8話 羽化の祝い
龍の咆哮……!
舞台に舞い降りたクナは、驚きながら天を見上げた。
鏡姫が称した通りのものが、頭上に出来上がっていた。
長くたなびく大渦。ごうごう立ち昇るそれはまさに、空征く龍のごとし。
明滅する無数の光の粒を巻き込んで、渦は煌々と輝いている。まるであの、タケリ様のような神々しさだ。
こんな凄いものを、自分たちが生み出したなんて。
クナは息を呑み、しばし渦に見とれた。
鏡姫はまだ唄っている。琵琶の音もびんびん響いている。クナが起こした風をまだまだ、押し上げているのだ。自分も舞い続けなければと、クナは立ち上がろうとした。だが、足がよろけた。回転しすぎたせいか、頭がぐらぐらして視界が揺れた。
「しろがね! 無理するでない」
クナを気遣うように、鏡姫の祝詞が止まった。クナの肩に姫の白い手が置かれる。思った以上の渦になったと、鏡姫は誇らしげな微笑みをクナに投げてきて、ふらつくクナを祭壇の前に座らせた。
「渦はこれで十分じゃ。あとは琵琶姫に任せよ。しばし休もうぞ」
任せろと言わんばかりに、琵琶姫が弦を弾く手を速めた。なんともすごみのある音色が琵琶から飛び出したが、姫の顔は余裕綽々だ。にっこり晴れやかで実に楽しげである。
神楽が弾き手だけになったのに、ごうごう昇り立つ渦は少しも衰えなかった。戦時体制の黒の塔は、相当速く回転しているようだ。
「いやはやしろがね、そなた、あのように花音を連発するなど、いくら肉体から出た魂とはいえ、人間業ではないぞ。もはやあれは、花音ではあるまい。渾身一発の飛天とはまた違い、なんとも勇壮で豪快じゃった」
そんなに消耗しているのは、持てる舞力を全力で発しているから。心底真摯な舞だったからだと、鏡姫は目を細めてクナを褒めた。
「妾の力を、最大限に引き出すとはの。やはりそなたは、妾が見込んだ通り。素晴らしい舞い手となったのう」
「鏡姫さま、それはたくさんの人が、あたしに教えてくれたからです」
九十九の方、くれないの髪燃ゆる君、それからメノウ。アカシやアヤメ、太陽の姫たち。恩ある人や仲間たちを数え上げるクナを、鏡姫は優しく抱きしめた。ストンと膝を落とし、いと美しい微笑みを浮かべながら。
「我が巫女。これからも幾久しく妾を掲げて、舞うがよい。妾はそなたを、この鏡の所有者として、正式に認めよう」
「鏡姫さま……!」
「妾は、そなたの守護者。そなたを守る盾であり、そなたの敵を滅ぼす剣となろう」
今までもそうでしたとクナが言うと、鏡姫は、そうであったか? とくすくす笑った。
「ほんとにあたしが、鏡姫様を持っていいんですか?」
「羽化の祝いの品として、妾を受け取るがよい。羽化してめでたく、目が見えるようになったようじゃからの。普通に鏡としても使えよう。誰よりもかわいらしく美しく、そなたを映してやろうぞ」
姫は人間であった時よりもはるかに神霊力が増している。もはや女神といっても差しつかえない姫に、再会できて、また一緒に神楽を奏でられて。しかも……
クナは感激のあまり、おのが魂を震わせた。
『この鏡はあたしのよ! 長女なんだから、当然の権利よね!』
長姉のシズリは、母の形見を勝手に分けてしまった。だから母が死んでからは、鏡にはついぞ、触らせてもらえなかった。あの頃の自分は。目が見えなかった自分は、一生、鏡を持つことなんてないと思っていたのに。
「鏡姫さま……! ありがとうございます! ありがとうございます!」
これ以上の祝いがあるだろうか。大陸中どこを探したって、クナにこれほどの喜びを与えてくれるものはないだろう。
嬉しい。嬉しい。嬉しい……!
