9話 オルゴオル
慌てふためくクナを、衣の御魂たちは光の巨塔のてっぺん近くに運んでくれた。クナがもっと近づきたいと思ったところ、人影が見える結晶のそばへ。
人の影は、まったく動かない。赤子のように丸まったまま、がちがちに固まっている。
結晶に触れそうなほど迫ったとき、かすかな響きがクナを打ってきた。
『かあさま。ごめんなさい。かえるから。かあさまのいえへ、かえるから。だから、めをさまして。どうか、おきて。おきて。おきて』
そのかぼそい声はすすり泣いているようで、かわいそうなぐらいうろたえていた。
『かあさまが、あいたいひとのところへ、いくから。だいすきなひとのところに、つれていくから。だから、めをさまして。ごめんなさい。ごめんなさい。ぼくのせいで、うごかなくなって。ごめんなさい』
おそらくこれは、御子の思念だ。母をふるさとへ連れて行けば、会いたい人に会わせれば、母は喜び、目を開けてくれると思っているらしい。
(御子はお母さまのために、すめらをめざしてる……じゃあ、お母さまが目覚めたら、走るのをやめてくれるかも……!)
九十九さま。九十九さま。ご無事ですか? どうか起きてください。
クナは動かない人影に向かって何度も呼びかけた。しかしその思念の声は、衣の御魂が歌う歌に妨害されて、少しも響かなかった。
ほろぶ ほろぶ すめらはほろぶ
ひと目見ればまことがわかる
破壊がきたると魂が気づく
美しい和合は力強くおごそかで、まるで呪文か呪詛のよう。どうかもうやめてくれと願っても、まったく止まらない。
(まって……どうしてほろぶってことばかり、繰り返すの? 衣さんたちは、天照らしさまが見聞きしたものを、教えてくれたのよね? でも、未来のことはどうしてわかったの? 天から降る御ひかりは、どうやって、先のことを知ったの?)
もしかしたら、ほろびの叫びは予言ではないのだろうか。
竜蝶は人にはあらず。人に飼育されるもの。そう断じる人々など。人間など。消えてしまえ――
命を奪われた竜蝶たちが歌に恨みつらみをこめるのは、しごくありそうなことだ。
(あたしも……竜蝶をしいたげる人たちは、好きじゃない。人じゃないって言われて、何度悲しくなったかしれないわ。衣の御魂もひどく辛い思いをしたから……だから、おそろしいことを願っているの?)
悪いのは糸をとった人たち。すめらの民のほとんどは、竜蝶を知らない。彼らは何も知らない善き臣民。神官族に飼われていて、竜蝶と何ら変わりないものだ。そして。竜蝶をほんものの家族のように大事に思ってくれる神官族も、少なからずいる。
すめらが滅べば、そんな罪なき人々まで辛い目に遭ってしまう。
(おねがい! どうか、こわいことを望まないで)
声に出して叫ぶがごとく、クナは強く願った。なれど御魂の和合は、少しもおとろえなかった。
これは未来 かわらぬ未来
ひと声聞けば定めが分かる
終わりが来たると魂が気づく
どうして、その節で歌うのだろう? 母も黒髪様も歌ったその歌で。
巨塔は平原を滑っていく。そこに広がる大きな街をすり抜け、流れる川も谷も、まるで何もないかのように越えていく。その背を押すように、衣たちは高らかに歌い続ける……
塔も歌も、止められない。クナが途方にくれて、御魂たちを抱きしめると。歌声は鎮まるどころか、なんと別のところからも降ってきた。
ひと声聴けばそれとわかる
その歌がそうだと魂が気づく
クナは驚いて、ましろの天を見上げた。別の歌声は別の歌詞で歌っている。しかも、りんりりんと、不思議な音の伴奏まで付いている。
ああなんて――
(美しい声……!)
心を焦がす深淵の炎
魂をば焦がす聖なる炎
燃え上がりしその歌こそ、
萌えて芽ぶきし赤子の寝床
(あれは……鳥?!)
