11話 砕ける棺
黒いのに、まぶしい。
黒い人に呼びかけながら、神帝の目の中にいるクナは驚いた。
炎燃え立つ柱の向こうにある「世界」は、黒とましろの影だけではなかった。もっといろんな光が飛び交い、複雑な輝きを織り成している。
長くなびいている闇色のもの――黒髪様の髪は、半ば透き通ってきらめいている。天照らし様が照らす空の色は、かっかと怒っているようだし、両脇にそそり立つ谷間はなんだか悲しげで、さめざめと泣いているようだった。
「ここが御所? 陛下が、おわしたところだったというの?」
炎の柱に縁取られた視界を、クナはじっくり眺めた。上のすみに見える割れた大地の上に、砕けた瓦礫のようなものが折り重なっている。あれは、御所の建物のなれの果てだろうか。
影の子の力で抉られた大地の幅は、人が何十人と手がつなげるほど広い。しかも深すぎて、底はどんなかまったく分からない。とにかくも、闇色の亀裂がほぼ見渡せるということは……
「うかんでいるの?」
クナの思念はちゃんとまた、死したクナの口から言葉として発露した。恐ろしきかな、神帝の目は、身体を支配する力を持っているようだ。しかし無理に動かしているのは明白で、匂いや触感はまったく分からない。
身体はどうやって動かせばいいのだろう? 手は?足は?
だめだった。念じても、他の部位は動かなかった。クナは燃え上がる柱の間に開けた光景を、ただ、見聞きすることだけしかできなかった。
「黒すけさん……黒髪さま、あなたは、空を飛んでいるの?」
闇色の髪をなびかせる人は、クナの体をしっかと抱きつつ、深い亀裂の間に浮かんでいるようだ。どんな力を駆使してそうなっているのか確かめたかったが、クナの「視界」は急にせばまった。クナの声に反応して、影の子がさらにきつく、抱きしめてきたらしい。漆黒の髪と、こうこうと寒々しい空気を放つ石が嵌まった胸。燃え立つ柱にふちどられた「視界」は、ほぼそれしか見えなくなってしまった。
「お願い、どうか気を鎮めて。あたしは大丈夫だから――」
クナの声を否定するように、ごごうと、恐ろしい轟音が響き渡った。影の子が吠え猛ったのだろうか。続けて、ばきばきめりめりと、何かが裂けるような音がする。
橙煌石がいっぱいに映し出された「視界」が、激しく揺れる。影の子が放っている闇色の風が、またぞろ大地を抉ったのかと、クナは慌てた。
「本当です! ウサギさんが、あたしを治してくれるから、だからどうか……!」
「あまいやつ……おまえのこえが、きこえる。なぜ? しんぞうは、とまっているのに、なぜ?」
影の子が放つ割れ鐘のような声は、ひどく湿っていた。
「ゆるさない。ゆるさない。おれのあまいやつを、ひどいめにあわせたやつらなんか。ひとつのこらずけしさってやる。あまいやつ、おまえはなんで、おこらない? むざんにころされたのに、なんで……!」
「前からそうだったかもしれないけれど、今は輪をかけてそうなの。だって、封じてしまったんだもの。怒りの感情は、たぶんすっかり、封印してしまったの」
「ふういん、した?」
我が想いよ、どうか言葉になれ。口よ動け。
クナは一所懸命、念じて伝えた。
「黒髪さまが嫌いになったときのことを、思い出したくなくて。そのときの怒りを、思い出したくなくて。今の子に生まれる前に、あたしは、あたし自身を封じたのよ」
「きらいになった? あまいやつが、くろいかみのやつを?」
「黒髪さまはかつてあたしに、とても許しがたいことをしたの。でもあたしは、それを忘れたかった。だって好きだから。本当に、好きだから……! あたしの一番の望みは、黒髪さまを愛することだから!」
クナの声が、あたりに高らかに響き渡ると。
「う……?! あ……!」
影の子は突然、呻き声をあげた。
「わすれ、たかった? なにを? どれを? ゆるし、がたいこと? なんだそれは。それは。それは。うああ?! うあああああああ!!」
炎にふちどられている視界が、小刻みに揺れる。クナを抱く腕が震え出したらしく、視界が影の子の胸から少し離れた。ごうごう、真っ黒な渦が周囲に吹き荒れるのが見えてくる。
「しらない、おれは。そんなことしらない。いやだ、だしたくない。でもいたい。はらが、いたい。いたい。いたい! ちくしょうあまいやつ。なんでこいつに、ひかりをあたえた!? なんで!! うあああああああ!!」
――「田舎娘……!」