歓喜の涙が、クナからあふれ出た。
「夢みたいです……!」
なんとまあ、さっきから泣いてばかりじゃと、鏡姫がころころ笑う。明るい声音がさらに、クナを溶かした。今だ鳴り響く琵琶の音色の邪魔にならないように、クナはしばらく、泣き声を殺して泣いた。
鏡姫は母のように、クナの背をそっと撫でてくれた。クナの気持ちを包み込むように、しばらく何も言わずに。
琵琶姫はひとしきり、見事な旋律を奏でた。渦を維持するためだったけれど、クナは、もっと聴いていたいという密かな願いを、姫が叶えてくれているように感じた。
いったん区切りの音を弾いた琵琶姫は、名残を惜しむかのように徐々に音色を落としていった。そうしてついにはゆたりとした、なれども清かな終音を奏でて、手を止めた。
その直後。見るがよいと、鏡姫は無数の煌めきの粒が渦巻く天を指さした。
「来たぞ。渦に呑まれて、落ちて来ておる」
天の彼方に、きらりと光るものが見える。渦と一緒に舞い上がる、明滅する粒ではない。
なんとも美しい色合いの、光の塊だ。
天から落ちる、透き通った雨粒のような。一瞬、水の精霊かと見まがうような。
それは神帝の義眼の中にいた時に見えた、黒髪様の美しい双眸の色によく似ていた。
あれはきっと、黒髪様の魂にちがいない――
受け止めるぞと、鏡姫はクナを促して立ち上がり、祭壇の鏡に向かって命じた。
「アオビ! 塔の回転を止めよ!」
『御意!』
鏡から返事が返ってくるや、みるみる、大渦の勢いが失せていった。
クナは大きく腕を薙いで、そよ風を起こした。落ちてくる水色の魂は、舞台に突き刺さらんばかりの勢いだ。ふわりとした風を重ねて、舞台に激突しないようにしよう。クナはそう思った。
合いの手を入れるかのように、琵琶姫がびいん、びいんとゆっくり弦を弾き始める。
音色を浴びたそよ風は、柔らかな弾力のある空気の壁となり、ふうわりふうわり舞台の上に積み重なった。
頭上を見上げるクナの未熟な目が、落ちてくる魂を捉える。とたん、クナの腕は一瞬、びくりと動きを止めた。
水色の魂に何かついている。ざわざわうごめく、蟲のような光。とてもまばゆいが、動き方が異様だ。
黒髪様の魂の中に、ずぶずぶ入り込もうとしている。鏡姫もすぐにその異物に気づいた。
「何じゃあれは! 何かに取り憑かれておるぞ!」
「義眼に封じられた、神獣の力の一部じゃないかと思います!」
いくつもいくつも、長虫のごとくのたうつ光が、黒髪様の魂から離れて、こちらに飛んできた。
落ちているのではない。故意に突っ込んできている。まるで牙を剥いて威嚇してくる蛇のごとしだ。
「薙ぎ払え! 我が巫女!」
鏡姫が、今一度祝詞を唱え始める。するとクナが持っていた榊はたちまち、刃鋭い刀に変化した。何という早業かとびっくりしながらも、クナは両手でしっかと刀を持ち、力強く踏み切って舞い上がった。
「消えて!」
しゃーしゃー、恐ろしい音を立てるまばゆい長虫を、天女のように舞い飛ぶクナは、一所懸命薙ぎ払った。刀に触れるや、長虫たちは塵となりて散っていく。
大丈夫だ。消せる……!
内心ホッとしながら、クナは見事な剣舞で輝く蟲たちを払っていった。
清かな色の魂が、自分の腕の中に飛び込んでくるまで――
「……ひあっ!」
悲鳴をあげながらクナは目を見開き、目を覚ました。
溺れて意識を失った人が息を吹き返す時のように、息を吸い込みながら引きつける。いきなり胸いっぱいに空気が入ってきたせいで、体がびっくりしてしまったのだ。ゲホゲホと咳き込みながら、クナはあたりを見渡した。
「なんて暗い……闇……」
必死に光の長虫を打ち払っていたクナは、水色の魂を抱えたとたん、黒の塔から落ちた。狂ったように突進してくる長虫に押されたのだ。
『天地を逆にしてやる』と、鏡姫が舞台から叫ぶのが聞こえた。女神のごとき人は、本当にそうしてくれたらしい。塔に嵌まる時計を過ぎた辺りで、クナはぐるりと一回転し、今度は天に向かって落ち始めた。飛翔する感覚ではなく、空が大地となってそこへ落とされる感じがした。
黒髪様の魂は、何匹もの長虫に食いつかれていた。魂を抱きしめたときに刀を落としてしまったクナは、自分の手で一所懸命、長虫を引っ張って魂から引き剥がした。そうしているうち、鏡の中に入ってきたときと同じ、漏斗のような渦に呑み込まれたのだ。
その時たぶん、鏡の外に出られたと思うのだが……
「真っ黒……」
