17話 時の三つ玉
「……アル! ねえ、レクリアル!」
背後から快活な声が聞こえてきたので、眠りに沈んだ娘はどきりとした。
後ろを振り向きたいと思ったとたん、まっしろな霧の液体があとかたもなく消え去る。
視界の枠を成していた炎の柱も、なぜか一緒に吹き飛んでしまった。
目の前に飛び込んできたのは、光。光。光――
「え? なに、これ……!」
枠がなくなった視界は、果てが無い。
さやかに輝く空に長くたなびく白雲が、どこまでもどこまでも……無限に広がっている。
「レクリアルってば!」
呼び声をたどって横を向けば、甘酸っぱい匂いが鼻をついてきた。
背の高い柱のようなものが幾本も、ざわざわ風に揺れている。列を成しているそれらには、上の方にこんもり茂みがある。
これは果樹だと、娘は茂みが揺れる音を聞いて思い出した。天の浮島に生えている木だ。太陽のような、まばゆい輝きを放つ玉がいくつも実っている――
「こっちだよ!」
果樹の一本、二股に分かれた幹の上に誰かいる。木登りしているその人は、黒髪様よりずいぶん小さい。かん高い声からすると、まだ子どもなのだろう。ゆたりとした蒼い衣をまとい、長い黒髪をひとつにひっつめている。背中に背負っているのは杖のようだ。長くてましろで、なぜか月の光のように、ちりちりかすかに鳴いている。
少年は金色の玉を茂みからひとつもぎ取って、にこやかに手を振ってきた。
「そんな心配そうな顔しないでよ。ちゃんと浮遊の術、使えるんだから。見てて!」
「浮遊の術?」
その子は背中から杖をすっと引っ張り出し、前に突き出した。とたんに、魔法の気配があたりに降りてくる。少年の体は魔力に持ち上げられ、ふわりと浮いて、茂みからゆっくり降りてきた。
「この杖、ほんとすごいね。おかげで学園の実技試験はいつも首席だし、手合わせだって、負けたことないんだ。俺もしかしたら、本体より強いかも」
これは夢だろうか。それとも過去の記憶だろうか。眠りに沈む娘はどちらだろうと考えながら、黒髪の少年から黄金の林檎を受け取った。
「この杖、ほんとになんでもできるんだ。まるで創造主みたいに、花をいきなり、地面から咲かせることもできる」
「いきなりって、まさか一瞬で?」
「そう、一瞬で。種をまいたら五秒とかそのぐらい? だから下界のいたるところで、レクリアルに種をまいてもらって、俺がみるまに成長させるっていうの、したいんだ」
「どうして下界で?」
「レクが歩いてくその後ろに、みるみる花が咲いたら、まるで奇跡に見えるじゃん? みんな驚愕して、白い女神を崇めるようになると思うんだよね。レクが通ったところはそんなふうにみんな花畑にして、白い女神の聖地にするんだ。そこでは、争いごとは一切禁止にする。信者と花畑をどんどん増やして、大陸を平和にしていくっていう大計画さ」
なんだかこの少年はやけに明るい。きらきら、光の粒を放っているかのように見える。
たしか名前は……
「きらきら……まぶしい……マクナタラ?」
枠のない視界のせいだろうか、光の粒が果てなく四方に散っていく……
「ね、いい考えでしょ? この浮き島に咲いてる、白い花を増やすのがいいかな。俺はもっと大きくておいしい花が好きだけど、これは、レクが好きな花だから」
「あたしが好きな花……」
眠りに沈んでいる娘は、足もとを見た。白くて星のような形をしたものがあたり一面に生えている。なんてかわいらしい花だろうと、娘は目を細めた。
「花が咲くのはうれしいけれど、信者を無理に増やす必要は……」
「いいや、大陸中のだれもが、白い女神を崇めるようにしないとね。レクリアルを、大陸を統べる神にする。それが俺の望みなんだから」
「そ、それはちょっと」
「大人になったら魔人にしてくれるっていう約束、忘れないでね?」
黒髪の少年は片手でくるっと小さな丸を地に描いた。
「今は大体、これぐらいの土地しか、いっぺんにいじれないけど。魔人になったら、魔力がもっともっと、飛躍的に上がると思うんだよね。そうしたら、村ごととか街ごと、花だらけにできるようになると思うんだ。さっくばらんにいうとさ、空間を切り取って、ぎゅっとねじって、こことは違う時間流の空間を作るんだよね」
