1話 やんごとなき母子
白。白。果てのない白……
眼前に広がる雲海はいつ見ても、息を呑むほど美しい。
天を覆うこのふわふわな連なりは、一体どこまで続いているのだろう。
絶景を眺める藍色の髪の女御は、感嘆のため息を漏らした。
黒い災いに包まれた宮処から離れるために、やむなく、金獅子州公家の飛空船に乗せてもらったけれど。すめらからは、決して離れたくないと思っていたけれど。
「ほんと……すごいな」
青き天を染めるのは、まばゆい黄金色の神々しい光。
天照らし様が燦然と、雲の海を照らしている。
大きな船窓から雄大な天を眺めていると、感覚がおかしくなりそうだ。
終わりのない空の向こうを、見てみたい気持ちが湧いてくる――
金獅子州公の第一公子、ルゥビーン・レヴツラータ。センタ州を統べる金獅子州公の世継ぎが所有する船は、翠鉱を燃やす機関で飛ぶ最新鋭のものだ。先のとがった弾丸のような船体は実になめらかで、少しの揺れもなく、空のただ中に浮いたままでいることができる。
その船の最後尾。円い船窓のそばに佇むコハク姫は、しっかと抱いている赤子に声をかけた。
「ねえ見てごらん、雲の海がとてもきれいだよ」
しかしふっくらとした頬の御子は、なんとも満ち足りた、いとけない顔ですやすや眠っていた。
「あれ? さっきまで起きてたのに」
ギヤマンの窓にうっすら映る母と子。
自分たちの姿を見て、コハク姫はなんともいえぬ苦笑を浮かべた。
幾重にも重ねた重い単はどこへやら。腰が締まった西方風の、琥珀色の連衣裙をまとっているこの姿には、まだどうにも慣れることができない。
まるで自分ではないように思える……
命からがら黒い炎の雨を避けて飛行場へ至り、船に乗り込んですぐ、コハク姫はホッと息をつくことができた。船には金獅子家の公子の乳母や侍女が乗っていて、母子が快適に過ごせるよう取り計らってくれたからだ。
ふわりとした上等な瑞衣は、浴室で使う布からあっという間に仕立られた。
ほんのり甘い香りがする乳は、なんと軍用食であるという。栄養豊かな山羊の乳を乾燥させたもので、茶と混ぜて呑むそうだ。御子のためにと、侍女がそれを水で溶いて、口が細く長くすぼまった陶器に入れてくれた。本来は目に薬を挿す容器で、軍医から借りてきたらしい。御子は一日に何度も、その細い口から上手に山羊の乳を飲んでいる。おかげですくすく育っていて、手首も足首もむっちりふっくら、かわいらしい。
「あたしたち、ほんとに助かったよね。すめらの国は今……とんでもないことになってるけど」
恐ろしい鏡から逃れ、命からがら船に乗り込んでから、はや二週間。
金獅子の公子は国外へ出た方がよいと毎日勧めてくるが、コハク姫はいまだ逡巡していた。
幸い、月と星の巫女王たちは二人とも、母子に大変好意的であったのだが……
『すめらから出て、大陸同盟会議へ出るべきです。鏡様の恐ろしい支配を、終わらせなければいけません』
蒼い聖衣をまとう星の御方は、金獅子の公子に同調してかく仰った。
なれど、姫が幼き頃からよく知っている月の御方はがんとして、すめらから出てはならぬと仰るのだった。
『陛下の御子は、姫様がお生みあそばされた皇子様、ただおひとりにございます。万が一陛下になにかあれば、皇子様は幼帝として、ただちに即位しなければなりませぬ。そのような御方が、すめら百州の外に出ていてはなりません。国母と帝が国外に在ることなど、神官族は決して認めぬでしょう。
大体にして、なぜに墳墓からお逃げになったのですか? 鏡様がどんなに恐ろしいことを企んでおられようが、それは天の神々のご神意からくるものです!』
月の御方は、鏡が行おうとしたおどろおどろしい儀式のことを、まったく否定しなかった。
神意に逆らうな。いますぐ月の周神殿へ入りて鏡に従え。
白き聖衣の袖を振り乱して、そうわめきたててきたので、コハク姫はたじたじになった。御心を鎮めてもらおうと必死に宥めたけれど、いつ船から降りるのかと、顔を合わせれば催促される。
実のところ姫自身も、すめらを出たくない思いに囚われている。
ゆえに船は、いまだすめらの百州内にある。すめらの西の果て、本州と属州との境目を、密かに巡航しているのだ。
単におのれは、外へ出るのが怖いだけなのかもしれない。でも、国が大変な時に自分だけが逃げ出すなんて、卑怯な振る舞いではなかろうか?