歌声を出しているそれは、しばらく空をぐるぐる舞ったあと、一直線に降りてきた。
それは、小さな鳥の影。背中に小さな影が乗っている――
「うがあああ! とまらねええええええ!! なんだこれええええ!!」
どうやら小さな影が歌っているのではないらしい。たえなる歌声とはまったくちがう、かん高い悲鳴が、その変なものから放たれる。
「はざまの世界作って、誘いこんだのはいいけど、進行速度が倍になりやがった! 神獣用の大鍵がきかねえ! こいつぜんっぜん、耳をかさないぞ!」
鳥に乗っているものは、長い耳が揺れる頭をかきむしった。どう見ても人ではない。何かの小動物のようだ。背中に背負っている四角い箱から、あの歌がりんりん、流れ出している。
とこしえの唱和は女神の腕
とわに揺れるは音の揺り籠
泣いて起きしは新生の子
産声上げし炎の子
(歌詞がちがうけど、節は同じ。この歌は、いったいなんなの?)
制御が効けば、こいつを小さくできるのに。
歌う箱を背負う小動物はそうわめきながら、何度も光の巨人にむかって、きらきら光る杖のようなものを振りかざした。
「くそ! あのタケリすら黙らせる大制御が効かないって、どういうことなの?! あ、こいつ、きれいなおねえさんがいいとか、そういうんじゃ……いやいやともかく、この簡易異次元、三日ぐらいしかもたないってのに! どうする? どうするよ俺?! このままじゃこいつ、また外に出ちゃうだろ! 赤毛くんが泣いちゃうだろ!」
(あ、あの! かんいいじげんって――きゃあ!)
クナは突然、てっぺんの結晶からほとばしった光にはじかれた。勢いよく吹き上げられて、小さな鳥に乗る小さな動物に衝突する。
「ぐは! なんだなんだ? 切れた金獅子が、なんか放ってきやがったか!? 追尾精霊とか、呪い満載の言霊とか!」
長い耳を持つ影は、クナのことが見えるだけでなく、物理的な影響まで受けるようだ。それはきゅるきゅると、目があるあたりから変な音を立てて、絶句した。
「げっ……すみれ色の魂……! ちょ……ま……なんであんたがここに!?」
(えっ? あたしのこと、知ってるんですか?)
「しらいでか。あんた、すめらの星のスミコちゃんだろ。俺、あんたの仲間に直接、ウサギとリスのお面渡したぞ」
(お面?! え……え?! それって……レンディールで?!)
「白い千早に真っ赤な袴って超目立つのな。俺の師匠、ウサギの着ぐるみひっかぶって、俺と一緒にお面配りまくってたけど、かわいいあんたらに嫉妬して、いきなり特設舞台にあがってラップダンスを――――いやそれは、どーでもいい。あんた、体は?」
(あ……あたし、皇太后さまに神霊玉をとられて……死んじゃった、みたいです)
「みたいですじゃねえわ。マジで死んでるわ。だから、死体どこって、聞いてんの!」
(す、すめらの宮処の、内裏のどこかに、まだあるんじゃないかと……)
聞くなり長い耳をもつ影は、うがあと頭をかきむしった。
「地の果てじゃん! 死んだらすっげえ楽になって、体のこと忘れるって、ほんとあるあるだけど、離れすぎ! てか、これやばすぎ! 黒髪野郎がマジ切れする! 世界が滅ぶ! こっち来い!」
まるでウサギのような小さな影は、黒髪様のことも知っている?
たしかめる間もなく、クナはがしりと相手の小さな拳につかまれて、みるみる、光の巨人から引き離された。その勢いは、まるで流れ星。小さな鳥はあっという間に数千里を飛んだ。
「ふう、ひやひやした。あの神獣、どっかの老いぼれ剣と同じで、魂を食っちまうんだ。決して魂がすっこ抜けない龍蝶の魔人しか、まともに近づけないんだぜ」
(あのでも、光の御子は、うつつの世界にはいないんでしょう?)
