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黒の舞師 ~身代わり巫女は月夜に舞う~  作者: 深海
六の巻 不死の皇帝
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10話 ルデルフェリオ

 こくりとうなずいて微笑んだクナは、そっと寝台に押し倒された。

 白い手と大きな手がそっと合わさる。

 一本一本ゆっくりと、黒髪様と自分の指がからみ合っていく。

 クナはじっと、二人の手を見つめていた。黒髪様の蒼い双眸には、顔を真っ赤にした自分が映っているはずで、クナはそれを見るのが恥ずかしくて、黒髪様の顔を見ることができなかった。

 黒髪様はクナの顎に手を当ててきて、自分の方を向かせた。鼻と鼻の先をゆっくり触れ合わせたあと、彼はクナの唇を、優しくついばんできた。

優しく確かめてくるような口づけで、唇が重なるたび、クナの胸は動悸が高まっていった。


「ふぁ……」


 口づけが徐々に長くなる。息ができなくなるぐらい。熱いものがクナの舌を求めて口の中に入って来たので、クナはびくりと身を震わせ、まぶたを閉じた。

  

(溶けちゃう)


 クナの口を口づけで塞ぎながら、黒髪様は袴の帯を解いてきた。目じりを湿らせながら、クナは愛してくる人のなすがままにされた。


(溶けちゃう……)

 




 北の果ての寺院へ行き着くには、黒髪様の予想通り三日かかった。

 客船仕様ではないと妖精たちは言っていたけれど、船はほとんど揺れず、気圧のせいで耳が痛くなることもなく、まるで動かぬ大地に建っている家に居るように感じた。

 ロビーのソファはふかふか。食堂の椅子もビロード貼りで柔らかく、とても貨物船とは思えない内装だった。

 食事は妖精たちのお手製で、焼きたてのパンが特に美味しかった。林檎が出されたので、クナは大喜びした。

 博識な妖精たちとの会話。花売りが打ち明けてくれた、今後の事業計画。それから、音楽。

 ロビーへ行くと常に、妖精たちの誰かが横笛やヴァイオリンを奏でて歌っていた。

 クナは歌に合わせて舞の稽古をしてみた。鏡の中で舞った感覚を思い出しながら、ちゃんと舞えるかどうかと確認しつつ、体を動かした。案の定、新しい体は思った以上に鈍っていて、花音(かのん)を繰り出すのに四苦八苦。これではまずいと青ざめた。


「練習しなきゃ。今のままじゃ、飛天なんてとても無理だわ」


 船には広めの沐浴室があり、クナは連日、稽古でひとしきり汗をかいたあと、そこで心地よい湯に浸かることができた。

 鏡姫の講義を聞いたり、瞑想したり。巫女修行も始めたけれど。黒髪様とひとつの寝台で眠る夜は、とても甘やかだった。

 連夜、クナは黒髪様に溶かされた。

 良人たる人は固まったばかりの体をずいぶん気遣ってくれたが、夜の間クナはずっと、黒髪様の腕の中。片時も離してもらえなかった。


「鏡姫さま、おはようございます」

『ふあ、おはよう。さてもまた、朝が来たな』


 朝になるとクナは、鏡を袋から出して卓に乗せ、自分が映る鏡を見ながら髪を編んだ。

 黒髪様にほどかれた髪を三つ編みに直すのだが、鏡姫はくすくす笑って、からかってきた。

 

『おしろいを首に塗りこめたほうがよいぞ。口づけの跡が付いておる』

「え! ど、どこですか?」


 顔をかーっと赤らめるクナを映す鏡は、ちかちか小気味よく点滅した。


『ほほほほ。嘘じゃ。まったく毎晩、妾を袋に詰め込みよってからに』

「ご、ごめんなさい」

『おぬし、子が欲しいようじゃな』

「はい。前世のあたしは、大人になれなかったので、子を孕めませんでした。でもどうしても、黒髪様との子が欲しかったから…生まれ直したんです」

『大人になれて本当によかったのう。妾も孫ができるように思えて楽しみじゃわ。しかし龍蝶は、多産な体質であるらしいぞ。モエギが昨日、太古から今に至る大陸諸国の歴史を刻んだ記録箱をくれたのじゃが、それを取り込んで読んでおったら、龍蝶に関する記録がわんさか出てきてな。興味深いものばかりであったわ』