コハク姫は、そう思うのだった。
「この船に入ってくる情報は限られてる。それでも、ひどいことになってるってわかるもの……」
『すめらの今上陛下は、健在なり』
やんごとなき母子が船に乗って一日も経たぬうち。そんな大陸公報が大陸全土に発信された。発信元は、月神殿だ。西の周神殿に移った現場は大混乱であろうに、そのようなそぶりはおくびにも出さない。 それ以来毎日のように、誇張甚だしい公報が流されている。
『偉大なるすめらは揺るがず』
『天変地異は収まりて、天照らし様の御光は津々浦々に、宮処の空に広がりゆかん』
いや。いまだ、宮処の上空は真っ暗なままだ。
避難民が周辺の都市に押し寄せて、混乱状態を引き起こしていると、金獅子の公子が呆れ顔で言っていた。
公子はすめらに来たとき、抜け目なく、自身の「目」となる者たちを宮処に放っていたらしい。金の髪眩しい彼は、さらりと言ってのけたものだ。
『外に出たらとりあえず、十人ぐらい密偵を放てと、父上から教えられたのだ。まあなんだ、すめらは実に、嘘つきだなぁ』
月神殿から出される公報は、あの恐ろしい鏡が指示したものかもしれない。
たぶんにそんな気がする。
公子の密偵たちからの報告によれば、元老院や帝都神殿の神官たちは、妻や幼子たちを自身のご料地へ避難させつつ、それぞれの避難所である周神殿で政体を維持しようとやっきになっているらしい。
月神殿が対外的な体裁を取り繕い、民を励ます公報をひっきりなしに流す中。星神殿は突貫で平野におびただしい数の天幕を張り、宮処から逃げた民を収容し始めているそうだ。
一方、太陽神殿は、すめら百州に配している常駐軍を宮処近くの大衛府に集結させた。国内の防衛にあたっていた柱国将軍たちを召喚して将とし、宮処をぐるりと囲む大師団を展開したのである。
そうしてこの二週間の間に、大師団は数度に渡って内裏に突入し、黒き災厄をうち滅ぼそうとした。
だが。一騎当千であるはずの柱国将軍は、黒い炎をまとう者を払えず、次々と斃れていった。
水龍、紫龍、雷龍。龍の子たちは主人と共にあえなく、黒い炎に焼かれ、砕かれたという――
「戦況は絶望的だけど。主上は本当にご無事なのかな……」
コハク姫は、眠る赤子を優しくゆすった。
公報では露ほどの被害も受けていないように言われているけれど、御所は惨憺たる有様。瓦礫の廃墟と化し、東西に大地が割れて、深い谷間ができてしまっている。
『御所は大結界に守られておりますので、ようよう、滅ぶことはございません。でも、万が一、天変地異などが起こりましたときには……』
後宮に入るとき、コハク姫はそば仕えとなった蒼い鬼火から教えられた覚えがある。
『今上陛下がお逃れになられる処は、数多ございます。各州の州都には必ず、そのための離宮が建てられているのです。しかして何か起これば、まずは、最も安全で宮処から一番近い避難所、〈隠殿〉にお入りになられることに、なっております』
そこは宮処の南東、太陽神殿の避難所のごく近く。鬱蒼とした竹林の地下に在るという。
陛下は、そこにおわすのだろうか? いまだ子を成していない後宮の夫人たちと共に。
そして、恐ろしい鏡と一緒に――
『《隠殿》が潰されることはありえませんが、万が一の可能性がございます。ゆえに帝室の血統の断絶を避けるため、皇子殿下は、陛下と一緒におられてはなりません。また、皇女殿下も同様でございます。異国へ嫁がれ国母となられるかもしれない大事な御身ゆえ、これまた各地にばらけて、ご避難あそばしていただくこととなります』
