13話 解放の風
なんとまばゆい燐光か。
コハク姫は呆然と、広がりゆく蒼い光の海を眺めた。
海原の中で、我が家の宝剣の威力を見よと、全身鎧の男が鋼の剣を振り回す。しかしその剣は相当に重いようだ。碧の鬼火を薙ぎ払ったとたん、鉄だるまはよろめいた。
圧倒的に機動力が無い彼を焼こうと、碧の鬼火がごうっと口から炎を吐きだすも。その炎はみるまに、蒼い燐光に吸い込まれた。アオビたちが猛る敵を、数を頼んで取り囲んだのだった。
「覚悟しなさい、くそみどり!」
「暴力反対です、くそみどり!」
叫びながら、蒼いものたちはさらにどんどん増えていった。囲まれた緑の炎は、苦しそうに揺らめきながらみるみる縮んでいった。ついにはすっかり豆粒ほどになり、黒い消し炭と化して、次々と床に落ちていく。
「こ、これは一体」
「そこの貴婦人、退避なさい!」
白い千早を羽織る巫女がたたたと駆けてきて、コハク姫の腕を掴む。揺れる巻き毛は、まぶしい金の色。ひと目で太陽の巫女と分かる娘だ。
「蒼い鬼火は、酸素っていう気体を吐き出す碧衆を喰らって、分裂してますの。あたりの空気も吸収してますから、気をつけて!」
息苦しくなってきたのはそのせいか。しかし、我が子を置いてこの場を離れることはできない。
心配げに視線を投げれば、蒼い鬼火が碧の鬼火から御子を奪って、こちらに駆けてくる光景が目に入った。巫女王たちに胸を打たれたシガも、蒼いものたちに助け起こされている。しかし彼女は意識を失っていて、腕をだらりと下げたままだ。
心の臓が止まったのではないか――腕の中に戻ってきた御子の泣き声が、悲しい結果を嘆いているような気がして、コハク姫は身がすくんだ。
蒼い鬼火たちが、救命を、今すぐ人工呼吸をと、口々に叫んで竜蝶を囲む。祈る気持ちで見つめていると、燐光に包まれたシガの指先が、ひくりと動いた。
「よかった……! 息を吹き返したんだ」
碧の鬼火は、いまや風前の灯火。次から次へと分裂の糧にされて、もはやほとんどいなくなった。
いけにえの儀は阻止されたのだ。コハク姫が安堵の息を吐いた矢先。
二人の巫女王が、またもや同時に同じ言葉を放った。あたり一面蒼一色。味方がすっかりいなくなったというのに。まるで、何事も起きなかったかのように。
『蒼衆よ。汝らに、停止を命じます』
その声はめらめらばちばち、いまや百以上になろうかという蒼い鬼火が燃える音に、ほとんど埋もれていたのだが。
「な……! と、止まった?!」
「え? ちょっと! どうしましたの?!」
あろうことかそのひと声で、蒼い鬼火たちは一斉に静止した。時間が停まったのではないかと、目にするものが錯覚するほど、びたりと。見事に。
『私の声が聞こえますか。我が息吹を吹き込まれたものたちよ。あなた方は決して、私に抗うことは出来ません。あなた方は、私の一部。私から生み出されたものなれば。さあ、私の血肉たちよ、竜蝶を祭壇へ戻しなさい』
鬼火たちの眼が、にわかに光り出す。瞳らしきものが見えていたはずなのに、それが白一色となり、燃える顔から表情が無くなった。
『邪魔者を排除し、生け贄の儀を行うのです』
「こら! や、やめなさいっ! なんでいきなり、おかしくなるのよ?!」
