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黒の舞師 ~身代わり巫女は月夜に舞う~  作者: 深海
五の巻 闇炎の黒獅子
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19話 よみがえる塔

  灰色の霧がうねる。ごうごう音を立て、天上で嵐のように渦巻きを作り始める。

 世界の中に別世界のかけらが飛び込んだせいで、この空間は時間も距離も不安定だ。

 果ての無い霧はいまや、生き物のように動いている。

赤毛の少女たちがぱたぱた動いて、クナの繭の周りに風よけのテントを張った。

はためく布は、妖精たちの居住部屋にあった布物らしい。器用にもあっという間に縫い合わされたそれは、繭を中心とするかなりの範囲をすっぽりと覆い、不穏な風を防いでくれた。


「おじいちゃん、〈贈り物〉が無事でした!」


 赤毛の妖精たちは、クナの繭の前に立ち尽くすウサギのもとへ、慎重に液が詰まった円い筒を運び込んできた。


「自家発熱機、つけておいてよかったですね。他の筒は割れちゃっているものが多いですが、これは大丈夫です。ちゃんと稼働して、生育を維持しています」


 その筒は、クナが入った筒の隣に立っていたものだった。中には赤毛の子どもがひとり、膝をかかえるようにして丸まり、たゆたっている。

  

「おじいちゃん? 大丈夫ですか?」

「あ? ああ、聞いてるよ。うん、大丈夫。そうだよ大丈夫だよ。俺の師匠は、不死身の魔人だから」


 光の塔に囚われていた姫も、ウサギの師も、白鷹の後見人を追って、時の彼方へ行ってしまった――

 黒髪様の話を聞いたウサギは、あからさまに動揺していた。聞いた瞬間はたっぷり数拍、氷の彫像のように固まっていたが、我に返った今はきんきんと大声をあげた。

 師匠の魔力はすごいんだ、大陸で比肩するものはない、大体にして不死身の魔人なんだから、死にやしない――

ウサギは自分に言い聞かせるようにまくし立て、クナの繭を支える台に太い釘を打ちこんだ。

 とたん、悲鳴をあげて片手を押さえた。金槌で思い切り手を打ったのだ。彼は落とした釘を拾おうとして、別の何かを手に取った。


「あ、あれ? なんだよこれ、ニンジンじゃんか。なんてことだよ、おれの船、マジで大破しちゃったんだな。厨房のものまでごたまぜなんて」


赤毛の妖精たちは、瓦礫の山を片付けながら口々に、灰色の霧のおかげで助かったのだろうと話した。距離も時間も不安定になっているこの場所は、大陸世界の空気とは成分が違うらしい。


「船体が真っ二つに折れて墜落しましたから、みんな木っ端微塵になる……はずですけど」

「異次元のかけらが入り交じったせいなのか、ここはなんだかふわふわしています」

「空気がとても柔らかいです」


霧が衝撃を吸収してくれたのかと、ウサギは得心して釘を拾った。


「あ……えっと、なんだっけ? 〈贈り物〉も無事だって?」


 ウサギはそこでようやく、赤毛の少女たちが運び入れてきた円い筒を見た。


「よかった……魂は入ってないから、ダメならダメで作り直せたけど」

「でもおじいちゃん、納期が迫ってます」

「そうです、間に合うように再培養するのは、無理だったと思います」

「金の護国卿は待ったなしですから」

――「その妖精は、魔導帝国にやるものなのか?」

  