皇子や皇女は、生母と共に帝都神殿の庇護を受けるか、すめら中央部の、数多ある離宮のどこかに避難する。
蒼い鬼火はそう教えてくれたはずだが……
恐ろしい鏡は、なぜか大墳墓に母子を導き入れた。
奇々怪々な皇后昇位の儀式は、思い出すだに身の毛がよだつ。
大姫たちは完全に操られていたし、シガは生贄にされそうになった。
しかも鏡がコハク姫の体を乗っ取ろうとしてくるなど、どう考えても、尋常ならざることだ。
(あの鏡は、神意を伝えるものなんかじゃない。月の大姫様は、間違っている)
(公子の言う通り、すめらは嘘つきだ)
(ひどい、嘘つき……あたしたちみんなを、騙すもの……)
「コハク様、御子をゆりかごに移しなさいな」
勝気そうな明るい声がコハク姫の背を突いた。振り返れば、黄金の巻き毛豊かな太陽の巫女、リアン姫が、銀の盆に西方風の茶器と菓子を載せてやってきていた。
この姫も、巫女服姿はどこへやら。コハク姫と同じく細腰の、襟や袖に蕾丝がついた、真っ赤な西方服を着こんでいる。
「お茶でも飲みませんこと?」
「のんびり休息する気になんて、なれないよ」
コハク姫がぼやくと、リアン姫は神霊力に満ちた赤い瞳をすうっと細めてきた。
「でも目の下のくまが、真っ黒ですわよ。寝る間も無しに、赤子の世話をなさるなんて。乳母に任せればよろしいのに」
「西方人に任せるのはちょっと、抵抗が」
「おかげであたくしも世話を手伝わされて、寝不足で困ってるんですけど。くまを隠すのに、おしろいを超厚塗りしないといけないんですけど」
「ううう、睨まないでよ。わかったよ」
やんごとなき母子と龍蝶のシガが恐ろしい儀式から逃れられたのは、この太陽の姫のおかげだ。
今やリアン姫は、母子ふたりの乳母のごときとなっている。
「シガ様もお茶に呼んだのですけれど」
「また遠慮されちゃったのか。なんでか、私のこと怖がってる感じなんだよな、あの人」
「傷が痛むと言われては、そっとしておくしかありませんので。茶と菓子を置いてきましたわ」
コハク姫は、皇子をそっと真っ白なゆりかごの中へ移した。琥珀色の連衣裙の裾を踏みそうになって、少しよろけながら長椅子に座る。
舞の名手と自負していたのに、なんという足さばきか。やはり西方風の服には、どうにも慣れない。
金の巻き毛まぶしいリアン姫が、銀の盆を猫足の卓に置く。太陽の姫の方は、異国の服にずいぶん慣れているようだ。物腰優雅に裾をさばいて、難なくコハク姫の向かいに腰を下ろした。
「あら、ミン様から伝信が来ましたわ」
太陽の姫は、腰に下げている袋から、伝信用の水晶玉を取り出した。にっこりしながら、ぴいぴい甲高い音を立てて点滅する水晶玉を耳に当てる。
「おはよう、ごきげんいかが? そう、ビン様の容態は、だいぶよくなられているのね」
太陽の姫はこうしてしばしば、ミンという太陽の姫と連絡を取り合っている。
伝信を聞きとった姫は、なんとも怪訝な顔をした。
「ミン様によれば……太陽の巫女たちは今朝がた、戦勝祝いのご祈祷を行うよう命じられたそうです」
「戦勝祝い? 真っ黒な内裏に軍を出して、負け続けてたのに……もしかして、勝てたの?」
「いえ、太陽神殿は軍を再編成中で、出陣させていなかったようですの。でも、宮処の空が急に、晴れ渡ったそうですわ」