蒼い波が逆流し始めた。太陽の巫女はたちまちまっ青な炎に囲まれ、祭壇の場から押しやられた。
了解です、了解です、としか答えなくなった鬼火たちは、なんとか剣を振り上げた鉄だるまも無理矢理押して、階段から蹴り落とした。
悲鳴をあげて落ち行く重たいものを避けながら、シガを抱えた蒼い鬼火たちが戻ってくる。不気味に足並みをそろえて――
「や、やめろ! さわるな!」
蒼が碧にとって変わったのだ。それも、数は前の数倍である。
御子を取り上げようと近づく燐光を、コハク姫はとっさに片手で払った。
「あんた、大姫様じゃないだろ!」
コハク姫は月の御方を見据えた。星の御方とは初めて会うが、白い聖衣をまとう御方はよく知っている。すめらのすべての月の巫女たちの頂点にして、憧れの的。随一の霊力を誇るこの御方に、コハク姫はしばしば声をかけられた。なぜなら姫は、幼き頃よりずっと、帝都月神殿で暮らしていたからである。
月の御方の自信に満ちたまなざしは、静かな月というよりむしろ、燦々輝く太陽。まぶしく強く、ぎらぎらしているはずなのに、今ここに在る御方の視線には、まったく生気が宿っていない。
「誰だあんたは! 大姫様を操るなんて!」
迫る蒼い鬼火をまたもやかわし、姫は月の御方を睨みつけた。その瞬間。
「……っ!?」
姫の腹に、重たい衝撃が刺さってきた。見えない矢のようなものが、一直線に飛んできたのだ。
どこからこんなものがと片膝をついた姫は、衝撃の軌道を目で追って探り当てた。
「鏡……!?」
それは、巫女王ふたりの背後に飾られた鏡から飛んできたらしい。赤い灯り玉の光を浴びて不気味に浮かび上がる、円い反射板。天を読み取る大鏡と瓜二つのもの。その鏡面に、どろどろとうごめく何かが見える。
姫の腹はにわかに熱くなってきた。ごうごう、体内で何かが燃えているように感じられた。それは激しく暴れてもいるようで、御子を抱く姫は、くはっと苦しげな息を吐いた。
月と星の御方の口から、恐ろしい言葉が放たれる。
『すめらの神官も巫女も、私の一部。私の血肉。神霊玉を呑んでいる者はすべからく、私のしもべ。ゆえに。私に従いなさい。抗うことは、許しません。そなたは、我が体となるのです』
燃える。燃える。お腹が痛い。まさかこれは、体内の神霊玉が、燃えているのだろうか。霊力を高めるためにと、幼き頃に神官族の誰もが呑む玉が。瞳を真っ赤にする玉が。
だがまだなんとか、力は出せる。
コハク姫は祝詞を唱え、片腕を薙いだ。たちまち風が来たりて、ひゅんひゅん、鋭い刃のようなうねりを成す。かまいたちは、近寄ろうとする蒼い鬼火を吹き飛ばした。
「いやだ! 絶対いやだ! 従うものかっ!」
歯を食いしばり、次々と鬼火を打ち払って、姫は怒鳴った。
「私は人形じゃない! だれかに利用されるのは、もう、たくさんだ……!」
赤と黄色の顔料を合わせると、橙色になる。
蒼と黄色を合わせれば、緑色に。
赤と蒼が合わされば、紫色に。
『どうじゃマカリ。これは異国の顔料じゃ。すごいであろう』
筆をぎっちり握って、夢中で色を混ぜる幼い姫に、月の大神官が悦に入って微笑みかける。
『うん、おもしろいよ! 色がきれい!』
『舶来でめったに手に入らぬものよ。ほんに姫は、我が家に生まれてよかったのう』