見てて! と、少年は花が生えていないところへ歩いて、ぶつぶつ韻律を唱え始めた。
地に向けられた銀の杖から、キンと張りつめた音が出てきて、たちまち魔法の気配が降りてくる。
にこやかな少年の顔が、にわかに険しいものに変わった。杖の先が――杖を握る腕が、ぶるぶる震え出す。
「ま、待って、大丈夫なの?」
娘は心配のあまり声をかけた。びきびきと、少年の右腕に異様な筋が浮かび上がる。
杖の先に、何かゆらめく小さな玉が三つ、見えてきたと思いきや。ぶしりと、異様な音がした。
娘はびくりと身をすくめた。
杖を握る少年の腕からいきなり、真っ赤な液体が散ったのだった。
「やめて! 今、ケガしたんじゃない?!」
声をかけるも、少年は韻律を唱えることに夢中だった。腕から杖を伝って、真っ赤に煌めくしずくがいくつも落ちているのに、まったく動じない。
ぽたぽたじわじわ、少年の血が地に染みていく……
「ほら見て! すごいでしょ!」
少年が誇らしげに叫ぶ。娘は地上すれすれに現れた、三つの半透明な玉の様子におののいた。
「なに、これ……渦まいて……レンズなの? 歪んで見えるわ」
「引きずり込まれるから、さわっちゃだめだよ。まんなかでうごかないのは、和玉。ここは時が止まってる。右の渦巻きは荒玉。左の渦巻きは、退玉。空間を切り取って、飴玉を包むみたいにねじると、なぜかこの、三つの玉が出来るんだ。さてここで、荒玉の渦がある土地に種をまくと……」
少年が地に落とした黒い粒から、みるみる何かが出てきた。それはまっ二つに開き、にょきにょき丈を伸ばしてくる。
「芽が出たのね!」
荒玉の中では、時間が猛烈に進んでいるらしい。芽はあっという間に何枚もの葉を出し、すっかり伸びきってつぼみとなり、花を咲かせた。
息を呑む娘に、時間を操るなんて簡単なことだと、少年は明るく笑った。
「だって、この銀の杖に、ちょっと力を入れればいいだけなんだもん」
「ああ、花が……」
開いた花が、まばたきする間もなく散っていく。
ちゃんと土の中に植えればよかったと、少年は肩をすくめた。またぶしゅりと恐ろしい音がして、少年の腕から真っ赤な煌めきが落ちていく。
見れば少年は、歯を食いしばっている。かなり強引に、空間をねじっているようだ。
「今度は連続で咲かせるのやってみたいな。そこをゆっくり歩いてみてよ、レクリアル」
「だめよ、三つの玉を消して、マクナタラ。あなたの体がもたないわ」
娘は願った。少年の名前がするりと自然に、口をついて出ていく。
「空間の中の時間を好きにいじるなんて、そんな無茶なこと――」
大丈夫だよと答えて笑う声が、突然途切れた。
蒼い衣の少年の姿が、カッとまばゆい光に呑まれた。
杖の先に触れた渦巻く玉が、いきなりむくむく膨んで、勢い激しく割れ散ったのだ。
「マクナタラ!!」
娘はとっさに少年をかばった。地に押し倒して自分もうずくまる。
周囲に飛散する光のかけらがずさずさと、娘の全身に突き刺さった。
娘の視界はすっかり闇に転じた。砕け散った空間のかけらが、娘の目を焼いたからだった。
「レク……! やだそんな! レクリアル!」
少年がうろたえる。何かしきりに叫んでいる。
韻律だろうか? 娘にはしかし、その叫びが意味あるものに聞こえなかった。
金切り声が遠くなっていく。
もしかして自分は死んでしまった? 天河に引き寄せられたのだろうか?
(でも浮遊感はないわ。あたし、浮いてない)
大丈夫。大丈夫。これは夢。きっとこれは、昔に起こったこと。
たぶんこれは、レクリアルの目が、見えなくなったときのこと。
娘は何度も自分にそう言い聞かせて、必死に、おのれを落ち着かせた。
大丈夫。自分はふわふわ、飛んでいない……
(でもなぜ今、思い出したの?)
今までの経験からすると、過去の夢を見るときは、今在る現実で、それに連なることが起こる。
ということは。
(まさかマクナタラが……トリオンさまが、何かしたの?!)
