7話 奇跡の風
「あら。今なんと、仰ったの?」
真正面から、ほほほと嗤い声が飛んできた。
皇太后様は、なぜか楽しげだった。クナがとんでもないことを言い放ったのに、まったく動じない。困惑の色も、怒りの色も、その声に少しも混ぜてこなかった。
「皇太后様、あたしもみなさまと同じく、鏡の声を聴きました」
神おろしの祭壇に置かれていた鏡。あれも、力ある何かであることは確かだ。かしこみ、畏れるべきものの一種なのだろう。
でも……
「鏡のことばをすんなり口にしていれば、お腹が燃えて苦しくなることはなかったのでしょう。でも、あたしは言いませんでした。なぜならそれは、天から降ってこなかったからです」
自分の声がりんと、あたりに響き渡るのを、クナは聴いた。
「あたしは、太陽の巫女王です。すなわち、天照らしさまの御言葉のみを、伝える者。そうではないものの言葉を、口にするわけにはいきません!」
クナの左に座す星の御方がうろたえて、かすかな呻きを漏らした。まるで、悪いことをしたと責められでもしたかのように。
右に座す月の御方は、いらだたしげなため息をついてきた。
陛下は沈黙している。吐息は規則正しく、感情が昂っている気配はない。
皇太后様は気味が悪いほど朗らかに、クナの言葉を受け止めた。
「太陽の大姫様は、職務に大変真面目なようですが。大きな勘違いをなさっているようですね。帝室の大鏡が仰る言葉は、まこと、天の神々の御言葉なのです。大鏡は天の様相を映し込み、そこから神意を読み取ります。それをすめらの言葉に翻訳し、巫女王の体内にある神霊玉に、伝信するのです」
天の息吹が言葉に直される? 一体どういう仕組みで? ある音の波動を受けたら、この文字をあてるとか?
どんなからくりであるにせよ。すめらの言葉に直されるということは、そこに鏡の力が加わっている、ということに他ならないのではないか?
「おそれながら。鏡が訳した言葉は、もはや、ほんものの御言葉とは、いえないのではないでしょうか」
クナがそう言うと、皇太后様はさもおかしなことを聞いたように、ぱしりぱしりと何かを叩いた。おそらく扇子を、畳の台座に打ち付けたのだろう。
「あらまあ、なんということを。太陽の大姫様、それを仰るなら、そなたも鏡と同じではありませぬか? そなたも天から聞いた音を、みなが知っているすめらの言葉に直したのでしょう?」
「あ……それは……」
ハッとするクナの胸元に、皇太后様の問いが突き刺さった。
「たった六臘の未熟なあなたと、いままで何十世紀ものあいだ、神の言葉を伝えてきた聖なる鏡。どちらが、神の御言葉を正しく読み取れるでしょうか? その答えは、明白ではありませぬか?」
かたかた、星の御方の菓子膳が震える。いますぐ謝罪を。抗ってはだめ。そんなつぶやきが、クナの耳に入ってくる。哀れなぐらい慄いている御方は、クナを助けようと思ってくれているようだ。
しかしその弱弱しい気配は、月の御方の、烈火のごとき叱責にかき消された。
「なんという不遜! なんという無知! 大いなる鏡の言葉を拒否するなんて、ありえませんわ。太陽の者はやはり、傲慢極まりないですわね!」
「でも月の大姫さま、あたしが聴いたのは、ほんとうに――」
「おのれの力だけで、神託を得る? そんなの真っ赤な嘘に決まってますわ! 五十臘を越えたわたくしでさえ、いまだかつて、月女さまの御声を直接、聴いたことはございませんのに!」
「え……?!」
「大鏡がなければ、ただの人たるわたくしたちが神託を聴くことなど、できませんもの!」
月の御方には、月女さまの御声が聴こえなかった?
いや。そんなはずはない。だって月の御方の聖なる衣は、今も囁いている。日の光を浴びて、ざわざわとなんだか悲しい音をたてている。昨夜、月の光を浴びたときも、聖白衣は歌ったはずだ。
永らく大姫の位にありながら、月の御方はいまだ知らぬというのか。
神おろしをする三色の巫女王が、なぜ、龍蝶の繭糸で織られた衣をまとうのか。
(あたしは気づいた……今日、いまこのとき。星の御方も、きっとご存知だわ。だって、聖衣の泣き声を聞いたんだもの)
クナが月の御方に、そのわけを説明しようとしたとき。
「鎮まれ」
ぱんと、真正面から手が打ち合わされた。クナは言葉を呑み、急いで膝を折ってかしこまった。月の御方も楚々と居住まいを正す。
命じたのは、すめらを統べる陛下だった。竜顔から発せられるまなざしが、まっすぐ矢のように飛んでくる。大翁様と同じく、なにかの眼力をお持ちなのだろうか。そう感じるぐらいその視線は強くて、クナの頬をじっとり撫でてきた。
「天啓を語る大鏡は、永きにわたってすめらの王朝を支えてきた。これを疑い、その言葉を拒否するは、すめらに対する反逆と同義である。四百三代目の、太陽の巫女王よ。朕は、おまえを知っている。おまえは……いっとき朕のそばで暮らした者。朕はそれを覚えている。その顔。その声……」
(そうよ。あたしは数か月、あなたと暮らしたわ。シガと一緒に三人で。陛下、どうかシガのことも思い出して……!)