『うん! ほら、もうさまのお顔、かいたよ』
『ほうほう、上手いのう。まっかな目が燃えておるようじゃ』
目を輝かせて、もうさま、もうさまと、父のトウイを慕っていたのは、いつまでだったろうか。
異国の画材は、七歳になった祝いに父がくれた。帝都月神殿の敷地内にある透家の私殿で、盛大に帯解きの儀式をしたときだ。幼児の服を脱ぎ、単衣に千早を羽織って、月神殿の童女となった日のことである。
外交を司る月神殿の長たる父は、若かりしころは外交使節として、しばしば異国へ行ったこともあったらしい。それゆえか、客間には珍しい舶来品が所狭しと飾られていた。
油絵とか。西方の国の兵士が着る甲冑とか。木目美しい猫足の家具とか。
西方の文化が大好きだから蒐集している、というわけではない。あの異国情緒あふれる客間は、おのれの権力を示すためのもの。黄金にすればこれほどの価値だと、自慢するためのものだった。
父はことあるごと、かの客間にやんごとなき客を呼び、幼い姫を見せびらかした。大勢の客人の前で異国の顔料を与えたのも、人を驚かせるため。畏怖と賞賛を得るがためであった。
『トウイ様、姫君が着ておられたのは、西洋のお召し物ですか?』
『さよう、西国の仕立師を呼んで作らせたのだよ。しかしやはり、巫女服に勝るものはないのう。さあさあ姫よ、皆様の前で、舞ってさしあげなさい』
『おお? 姫はすでに、風を起こせるのですね』
『ほほほほ、レンディールの舞踊団にいた舞師を雇っていたゆえ、あらかたの技を覚えておりますぞ』
幼い姫は、舞はそんなに好きではなかった。父が西国から雇った指南役が、よちよち歩きのころから厳しく、娘に舞術を教えこんだからだ。
修練は全然楽しくなかった。だから大好きにはなれなかったのだ。
(生まれたときから私は、父様の人形だった)
月の童女となって神殿に入っても、世話役としてついた老巫女がこれまた厳しくて、巫女修行はまったく、面白くなかった。舞うことに夢中になったのは、十臘を過ぎたころ。修行の進度が遅いので、気を揉んだ父が、世話役をすげ変えてからだ。
『本日より、姫様の世話役となりました、朧家傍流のメノウと申します』
メノウは前の世話役に負けず劣らず生真面目だったけれど、舞の修行のときだけは違った。
『姫様には、すばらしい才能がおありです……!』
初めて舞を見せたとき、彼女の目は並々ならぬ輝きをたたえた。
『もしかしたら、飛天を会得できるやもしれませんわ! レンディールの舞姫、コハク様がすめらに伝えたという伝説の技を』
『コハク?』
『西方ではアンブラと呼ばれている御方のことです。すめらの巫女に、舞術を伝えた人なのですよ』
新しい世話役は、姫の手を取り、熱心に舞を教えてくれた。その修行は実に楽しかった。なぜならメノウは自ら風となって、姫を翼ある鳥のようにしてくれるからだった。
『お池の上を飛ぶなんてすごいよ! 先生すごい!』
『ちゃんと舞術を覚えれば、一人でできますよ』
そびえたつ神殿の屋根の上に降りたり。庭園に来る鳥を追いかけたり。さざめく池を真上から眺めるのは、本当に面白かった。蓮の葉の上に降りても、ふたりは全然沈まないのだ。
(そう、こんな風に!)