 繭を支える黒髪様が片目をすがめて、赤毛の子が入っている筒を睨んだ。


「うん、金獅子に頼まれたんだ。十歳ぐらいの、赤毛の子の体がひとつ欲しいってさ。だからもうちょっと、大きくしないとね」

「何に使うのだ?」

「それは言えないな。雇い主との秘匿事項だから」

「股間に何か付いている……男の子だな」

「ああもう、だれか筒を布で隠して。黒髪がうるさいから」


前歯をガチガチ鳴らして、ウサギは少女たちに命じた。


「そんなに怖い顔するなって、黒髪。生命倫理がなんだの言い出すんじゃないぞ? 倫理なんかすっかりかなぐり捨てた奴が、灰色の墓守の衣をまとうんだから」

「魂が入ってないと言っていたが」

「うん、中身は空っぽだ。特別配合の培養液で、この体に魂が入るのを食い止めてる」

「つまり魔道帝国が、その子に魂を吹き込むのだな?」

「だからそれは秘匿事項だから、話せな……いてっ!」


 クナの繭の根元に釘を打ち込んだウサギは、またぞろ飛び上がって悲鳴をあげた。今度は足を金槌で打ってしまったらしい。

ウサギが足を抱えたとたん、丸まったましろの背が突然、びきりと割れた。


「ピピ技能導師?」

「く……そ……」


 びきりびきりと鈍い音を立てて、ウサギの背にヒビが入った。ばさりとましろの毛が落ちる。小さなウサギの体がみるみる大きくなる。みるまにそれは、人間の形を成していった。


「変身術が解けた……ちくしょう……」

「あああおじいちゃん」

「おじいちゃんが、おじいちゃんに戻ったわ!」

「おじいちゃん、これ着てください!」


 赤毛の少女たちが慌てて、蒼い衣を瓦礫から引っ張り出し、人となったウサギに被せた。


「やっぱだめか……俺のちんけな魔力じゃ、形態維持できないんだ。師匠がいなきゃ……」

「おじいちゃん、右手ありました!」


 赤毛の少女のひとりが銀色に輝く義手を抱えて走ってきて、ウサギだった人に手渡した。

翁と呼ばれているのに、その人の容姿は非常に若い。どこからどう見ても、十代後半ほどの少年にしか見えず、なんと右の手が欠けていた。

 黒髪様は眉間にしわを寄せて、義手を嵌めた少年の周りに落ちた、大量のウサギの毛を見下ろした。


「本物のウサギじゃ無かったのか。着ぐるみを着ていたようには見えなかったが」

「真面目な顔でぼけるのやめろ。変身術だよ。師匠も雇い主も、絶対ウサギでいろっていうから、万年ウサギになってるんだよ」

「変身術は、前世でなったものにしかなれぬというが……」

「そうだよ。俺、ひとつ前の生ではウサギだったんだ」

  

 黒い短髪をがしがしと銀色の右手でかきむしり、ウサギだった人は今度こそちゃんと、繭の台座に釘を打った。


「むかつく。久しぶりの人間の手の方が、よく動くなんて。ちくしょう、護国卿に会うんだったらウサギにならないといけないのに。俺ひとりじゃ、超高等変身術なんて全然無理だ。俺に魔力供給してくれる師匠がいないから……し、師匠が……」


 ウサギだった人の真っ赤な瞳が、きゅるきゅる唸る。大粒の涙の滴がぼたぼたと、金槌を握る手に落ちた。

 

「ちくしょう! 俺、本気出す……!」


 まずはこの灰色の霧を晴らしてやるぞと、ウサギだった人は、赤毛の少女たちと一緒にせわしなく動き始めた。しゃかりきになって瓦礫をかき集め、うず高く積まれた山の真ん前で、小さな四角い炉に火を起こす。

 ちんけな魔力と言ったにもかかわらず、炉の周りには、ずんと重たい魔法の気配が降りてきた。

 

「まともな導師並みだぞ。黒き衣をまとえるぐらいの力だ」

「黒髪、褒めなくていい。竜蝶の魔人になった時に、俺の魔力はずいぶん底上げされた。それでも、この程度なんだよ」 

  

 ぶつぶつ韻律を唱えながら、ウサギだった人は銀の手に持った金槌で、次々溶かした金属を打っていった。彼の指示を受けた妖精たちも、手際よく金属やギヤマンを溶かして、ペンチやこてで器用に、細やかな部品を成形していく。

 

 打ちましょう 打ちましょう

 光を金に闇を銀に

 変えましょう 作りましょう

 炎に入れて 仕上げましょう――


 妖精たちは、声を合わせて歌いながら作業していた。

 かくて黒髪様の体感で、丸一日経ったころ。ウサギだった人は突然、できたと叫んで、妖精たちに風よけのテントを取り去るよう命じた。

 透明で大きな瓶を捧げ持つような、管がたくさんついた台座のごときものが、どかりとクナの繭と円い筒の間に据え置かれた。


「これで、異次元のかけらを吸収する」


 ウサギだった人が台座をガチャガチャいじると、ギヤマンの円蓋から異様ながらも美しい旋律が流れ出した。おそらくオルゴオルと同じ、次元に働きかける音を出すものなのだろう。