腕が虚しく空を切る。少年はどこへいったのか、すっかりかき消えてしまった。
腕を振るたび、なぜかどんどん腕が重たくなっていく。ぬるりとした壁が、指先に触れた。
義眼の中につなぎ止められた魂は、触感を感じることができなかった。だが今は、冷たくぬるっとした何かが、体を囲んでいるのが分かる。
もしかしてこれは……
(繭?!)
『……ル……』『……エル……』
糸巻きが胸元で、美しい名前を囁き続けている。
おのが魂は声に惹かれたのだろう。義眼から飛び出して、傷が癒えた体内に収まったようだ。
(まっくら……)
まだ体は古いまま? それとも、溶け始めている?
夢から覚めて視界を失った娘は、淡い期待を抱いた。
(大人になったら、目が見えるようになるといいんだけど)
娘の目が見えなくなったのは、今思い出した爆発に巻き込まれたせいだ。
体だけでなく魂にまで傷を負ったので、生まれ変わった肉体に影響が出ているらしい。
魂の傷が治るには相当な時間がかかるから、体がすっかり新しくなっても、目が見えないままという可能性は大いにある。
(あ……!)
繭の壁らしきものを手探りした娘は、ハッと、頭上を見上げた。
(上に、なにかあるわ……!)
ぼろぼろで、何かが避けているような触感。
娘は背伸びをして、そこに指を這わせた。すうっと冷たい空気が指先に当たる。
これは――
「だめだ!! まだ出てはいけない!!」
亀裂だ。
そう気づいたとたん、水晶を打ち鳴らすような美声が轟いた。
「動くな、田舎娘! いますぐ割れ目を閉じるから!」
割れた? 何が? まさか、この繭が……?
たちまち不安に駆られた娘は、手を降ろして縮こまった。首にかかる糸巻きが、胸に押し込められた手に触れる。かすかに美しい名前を囁いてくるそれは、ほのかに暖かい。
「大丈夫だ、君の繭は、なんとしても守り抜く!」
黒髪様の声がはっきり聞こえた。
まさか自分は、液体に満たされた円い柱の中にいないのか?
娘はおののいて、ますます縮こまった。
「大丈夫……大丈夫だから……守るから……!」
黒髪様の声がみるみる湿っていく。
(なにが、起こったの?!)
まさか、夢で見たあの爆発は、夢ではなくて――
(黒髪さま! 一体なにが? 工房は、無事なの?!)
黒髪様に言われた通りに、娘は胎にいる赤子のように丸まり、じっとした。
どうか恐ろしいことが起きていないようにと、願いながら。
「異次元が砕け散るって、どういうことだよ! なんですんなり、消滅しないんだ!」
ごうごう、灰色の嵐が吹きすさぶ中、ましろのウサギがおろおろと頭を掻きむしる。
四方はどこもかしこも、ぐるぐる渦巻く乱雲に覆われている。しかして彼は、空のただなかにいるわけではなかった。
ウサギの工房は、あろうことか墜落したのだ。
万年杉が鬱蒼とそびえるところで、消えかけた「小さな世界」がいきなり破裂した。空間のかけらは、矢のようにするどい閃光となりて、周囲に飛散した。運悪くも、万年杉の真上にいた工房船は、天へと飛び散った空間のかけらに射抜かれたのである。
「ありえない! オルゴオルが無くなったら、作られた世界はただ、縮んで消えるはずなのに。まさかこんな……」
ウサギはうねる雲の中から、気を失っている赤毛の妖精たちを引っ張り出した。
時間の流れがちがう空間が割り込んできたせいで、ウサギの船はまっぷたつ。地に堕ちた今は、二つの世界がこすれて出来た、このえたいのしれない嵐に巻き込まれている。
「空間が千々にちぎれて、こっちの次元を刺してくるなんて、そんなの……」
――「マクナタラが空間をねじった」
ウサギは後ろを振り向いた。何本もの透明な円柱が、無残に倒れている。そのひとつから、黒髪様が真っ白な繭をそっと引っ張り出していた。
本来なら繭ができるのはもっと先のはずだが、空間が混ざり合いて、時間の流れが不安定になっているらしい。
クナの繭は、すっかりできあがっていた。だがそのてっぺんは、柱が倒れた衝撃のためか、深く長く裂けてしまっているのだった。