クナは心の底から念じたけれど。陛下の玉音は石のように硬く、冷たかった。
「その匂い。朕は覚えている……忌まわしい、甘い匂いを」
「いまわしい? そんな、陛下――」
「罪深き者よ。昨日おまえが口にした言葉は、天の声であったと、証明して見せるがよい。真実、天照らし様の御言葉であったのであれば、慈悲を与える。未熟であるがゆえに、神託を聞きまちがえたのだと判じてやろう」
クナの心はみるみる萎んだ。どうあっても、シガはいけにえにされてしまう運命なのだろうか。
やはりこの陛下はおかしい。シガを妃にしたいと囁いていた人ではない。鏡の力で正気に戻ったと、鬼火たちは言っていたけれど。これでは、鏡におかしくされたとしか思えない……
――「今すぐ謝罪を! まだ間に合います……!」
慄く星の御方が、ひそひそ促してくる。
「黄金冠をとって足元にお置きなさい。自ら位を辞すれば、お赦しが下ります」
「いいえ……いいえ! 大丈夫です。あたし、できます。証明できます」
クナは首を大きく横に振り、再び立ち上がった。
深呼吸を一回。おのれを奮いたたせるべく、胸を張り、精いっぱい微笑む。
「仰せの通り、いまから証明します。どうか目をこらして、見てください。どうか耳をすまして、聴いてください」
ここが露天の拝謁所でよかったと、クナは運命に感謝した。
できる?
ええ、できるはず。南中ではないけれど、きっと大丈夫。天照らし様は穏やかに、光の手を地に注いでいる。クナの脳天や頬を、優しく焼いている。
(そうよ。感じてもらうのよ。あたしが聴いたものを、あたしが視たものを、陛下やみんなにも。母さんが、あたしにしろがね色を、視せてくれたように……!)
かつて何回、糸を鳴らしても。どんなものを叩いても。母さんの真似はできなかった。
でも。今ならできる――
「お願い。また一緒に舞ってください。朱の衣よ!」
菓子膳をそっとよけて、クナは茶席の前へ出た。
階までは、十分に空間がある。そのことを確認して、もう一度深く息を吸う。
今度は自然に、微笑みが浮かんだ。
(思いっきり、舞えるわ!)
まさか日を置かずに神おろしをすることになるとは、思わなかった。
だが、やるしかない。幸い、舞うことならば、なんとかなる。
手を広げ、凪の型を取る。それからゆるりゆるりと腕を薙ぎ、そよ風へ。
たちまち、魔法の気配が降りてきた。ふわり、ふうわり空気が揺れる。
神楽の音はないから、拍子が取れるか不安だけれど。音がなければ、出せばいい。
『指先触れれば あなたとわかる』
口をついて出たのは。
『あなたがそうだと 魂が気づく』
月が輝く晩に、母が歌ってくれた歌だった。
『ふりそそぐは 白き炎
御子を抱きし しろがねの腕』
その声に、朱の衣が応えてくれた。
しゃん。りん。しゃん。りん。聖なる衣が鳴り響く。日の光を浴びながら、高らかに。
みるみるあたりに、風が起こる。渦巻くそれは、つむじ風。クナが腕をひと薙ぎするだけで、風がくるくる、激しく回る。もっともっと風を起こそうと、クナはおのが体を回転させた。
ひゅんひゅんりんりん。しゃらりんりん。聖なる衣が合わせて歌う。日の光を浴びながら、かろやかに。
(歌って。もっと、歌って。みんなに、あなたの声が聴こえるように!)
「なんですの? この奇妙な音は」
「無茶です……! 昨日、おろしたばかりなのに」
背後にいる巫女王たちの声が、風に煽られ舞い上がる。
風よ。もっと。もっと。もっと……!
(吹き荒れて!!)