我が子を固く抱きしめながら、コハク姫は思いきり、我が身を回転させた。とたんにその身がふわりと浮く。我が身から出た風の渦が、蒼い鬼火たちを巻き上げ、遠くへ放り投げていく――
『先生みて! 花吹雪! 私が出した風で、桜の花びらが舞ってるよ。先生! あれ……? 先生? 何で泣いてるの?』
メノウは時折、姫を抱きしめたり撫でたり、かと思うと、突然涙ぐんだり。様子がおかしいことがあった。ほどなく姫はこの指南役に、姫と同い年の娘がいることを知った。その子が、ここではない月神殿にいるということも。
さる属州の内乱で、メノウは月の神官であった夫を失った。反乱軍に殺された夫は、最後まで神殿を死守しようとしたという。その功労により、夫は月の偉人のひとりに叙された。はるばる宮処へ昇って亡夫の叙勲式に出席したメノウは、返礼として月の祭壇に舞を奉納した。そこで姫の世話役を探しているトウイの目に止まり、帝都月神殿に雇われたのだという。しかし……
『ええっ、先生のお家は家格が低すぎるから、お嬢さんはここに一緒に入れない? そんなのないよ。先生、私が父様に頼んであげる』
どうかメノウの娘を帝都神殿に入れてくれと、姫は渋る父に何度も頼み込んだ。その願いは叶ったが、しかしそれは、父が親子の情に心動かされたからではなかった。
『メノウの娘のことを調べたぞ。親譲りで、なかなか才のある舞手だそうじゃ。血筋は全くよろしくないが、まあなんとか、そなたの学友として足りるであろう』
すなわちメノウの娘になんにも取り柄がなかったら。利用価値がなかったら。父は姫の願いを叶えることはなかったのだ。
(私ったらほんとバカだよ。メノウ様のことで、あの父様にちょっと幻滅したけど、泣いて感謝して。輿入れのときなんか、いきなり名前を変えろと言われても、文句の一つもいわなかった!)
父のために。お家のために。生まれたときから、そう教え込まれてきた。
父たるトウイは、都合の悪いことは何も教えてくれない。名前を変える時だって、理由はひとこと、そうしなければならなくなったからだと言うだけだった。
怒り心頭で涙を浮かべる母の口から、姫は自身が「死んだ」ことを知らされて、ひどく戸惑った。
『トウの姫君は、太陽神殿の柱国将軍に捧げられ、龍に食われたことになっております。ですからもはや、そなたは、おのれの名を公には名乗れぬのです。許しておくれ……マカリ』
姫がまこと、おのれの好きにできたのは、今の名前だけ。
別の名前を名乗らなければならないのなら、「コハク」がいい。偉大な舞姫の名を頂戴したい。その望みだけはすんなり通った。でも、他はすべて……
(父様が、何もかも決めた)
主上に嫁ぐことも。そこでどう振る舞って、何を成すべきかも。
誰を助け、誰を害するか。誰を信じ、誰を憎むか。それさえも。
マカリ姫は永遠にこの世から消されてしまった。「コハク姫」も、都合が悪くなれば……
(あたしはシガと同じ、ただの駒。ただの人形。でも、そんなのはもう……そんな存在でいるのはもう、嫌だ!)
「待ちなさい」「おとなしくしなさい」「風をおさめて」
燃える腹に耐えながら、コハク姫は、迫り来る蒼い鬼火たちに吠えた。
「うるさい! 道を空けろ! 私はマカリ! トウのマカリ! もはやだれの命令も、受けるものか!」
おそらく自分がいなければ儀式は行えない。ならばこの場から離れればよいと、コハク姫――いや、マカリ姫は、島のような祭壇から飛び降りた。身にまとう風のおかげで、その身はふわふわ、やわらかに地に着地した。ぐうと気を散らして伸びている鉄だるまと、そのそばでしっかりしろとガンガン、鎧の胸を叩いている太陽の巫女。ふたりの上を、姫は軽やかに飛び越えた。
だが、燃える腹がさらに重みと痛みを増し、その跳躍は無様に失速した。
