻き上げていく。目で捉えることのできない力のうねりがじんじんと、クナの頬を打ってきた。
(昇る。昇る。舞い上がる……!)
凄い風だと、魔法陣を遠巻きに眺める花売りとモエギが息を呑む。
クナの足は徐々に岩に触れなくなり、ついには自身が創り出した渦に押し上げられて、ふわりと浮き上がった。
おそろしい勢いで引っ張られるような。渦に絞られて、自身の背がどんどん伸びていくような。そんな感覚が襲ってきた。
クナは思わず、手を天へ伸ばした。
なんて美しい星々だろう。指先に、星の輝きが触れそうだ。
もう少し。もう少し手を伸ばせば。
(ああ、届くわ……!)
きらぼし しゃらしゃら しろがねぼし
ゆれるまたたき あめのほし
自分の目に映るものをうっとり眺めあげながら、クナはつぶやいた。鏡姫と黒髪様の和合に合わせながら。
『しろがね……!』
どこか遠くで、鏡姫の呼び声が聞こえた気がした。
はるか遠くで……
きらぼししゃらしゃら……
空が――輝いている。
クナはぼうっと天を見上げた。
星が……輝いているのではない。瞬き様であるはずの無数の〈点〉。それがなぜか黒ずみ、漆黒であった天がましろになっている。
なぜか、夜空が反転している……
ゆれるまたたき あめのほ……し?
『星じゃないよ。あの黒い粒粒の一つ一つが、世界なんだ』
(えっ……?!)
ハッと我に返ったクナは、自分の腕が誰かに掴まれているのに気付いた。
うっすら色味を帯びた少年が、クナをぐいぐい、異様な色合いの天へと引っ張っている。
自分の腕も少年の手も透けているので、クナはおろおろたじろいだ。
(どうして?! あの黒い点が、世界?! じゃあ、ここは?!)
『はは、ついうっかり、連れてきちゃった』
クナを掴む少年が、カラカラと快活に笑ってきた。
(ルデルフェリオ?!)
『上の世界を目指して勢いよく石板から飛び立ったら、石板の上でふわふわ浮遊してる君にぶつかったんだよね。思わず掴んだら、するりと君の魂が抜けちゃったのさ』
クナの魂は抜けやすい。いとも簡単に体から離れてしまう。石板から出た少年は、体からこぼれたクナを故意に掴んで、強引に連れてきてしまったらしい。
(は、放してください!)
笑い声が返ってくる。もう遅い、上の世界へ入ってしまったと、少年はにやりとしてきた。
少年の手を振りほどこうとするも、無理だった。魂だけの時は、少し念じただけでどこにでも疾く飛んでいけたのに、なぜか念じても飛べない。この異様な天の世界は、とても重いのだろうか。
鱗鳥たちの御魂がくるくるとクナ達の周りを飛びまわっている。喧々煌々不思議な鳴き声を立てながら、せわしなく旋回する鳥たちの翼は、クナと同じく透き通っている。白い天の光を浴びるその体は、うっすら白く光っていた。
(あたし、あたしがいた世界に戻ります! 腕を放して!)
『はは、ごめんごめん。ああでも、すんなりとは帰れないと思うよ。この鳥たちを、一緒に連れて行かないと危険だろうね』
少年が言ったとたん、そばを巡る鱗鳥の一羽にびしりと、亀裂が入った。喉が締まるような甲高い悲鳴があがる。
(鳥さんが!)