「たしかにあいつがいるところは、ほんとの世界とちがう。でもあんたは今死んでて、おのが魂をうつつの世界につなぎとめる糸がなくなってる。だから、はざまの世界に迷い込んできちゃったんだよ」
(はざま……)
俺がこの異次元を作ったんだと、小さな影は、背負っている箱をぷりっとクナに突き出して見せた。
「このオルゴオルから流れ出てるのは、世界を創世する大韻律なんだ。この旋律を重ねれば重ねるほど、箱から生まれた世界は広がり、丈夫になっていく。昔々、同じような異次元を作らなきゃいけなくなったときがあってね。そのときのために俺はこの旋律を、大陸中に広めたんだ。あんたもどっかで聞いたことあるだろ?」
(は、はい)
「だからオルゴオルは、世界中で歌われてる大韻律を受信する装置でもあるんだ。でも今回、このはざまを作るために作ったオルゴオルは、急ごしらえでさ。焼成時間が足りないから、大韻律を受けきれない。稼働直後にヒビが入って、もうやばい。パンクするまで、せいぜいもって、あと数日ってとこなんだわ」
(ということは、御子はまた、別の世界から出てくる……?)
「出ちゃうだろうな。オルゴオルが壊れるまでに、もっと強力な制御の大鍵を作るなんて無理だから」
衣の御魂たちは、光の御子の存在を感じたときに、はざまの世界のことも感知したのだろう。おそらく、長い耳の影のことも、異次元があまりもたないことも、太陽の御光りからじっくり読み取ったのだ。でも、大韻律の歌詞を変え、しかもえんえんと歌い続けているということは……
(やっぱり「ほろび」は、衣さんたちが望んでることなんだわ。もしかして、オルゴオルに負担をかけて、早くこわそうとしているの? 御子を一刻も早く、外に出すために?)
やめて。やめて。もう歌わないで。
クナは慌てて念じたが、小さな影は、そのことをまったく気にとめなかった。
「あ、いいよ、無理に止めなくても。大韻律を歌ってるやつは大陸中にごまんといて、オルゴオルは受信器でそいつを全部拾ってる。こいつらだけ黙らせても、振動弁が折れる時間は、一秒もちがわないさ」
(そ、そうなんですか……あ、えっとあの、すごいウサギさん、)
「あー、俺はピピ。灰色のピピだよ。毛はまっしろだけど」
(ピピさん、御子は、お母さまを動けなくしてしまったことを気に病んで、それで、すめらに向かってるんです。だから、結晶の中にいるお母さまを助けることができたら、おとなしくなるかもしれません)
「そうなの? 俺には全然なにも聞こえなかったんだけど。あんた、そういうの聞こえるんだな。てっぺんに閉じ込められてる人は、もちろん助けるつもりだったけど。了解、いの一番に助けるってのを試してみる」
(あたしもなにか、手伝えたら――)
「いや、あんたはまず、しっかり生き返ってくれ」
ピピと名乗った影の声音が硬くなる。ほら見ろよと、小さな影は長い耳を揺らしながら、真下を指さした。
「案の上だ。あんたが死んだせいで、恐ろしいことが起こってるよ」
(えっ……?)
話しているうちに、鳥は宮処へ行き着いていた。天にそびえる黒い影。紫明のお山のふもとへ。碁盤の目のような路が広がる、宮処の北のはし。そこをじっと見たクナは、呆然とした。
(な……?!)
御所の奥間。内裏があるのであろうそこに、どす黒い闇がたちのぼっている。
ごうごうとうなりを上げ、天をつかんばかりのふとい柱となりて、激しく回転するそれは、まさしく竜巻だった。真っ黒なそれは、びしびしと地を裂いている。南北に、深く、深く、切り裂いている――。
「あれって、黒髪野郎だよな?」
小さな影は小さな額に手を当て、深い海溝にうち沈むようなため息をついた。
「急いであんたを蘇らせるわ。でないとまじで災厄のときみたいに、お山が吹っ飛ぶとか、そんなことになりそうだから」
(え……山が、ふっとんだ?!)
「黒髪野郎は、伴侶の子を失った直後に自暴自棄になってさ。でっかい山に我が身を何度もぶつけて我が身を消滅させようとしたんだ。でもあいつは竜蝶の魔人だから、死ぬことだけはかなわない。ごうごう燃えながら山に突っ込み続けるあいつを、俺と師匠がなんとか止めた。でも師匠なんて、いきなり黒焦げになるわ、手足くだかれるわ、俺は十回ぐらい全身こっぱみじんにされるわで、超大変だった。俺たちが竜蝶の魔人じゃなかったら、あいつに近づくだけで、蒸発してただろうな」
(魔人……あなたは、竜蝶の魔人……ウサギさん、あなたはいったい……?!)