 鏡曰く、西方諸国で編纂された歴史書には、龍蝶を妃や愛人にした王たちの記録が、山ほどあるという。災厄以前のすめらは三代に一度龍蝶を皇后に立て、帝家の寿命を延ばし、皇子皇女をたくさんもうけた。数世紀前の南王国の大君は、龍蝶の妾妃との間に三十人もの子を成したそうだ。

 双子を連続して産むとか、三つ子が生まれるとか、ざらにあるらしい。


「双子を連続で? それはすごいですね」

『おぬしのところも、大家族になるやもしれんぞ。子が生まれたら妾が赤子の面倒を見て、きっちりしつけてやるゆえ、覚悟しておくがよいわ』


 家族がたくさん増えたら、幸せなことこの上ないだろう。

 クナは小さな子供たちに囲まれる自分と黒髪様を想像してみた。住むところはやはり、金の林檎が輝く、あの天の浮島がいいように思えた。天照(あめて)らし様や月女(つきめ)様の光をだれよりも近いところで浴び、美しい雲海を眺めながら、子供たちはすくすく大きくなるのだ。

 きっと喜びあふれる日々が続くに違いない。

 クナは心から願い、祈った。


(どうか本当にそうなりますように。この体に命が宿りますように)

 

 

 


赤毛の妖精たちが操る飛行船は、三日の船旅を経て、北の果ての大草原に着陸した。

草原のそばに大きな湖を臨む廃墟の町が在り、クナたちはそこから、妖精たちが船に積んでいる救命用の小舟を利用して、湖を渡った。

 切り立つ岩山の寺院の上空まで船で行って、機械鳥で降りられたらよかったのだが、そうすることはできなかった。寺院の上空には、あらゆる飛行物を撃ち落とす島が浮かんでいるからだった。それは天の浮き島とほぼ同じもので、寺院を滅ぼした魔導帝国が据えたものだという。


「湖は昔、濃い霧に覆われていた。吹き荒れる風の結界が、湖の向こうにあるものを常に守っていた。岩山を穿って造られた、岩窟の寺院を」


蒼く澄んだ湖上を、小舟はするするとものすごい速さで走った。

 先頭の舟に黒髪様とクナが。後続の舟に、花売りとモエギが向かい合って乗り込んだ。

 空は湖面と同じく澄み渡り、からりと晴れていて、そよ風がふいていた。しかし舟には帆がなく、櫂もなく。不思議なことに、舟はひとりでに動く仕組みを備えていた。

 船尾側に座る黒髪の人は、陽光を散らす湖面を感慨深く見渡した。

 小舟の舳先のはるか先に、天に向かってそびえ立つ岩山がある。舳先側に座っているクナは振り返り、峻厳なる岩山をひとしきり眺めた。湖から突き出しているようなその山には、無数の円い穴が開いていた。あれは窓で、山の中には岩を穿って造った部屋がたくさんあるのだという。


「侵入者を阻む風は、黒き衣の導師たちによって毎日編まれていた。石舞台という、せり出した岩の上で、導師たちは魔法の歌を和合させ、風を起こしていたんだが」


 黒髪の人は痛ましい顔で岩山を眺めた。


「石舞台は跡形もないね。崩されてしまっている」

 

災厄が起こる一年前に、寺院は魔導帝国によって滅ぼされた。不死にして恐ろしい魔力を持つ黒き衣の導師、最長老レヴェラトールが、くれないの髪燃ゆる君を暗殺しようとしたのが発端となったという。神帝の守護者たる金獅子が何万もの魔導帝国軍を動員し、七日七晩の猛攻を行った末に湖の結界を打ち破り、レヴェラトールの魂を封印したそうだ。


「なんだか、とても懐かしい気がします」

 