 作動させていくらもたたぬうち、妖精たちが歓声をあげた。

 

「おじいちゃん、やりました!」

「霧が消えていきます!」


 わあっと、場が沸き立つ中、繭を支える黒髪様が呻き声をあげた。

 

「どうした黒髪?」

「何かが、繭から出て行った」


 実体のあるものではないと、美声の人は天を見上げた。

 

「田舎娘は蛹化が始まって溶け出している。霧の中の時間の進みはやはり相当に速いらしい。しかしあれらが、娘の体の中に入っていたとは思えない。きらめく玉が三つ……」


 黒髪様の目にははっきりと、輝く玉が見えているようだ。彼はみるみる晴れて青くなっていく空の彼方を、じっと見つめた。


「真紅。真白。それから蒼……なんだ、あの玉は」

「ああ、あれか」


 ウサギだった人は、きゅるきゅる音を立てる真っ赤な瞳を天へと向けた。その義眼で、三つの玉なるものをしっかと捉えたようだった。

 

「たしかあれって、スミコちゃんの魂を引っ張り回してたやつ……一緒に宝玉に吸い込んだはずだけど」


 ウサギだった人は上部を縫い閉じられた繭に取りついた。ぎゅるぎゅるちきちき、彼の瞳の音が大きくなり、その瞳孔がきゅっと縮まる。


「眼孔に入れてた宝玉が下に落ちてる。輝きが……ない」

「透視できるのか。便利な目だな」

「宝玉からスミコちゃんの魂が出ちゃってる……墜落の衝撃と次元交錯が原因か……幸い、スミコちゃんの魂は、体に引き寄せられたみたいだ。三つの玉も、衝撃で宝玉から出ちゃってたんだろうな。でも、なぜかスミコちゃんにひっつくのをやめたってことか」

「飛び方に迷いがない。どこかへ一直線に飛んでいっている」

「俺にもそう見える。どこか、目的地があるような……」


 なんと美しい玉かと、黒髪様は感嘆の息を漏らした。

 みるみる昇っていく三つの玉から、こぼれた光が音を成した。 

 りんりん、澄んだ音色が落ちてくる。

 

 急ごう 急ごう

 タルヒのむすめを 大いなるむすめを

 帝のもとへ

 

「歌声が……」

「なんか、やばいものを放ってしまったような気がするけど」


 ウサギだった人はぎりっと赤い瞳を険しくして、妖精たちに命じた。


「繭はもう絶対に動かしたくない。ここに守護の塔を作る。全大陸から姉妹たちを呼べ!」




 むすめを 大いなるむすめを

 帝のもとへ――




 

「あら? 今飛んでいったのは……?」


 円い円いとても大きな鏡の中で、灰色の衣をまとった少女が、不安げに船窓にはりついた。

 とたん、鏡に一面、白雲沸き立つ蒼穹が映し出される。

 鏡は黒光りする艶やかな床の上に置かれているが、それを固定する台座はない。

 不思議な直立不動のそれを、一段高い部屋の奥間から、じいと眺める者がある。

 巫女姿の鏡姫。まるで生前と変わらぬ姿のその人は、鮮やかな青畳の台座に鎮座して脇息にもたれ、はたはた扇子を仰ぎながら、鏡の中の少女に語りかけた。

  

『どうしたのじゃ、モエギ』

「気球船のすぐそばを、きらめく玉が飛んでいったんです」

 

 鏡に映る赤毛の少女は、空の彼方を見つめている。しかし、おのれ自身である大鏡を眺める鏡姫には、何も感知できなかった。

 赤毛の少女は今、小さな気球船に乗っている。小ぶりながら船室がついている立派な船で、しかも快速。北五州の真上に浮かんでいる歯車だらけの浮島から、たった一日ですめら百州に入ることができた。