「ちょ、やばいぞそれ! 速攻で繭を直さないと!」
口角泡を飛ばして前歯をガチガチ鳴らしながら、ウサギは繭を支えに飛んできた。すかさず、無事だった赤毛の子たちを呼び集める。妖精たちがわらわらと、彼の周りに集まってきた。
「もう繭になってるって、これもありえないぞ。空間がごっちゃになって、時間流が不安定になってるのか……おい、マクナタラが何をしたって?」
「異次元の空間が閉じかけたとき、あいつは空間を切り取って、三つの時間流の玉を作った。荒玉、和玉、退玉を……」
「マクナタラが、時の三つ玉を? なんでそんな、とんでもないことができるんだよ!」
「銀の杖のせいだ。いったん奪ったが、私が動揺した隙にまた、奪い取られた」
黒髪様はたちまち渋顔になり、集まってきた妖精たちを押し戻そうとした。だが、なんとかこらえた。ひとりでは繭の補修ができないと判断したらしい。
幸い、怪我を負った子はいたものの、死んだ妖精はいなかったようだ。
繭に十分な人数が集まると、手すきの妖精たちはあたりの残骸や機材をてきぱき片づけ始めた。
繭に集まった妖精たちは、ウサギの指示のもと、繭を支える支柱を組み始めた。工房船の残骸から、鉄の棒を見繕い、あっというまに台座を作っていく。
その合間に、黒髪様は韻律を唱え、繭の亀裂を繕っっていった。
「空間を操るほどの魔導器なんて、そうそうあるもんじゃないぞ。黒髪、銀の杖を作ったのってまさか……」
「あの杖は、黒き衣の導師が作る業物の中でも、最高の逸品だ。大鍛冶師ルデルフェリオが設計したものを、孫弟子にして偉大なるゼクシスが鍛え上げた。ゆえに秘められている魔力がはんぱではない。おそらく戦神の剣と同じく、際限なく力を吸収する性質がある」
「やっぱり、ルデルフェリオの魔導器か!」
ウサギの毛がざわりと逆立った。
「ルデルフェリオは、もともとは灰色衣の技師だったんだ。打銘は創砥っていって、大陸かち割るようなやばいものをいっぱい作ってる。マクナタラのやつ、あいつが考えた規格外の魔導器で、空間いじったのか。そんでどうなったんだよ?」
ウサギに聞かれた黒髪様は、ため息混じりに答えた。
「……三つ玉ができたとたん、荒玉がいきなり膨張して破裂した。その寸前に、あいつは封印箱と一緒に、退玉に飛び込んだ……」
「な……過去に逃げたのかよ?!」
「追いかけたかったが無理だった。直後、荒玉が飛散して、工房船が貫かれるのを目にしたからだ。伴侶を守らねばと、気づけばここに飛んで来ていた……」
「シャレにならない最後っ屁だな。」
「幸い杖は、マクナタラが空間をねじった瞬間、折れてなくなった。人が飛び込めるほどの時の玉を作ったゆえに、さすがにとんでもない負担がかかったんだろう」
力を発するものがなくなったから、飛散した空間はじきに自然消滅するだろう。
この灰色の嵐もじきに止む。これ以上、空間がゆがむことはない。
ウサギはホッと息をついたけれど。聞こう聞こうと思って躊躇していたことを、ついに口にした。
「おい、お姫様と、俺のお師匠様は……?」
ごうと、灰色の風が繭に吹き付ける。いやな音だと、ウサギは身震いした。否、この震えは悪しき予感が襲ってきたゆえであろうか。
黒髪様は繭の縫い目をしっかと押さえながらしばし言葉にためらい、それからぽつぽつと呻いた。
「師匠殿は金姫をかばいながら、飛散した空間のかけらを回避していたが……被弾して動けなくなった隙に、姫はあの人の腕から逃れて、マクナタラを追った……」
「な……」
「金姫は……あの人は……まったく迷わなかった。躊躇などせずに、退玉に飛び込んでいくのが見えた……師匠殿は慌てて、その後を追ってくれた。師匠殿が消えゆく時の玉に飛び込んだのが見えたとたん、三つ玉は消えてしまった……すまない、ピピ技能導師。三人は、時の果てに行ってしまった……」
黒髪様は、呆然と真っ赤な目を見開くウサギに頭を下げた。
さやかな水色の瞳にうっすら、涙を浮かべながら。
「もうだれにも、追えない」