「空が、晴れた?!」
伝信先のミン姫は、太陽の巫女王の第一位の従巫女であった。同じく従巫女であったリアン姫とは、ずいぶん気心が知れた、仲良い間柄のようである。
連絡を取るようになってからリアン姫は、祭壇の鏡が恐ろしい存在であることを、ミン姫に切々と訴えていた。
シガを助け出したことも、やんごとなき母子が金獅子家の船に乗ったことも、隠さずに伝えている。なれども、この船の位置だけは教えていない。
「それって、黒い悪鬼が宮処からいなくなったってこと、だよね?」
「ミン様はそう言ってますけど。謹慎中の身の上ですから、詳しいことはなんとも」
「そうだったね……」
リアン姫が持つ水晶玉をみつめながら、コハク姫は悲しげに眉を下げた。
大陸公報には流されていないが、元老院と三色の神殿には、恐ろしい伝達が飛びかっている。
「黒き炎をまき散らす悪鬼を喚んだのは、太陽の巫女王である」というものだ。
太陽の巫女王は皇太后を殺め、陛下までも手にかけようとした。そうして地の底に封じられていた黒き悪鬼をよみがえらせて、宮処を破壊しようとしたのだという。
それがため、巫女王の従巫女たちも反逆者の一味として、謹慎処分を受けることとなったのだ。
もと従巫女たちが、狭い部屋にそれぞれ軟禁されたと聞き及んだとき。まったくとんでもない濡れ衣だと、リアン姫は憤慨しきりだった。
龍蝶の娘が殺人など、ましてや謀反など起こすはずがない。
「黒すけ」なるものはたしかに、想像を超える神気で御所を破壊した。だがその暴走は、龍蝶の娘が殺された怒りから出たものだったのだと、太陽の姫は言うのだった。
『しろがねはきっと、生き返ってくれますわ!』
姫はしまいには涙ぐんで、龍蝶の娘が蘇生する奇跡が起こるようにと願っていた。
龍蝶の娘のことを心底、大事に思っている。ひと目でそうと分かるような、苦しい貌をしながら。
「それでもミン姫は、知りうる限りのことをこうして報せてきてくれる。私たちのことは口を固く閉じて、鏡を警戒してくれている。ほんとにありがたいよ。太陽の姫なんて、高慢ちきばっかりだと思ってたけど。あなたもミン姫もほんと、いい人だ」
「あたくしも、月の姫は高慢ちきばっかりだと思ってましたわ。でも最近、その認識は消えました」
つんと澄ましながら茶を飲むリアン姫に、コハク姫はくすりと微笑みを投げた。
「ねえ、黒い悪鬼退治に苦戦するわ、私たちは雲隠れするわ。あの鏡……すめらを牛耳っている感じのあの鏡……今はずいぶん、焦ってるんだろうか?」
「そうかもしれませんわね。あれが感情をもつものなのかどうか、分かりませんけれど。でもありがたくも、金獅子州公閣下のおかげで、相当な圧力を受けているかと」
「ああ……そうだよね。すごいよな、金獅子家って」
実は、コハク姫が船に乗った数日後。
公子の伝信を受けて、金獅子州から大陸公報が出されたのである。
『スメルニアに留学中のルゥビーン公子殿下は、帝都に起こった天変地異より無事脱出せり。
公子殿下は勇猛果敢にも、生命の危機に陥ったスメルニアの皇子殿下を救いだし、保護なさった。
金獅子州公閣下は公子殿下の英雄的行為を称賛し、勲章を贈るとともに、
スメルニアの混乱が収まるまで、金獅子家が皇子殿下を保護する許可を、スメルニアに求めている』