鏡姫が直り次第、(ヤン)家の大翁様のもとへ届ける。

そんな約束をしていたゆえ、今や一路、彼のもとへと向かっている。

そう、鏡姫を浸食しようとする「敵」は、ついに根絶されたのだった。

叩いても斬っても投げ飛ばしても、次々湧いてくる、しつこい「敵」。

何度も何度も全力で消し去ったゆえに、鏡姫は疲労困憊。巫女姿勇ましい彼女は、自身の中に作り出した「松の間」にやれやれとへたりこんで、半ば眠りに落ちていたのであった。


『きらめくものとは面妖な。どこぞの船が、攻撃してきたのかえ?』

「いえ、周りに船影はありません。玉は精神体のようなものです。朱色、真っ白、真っ青……あっという間に、先へ行ってしまいました」

『先へとな?』

「あたしたちが目指している方角に、まっすぐ」


黒光りする床が美しい部屋は、かつて住んでいた黒の塔の記憶から作りだされた幻影である。

 いい加減くつろぎたいと鏡姫が思ったとたん、なぜか一瞬で出てきた。

 むら雲の彫刻がなされた格子窓。絢爛なる金泊ばりの、松を描いた天井絵。部屋のすみにはお気に入りだった香炉があるし、自身が座っている青畳の台座からは、いぐさの青々とした匂いさえ立ちこめてくる――ような気がする。

 帝都太陽神殿の大姫の部屋ではなく、黒の塔の「松の間」が現れたのは、九十九(つくも)の方と過ごした黒の塔での生活が、心底楽しかったからなのだろう。


『わらわたちの目的地……大安がある方角か。しかし急遽、大翁様が召集される場所が変わるなぞ……宮処(みやこ)で天変地異が起こりて、まさか、竜蝶の帝の封印が解けてしまうとはのう。御所が裂けるなんぞ、想像もできぬわ』

「すめらを統べる神官族も、何十万という庶民たちも、宮処(みやこ)から避難したと、識破(シーポゥ)さんが伝信で仰ってましたね」


 伝信によれば、太陽神殿は避難所である周神殿を大本営として、動かせる軍団を急遽、宮処のすぐ西の大衛府に集めているという。

 鏡姫はため息を漏らした。

 帝室の者たち、御所にいる者たちは無事であったのだろうか?

 大スメルニアに試されたという、しろがねの娘は……

 よぎる不安がおのれ自身である大鏡に伝わりて、姫の鏡面は不穏に点滅した。


「待って、だめです。外と接触するのは、まだだめです」


 モエギが立ち上がりかけた鏡姫を制した。


「外に手を伸ばして情報を集めれば、そこからまた、大スメルニアが分身を送り込んできます」

『侵入してくるならば、また戦うまでじゃ』

「守護の塔がすっかりできあがってからにしてください。防御を万端にしてから、お願いします」

『ぬ……』

 

 鏡姫はちらりと格子窓を見やった。窓の向こうで建築資材のようなものが、上へ引き上げられているのが見える。くるまれた資材のそこかしこに、蒼い鬼火が乗っている。おーらいおーらいと声をあげる鬼火たちは、姫が作り出した幻影だが、本物のように働き者だ。彼らは「松の間」をくるむようにして、あの黒の塔を建てているのだった。

 塔を建てる〈資材〉は、モエギがくれた。組み上げて壁や砦のようにしてくれと言うので、鏡姫は自分が出した「松の間」に合わせて、なつかしい塔を建てることにしたのである。


『塔ができれば、手を伸ばしてもよいのじゃな』

「はい。できあがった塔は大スメルニアだけでなく、あらゆる悪しきものを追い払うでしょう」

『であろうな。我が黒の塔は、無敵の塔であったわ』


 その残骸はいまだ、南国にあるであろうけれど……

 鏡姫は扇子をはたはた動かして、目を細めた。

 

『大翁様のもとへつくまでに、塔を完成させようぞ。しかし大安か……かの都は宮処(みやこ)より大きく古い。一度目にしたいと思うておったが、このような形で叶うとはの』

 