姫は地に落ちた。御子を地につけまいと、とっさに我が背を下にしたものの。そのままどうにも、起き上がれなくなってしまった。
「く……は!」
『頑固な者よ。そなたも、私に逆らうのですね。ならば、器を変えねばなりません。その小さな皇子を、わが体といたしましょう』
ふわりふわりと、目の前に月の御方と星の御方が降りてくる。相手は、狙うものを変えてきたらしい。
姫は我が子を抱きしめ、なんとかくるりと身を返した。だが四肢はもはや、がくがく痙攣して動かない。腹が破れそうに熱い。霊気が。うねる風が。たちまち消えていく……
『その子を、渡しなさい』
「嫌だ!」
巫女王たちがゆっくり近づいてくる。わらわらと、蒼い鬼火が取り囲んできて、燃える檻を作り出す。もはや、絶体絶命か――
この真っ赤な眼で、相手を貫き、止められないだろうか。姫はぎりっと、操られている人々を睨んだ。
あきらめたくなかった。いいように利用されて、利用できないと判断されたら処分されるなんて。父がマカリ姫を殺したように、コハク姫も殺されるなんて。
「嫌だ!!」
動けぬ姫は、我が子を抱きながら亀のように縮こまった。きっとこの背は無残に裂かれるのだろうと、次の瞬間やってくる衝撃を覚悟した。
怖くはない。決して、露ほども。目を閉じるものかと、姫は歯を食いしばった。
星の御方が手を振り上げる。続いて月の御方も振り上げ、こちらに指し向ける。
ああ、終わりだ――
「う? か、風?」
転瞬。姫は、風がびゅうと割って入ってきたのを見た。ふたりの巫女王が、ろうそくの炎のように頼りなげによろめく。白と蒼の聖なる衣がばふばふはためき、姫の視界をすすき襲の色合いにした。その色がまた、真っ二つに割れたとき。
「お助け、いたします!」
さやかな突風が、姫をさらった。
御子を抱いたマカリ姫は、突如突っ込んできた者に抱えられ、宙高く飛んだ。
鳥? いや、長い髪なびかせるそれには翼がない。
それはすらりとした手足の、ひどく痩せ細った女性で、異様なものを背につけていた。
「針金? 長い触手? あ、あなたはっ?!」
「〈針金足〉の者にございます。おそれながら、この墳墓の地下に囚われておりました。知らぬ間に敵の本体に近づいてしまったようで、薬を打たれ、眠らされていたようです。地が揺れたゆえに目覚めまして、慌てて迷宮を突破しましたら、このような光景に出くわした次第です」
ひそひそ、姫を抱えて飛ぶ者は囁きて。背中に負うかぎ爪のようなものから、きらめく糸のようなものを四方に放った。
「残念ながら、私はかなり消耗しています。眠っている間に、手足の爪はもがれてしまいました。よって出力は普段の半分以下ですが、なんとかなるでしょう……」
――「イチコ様!? 生きていらしたのね!」
地に転がった鉄鎧の男を、やっとのこと立たせた太陽の巫女が、驚きの悲鳴をあげる。蜘蛛足のようなかぎ爪を背負った者は、マカリ姫を抱えたまま一気に祭壇の上へ飛びあがり、一直線に円い大鏡へ走った。
「あれを破壊すれば、なんとかなるはずです」
「あれは――そう、あれから何かえたいのしれないものが、飛んできたんだ。あの鏡から!」
イチコと呼ばれた人から出たきらめく糸が、大きな円鏡に巻き付いた。まさに蜘蛛の糸のようなそれは、ひったくるように鏡を持ち上げたかと思いきや、勢いよく床へと叩きつけた。
とたん、どこからともなく甲高い悲鳴が響き渡り、蒼い鬼火たちの動きが、びたりと止まった。
何度も、何度も、光る糸は鏡を地に打ち付けた。
今の悲鳴はなんだったのかと、姫は鏡にひびが入っていく様を、呆然と見つめた。
燃えるようだった腹から熱が退いていく。嘘のように、体内で暴れる何かが大人しくなっていく……
「これは、敵の手足の一つに過ぎません。本体を潰す必要があるかと存じます」
「手足? 敵って、いったい……」