影の子から、別の声が放たれた。割れ鐘のような影の子の声を、押しのけるように。水晶を打ち鳴らしたような美しい声音が、突然に。
「黒髪さま?!」
その声はまさしく、クナの良人たる人のものだった。
「田舎娘! 今の言葉は、まことなのか?」――「ちくしょう! ちくしょう!! いやだあああっ!」
ふたつの声を出した影の子の胸に、細かなヒビが入った。なびく黒髪の合間を縫って、ちりちりと黒い煤のようなものがたくさん、あたりに飛び散る。細やかなそれはみるみる、影の子から剥がれていった。
苦しげに振り薙いだ影の子の腕が、「視界」に映りこんでくる。針金のように細いそれは、あっというまに、長く太くなっていった。それはまるで、小さな子供がたった数拍にして、大人に育ち上がっていくかのようだった。
「黒すけさんが大きくなってる? いいえこれは……黒髪さま……! もとの、黒髪さまなのね? もとに、戻っているのね?」
恐ろしくも悲壮な音色の咆哮が、無数の黒い塵とともに亀裂の中へ落ちていった。吠える塵こそは、いとしい人を食らっていたもの。まっ黒な神獣の獅子だった。木っ端みじんになったそれはしかし、落ちていく途中で再び寄り集まり、大きな塊となって激しくぐるぐる渦巻いた。
「黒き獅子よ……ついに私を吐き出したか。我が喜びを、食らえずに」
透き通った美声がすぐ近くから降ってくる。その声は亀裂に吸い込まれていく闇色の渦にむかって、別れの言葉をそっと紡いだ。
「さらばだ、私を食らっていたものよ……我が怒りと悲しみを、餌にしていたものよ。ゆえに私と同じものに、なりはてたものよ……」
しかして美声は急に弱々しくなった。空気の中に散り消えそうな儚い音色が、ちりちりと明滅する。
「黒髪さま! 大丈夫ですか?」
「ずいぶん食われた……だが、私は魔人だ。どんな状態になろうが、この身体は即座に再生する。今も死にたいと思って我が身を地に打ち付けたのに、だめだった。むざむざ君を死なせてしまうなんて……そんなことは耐えられなかったから、この身を滅ぼしたかったのに」
「だめ! どうか自分を責めないで。あたしは死なないわ。本当に大丈夫だから、悲しまないで」
「信じられない……黒獅子が嫌がって吐き出すほどの喜びが、私の中に生まれるなんて」
クナの「視界」が動いた。間近にあった黒髪様の胸が離れて、下に消える。すっかり元の大きさに戻った黒髪様の手が、クナの顔を動かして、のぞきこんできたらしい。
「あ……!」
瞬間。
クナの心は、びりりと打ち震えた。
ずっとずっと、一度でいいから見てみたいと願っていたものが、「視界」いっぱいに映し出されたからだった。
「黒髪さまの……顔……!」
この深淵は、いかほどの深さか。
落ち行くものは我ながらずいぶん穿ちすぎたと、おのれの力に驚いた。
上を睨めば、大きく戻った黒い人が、まっしろな娘を抱いているのが見える。その背に無数の精霊が集まって、翼のごとき浮力を成していた。
『あまいやつ』
ちくしょうと、落ち行くものは怒りを燃やした。
白い娘は動かない。声は出ているが、ぴくりともしない。
なのに黒い人は、娘の声を聞いたとたんに、その身に光りを灯した。落ち行くものには分からない言葉。分からない事情が、そこにはあった。
黒い人の内で光が大きく膨らんだので、落ち行くものはたちまち、耐えきれなくなった。
光など、とても食えたものではない。
喜びなど、まずくてたまらない。
それどころか、落ち行くものを傷つけ、滅ぼしてしまう。
『あまいやつ』
なぜ光など、生まれたのだろう。甘くて白い娘は全然、大丈夫ではないのに。
だれが見ても、死んでいるのに。
ウサギが治してくれても、この怒りと悲しみはおさまらない。
復讐を。復讐を。復讐を。
すっかり食らってしまうはずがないと、落ち行くものは思った。
あの黒い人はじつに美味だった。
怒りも悲しみもとめどがなくて、永遠に飢えることがないと感じたのに。
『あまいやつ。なぜ、あいつにひかりをともした?!』
落ち行くものは泣いた。怒りよりも今は悲しみが勝って、地の底に深く深く刺さりたくてしかたなかった。大地の奥底の、どろどろ燃えているものに浸かったら、少しはこの悲しみが溶けるだろうと思った。
けれども、そこへ行き着く前に、落ち行くものは見つけた。
真っ白な毛玉が何か叫んできたけれど、彼はそれを一顧だにせず、亀裂の底にあるものを見つめた。
あれは?