おかげで月神殿は、水面下で大わらわ。文脈が乱れまくった事実確認の打診が、金獅子家に飛びまくったらしい。公子は抜かりなく、やんごとなき母子の幻像を撮って金獅子家に送ったので、州公閣下はそれを月神殿に送り付けてやったという。
「父様、きっと卒倒しただろうなぁ……」
金獅子家から動かぬ証拠をつきつけられた月神殿は、センタ州にある大使館に「母子の返還交渉」を行うよう、ひそかに命じた。ゆえに現在、遠く西の果てで、すめらの大使がわたわたと、金獅子州と交渉を始めている。
すなわち。やんごとなき母子は、はるか西方へさらわれてしまったと、すめらの中枢は思い込んでいるらしい。
「世継ぎの皇子をさらわれるなど、帝国の恥以外の何物でもありませんわ。だからすめらは表向きには公報をガン無視するしかない。知られたくないことだから、騒ぎ立てられないのです」
「でも、水面下では必死に交渉してる……ほんと嘘つき……なんだよな」
図らずも、すめらの皇子の身柄を確保できたので、金獅子州公は両膝を打ち叩いて歓喜したそうだ。
父上がめちゃくちゃ褒めてきたと、金獅子の公子は鼻高々だった。
『あなたの皇子は暫定的に皇太子とみなされている。ゆえに父上は、それはもう有頂天だ。すめらの帝室に、莫大な身代金とか、無理難題とか、盛大にふっかけると言っていたぞ』
『えええ、満身創痍のすめらに、そんな攻撃を? ちょっとひどくない?』
『満身創痍だからこそ攻め時だと言っていた。さすが父上だ』
『あんたってほんと、父上が好きなんだね』
目を細めてさりげなく嫌味を言えば。公子はニコニコと、さらに胸を張っていた。
『当然だ。父上におかれてはしばしば、我が家の守護神獣であった金の獅子が夢枕に立つという。それがまるでご神託のように、なんやかやと教え諭してくださるそうだ。偉大なるご自身の力がかような幻影となりて万事を分析するとは、さすが、古えより続く偉大な血族の末裔であろう」
『あ、あのさ、金獅子家が腹黒で容赦ないってことはよくわかったけど、そういうこと、《人質》にベラベラ喋るもんじゃないと……思うよ?』
『人質? いいや、僕は君ら親子をそういう風には思っていない。州公たる父上がこのことをどう利用するか、それは父上にお任せするが、僕にとって君たちは、大事な《客人》なのだ』
だからこうして包み隠さず喋るのだと、公子は満面に上機嫌な笑みを浮かべてのたまわったものだ。
『僕としては、大陸同盟本部に遊びに行きたかったんだけど。スメルニアを出し抜いてかくれんぼするのも、結構面白いな』
公子は頼りないようでいて、実は相当に抜け目ない人なのかもしれない。
よくわからない性格の人であるが、父を心底崇拝しているのはたしかである。
リアン姫はこの人に深く慕われているようで、大変に迷惑がっているのだが……
今日も今日とて、茶の時間を見計らって、その公子がコハク姫の船室にやってきた。
「僕のすめらの星! 君の船室をノックしたら、君がいなかった! ここにいると聞いて走ってきたよ!」
「……っ」
ノックの音に反応して扉を開けたリアン姫は、熱烈な言葉を聞くなり、思い切り音を立てて扉を閉じた。
「我が姫、どうか扉を開けてくれ!」
「女子会を絶賛開催中ですので、お引き取りくださいませ」
「しかし、我がいとしの姫のために、うまい菓子と新作の歌を持参したのだ」
「お菓子はいただきますけど、歌はいりませんわ。せっかく眠っている皇子様が起きてしまいます」
「分かった、では歌はあとで贈ることにするから、扉を開けてくれ」