 大安は、宮処(みやこ)のはるか南にある、非常に大きな都である。半世紀前まですめらの宮処(みやこ)であったところであり、(ふる)き都とも呼ばれている。


紫明(しあ)のふもとにある今の宮処(みやこ)は、もともとはタケリ様の巣であったそうじゃ。災厄のあとに、大安から遷ったというが……』


 すめらの大地は、タケリ様とその御子たる龍たちの力によって、災厄の禍を逃れた。

 すなわち遷都は、大安が破壊されたからではない。元老院が――すなわち大スメルニアが都を遷したのは、たぶんに、竜蝶の帝を封印したことと、関係があるのだろう。

 

『千年の都と謳われていた通り、大安は歴史ある都市。御所も各色の帝都神殿も、かつてあそこにあった。建物は未だに残っているが、御所は帝室の離宮に、帝都神殿はただの都神殿になったと聞く』

識破(シーポゥ)さん始め、九人組の方々は、その離宮に招集されたそうです。あたし、すめらに来たばかりのころ、見聞のために、めぼしい都市をちょこちょこ観光して回りました。大安は宮処(みやこ)よりずっと広かったですが、人口は十数万人。古都ですから、観光名所がたくさんあって、旅行者が訪れるには大変楽しいところでした。でも、廃墟になっているところがなんだか多かったです」

 

モエギはわずかに首を傾げて話した。

今の宮処(みやこ)の建物はなべて藍色、まこと一色で美しいけれど、大安の屋根は違う。ひしめく建造物の瓦の色は、まったく統一されていない。しかも新旧の建物がごちゃごちゃ、無軌道に建てられており、さながら、とっ散らかった迷宮のようであるという。


「たくさんお土産を買って、おじいちゃんに送りました。お菓子とか豆鏡とか、お守りとか」

『祖父といえば。モエギよ、そなた、技師であるその人とは、連絡が取れたのかえ? 出航まぎわに、音信不通になったとそなたがぼやくのが、聞こえたのじゃが』


 はたたと扇子を仰いで、疲れた自分を慰めながら、鏡姫は鏡の向こうに問うた。

まるで幻像絵巻でも流れているように、円い鏡に少女の笑顔が映し出される。

 

「ついさっき、あたしの姉妹から伝信がきました。おじいちゃんの工房船が墜落しちゃったみたいなんですけど、おじいちゃんも姉妹もみんな無事だそうで……きゃあ?!」

『な、なんじゃ? どうした?!』


 鏡に映る少女が突然、船窓に叩きつけられたので、鏡姫は仰天した。

 少女の灰色の衣が、鏡一面に広がる。モエギは鏡を守ろうと、しっかと抱きしめてくれたらしい。

 気球船がいきなりひどく揺れたようだ。乱気流かと思いきや――

 

「黒い影が空に!」


 船窓にすがりついたらしいモエギは、おろおろうろたえて悲鳴をあげた。

 

「あれは何? なんて大きい……なんて禍々しい……龍? あ……あれはっ……」


 即座に出された伝信のための水晶玉が、鏡姫の鏡のど真ん中に映る。せわしくまたたくその玉から、ほどなく悲鳴混じりの喧噪が流れてきた。


『こちら龍生殿! この伝信は、モエギ技能導師からであるか?』

「はい! あの今、北緯三十八度の上空に、あの……黒い龍が……! でも黒龍は、災厄の時に消滅したはずですよね? とすると、あれは……」

『墓守たちが、鉄の竜に乗りてそれを追っている。太陽神殿にも急報を告げ、軍を回していただくよう手配した。御所から出でた黒いもの……〈帝〉を名乗る者が、龍生殿を襲いて、神獣をたちまちのうちに御してしまったのだ……!』 


 水晶玉がせわしく点滅する。龍生殿にいる神獣といえば――

 鏡姫はなんということじゃと我が口をおさえた。


「ということはやはり、今、空を飛んでいるあの黒い龍は……」

――『タケリ様なのか?!』


 鏡姫の叫びを聞いたモエギが、鏡を船窓に向けてくれた。

 姫の鏡に白雲ならざる雲の海が映る。さきほどの白さはどこへやら。雲は黒ずみ、大きな渦を成している。その中央に、おどろおどろしくも黒く長くとぐろを巻いているものが見えた。