何かが砕けている。
卵の殻のようなものがあたりに散っている。中身はまっ白くて、まるで人のようで、死んだように転がっている。
殻は地中深くに埋められていたようだった。
中にいたあれは死んでいるのだろうか。亀裂を作ったときに、命を砕いてしまったのだろうか?
いや。
生きているようだ。
それに。それに――
『なんだこのいかりは。なんだこのかなしみは』
落ち行くものは囁いた。闇色の渦となってうねり、安堵の息を吐きながら。
『ああなんて、うまそうなんだ』
そうして彼は吠えた。その白いものを食らうために、ごうごうと。
地を揺らして彼は吠えた。
『つきぬいかりよ。おれにくらわれるがいい!』
こんな瞬間が来るなんて――
クナはまじまじと、黒髪様の顔を見つめた。
炎に縁取られた視界に映し出されたそれは、想像していた以上のものだった。
これほど黒くて美しいものは、世にふたつとないだろう。
なびいている闇色の髪。その中に、星をたたえる夜がある。漆黒の中に輝くふたつの円い星は、瞳だろうか。冴え冴えとしたそれらは、胸に嵌まっているのと同じ輝きを放っていて、まるで鏡のように何かを映している。燃えるような星をひとつ宿した、白いもの。ましろの髪をなびかせているそれは……
(あたし?)
クナを映す輝く双星から、見る間に透明なものがじわじわにじんできて、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
「それはなに? 星から落ちているのは……小さな星? ああ……涙……涙、なのね?」
「見えるのか? ああ、右目か。そこにいるのだな。赤くなった瞳の中に……赤い……」
そうだ、それと同じものを入れてやりたかったんだと、黒くて美しい人はつぶやいた。
「浮き島に行ったとき、地下の倉庫を漁った。なれど義眼は、ひとつも残っていなかった。あの島は灰色衣の技師たちの工廠だったから、もしかしたらと探したのに。白い毛玉が見えたが、あれが君に、義眼を嵌めてくれたのか?」
「そうです。だからどうか、泣かないで。あたしは大丈夫です。すごいウサギさんが治してくれるって、言っていたから、本当に大丈夫です!」
「君はやはり……ひどいお人好しだ。さっき君が言ったことは、まことのことなのか? 私が嫌いになったことを忘れるために、怒りを封じたというのは……あのときの記憶を封じたというのは……真実なのか?」
黒髪様から緊張の息が漏れた。濡れる二つ星の下のところ、形良い口が、ふるふると震えている。
夜色の顔が近づいて、視界いっぱいに震える唇が映し出された。右の目のまぶたに口づけが落とされたらしい。澄んだ囁きが、クナをそっと揺らした。
「君は本当に、私を……赦してくれるのか?」
一瞬の躊躇もなく、クナは即座に答えた。
「とっくの昔にそうしてます。天河にいたったときに。いいえ、たぶんその前に。きっとあたしは、あなたのことが大好きだと言いながら死んだんです。絶対、そうに決まってます!」
「ああ……」
大きく息を吐きながら、闇色の唇が離れていった。長い髪をまとう夜がほのかに晴れていく。きんと冷えた夜の空気が、朝焼けの光に溶けていくように。漆黒の闇が、褪せていく。
「黒髪さま! 顔の色が……!」
「君が灯してくれた光のせいだ。この光を、滅ぼせるものなどいないだろう。今の言葉がたとえ嘘でも、私にとっては――」
「嘘じゃないです!」
「私は自分が何をしでかしたか、分かっている。封じた怒りを取り戻したら、君はまた私を散々、罵るだろう」
「そうかもしれないけど、たとえどんなことが起ころうと、あたしはあなたを、絶対、嫌いになりません! そんなの、不可能です。だって何もかもすっかり忘れたのに、また好きになってるんだもの。そして過去のことを知ったのに、嫌いになれないんだもの……!」