「気づけばお山はすっかり無くなってて、大平原ができちゃってたのさ。あいつがまっくろな消し炭になるまでどうにも止められなくて……ごめんな、スミコちゃん」
小さな影とクナを乗せた鳥は、急降下した。衣たちの歌声を長く長く引きずりながら。
ひと目見れば ほろぶと分かる
破壊が来たると だれもが気づく
もどれ もどれ タルヒのむすめ
しかして黒い炎に突入する寸前。クナはふわりと、鳥から下ろされた。
小さな影がそうしたのではない。三つの衣の御魂が、クナを鳥から引き離したのだった。
(え……!? まって! あたし、黒すけさんのところに、いかないと! あそこにはシガが……リアンさまやミンさまたちもきっと……まだいるのに!)
見れば、地を裂く亀裂はかなり深い。だれかが地の底に落ちていないだろうか。あんなに高い闇の炎が上がっているなんて、建物はもう、燃え尽きかけているのではないだろうか。しかし衣の御魂たちは、うろたえるクナがそこへ行くことを望まなかった。彼らはみるみる、クナを御所から引き離した。
いけない いけない 焼かれてしまう
タルヒのむすめ 我らのむすめ
どうか我らの守りのなかに
どうか我らの祈りのなかに
「スミコちゃん?! くそ、あの御魂たち、まさかっ……!」
ウサギの影が旋回して追ってくる。衣の御魂たちは、その閃光から全速力で逃れた。
(まって! まさか黒すけさんを怒らせたままにして、すめらのほろびに加担させるつもりなの?!)
足下にあったはずの宮処が、はるか遠くに離れていく。クナはもがいた。三つの御魂を必死に落とそうと、ぐるぐるのたうった。だが、輝く玉たちはひたりとクナについたまま。ものすごい勢いで、日が沈む方角へ飛び始めた。
みかどよ まことのみかどよ
どうか目覚めを どうか復活を
悲鳴をあげる地を裂いて 大地の底よりよみがえれ――
甘くて香ばしい匂いが、歯車の上に漂う。
また窯で、おいしいものが焼かれてきたようだ。敵はしつこいことこのうえなく、また湧いてきそうな気配がする。あと一回か二回でけりがつけばよいのだが……
銀色の鏡面に浮上した鏡姫は、歯車の卓を映し出して、おや? といぶかしんだ。
湯気たつ茶色の、実においしそうな比薩餅の前には、だれもいない。大翁様なぞは、モエギという名の墓守少女とアヤメが作る食事を楽しみにして、次はあれが食べたいと指定していたほどだのに。
『ああ、モエギどのはそこにおるか』
ちらと映す角度を変えると、墓守の少女が視界に入ってきた。卓から背を向け、少し離れたところでまた、彼女の祖父と連絡をとりあっているようだ。
「制御の大鍵が効かなかったんですか? それは大変ですね。なんとしても、聖炎の金獅子から隠さないといけないのに。えっ……そ、そんなことに? はい……はい……了解しました。ええ、こちらは順調です。鏡から除去したものを鋭意分析中です。あと少しで、正体が割り出せると思います」
『モエギとやら。皆はどこへ?』
鏡姫が聞くと、灰色の衣をまとう少女は元気よろしく、くるりと振り返った。ふわりと、衣のすそと中の萌黄色の袴が舞い上がる。
「鏡姫様。実はうちのおじいちゃんが、光の塔をこの世から消したんです」
『なんと……! 灰色の技師どのが?』
「はい。別の次元に落とし込んだんです。そこで神獣をものすごく小さくして、封印箱に詰める計画だと、数刻前にあたしに伝えてきました。それで道玄先生とアヤメさんは鉄の竜に乗り、トゥーラの大平原へ向かいました。お二人はおじいちゃんとそこでおち会って、封印箱と金姫という方を受け取ることになったんです。でも、緊急事態が起こってしまったので、光の塔のことは、おじいちゃんのお師匠様に任せることにしたそうです」
『予期せぬ大事が起こったのか』
「はい。大翁様も今、おそらくその案件で、元老院からの伝信を受けておられます」
鏡姫は、墓守の少女が指さしたところに視線を移した。歯車の列柱から、水晶玉を抱え、なんとも青い顔をした大翁様が戻ってくる。若い見目を持つ人は崩れるように卓につき、涼やかな顔を両手で覆った。