 岩山を見つめるクナの目の前を、白いものがふわりと飛んで行った。ふわりふわり飛ぶものにつられて、クナは船尾の方にまなざしを向けた。


白綿蟲(しらわたむし)だ」


 黒髪の人が手を差し伸べ、白いものを捕まえた。


「夏になると湖から生まれてくる。これは大人になるとすぐ死んでしまう虫でね、湖の岸辺や寺院の屋上に雪のように積もるんだ。導師や導師見習いたちは、この虫の綿から、衣を織る糸を作っていたんだよ」


 レクリアルが着ていた白い衣も、この綿蟲の糸から織られていたんだと、黒髪様は囁いた。

ふわりとした虫は驚くほどたくさんいて、まるで空から降ってきているように見える。クナたちのすぐ後ろを進む舟で、花売りとモエギが歓声をあげながら、綿虫(わたむし)を次々と捕まえた。


「この綿は、蚕の繭より上等ですからね!」

「ええほんとに。第一級の素材ですもの」

 

 商売人と技師は、廃墟の町に戻ったらもっと集めようと約束し合っていた。

 廃墟の町はかつて〈北の果て町〉と呼ばれ、大陸西部を縦断する大街道の、北の終着点として栄えた。

だが、寺院が滅ぼされた戦が繰り広げられたとき、最長老レヴェラトールが町を城塞化して魔導帝国軍を迎撃したため、獅子の炎で焼き尽くされたという。


「現在魔導帝国は、この一帯を飛び地としていて、人が住むことを禁じている。寺院の封印所にあったものはあらかた持ち去られたが、動かせないものはそのまま残っているからね」


魔導帝国が厳重に監視している地に、こうして踏み入ることができているのは、ひとえにウサギ技師のおかげである。

船を撃ち落とす監視島は他でもない、かのウサギが造ったそうだ。ウサギの身内であるがゆえに、赤毛の妖精たちの船は、この地域に入ることが許されているのだった。

 

「監視島が反応するのは、飛行物体だけだ。舟で近づけば危険はないはずだが」


滑るように走っていた舟が突然舳先を上げて大きく上下に揺れた。前方の湖面がみるみる盛り上がる。


「こちらにも、障害がないわけではないようだな」

「そうです! おじいちゃんは、湖に結界門を作っています」

 

 水しぶきをあげ、滝のように水を落としながら、いと高い列柱が何本も出現した。

 左右に二本、それがえんえんと寺院の近くまで並んでいる。

にわかに湖面が渦を巻き、二艘の小舟は柱の間に吸い寄せられた。柱から、横向きに青白くて長い炎が噴き出してくる。このままでは舟が燃やされる――結界を張ろうとした黒髪様に、モエギが叫んだ。


「大丈夫です! 私たちの舟には、護符がついています。柱には船体を識別する〈目〉がついているので、私たちの舟が攻撃されることはありません」


 モエギの言った通り、舟が柱の間を通過する寸前、柱から吹きだす炎が止まった。

 通り抜けるぎりぎりの時宜だったので、クナはひとしきり肝を冷やした。

 寺院の船着き場は朽ちていた。もとは長い板をさし渡していたらしいが、ほとんど枠組みしか残っていない。寺院の壁のすぐそばにある支柱に舟を繋ぎ、一行は岩窟の中へ足を踏み入れた。

 そのとたん、クナの胸はみるみる熱くなり、どくんどくんと心臓が激しく脈打った。

 

「う……あ……?」


 分厚い岩のアーチ。その先に見える、雑草だらけの中庭。 

 四角い中庭を囲む回廊が、はるか上層まで積み重なっている。

 あたりに漂う古びた冷気を吸い込むなり、クナの胸が弾けた。クナは大きく目を見開き、胸を掴んでしゃがみこんだ。


「あ……あ……!?」


 息が吸えないほど、心臓が痛んだ。ぼろぼろと大粒の涙がなぜか、とめどなく流れ落ちてくる。


「何ここ……! 何なの? 怖い……!」


 しゃくりあげて泣きながら、クナは黒髪様にすがった。いまだ記憶はほとんど封じられているのに、寺院の風景はたしかに見覚えがあった。懐かしさ以上にひどく悲しい気持ちが襲ってきて、クナはひとしきり泣き続けた。