黒髪様が、ぶるりと震えた。
暗い夜が、さらに去って行く。空はたそがれているはずなのに、暁の光が黒い人に染みこんできた。
みるみるましろへ近づいていくその顔を、曙に輝く双星を、クナは固唾を呑んで見つめた。この人は、本当に美しいと驚嘆しながら。
さやかな光放つ双星をさらに濡らして、黒髪様は口のあたりをほのかに引き上げた。
「大丈夫だ……この光のおかげで、私は……息ができる。私はやっと、燃えることをやめられる……」
なんて柔らかな顔だろう。自分もこんな、美しい朝のような笑みを返したい。クナがそう思ったそのとき。
――「ぎゃあ! 勘弁して!」
ウサギの悲鳴が、はるか下から昇ってきた。
「ちくしょう、獅子が黒髪から剥がれて、やったぜと思ったのに! ぜんっぜん箱に入らねえ! なんでこいつにも制御の大鍵がきかないんだよっ。亀裂の底にはりついて、動かねえ!」
魔人を自称するだけあり、ウサギはどうやら無事のようだ。しかしまたぞろ何度も悲鳴をあげている。
クナの視界も激しく動いた。黒髪様が、その場から素早く飛びすさったからだった。
視界の端で、黒い炎熱の矢のごときものが、裂くように昇っていく。それは亀裂の底から空へ、一直線に飛んでいった。
「今のは? まさか、落ちていった黒い渦が飛ばしたの?!」
「そのようだ。だが黒獅子は、精神体のはずだ。こんなものを飛ばすには、発動器となる依り代が要る。まさか……」
――「なんだあれ!? しゃがんでるのか? 獅子がなんかに、かぶさってるぞ?!」
ウサギがひどく慌てている。黒髪様から剥がれた黒い塵が、亀裂の底で何かに取りついたらしい。
ほろびを どうかほろびを
食い入るように視界を探るクナの周りで、衣の御魂たちがいきなり、力強く歌いだした。
どうか一緒に望んで タルヒのむすめ
すめらのほろびを まことの帝の復活を
「衣さん?! なぜ突然また……」
転瞬。ひときわ太い闇色の矢が、亀裂の底から飛んできた。
さらりとかわした黒髪様は、疾風の勢いでそれが放たれたところへ飛んだ。彼の肩の辺りに、光の粒がたくさん集まっているのが、クナの視界に映り込む。おそらく何かの精霊たちだろう。なんてまばゆい翼だろうと、クナは身を焼かれるような感覚に襲われた。
――「くそ! 離れろ! 離れろ! うがあ!」
白くもこもこしたウサギの姿が視界に入ってくる。ちょうど、亀裂の底にうずくまるものに飛びかかったところだったが、彼はあえなくはじかれて、亀裂の壁に叩きつけられた。
ぐしゃりと鈍い音をたて、ウサギは地に伸びた。ましろなはずの体は全身ぐっしょり、てらてら光るもので濡れている。毛の色と似ているが、光沢がある液体だ。それがウサギの体液だと気づいたクナは、おののきながら鋭く叫んだ。
「黒髪さま! 黒い塊が立ちました!」
「あれは……人か?」
黒い塵を一身に被ったそれは、ゆっくり立ち上がった。ゆらゆら揺れつつもそれははっきり、人の形をしている。
ひょろながい手足。地に流れる、長い髪。塵に覆われたその姿は、髪も肌も漆黒の闇。
それは、先ほどまで黒髪様と同化していた、影の子そのもの――
「黒すけさん?!」
真っ黒な子の周囲には、割れ砕けた何かが散乱している。まるで殻が破けたようだと、クナを抱く黒髪様が呻いた。
「卵のような殻……棺か? ということは、こいつは地底に封印されていた……うっ……!」
「よけろ、黒髪!」
ウサギの警告と同時に、黒髪様は上へと飛び逃げた。精霊の翼がながくたなびき、まばゆい軌跡を作る。そのすぐ下を、黒い光の矢が勢いすさまじく飛んでいき、光の残滓を微塵に散らした。