今は夜だろうか。なんだか周囲が黒い。赤毛の娘たちが部屋に黒幕を張って、夜の空間を作っているのかと思いきや。目をこするクナの耳に、澄んだ囁きが落ちてきた。
「田舎娘」
クナは驚いて、声のした方を見上げた。黒。長くて黒い髪。それから、しゃらんと唄う黒い衣。
「黒髪様!」
周囲の黒が動いた。クナを包んでいたのは他でもない、黒髪様の腕だった。
渦に呑まれて鏡の外に出された時、ふたりとも無事に在るべきところへ戻れたのだろう。
しかも黒髪様の方が早く、目覚めたらしい。
「すまない、助かった」
「黒髪様……! よかった、無事で!」
黒髪様の腕が、クナの腰を優しく締めてきた。
「やはりこの中に封じられた力は、私の一部で間違いないようだ。私の中に入って来たがって、それを食い止めているうちに身動きが取れなくなってしまった」
「ほんと、よかったですね」
クナの背後で、花売りが安堵の息を吐くのが聞こえた。彼も赤毛の娘たちも、二人が帰還するのを、固唾を呑んで見守っていたようだ。時刻は夜であるらしい。塔の壁に黒い幕が張られているので、振り返ったクナは、みなの姿を見ることができた。
とたん、良人に抱かれている様子をみなに見られていることに気づいて、かっと頬を赤らめる。もう大丈夫だと慌てて黒髪様から離れると、名残惜し気に黒髪様の腕が伸びてきて、クナの手をそっと掴んだ。
クナはどぎまぎしながらその手を握り返し、手を繋いだまま、黒髪様の隣にちょこんと座った。
「鏡姫さまは……」
「ここにある。中の人が、君に渡せとうるさい」
「ああ……ありがとうございます……!」
クナは深く深く、歓喜の息を吐き出した。黒髪様が、美しい鏡をクナの膝の上に置いてくれたからだった。
『しろがね、大丈夫か? 黒髪様と共に飛んできた力の、なんと凄まじきことよ。なんとか塵にしたが、吸収はできなんだ』
クナたちと一緒にあたりに吐き出してしまったと、鏡姫が申し訳なさそうに点滅した。
「大丈夫だ、私が吸い込んだ。というか、私の中に溶けてしまった」
クナを抱く黒髪様は、心配する鏡に美しい声を落とした。
「私についてきたあれは、義眼に封じられた力の、ほんの一片。私と同化しようと、力が伸ばしてきた〈腕〉だ。襲い来た大渦に引きちぎられて粉々になったとたん、あんなものになってしまった」
ずっと見守っていた花売り曰く、クナが作った大渦が、黒髪様を取り込もうとするものを断ち切ったとき、黒髪様の手から、義眼がパッと離れ落ちたという。いきなり、黒髪様の手が開いたのだそうだ。
「妖精さんたちが、義眼を布に包んで、金属の箱に入れてくれました。魔力を遮断する金属だそうで、これで一安心ですね」
「サンテクフィオン、義眼の中から叫び声が聞こえた」
黒髪様は花売りに報告した。
「おそらく剣の魂だろう。実のところ、踏ん張り損ねて、義眼の中に吸い込まれそうになったんだが、中から、入って来るな馬鹿野郎という怒鳴り声がして、押し返された。そのとき、恐ろしい衝撃を受けた。全身打撲のごとき痛みが襲ってきて、目が回った。体がバラバラになるかと思ったが……感謝しなければならないな」
どうやら剣が、義眼に吸い込まれそうになった黒髪様をはじいてくれたらしい。眠っていた黒髪様が突然痙攣したのは、剣に押し戻されたせいであったようだ。認めたくないが、助けてくれたのだろうと、黒髪様はため息混じりにつぶやいた。
「しかし……不安だ。義眼の中の剣は、なんだかはしゃいでいるような雰囲気だった」
「えっ? 喜んでた……んですか?」
びっくりして花売りが聞き返す。黒髪様は間違いなくそうだったとうなずいた。
「消化してやるとか、御してやるとか、高笑いしていた。こんな超新星級の精霊力を吸収しない手はない、さあ食べるんだ、僕らはさらに強くなって進化するんだと……誰かを促しているような、奇妙なブツブツ声が聞こえた」
「僕ら?」
――「ああ、実はさ、剣の魂は独りじゃないんだよ」
首を傾げる花売りと赤毛の娘たちの間から、白いものがひょっこり現れた。
クナは思わず、喜びの声をあげた。白いものの長い耳がかわいらしくゆれて、すぐ目の前に飛び込んできたからだった。
「ウサギさん!」
ウサギ技師は、クナが鏡の中へ行っている間に、神帝の船から帰ってきたらしい。
よう、大丈夫かいと彼はくりくり赤い目を動かし、仲良く並んで座る夫婦を伺った。
「なんか、俺がいない間に大変なことになってたみたいだな。えっとさ、青の三の星から来た剣は、歴代の持ち主の魂の一部を、結構吸い込んでるみたいなんだよな。それに、赤猫っていう子の魂とは丸ごとすっかり同化してるし、あともうひとり、偉大な鍛冶師の魂も入ってるはずだ」