『この次元は高濃度で隙間がないから、未熟な魂は、下手したら木っ端みじんに砕かれる。鳥をまとっていかないと、君はたちまち、散り散りになるだろうね。ふふっ、大丈夫さ、僕は鳥がいなくてもこの世界に耐えられるから。遠慮しないで、鳥たちと一緒に帰るといい』
(う……でも、鳥たちを連れて帰ったら……)
鳥たちはルデルフェリオのお目付け役として必要なものだ。腹に一物ありそうな彼のそばから外すことはできない。なんとか独りで帰らなければと、クナは慌てて自身でも結界を張ろうとした。だがまったく、思うようにいかなかった。
『無理だよ。君の魂は若いから、ここでは何もできない。鳥たちの結界の中で存在するのが、精いっぱいなのさ。だから鳥をまとって、早く下の世界に――』
(だめです! 鳥たちを連れていくのは)
たぶんこの鍛冶師は、わざとクナを連れてきたのだ。鳥たちを追い払うために。そうはさせるものかと、クナは少年を睨みつけた。
(あ、あたし、一緒にいます。あなたがタケリ様と話して、下の世界に帰るまで)
『勇敢だなあ。まあいいよ。じゃあ一緒に旅を楽しもう。ははは、それにしても、君を引っ張り上げた時の黒髪の顔、最高だったな。君は風にあげられて恍惚としちゃって、覚えてないだろうけど。あいつ、この世の終わりを迎えたかのように、今にも死にそうな顔をしてたよ』
でもあの黒髪はどうしたって君を助けには来れないんだと、透けているルデルフェリオは嘲るように言った。
『あいつは龍蝶の力で不老不死の魔人になった。魔人化はこの世で最も恐ろしい呪いだ。不死の体から永遠に魂が離れなくなる。つまりどんなに時を経て、魂が上の世界にこそふさわしいものになろうとも、永遠に下の世界から出ることは叶わないんだ』
(呪い……)
『龍蝶っていうのは、本当に残酷な生き物だと思うよ。自分の守護者を造るために、そんな空恐ろしい呪いをかけるんだからね』
魔人を魔人ではないものにする方法は、この世に存在しないらしい。どうしても殺すことのできない者は、強引に封印して眠らせるしかない。魔人の活動を停止させる方法は、それ以外にはないという。
『聞けば、龍蝶の帝も魔人になったそうじゃないか。哀れだね。蘇生のためにやむなく魔人にされた黒髪はともかく、龍蝶の帝は自ら望んで魔人になったそうだけど。愚かだなあ。下の世界なんて、上の世界の者たちが気まぐれに遊ぶ、ゲームの盤上に過ぎないのに』
反転している空の中を、クナを掴んでいるルデルフェリオはぐんぐん飛んで行った。
クナとは違って彼の魂はそれなりに年季を積んでいる。だから自在に韻律を使えるようだ。
しかし一体、どこをどう飛んでいるのか。見下ろせば、果てのないまっしろな平野が広がっている。見たところ、何も生えていない。何もないように見える。しかし年老いた少年には、別のものがしっかり見えているようだった。
『うわあ、なんて見事な塔! 虹の都だ。浮遊橋がたくさん浮かんでる』
どこにそんなものが? 未熟なクナには、そんなものは少しも見えなかった。
ただ、平野のただ中を、悠然と泳いでいくものいるのが、うっすらと分かった。それはまるで巨大な魚のような虹色の物体で、うねりながら泳いでいた。クナ達ははるか高みにいるというのに、その物体はまったく小さく見えなくて、実に幅広で大きかった。
(あれは)
『う? ああ、橋の上を通っているあれ? 上位霊体だよ。下の世界を覗いて遊んでいる神々さ』
ルデルフェリオが複数形で言った通り、虹色の物体はひとつだけではなかった。
輝く魚のようなものは、もっといた。どれも巨大で、ゆらゆらゆっくり、気まぐれに動いている。
『塔のてっぺんにエリュシオンがいる。黒の導師の中で最も偉大な人。導師の中の導師。石板は彼に繋がるものだから、射出された者は、彼の近くに飛ばされるんだよね』
少年は平野の右手を指さした。そこには、ぐるぐる渦巻く風をまとう巨人……のような、輝くものが居た。平野に膝を抱えて座っている彼は、じっと反転の空を見上げている。
その瞳は天照らし様のようにまばゆくて、クナは大いなる熱を感じた。
『ミカヅチノタケリの上位霊体はどこか、エリュシオンに聞いてみよう』
鳥たちをまとう少年は、クナを引っ張り右手に飛んだ。
渦巻く風を帯びた者が、つよい視線で射貫いてくる。
ああ、焼かれてしまう――
じりじりと、おそろしい灼熱がクナを包んだ。恐ろしい悲鳴があがり、鳥が一羽、砕けた。さっき体に亀裂が入った鳥だった。それは砂のように細かく微塵のきらめきとなり、それでも他の二羽とともにぐるぐるクナ達の周囲を巡った。
『あは。エリュシオンの神気で一羽吹っ飛んだ。近づきすぎたかな』
今ならまだ遅くない。鳥がまだいるうちに、下の世界にもどるといい。
少年はそううそぶいてきたが、クナは大いなる熱に耐えながら、彼の提案を拒否した。