「この国を、支配する者です。彼女は、スメルニアの地底のどこかに潜んでいます」
痩せ細った助っ人は、むんと口を引き結び、糸を操る力にひとしきり念を送った。
ひびが入った鏡面から不気味な光が消え失せる。まっぷたつにばきりと割れた鏡は、恐ろしい断末魔を上げた。まるで、生きている人のように。
炎の柱の間から見える光景が、ましろの雲に埋め尽くされた。
クナは、そのまばゆい白さに焼かれる気がしてたじろいだ。
精霊の翼を羽ばたかせ、空の高みへ飛んだ黒髪様が、一気に天上へ至ったのだ。
そばに飛んできたウサギが、こっちへこいと、彼を先導したのである。
「この先に、俺の工房がある! そこに入れ!」
眼下に広がる宮処は、竜蝶の帝を名乗る者によって焼かれ、真っ黒に染まっている。
黒い炎熱を降らせている人を止めなければ、宮処は人が住めぬところとなってしまうだろう。
だがウサギは、この暴走を即刻阻止するのは無理だと、きっぱり言ってきた。
「竜蝶の魔人はマジで不死身だ。ちっとやそっとじゃ、大人しくなんない。それ専用の兵器を使わないとだめだから、俺の工房で準備する。大体にして、あんたを抱えたままじゃ、黒髪は全力出せないだろ」
ウサギの工房なるものは、雲の上に浮かんでいた。
筒のような太くて長い形をした船で、一面何かに覆われている。丈高い塔をそっくり船にしたらしく、黒髪様は苔の匂いがすごいとぼやいた。
よくよく見れば船にはびっしり、草木が生えている。小鳥に乗ったウサギが船体の隙間を蹴ると、そのすぐ下で、大きな入り口がごごっと開いた。
中に入った黒髪様は、小鳥を乗り捨てたウサギのあとを負った。
ましろのウサギはどんどん、先へと駆けていく。
らせん階段を横倒しにしたような通路の脇には、たくさん穴があり、そこから時折、燃えるような色の髪をした娘たちが顔を出してきた。
「おじいちゃん! おかえりなさいっ」「おじいちゃん、お疲れ様です」
ずいぶん進んで、それから大きな穴に入ったウサギは、黒髪様にクナを降ろせと言ってきた。
そこはずいぶん暗い部屋で、円柱のようなものがたくさん建っていた。
「まずはスミコちゃんの体の蘇生を開始する。でも、かなり大変だぞ」
「というと?」
「お腹の穴を塞いで蘇生させても、脳みその損傷は治せない。心臓停止から時間が経ちすぎてるから、後遺症が必ず残る。たぶん、全身麻痺とか、そんなことになる。だから……」
がしがしと、ウサギは円柱のようなものの一本を蹴り、明るい光をともした。
「だから、体を修復したらすぐに、一から体を作り直した方がいいと俺は思う」
まさかそれはと、黒髪様がたじろぐ。クナは一瞬、ウサギの言葉の意味がわからなかった。
体を治したら、全部作り直す? なぜいきなり、作り直さないのだろう。いやそもそも、そんな神がかりなことができるのだろうか。体を全部、そっくり新しくするなんて。
「傷を埋めて体を蘇生させたら、すめらの帝室が使う、竜蝶の成長促進剤を池に充填する。濃度は通常の十倍ぐらいでいいと思う。おそらく試算では、一週間かそこらで――」
「まさか、繭にするというのか?」
黒髪様は、押し殺した声をウサギに投げた。
「この子を、いきなり大人にするだと?」
「繭を作れば中で蛹になって、ドロドロに溶けるだろ。竜蝶は子を産む器官を持つために、一から全部、体を作り直す。だから体の不具合も、きれいさっぱり無くなるはずだ。魂の損傷による影響以外はね」
さあどうする?
ウサギはじっと、クナの顔をのぞきこんで聞いてきた。
両端に炎が燃え立つ視界いっぱいに、燃える瞳をきらめかせるウサギの顔が映る。
ウサギは微笑んでいた。自信ありげに、すべて任せろと言いたげに。優しく、目を細めて。
「どうする、スミコちゃん? 今すぐ、大人になっていいかい?」