「由々しきことが起きた。内裏が黒い炎熱の風に襲われ、破壊されているらしい」
『な……』
「陛下と月と星の大姫おふたりを始め、皇子やそのご母堂、臣も夫人もすべからく、御所に住まう者たちは命からがら、各門より御所の外に逃れたそうだが……御所は南北に裂け続けているそうだ」
黒い風を出しているのは、神獣であるらしい。よもやすめらも神獣の禍に遭うとはと、元老院は慌てふためいているという。
『く、黒い神獣とはもしや……』
「そうだ。しろがねの娘が黒髪の人だと言っていた、あの、真っ黒な影の子。あれが暴れているらしい。三人の巫女王は前日の神おろしを陛下からねぎらわれ、茶会に出ていたそうだが……そこで何があったのであろうな。元老院に、信じられぬ内容の勅令が飛んできている」
〈皇太后呪殺の罪により、太陽の巫女王は粛清された。すめらに忠実なる月と星の巫女王をたたえ、反逆者が放った神獣を、ただちに鎮圧せよ〉
しろがねの娘が反逆を起こした? あれが人を殺すなどありえぬと、鏡姫は思わず悲鳴をあげた。
しかし御所で黒い神獣が暴れているのは事実らしいと、大翁様は席からよろめき立ち、腕を組んでその場を行ったりきたり。ほぞを噛むような顔でつぶやいた。
「大スメルニアが、〈九人組〉を招集した……急ぎ、宮処に戻らねば……地がえぐられて、地下の大封印が解けかかるなど……まさかそんな事態になるとは……」
『大封印? な、なんぞ御所の地下には、大事なものがありますのか?』
問うた鏡姫は、まなざし鋭い人の苦悶の表情を受け止めた。
「姫よ。以前そなたに、すめらに竜蝶の帝がいたことを話したが……実はその御方は……みまかっていないのだ」
『は……? 今、なんと? 亡くなられて、いない?!』
「大スメルニアの特命のもと、我ら〈九人組〉は、あの御方を御所の地下深くに封印した。なぜなら……どうやっても、殺すことができなかったからだ」
すめらの帝室は万世一系。天照らし様の天孫である。竜蝶の血も引くとはいえ、神聖この上なき血筋ゆえに、処刑は憚られたのか。
鏡はそう訊いたのだが、大翁様はいや違うと首を横に振った。
「災厄が降ってこようとしていたとき、竜蝶の帝は星船に乗り込み、天へ飛んだ。大スメルニアはあの御方こそ災厄を呼んだ張本人だと断じ、〈黒龍〉を繰り出して、星船ごと、竜蝶の帝をこっぱみじんにした。だがそれでも、あの御方は生きていた。御身を再生しながら、内裏へ這い戻ってこられたのだ」
『な、なにをしても死なぬ体? ということはまさか、その帝は黒髪様と同じ……』
涼やかな顔が深く、縦に振られた。
「そう。あの御方は大スメルニアに消されることを警戒して、こっそり我が身を変じていたのだ。決して死なぬ者。不死身の化け物。あの、竜蝶の魔人に……!」
墓守の少女が、湯気たつ比薩餅をさっとナプキンで包む。どうか気をつけてと、少女は包みを大翁様におしつけた。
「封印が解けないように、頑張ってください! 鏡の修理はお任せくださいね。完全に治りしだい、あたしが責任をもって、御身のもとへお届けします!」
それからすぐに、大翁様は歯車だらけの浮島から降りていった。しかし島は西の果てに在るゆえに、高速の船を使うにしても、宮処へ戻るには数日かかる。大スメルニアの機嫌を損ねるかもしれないが、いたしかたあるまいと、苦笑いしながらの出立だった。
『しろがねのことを、なにとぞ……』
「むろん、善処する。さらばだ、鏡姫。健勝を祈る――」
それが今生の別れの言葉となることを、鏡姫は知りえなかった。
奥底からまたざわざわと、敵が登ってきたゆえに、彼女は全力でもってそれを駆逐するのに専念し、予測計算がまったくできなかったからだった。
だから彼女はただひとこと、ありきたりな、しかし力強い言葉で大翁様を送り出した。
おのれと彼の人、双方の勝利を信じて。
『どうか、ご武運を!』