『頑固だなあ。どうなっても知らないよ?』
ごおうごおう。渦をまとう巨人から、凄まじい音が響いてくる。どうやら話しかけられているらしい。少年がごきげんようとか、はいそうですとか、利発にその音に反応するそばで、クナはひたすらまばゆい灼熱に耐えた。
『そうですか。どうもありがとうございます。〈大いなる海〉ですか。それはずいぶん遠い所に……』
ごおう。巨人がひときわ大きな音を立てた時、鳥がもう一羽砕けた。この鳥の魂の粒もまた、クナたちを守ることをあきらめず、最後の一羽と同じくぐるぐる周囲を回りだした。
『ふふ。あと一羽しかいなくなったね。最後のが砕けたら、君の魂はあっという間に――』
(あなたは、最後の一羽を殺さないわ。ルデルフェリオ)
灼熱にふうふう言いながら、クナは少年にゆっくり言った。
(もしあたしが砕け散ったら、黒髪様は決してあなたに、エクステルさんを返さない)
『……そうだね。きっとそうだ。黒髪が伴侶を失ったら、僕も伴侶を失うんだろうな』
くすくす笑いが止まった。うっすら色味を帯びた少年の顔が、きりっと真顔になる。
『分かったよ。真面目になるさ。僕は、根は善人だからね。アイダ先生に、人に優しくしなさいって、何度も教えられた。だから僕はちゃんと、そうできる』
ぎゅんと、少年は素早く飛んで、渦をまとうエリュシオンから離れた。
『ミカヅチノタケリ。下界でそう呼ばれている龍は、海にいるそうだよ。虹の都のはるか向こう。百万の山を越えた先。僕らが住んでいる銀河よりも広い、玻璃の海に』
熱が退いてホッとしたクナを、少年はまたぞろ引っ張り、ものすごい勢いで飛び始めた。
『普通なら、僕らが玻璃の海まで到達するまでに、何百年もかかってしまうところだけど。エリュシオンのおかげで問題なしだ。この人は、時間を操れるからね』
(時間を?)
『僕らの世界の時間を速く進めたり、ゆっくり流れるようにしたり。そんなことができるんだよ。もうひとつ上の世界の住人だと、止めたり、巻き戻したりできるみたいだけど』
(え……も、もうひとつ上?)
『そう。この世界は、神になりたての者が住まうところでね。さらに上の世界には、神になって何千年も経った者が住んでいる。エリュシオンはもうじき、一つ上に行けるらしい。僕らが下の世界に帰るまで、僕らの世界の時間を、かなりゆっくり流れるようにしてくれるってさ』
(そんなことができるなんて……)
『エリュシオン曰く、下界を弄る輩は、ごくごく少ないそうだ。下界に干渉するのは、暇つぶし以外の何物でもないんだってさ。でも第三のタケリはここに来たばかりで、かなり荒ぶってるらしい。新米だから、まだ時間を操ることはできなくて、お気に入りの駒を動かすのに夢中になってるらしいよ』
(駒……)
『僕らはここでしばし待っているだけでいい。エリュシオンが、タケリのオモチャをここに引き寄せる。だからタケリも、ここにやって来る。虹の都の、うるわしの塔に』
クナは何もない真っ白な平野を見渡した。建物は一つも見えない。塔なんてどこにもない。
魂が熟せば、見えるようになるのだろうか。
『タケリが来るまで、最後の一羽が持つといいね、スミコちゃん。まあ、たとえ最後の鳥が砕けても……』
白。
白。
白。
果てのない無の大地を、少年は鳥のように舞い跳んだ。クナの腕をしっかと掴んで、ゆっくりくるくると。
『……うん、守ってあげるよ。できるだけね。君が砕けないように気を付ける』
ああ、なんてきれいな山並みだろうと、少年は感嘆のため息をついた。
何も見えないクナは振り落とされまいと、少年の腕を掴み返した。
渦をまとう人が、天に手を差し伸べる。すると、天に瞬く黒い玉のひとつがすうっと落ちてきて、巨人の手に収まった。
『ふふ、僕らの世界がエリュシオンの手に落ちた。オモチャを取られたタケリが怒ってやって来るぞ。どのぐらいでやって来るかな』
(お、怒らせたら、説得しにくいんじゃないですか?)
『エリュシオンが鎮めてくれるよ。ていうか、いっそのこと、エリュシオンにタケリを滅ぼしてほしいんだけど。それはさすがにしてくれないだろうな。代償無しではね』
ほどなく、夜になったと少年は時の移ろいを教えてくれたけれど、クナにはまったく、天の様子も下の様子も変わり映えしなかった。
体感で数刻経ったころであろうか。
『ああ、来たよ』
ルデルフェリオが白い空の彼方を指さした。何かがこちらに広がってくる。長くたなびくものが、近づいてくる。
それは――とてつもなく長い、七色の虹だった。
(なんて……きれいな……!)
『あは! やっぱり怒り心頭だ!』
少年は笑いながら、龍の名を呼んだ。
『シーロン!』
と同時に、あたりに轟音が響き渡った。それは虹の中からごうごうと放たれて、クナを撃った。
まるで、空を裂く雷のように。