 背中に入れてきた鏡が、心配げに大丈夫かと声をかけてくる。

 クナはなんとか返事しようとしたが、嗚咽に阻まれてしばらく言葉を出せなかった。急いで見つけるべきものを見つけて、早くここから出ようと、黒髪様はクナを抱き上げて回廊を進んだ。


「レクリアルと私は、ここでずいぶん辛い目に遭った。最長老レヴェラトールも導師たちも、レクを人として扱わなかったし、私は導師殺しの罪をなすりつけられて、処刑された。だから君が泣いて震えるのは、当然だ」

 

 大丈夫。怖がるな。

 過去を思い出した黒髪様は沈痛な顔をしていたが、澄んだ声でクナを励ました。


「君を虐げた奴はもういない。レヴェラトールはここからはるか遠く、いと高き霊峰に封印された。黒き衣の導師たちも離散した」


 寺院にいるのは、亡霊と精霊だけだ。

 クナを抱く黒髪様は優しく囁きながら階段を降りて、寺院の地下に入った。

 モエギが灯り球を灯す前に、クナの目は長い廊下を捉えた。突きあたりに半分朽ちた木戸がある。

 黒髪様はまっすぐ進んで、木戸を押し開き、石の階段を降りていった。

 岩壁をひたひた触った花売りが驚いた。


「ずいぶん湿っていますね。氷のようです」

「寺院の地下には、鍾乳洞が広がっている。北極にまで至る、広大なものだ」


 寺院で裁かれた罪人は重しをつけられて、鍾乳洞の泉に突き落とされる。その泉に奇跡的に細い横穴が開いていたので、黒髪様もレクリアルも生き延びて、寺院の外へ出ることができたそうだ。

 古代の遺物を収めていたという封印所は、壁画が描かれた穴の奥にあった。入口はかつて強固な結界で閉じられていたらしいが、もはやそのようなものは跡形もなかった。

 ぴちゃんぴちゃんと、滴垂れる鍾乳石が連なる、いくつもの穴。そのひとつひとつが封印部屋だったが、中にはほとんど何も残っていなかった。


「からっぽですね。何もない……ああでも、一番初めに通った穴の壁画が、とてもすばらしかったわ。砕けた星から離れてゆく星船。星船から、大地に降り立つ人々。神々しくて美しかった」


 瞼を拭うクナに、黒髪様はうなずいた。


「青の三の星から去った私たちの祖先が、この星に降り立った時のことを描いたものだ。青き海よ、さらば。赤き大地よ、さらば。そんな言葉も刻まれている。ここには、青の三の星から持って来られた宝物も数多くあった。聖なる剣もそのひとつだ」


 黒髪様は何個目かの穴で立ち止まり、モエギに壁を照らすよう頼んだ。

 灯り球が向けられると、そこには壁一面、鮮やかな水色の結晶体が嵌まっていた。

 

「氷結結界。〈眠りの海〉と呼ばれる魔鏡だ。少し離れた所にもう一枚ある。これは魂を吸い込み、閉じ込める力を持っているんだが、その力はレヴェラトールのお墨付きだ。最長老はかつてこれを、とんでもないものを封じるのに使っていた。不死の魔王とか。セイリエンの脳みそとか」

「セイリエン? それって……」

「そう、金獅子と同化した導師だ。黒き衣のセイリエンは、かつてこの寺院の長老だった。レヴェラトールを暗殺して寺院を牛耳ろうとしたが、失敗してここに封じられた。だが弟子たちの尽力によって、奴の魂は赤の砂漠へ逃れた」


 くれないの髪燃ゆる君はセイリエンの一番弟子だ。彼はレヴェラトールに何度も殺されながらも、師の復活をあきらめず、ついには師と共に大帝国を建てた。寺院を滅ぼしたとき、神帝はセイリエンの脳髄をこの鏡から取り出し、後生大事に持ち帰った。現在その脳髄は〈高祖神〉として、魔導帝国の帝都神殿に祀られているという。