「お菓子だけで結構ですっ」
公子ルゥビーンは、毎日このような攻防をリアン姫と繰り広げて、あえなく撃沈を繰り返している。だがいくら邪険にされても、決してめげないのだった。
「いやだがしかし、宮処に関して、新たな情報が」
「扉越しでも十分聞こえますから、そのままどうぞ」
「またもや、嘘八百な公報が月神殿から出された。黒き災厄がうち払われたので、民の帰還が始まっているとかなんとか」
「なんですって?」
ミン姫がくれた情報と一致する。ゆえにリアン姫は勢いよく扉を開けて、真顔で訊ねた。
「本当に、宮処から黒きものがいなくなったんですの?」
「公報では、まるで戦いに勝ったかのような盛り上がりようだったぞ。密偵たちも、宮処の空が晴れたと報告してきている。だがもちろん、戦いに勝ったのではない。どうやら、向かってくる敵をあらかた倒したので、悪鬼が移動した、というのが実のところであるようだ」
公子はにょきりと、水晶玉をもつ腕を突き出してきた。
「なんか色々難しいことを言われて面倒くさいから、あとは姫が直接、この水晶玉で密偵の話を詳しく聞いてくれ」
「ちょっと! またですの?! あなたこれまでの報告もほぼほぼ、あたくしに聞き取らせたでしょ! 自分でちゃんと情報処理しなさいよ!」
「僕は、姫のために作る歌を練るのに忙しいんだ。これは大連歌で、全七節からなる長大なものにする予定でね」
「はぁあ?!」
そんな体たらくで腹黒な州公家を継げるのかと、リアン姫はいきり立ったけれど。公子は割り込むように部屋の中に入ってきて、どかりと長椅子に腰を下ろした。そうしておもむろに長い脚を組み、羊皮紙にさららとペンを走らせ始める。
口を半ば開けて二人のやり取りを見守っていたコハク姫は、ははっと破願した。
「なんか、仲いいよね」
「はぁああ?!」
「そうであろう? 僕ら二人は、運命の糸で堅く結ばれているのだ」
「結ばれてませんわ!」
リアン姫の甲高い叫び声で、赤子が起きた。火が付いたように泣き始めたので、コハク姫は慌ててゆりかごに走り、我が子を抱き上げた。
「よしよし、泣かないで。乳母がちょっと照れただけだから」
「乳母じゃないし、照れてませんわよ!」
「ほーら、窓の外を見てごらん。きれいな景色だよー」
「ちょっとコハク様!」
船窓に寄れば、空が見えなくなっていた。船の高度が下がっている。
索敵範囲にすめらの軍船がいるのを察知したかなにかで、サッと雲の中に紛れたのに違いない。
窓の外はしばらく、一面真っ白になった。
「あ、雲を抜けた……」
船はどんどん降りていき、めくるめく白雲の下に出た。
コハク姫は久しぶりに、大地を目にした。
鬱蒼とした真っ黒い森林が、眼下に果てしなく広がっている。なんと背の高い樹木だろう。
杉の一種であるようだが――
「え、あれは……」
黒く天つくような森の中に、鋭くとがったものが見えたので、コハク姫は驚いた。
天に届きそうな木よりもはるかに高い。目を凝らせば、その先端が、雲の中に入っている。
「なんなのあれ? 一本だけ種類が違う木? いや違う……」
まるで渦を巻いているような、螺旋の模様のある、美しい円筒型のもの。
「塔、なのか?」
コハク姫は息を呑んで、雲を突いているそれを凝視した。
それは燦然とまばゆく輝く光を分厚くまとっていた。
あたかも。ましろの糸を巻き付けた、糸巻のように。