「そ、そんなにたくさんの人が入りまじってるんですか?」
「うん。普段は、一番古い人格が表に出てるんだけどね。何かの拍子に、他の人が出てくることがあるらしいよ。多重人格っていうのかな。しかし吸収しようとか進化しようとか、そんな危ないこと口走るなんて、それ絶対……」
ウサギはがっくりと肩を落とした。
「とある鍛冶師の人格が出てるんだと思う。俺そいつのことよく知ってるけど、剣を改造しまくった奴でさ、倫理ってなに? って感じの恐ろしい奴なんだよな。まったく、ユーグ州を破壊した神獣の力を得ようなんて、またぞろアブナイこと考えやがって」
「危ないというか、不可能なのでは? 一度吸い込んだのに、消化できなかったんですよ?」
「花売り、あのルファの義眼は、剣の宝石よりも格段に吸引力があるんだ。神帝が黒獅子を封じるためにって、俺に特注したもんだからね。あの義眼の中には、黒獅子が長いこと棲んでたんだぜ」
「ひえ、そうなんですか」
剣がその気なら本当に、黒髪様の力を食べて自分のものにしてしまうかもしれない。そうなった剣は一体どんなものになってしまうのか。いと恐ろしい物になってしまえば、魂を天河に送ることは危険だろう。やはりどこかに封印するしかないと、ウサギは情け容赦なく言った。
「剣の魂だけ取り出すのは、今の状態じゃほぼ不可能だよ。もしかしたら大陸最強の精霊石ができちゃうかもだけど、封印所で眠ってもらうのがいいような気がする。金獅子が、やっぱ返品やめる、こっちによこせって言わないうちにね」
くれないの髪燃ゆる君が完全に復活するには、だいぶ時間がかかるらしい。虹色の卵なるもので神帝の魂を癒やしてから、新しい体に入れる予定であるというのだが。魂が修復されるまで、少なくとも半年はみないといけないそうだ。
「俺がなんとか説得した末に、金獅子はようやっと、ぎっちり抱きしめてた神帝陛下の遺骸を放してさ、自分の聖炎で焼いて塵にしたよ。今は、神帝の魂が入った卵抱いてあっためてる。もう、すんごい形相で。半年も待つなんてひどい拷問だって、今にも死にそうに呻きながらさ。やっぱ義眼の力を得たら一瞬で復活するだろうって言い出しそうだったんで、もう俺、話題を別のとこに別のとこにって、誘導しまくって、説得しまくって、そんで後ずさりして、とんずらこいてきたわ」
だから一刻も早く、義眼は封印してしまうのがいい。
ウサギはきっぱり断言した。
「黒髪が自分の力を全部呑み込んで、完璧に御せるっていうなら、そうしてもいいと思うけど」
それは無理だ。
黒髪様は即座にそう返したが、ウサギはしばらくじっと彼を見つめて、人造の赤い目をきゅりきゅり鳴らしていた。
「剣の魂が抑止力になればあるいは……いや、無理に変な試みはしないでおこう。ちょっと吸収しただけで、あんたの魔力、馬鹿みたいに跳ね上がってるみたいだから」
ウサギに言われるなり、びくりと黒髪様の体が震えた。手を繋いでいるクナに、その振動が伝わってくる。何かに怯えているような。畏れているような……
(黒髪様? どうしたの?)
ウサギに見つめられた黒髪様は、観念したようにため息をついた。
「実のところ、ミカヅチノタケリを撃破するのに、この力は有用ではないかと一瞬思った。そう考えた途端に、義眼に引っ張られた」
「ほほう?」
「大安で暴れている竜蝶の帝は、相当の魔力を持っている。だが竜蝶の魔人であるゆえに、唯一の弱点を突けば、なんとかなるだろう。魔人は、自分を魔人にした竜蝶には、基本逆らえない。だからあいつを魔人にした人か、その血縁者によって、制御することが可能だ」
竜蝶の帝を不死の魔人としたのは、おそらく彼の血族。親か子であろう。
となれば、その血を引く竜蝶であれば、彼を押さえ込めるはずだと、黒髪様は言った。隣に座るクナの手を、ぎゅっと握りしめながら。
「龍蝶の帝の親族は、いまだ健在だ。大陸中に散らばっていて、私はそのうちひとりの居所を知っている。彼女に制御を試みてもらおう。もし彼女に断られても、ここには見事に羽化した、純血に近い竜蝶がいる。血族ほどではなくとも、ある程度は制御できるかもしれない。問題なのは、タケリの方だ。あいつと幾年か付き合った私は、あいつの本性を知っている」
黒髪様は声を潜めた。水晶のように澄んだ美声がひそやかに、憂いを含んだ色を醸した。
「あいつは……神獣ではない——」