「魔鏡は少し離れたところにもう一枚ある。そこに入っていた不死の魔王の魂は、レヴェラトールがひそかに別の所へ移したらしい。どこへやったかは、今も不明のままだ」


 黒髪様はクナを降ろし、彼女が背負っている袋をモエギに差し出した。封印箱を取り出して、この間鏡に義眼を押し付けてほしいと、彼は願った。剣の魂を分離したいというのだが、モエギはたちまち困惑して、待ったをかけた。


「吸い出している最中に、義眼の力が黒髪さんに惹かれて、外へ漏れ出るかもしれません。とても危険です」 

「異種の魂を吸引する場合、質量の軽いものから先に、吸い込まれるはずだ。剣の魂がまず剥がれると思う。剣の魂が鏡の中に入ると同時に、吸引を中止すればいい」


 モエギは難色を示した。理論通りに上手くいくとは思えない。分離は無理だろうというのだった。


「剣の魂の表に出てきている鍛冶師はおそらく、義眼の中の力を無理やり食べ始めているでしょう。すっかり消化吸収するまで、離れようとしないと思います」

「その鍛冶師は、恐ろしく強欲なのだな」

「はい。その人は黒き衣のルデルフェリオといって、かつておじいちゃんの弟子でした。でも優秀すぎたし野心もありすぎて……まったく手に負えなかったそうです」

「ルデルフェリオだと?」


 黒髪様はしばし押し黙り、クナの袋をじっとながめた。

 

「私はその名を知っている。ルデルフェリオは、この寺院の導師だった人だ。錬金術を駆使して、数多の魔動器を造ったと言われている。彼は〈上の世界〉に行きたくて、輪廻を阻止するためにおのれの魂を宝玉に封じ込めたと……そう伝わっている」

「なんですって? じゃあそれなら、鍛冶師は喜んで協力してくれそうじゃないですか」


 花売りが言うも、モエギは、だからこそ危ないのだとため息をついた。


「鍛冶師が〈上の世界〉へ行きたがっているのは、たぶん、自分が神になりたい、世界を自在に操りたい、という目的からだと思われます。ただ野望を抱いているのではなく、今の鍛冶師は強大な力を手に入れかけているので、とても危険です。もし〈上の世界〉へ行ったら、鍛冶師は第三のタケリと話すどころか、即刻殺してしまうかも……私たちは、恐ろしい破壊神を生み出してしまうかもしれません」

「協力させるなら、彼を制御しなければならないということか」

  

 とにかくダメでもともと、分離だけ試してみたいと、黒髪様は食い下がった。


「義眼の力を食べるのは時間がかかるだろう。まだ食べきらないうちに義眼からなんとしても引き剥がして、私の力がもっと欲しければ協力してくれと頼むのは、どうだろうか」


 たぶん食べるのに夢中で離れないだろうと言いつつ、モエギは渋々封印箱を出した。

 黒髪様は魔法の気配を降ろして、氷結結界に魔法陣を描いた。

 おそるおそる封印箱を開けたモエギは、真っ赤な義眼を直接持つのを避けて、水色の結界に開いた口を押し付けた。

 黒髪様が長々と、韻律を詠唱し始める。あたりにおそろしい重圧がかかったので、皆は膝をついて、大いなる魔法の場に耐えた。

 剣の魂はなかなか剥がれないと予想して、皆は時間がかかるだろうと身構えたのだが。


「え? 何か飛び出した?」

「いきなり?」

「今のは……」


 黒髪様がまだ韻律を唱えているうちに、義眼から光るものが氷結結界の中に勢いよく入っていった。それは水色の結界の中でみるみる人の形をとり、泳ぐように手足を掻いて、壁面に近づいてきた。