 それは全身に黒い雷をまとっているようで、絶えずびかりびかりと、空を裂くような昏い閃光を放っている……


『腐っておらぬ……光ってもおらぬ!』

「光鱗が反転してるようです! 本来ならば白く輝くはずですが、主人となった人の力に引きずられているのでしょう。あれはまちがいなく、ミカヅチノタケリです!」


 龍は渦巻きながら、恐ろしい速さで飛んでいる。

 気球船がまたぞろひどく揺れた。龍の渦に巻き込まれたのだ。だめだ、離脱できないと、操作弁をひとしきりいじったモエギは歯ぎしりして、自身を太い帯で座席につなぎ止めた。もし船が砕けたら、座席から救急の気球が出るようになっているらしい。

 かの神獣をあっという間に従えた〈帝〉とは、復活した龍蝶の帝で間違いなかろう。

 少女に抱かれる鏡姫は、呆然と、船窓を埋めていく黒雲を見つめた。

 タケリ様は、かつての主人が復活したことに歓喜したのだろう。

 かの龍神は、、竜蝶であるしろがねの娘を、なんとしても龍の巫女王(ふのひめみこ)にしたがっていた。竜蝶にひとかどならぬ愛着を持ち、人の世を壊したがっていたのだから。

 

「あたしたちの船の起動計器が、大安の方角を示してます。タケリさまは、旧き宮処(みやこ)に行こうとしているのかも……」

『なんじゃと?』  


 モエギが鏡と一緒に抱えている伝信の水晶玉が、激しく明滅する。しかしそれはもはや、ざあざあという雑音しか聞こえなくなった。タケリ様の渦が、霊波動が飛び交うのを阻んでいるらしい。

 

 小さな気球船は渦の中できりきり舞いしながらも、なんとか持ちこたえた。

 きしむ船室に戦々恐々、必死に耐えたモエギが、懸念した通りだった。

 黒いタケリ様はほどなく大安へ行き着いて、迷うことなく、今や離宮となっている御所の真上に浮かんだ。

 龍の神は明らかに、その場所を狙いすましたらしい。

 黒雲の渦から黒い雷の嵐がほとばしったとき、船室がひしゃげた。壁が一面、吹き飛んだ。

 船はしかしそれ以上砕けず、ぐるぐる、黒い渦に巻かれて飛んだ。

 神獣の雷によって、御所の建物が容赦なく破壊されていくのを、渦に翻弄される気球船は目の当たりにした。


「いけない……! あそこには、招集された偉い人たちが……し、識破(シーポゥ)さんが!」


 モエギは水晶玉で大翁様を呼んだが、雷光のせいで伝信は届かなかった。


識破(シーポゥ)さん! そんな……!」

『おのれ、やられてしまったのか?!』

「わ、分かりません! でも離宮は、すっかり潰されてしまいました……!」


 御所を存分に破壊したあと。黒い渦はすうと煙のように消え失せた。

 渦にもてあそばれていた小さな気球船は、瓦礫飛び散る御所の池にしぶきをあげて不時着した。


『退け、人間ども!』


 恐ろしい轟きが、一面がら開きの船室に飛び込んでくる。タケリ様が地に降り立ったようだ。

 地を揺るがすほどの震動と咆哮。そして、けたたましい嗤い声が、瓦礫と化した離宮にこだました。   

『人の手垢の付いた我が玉座を、浄化しようぞ! 朕の始龍(シーロン)! 焼き尽くせ! なつかしきここに、朕の新内裏を建てる! きれいさっぱり更地にしろ!』

『承知した、我が大帝! いとしき竜蝶よ……!』 


 笑い声に咆哮が応えるのが聞こえた。

 それはごうごうとまた、大地を揺らした。池の水も大いに揺れて、高いしぶきが船室を襲う。

 座席の帯を外したモエギは急いで自ら池に飛び込み、岸辺に泳ぎ着いた。

 岸辺に置かれた鏡に天が映る。

 渦は消えたが、空は真夜中のように昏かった。

 真っ暗な雲が重く厚く垂れ込めて、びかりびかりと雷光を放っていた。

 黒くおぞましい、闇色の光を。




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