がちゃちゃと、菓子膳が倒れる音がする。つむじ風の勢いで、席が乱れたのだ。
けれどもクナは構わず、風の力を思い切り強めた。
しゃらしゃらりんりん。ひゅんりんりん。
風の渦が速くなっていくとともに、おのれが歌う歌がとぎれとぎれになってくる。
息が切れてきたけれど、大丈夫。まだ歌える。まだ……。
『ひと目見れば その子とわかる
その子がそうだと 魂が気づく』
無我夢中で舞い歌ううち。母の歌はいつしか、黒髪様が歌ってくれた歌詞に変わっていた。
『心をば焦がす恋の炎 その身をば焦がす聖なる炎』
大丈夫。まだ、歌える。まだ、舞える……
『灰と成り果てし我が身こそ 灰を潰した子の寝床
とこしえの波は 慈悲のかいな いにしえより揺れる 水の揺り籠
泣いて沈みし 眠りの子 名を失いし炎の子よ
我が名を思い出し 唱え給え――!』
(レナンディル! レナ! 黒髪さま! あたしに、勇気を。舞う力を!)
歌詞の通りに、クナは唱えた。今一番そばにいてほしい人の名前を、心の中で。
呼んだら影の子がいますぐ、駆け付けてくれる。そんな気がしたからだった。
「な、なんですの?! この舞は、一体?!」
「大姫様の体が、浮いて……!?」
巫女王たちが、風から逃げようと席から下がる。その気配を感じながら、クナは、花音の風を周囲に打ち放った。
(風の道ができたわ。さあ、天へ――!!)
風がクナの体を舞い上げる。高く、高く。天の高みへと。
こおう、おうおう。飛天となったクナを包む聖なる衣が、猛々しく叫ぶ。
「聴いてください! この音を! この声を!」
クナは天に手を差し伸べ、陽の光を求めた。
「これこそ天照らし様の、御声です!!」
光に焼かれる衣がうなる。囂々、煌々、すさまじい声で叫んでいる。その叫びが、クナが押し広げた風に乗って、あたりに響き渡る――
その瞬間。不思議なことが起こった。クナの背後からも、歌声が聞こえてきたのだ。
ひゅうひゅうりんりん。きららしゃらら。
それは。巫女王たちの衣の音だった。
ひかり
ひかり まぶしいひかり
月の御方の聖白衣も。星の御方の聖蒼衣も。クナの風に吹かれて、歌いだしたのだ。声を合わせて、高らかに。
きたる きたる まぶしいひかり
ひとめみれば それとわかる
そのこがそうだと たましいがきづく
「な……なんですのこの歌声は?!」
「和合しています……! 三色の衣が……!」
月の御方が息を呑む。星の御方も呆然としている。
「なんて、美しい声……!」
こころをばこがすこいのほのお
そのみをばこがすせいなるほのお
それはひかり まばゆいひかり
てんにむかってそびえたつ……!
美しい唱和があたりに渦巻く。風の中心にいるクナは、地に足をつけた。回転を止めてもなお、三色の衣たちは歌っていた。風がすっかり収まるまで、おごそかに。
「うそ……こんな……」
それはクナにもまったく予想外のことだった。朱の衣の声をみなに聞かせたい。その思いがよもや、白や蒼の衣にも届くとは。まさか一緒に歌ってくれるとは……
「陛下……お聞きください!」
床に手をつき、肩で息をしながらも。クナは真正面に顔を向けた。
「あたしは昨日、日の光を浴びた、朱の衣が出した音を、聴きました。その音はさっきみたいに自然と、ことばになりました。龍蝶の繭糸には、天の声を伝える力があるんです……!」
月が輝く晩。母さんは糸を使って、しろがね色をみせてくれた。
あの糸はきっと、龍蝶の繭糸だったのだろう。
あのとき、月女様の光をとらえた糸が放った音は、ちゃんとした言葉には聴こえなかったけれど。それは織りなされた衣ではなくて、たった一本の糸だったからだろうか。それとも、クナが未熟だったせいなのだろうか?