「女の子……?」

「そのようですね。義眼の中に別の魂が入ってたんですか?」

「たぶん、剣の別人格です!」


 封印箱を押し付け続けるモエギが、目を丸くしながら叫んだ。

 氷結結界の中に入ってきたのは、まごうことなく色白の少女で、彼女は小さな手でばんと壁面を叩き、口をぱくぱく動かした。


――『お願い! ルデルフェリオを止めて! 今すぐ誰か、あの人を止めて!』


 分厚い鏡の向こうから、かすかに少女の声が聞こえた。


――『ルデルフェリオは、おそろしい力を食べようとしてるんです……!』


 にわかにぎゅるぎゅると、奇妙な音が封印箱から流れてきた。モエギはとっさに封印箱を氷結結界から離し、中を覗き込んだ。刹那、真っ赤な光が中に入っている義眼から放たれて、あたりをほんのり紅色に染め上げた。


『エクステル!』


 義眼からうろたえる叫び声が響いてくる。


『ちくしょう、どこだ! 僕のエクス!』


 おそらく、鍛冶師の声だろう。彼は必死に誰かを探している。もしかして飛び出してきた少女を見つけようとしているのだろうか。


「僕のエクス? その呼び方は……」

『エクス! どこだ! 戻っておいで。僕らはもっと強くなろうよ!』

――『いやよ! そこにある力はとても恐ろしいわ。食べてはだめなものよ』


 どうやら剣の内部で、義眼の力を食べるか食べないかと揉め事が起こったようだ。食べたくない人格が、外に飛び出してきたらしい。

 鍛冶師らしき声が今にも泣きそうな様相を呈してきたので、黒髪様はこの機を逃さず交渉を始めた。


「剣の魂よ。おまえのかたわれは我々が確保した。返してほしくば、我々に協力してほしい」

『なんだって? 僕のエクスはどこにいる?!』

「君のエクスは氷結結界の中にいる。くしくも、我々が保護した形になった」

『そんな……くそ! エクスを返してくれ! 今すぐ……! 傷つけたら許さないぞ!』


 鍛冶師は結界の中に入ってきた少女を、痛く気に入っているようだ。おそらく、自分の伴侶のように思っているのかもしれない。黒髪様は容赦なく、その状況を利用することにしたようだ。


「少女の魂を返してほしくば、まずはその義眼から離れてくれ。私が介助する。ひとまずもう一枚の氷結結界に移るんだ。それから、上の世界に行ってほしい」 

『上の世界に?』

 

 ぎゅるぎゅる、義眼は奇妙な音をたてた。ひどく驚いているように、紅の光がびかびか、激しく点滅する。


「上の世界で、してきてほしいことがある。だが、我々の言ったこと以外のことは決してしないでほしい」

『要求が多すぎる』

「受け入れられないなら、我々は君のエクスを永久に、君のもとへ帰さない」

『う……』


 剣の魂が氷結結界へ飛んでいかないよう、黒髪様は急いで魔法陣を消し、結界から離れた。


「きちんと協力してくれたら、少女を返す。そのあとどうするかは、君の自由だ。少女とよく話し合って、好きにしたらいい」

『分の悪い取引だが、背に腹は代えられない』


 鍛冶師は即答した。それほどに、エクスという少女のことが好きなのだろう。


『いいだろう。お使いをしてきてやる。だが、せいぜい隙を見せないようにしろよ、黒の導師。僕はおまえより、はるかに利口だ』

「よし。話が決まったな。ではさっそく準備をしよう」

『おまえ……ほんと、人の話を聞かないよな』

「褒め言葉として受け取っておく」 

『褒めてない!』


 黒髪様は、少し離れた所にもう一つある氷結結界に近づいた。先ほどと同じように水色の鏡面に魔法陣を描き、モエギに封印箱を押し付けてもらう。あたりにまた、ひどく重たい魔法の気配が降りてきた。黒髪様が韻律を唱え始めると、剣の魂はあっという間に氷結結界の中に入り込んだ。

 少女とあまり変わらぬ背丈の少年の姿が、ゆらりと結界の中で形づくられていくのを、クナは息を呑んで見守った。


『黒き衣のルデルフェリオ。悠久の時を経て、今ここに顕現するって感じ?』


 真っ白な髪の少年は鏡面にゆっくり近づいてくると、口元をにやりと引き上げた。その声は異様なほど明るく、快活だった。まるで、まだ十代の子供のように。


『いいよ、始めよう』

 


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