闇色の矢は止まらなかった。次々と影の子の手から放たれて、黒髪様をあっとういう間に亀裂の上へと追いやった。
「黒すけさん、やめて!」
クナが叫ぶと、亀裂の底からくくくっと、投げやりな笑いが昇ってきた。そそりたつ谷間は相当に深いはずなのに、なぜかそれは不気味なほど、はっきりと聞こえてきた。
『黒すけ? なんだそれは。ああ、朕のことか? そうか、朕は今、黒いのか? この力は……そうか……くくく、神獣が、憑いたか?』
影の子から放たれたのは、割れ鐘のような声ではなかった。まろやかで甘く、笑いが混じっているそれは朗々と、燃える色をした天の光が差し込む亀裂に響き渡った。
『朕の棺が、壊れてしまったぞ? すなわちもう、外に出てよいということだな。さて、大陸に災厄が落ちてから何年経った? すなわち、朕が封じられて何年経った? 愚かな者どもよ、これからゆるりと、朕が聞き出してやろう』
「ちょっ?! あれ、封印の棺か?! やべえ!」
地の底から、闇色の矢が幾本も放たれてくる中。ましろの鳥に乗るウサギが、それをすばやくかわしながら、流星のごとくこちらに昇ってきた。
「黒髪、いったん逃げろ! 撤退! 撤退だ! あいつは俺たちと同じ、竜蝶の魔人だ!」
「分かっている。私も棺を視認した。あれはまさしく、魔人を封じるためのものだった」
「竜蝶の魔人が、御所の真下に封じられていたの? 黒すけさんは、その人にとりついたの?!」
ああ今こそ、喜びを 勝利の歌を
驚くクナのそばで、衣の御魂たちが歓喜の声をあげた。ひゅんひゅん、クナの周りを激しく飛び交いながら。
ことほげ タルヒのむすめ
我らの帝 まことの帝に
かしづけ タルヒのむすめ
タルヒの父 汝の祖父に
誓え 誓え 忠誠を
「え……今なんて……タルヒの……母さんの、父さん?! それじゃ封じられていたのは……竜蝶で……帝……?!」
「え? 何スミコちゃん、あいつ竜蝶で皇帝なの?!」
「となれば、あいつはもしかして……だが、魔人になっていたとは聞いていないぞ」
亀裂から離れながら、黒髪様が呻く。
「すまない……私が怒りにまかせて地を抉ったばかりに……」
嘲るような笑い声が、遠のく亀裂からこだました。それはいつしかごうごうと、すさまじい咆哮に変わりゆき、燃え沈む天照らし様の光を浴びる宮処を揺るがした。
『朕を讃えよ! もはや骨董品の鏡など、恐るるものか! 朕こそはまことのすめらの主人! 天照らす大御神が天孫にして、竜蝶の王の血を引きし者! 有栖照! 令洲怜里! 愛照凛音の血に連なる者ぞ! 愚かな人民よ。朕を封じた者どもよ。朕を崇め、朕の力を思い知るがいい!』
高らかなる名乗りを聞きながら、取り憑いたものは夢中で貪った。
この怒りは、なんと美味なのだろう。
黒い人は悲しみの方が多くて、正直思うように力が出せなかった。
だが、激しくまっすぐなこの怒りは極上で、前よりもさらにすんなり、天変地異を起こせるだろう。
獲物は意志が強くて、黒い人のように捕食者を押さえ込もうとしている。だがその抵抗もまた、至高の贄。いずれ力の天秤は逆転するだろう。獲物は、食らいし者に屈服するのだ……
おいしい。
おいしい。
なんておいしい。
とめどなく湧き上がり、渦巻く怒りを、取り憑いたものはどんどん食らった。
白くて優しくて甘やかな匂いを忘れたくて、がむしゃらに。
本来の主人さえ、すっかり忘れたふりをして、ひたすらに。
しくしくとなぜか痛む意識を、悲しみと呼ぶのだろうその感情を、わざと、ずたずたに殺しながら。
無意識に囁くおのれの声など、聞こえないふりをして、闇色の獅子は食らい続けた。
魂をもたぬ、機械のように。
あまいやつ。あまいやつ。
すき、だったのに――