だが間違いなくあれは、神おろし。母さんはクナに、月女さまの声を、聴かせてくれたのだ。
「陛下にも、聴こえましたよね? 天照らしさまは、昨日と同じことを仰いました。ひかるがくると。あたしの衣だけじゃない、ほかの巫女王さまの衣も一緒に――」
「うあああっ……!」
突然、がたたと、玉座をかこむ几帳が倒れる音がした。真正面から苦し気な呻き声が聞こえてくる。
「うう……! ここは……うつつか? まだ、夢の中か? うつくしい音……雅なる歌が……ここはどこだ……なぜ巫女王たちがいる? シガは、どこ、だ……?」
「陛下?!」
「うあああ!? 痛い。痛い! やめろ! 叫ぶな……!」
「陛下。しっかりなさいませ」
皇太后様が動く。玉座から転げたらしい陛下に近寄ろうとしたようだが、その気配は短い悲鳴とともに、陛下その人にはねのけられた。触れるな、あっちへいけと割れた玉音が放たれる。
「ううっ! 腹が……腹が熱い! も、燃える! ここは、まだ夢のなか、なのか? うつくしい、歌声によばれて、やっと、目覚めたと思った、のに……なぜ、聴いてはいけない、のだ? なぜ、そう命じてくる? 腹の中で、なぜ、暴れる……?! し、シガは、どこ、だ」
「いけにえに、されようとしています!」
クナはとっさに叫んだ。
「どうかお慈悲を! 皇后昇位にふさわしいいけにえは、他にあります! 陛下、どうか――」
陛下のもとへ駆け寄りたかったが、大技をくりだした体はもはや、いうことをきかなかった。がくりと膝が折れ、少しも力が入らない。肩がひどく上下して、激しい咳が襲いくる。
「いけ、にえ? 皇后? なんの、ことだ? ぐうう、腹が……熱、い……」
「陛下?! お腹が燃えているのですか? まさか……神霊玉が、体の中に?!」
――「何を驚いていますの? 当然でしょう?」
皇太后様の冷たい高笑いが、クナの頭に降ってきた。
「すめらの帝は、すべての神官族の頂点にある者。大祭司なのですから。神霊玉を呑んでいるのは、当然のことです」
「陛下! なんとお苦しそうな」
「ま、まさか、今の神おろしの歌声が、お体に障ったのですか?!」
月と星の御方はすっかりうろたえている。おじけづいて、階に近づこうとはしない。七転八倒し、さらに几帳や茶の膳を倒して、陛下はどうと床に倒れた。
しかし皇太后は少しも動揺せず、吐き捨てるようにつぶやいた。
「全く情けないこと。いったい何度、鏡の制御を受けたらまともになるのかしら」
「制御……!?」
「あら? 声に出しては言わなかったはずだけれど。太陽の大姫様は、耳ざといのですね」
みしり。みしり。玉座を戴く階から、皇太后様が降りてくる。
ゆっくり近づく足音は、疲弊して動けぬクナの前でひたりと止まった。
「聖衣の歌声。たしかにみごとでした。大変美しい歌声でした。まさか本当に、天の声をおろせるとは。予測計算に少々、手違いがあったようです」
認めていただけるのですかと、クナは倒れた陛下の様子を気にしながら問うた。
皇太后さまは、ええ、と答えてクナの肩に手を置いてきた。
「認めましょう。そなたは、鏡の言葉を聞く必要のない者。まことの巫女王であるのですね」
つうっと皇太后様の手が、下へ降りていく。
「実に、大儀でした。具合のお悪い陛下に代わって、わたくしが慈悲を与えましょう」
「……っ!?」
分厚い単の重ねが、みきみきと音をたてる。
刹那。信じられぬものが――鋭い刃のようなものが、ものすごい勢いで単に食い込んできて。
「ぐ……あ……?!」
クナの腹に、深々と突き刺さった。
「体内にある神霊玉を、取ってさしあげますわ。ほほほ。そなたには、必要のないものでしょう? 大いなる鏡の言葉を無視する、そなたにはね」
「あ……う……!」
がふりと、口から甘い液体があふれでる。かぐわしくて甘い龍蝶の血が、喉の奥からとめどなく、こみ上げてきた。臓腑を潰すかのように、鋭いものが腹を抉り、激しかき回してくる。
「……! ……! ……っ!!」
声さえも上げられず。クナは激しく痙攣した。
「ああ、大姫様……! だから逆らわないでと申し上げたのに……!」
星の巫女王の囁きが、クナの耳に飛び込んでくる。
ずるりと、鋭いものが腹から抜けた。そのとたん、クナの体は、どうっと前のめりに倒れた。
もはや口からだけでなく、穴の開いた腹からも、甘い匂いの立つ血が流れ出している。絶え間なく湧き出す泉のように、みるみる血だまりが広がっていく……
にわかに。みしみしと、皇太后様の体が変な音を立て始めた。
(あ……これ、は……くろかみ、さまの)
前にも聞いたことがある音だと、クナが思い出した、その瞬間。けたたましい嗤い声が降ってきて。
「ほほほほ! うっかり素手で、加護がついているとかいう体に、触れてしまいましたわ。この女は、もう使用できませんわね。次は、皇后に乗り移ることにしま――」
言い終わらないうちに、皇太后様の体は、破裂した。鈍い音を立てながら、その体は砕け散り、あたりに飛散した。木っ端みじんに――
二人の巫女王の悲鳴が、露天の拝謁所に満ち満ちた。
陽の光が燦々と、凄惨なる茶席の上に降り注ぎ、意識を失ったクナを優しく焼いた。
あたかも。母の腕で包み込むように。