9話 つむじ風
クナは鼻歌まじりに、きゅっきゅと格子窓を拭いていた。
午後から始まる巫女修行は、今日も今日とて掃除三昧。本日は下層三階、初めてきれいにした階を再び清掃して回っていた。
その窓が拭き終わるなり、くるり。きびすを返して伸びやかに両腕を上げ、くるくると回転。クナはおもむろに片足をひき、ぴたと姿勢を固めた。
「イナカ・ムスメさま。イナカ・ムスメさま」
「あ、アオビさん?」
その姿勢で指先をぴんと伸ばすクナのもとに、めらめら燃えるものがやってきた。
毎日おやつの刻にこそっと落雁や餅をくれる、鬼火である。
「大変でございます。って、そ、その格好は?」
「あ、ええと、まいのかたち、らしいです」
たじろぐ鬼火の前で、クナはもう一度くるくる回転し、両腕をあげた姿勢で固まった。
「きのうおそうじしていたところで、びぃんびぃんって。だれかが、すごくきれいなおとをならしてて」
「びぃんびぃん?」
「あたし、そのおとをきいて、おもわずおどっちゃったんです。そうしたら、おとをだしてたひとが、ゆかをばんばんたたいて、おおわらいして」
「床をばんばん?」
「そのひと、あたしのもうひとりのせんせいだっておっしゃって、これをおしえてくれたんです。このかたちでよろけないで、すごくはやくまわれるようにしなさいって。だからおそうじするついでに、れんしゅうしてます」
「もうひとりの……そ、そうでございますか。ともあれ、本日もお疲れさまでございます」
鬼火は床にびたり。燃えるその身を目の前に投げ打った。
ちょうど掃除夫を雇うところであったのが、クナのおかげで人件費が浮いたのだそうで、彼はやって来るたび、そのことを感謝する。
「あなたさまに下々の業務をさせるのは、実に心苦しくてならぬのですが。おかげさまで本日も、大変に助かりました」
クナは喜びのため息をついた。顔はたちまち満面の笑み。家族に役立たずといわれ続けてきた娘にとっては、今の言葉は何にも勝る褒美だった。口の中でさっと溶ける落雁よりも。ほっぺたが落ちそうなお団子よりも。
うれしさに胸ふるえる少女は、しかしわずかに首を傾けた。
「もうおやつのじかんなんですか? なんだかとってもはやいような」
様子がおかしいと思ったその通りに、鬼火は菓子を携えてきていなかった。
「まことに遺憾ながら。この塔は本日、午後の丑の刻をもちまして、戦時体制に入りましてございます。急ぎ、梅の間へお戻りくださいませ」
緊張はなはだしく伝えられたその言葉によって、クナは掃除を切り上げることになった。しかし調度品を拭けば、この部屋の掃除がきりよく終わる。ちょっと待ってくれと、急いで拭いてしまおうとしたそのとき。
ずんと、床が地響きたてて揺れた。
「ひゃっ?! な、なんですか? これ?」
よろめき尻持ちをついたクナに、鬼火は「戦時体制ですので」と答えた。
床についた手がびりりとしびれる。足元から。いやもっと下から、低い轟音がわき上がってきていた。塔が身を震わせているのだ。
ごくりと息を呑みこんで、クナはおそるおそるたずねた。
「アオビさん……センジタイセイって……」
「はい。現在、塔はゆっくり南に、速度毎刻二里の低速度で移動しております」
鬼火は固い口調で答えた。
「砲門を開き塔を動かすこと。これがすなわち、守護の塔の戦時体制でございます」
すめらの帝国は、えんえんつらなる石組みの城壁で、百州と属国を隔てている。
防壁は天つくほどの高さで万里の長さ。対空雷砲を備える方塔が一定間隔で建っており、あまたの兵が配置されている。
目の前には谷川や、深い人工堀。ところどころに置かれている関所を通らねば、百州へ入ることはできぬ。
かく前置き、鬼火はクナに説明した。
「この黒の塔は、主さまが擁する黒曜軍団五万の司令塔。そして現在、西部国境を守る長城を守護するための砲塔ともなっております。なぜなら主さまの軍団のうち五千が、まさしく西部長城を守っているからでございます」
守備範囲に在る関所は三つ。そのひとつに、敵軍が迫っているという。会戦にやぶれて敗走するすめらの軍が、その関所から国内へ逃げ込んできているそうだ。
「この塔はそこへ接近し、撤退する軍の支援にあたります。三百六十度方向に、超長距離の加農砲 および、精度バツグンの対空雷砲など、およそ十種の砲弾・光弾を、すでに装填済みです。狙えぬ目標はございません」
(なんてこと)
びっくりしたクナが急いで梅の間に戻れば、そこには鬼火がうじゃうじゃ。
「失礼いたします」「お支度を」「戦時です」「戦時でございます」「ご武装を」
ひしめきながらむらがってくる彼らにたじろぐと、部屋に置いていたクナの仙人鏡が、避難させられず申し訳ありませんと謝ってきた。
「奥様の入塔記録には、戦時におけるご移送先が記載されておりません。すなわちここにいらっしゃらねばならぬことになっております。正奥さまに問い合わせられましたので、その旨をお伝えしましたら、奥さまを武装させるようにと仰せつかりました」
鬼火たちは、ご正室さまに遣わされてきたらしい。クナは彼らの介助でたちまち、戦支度をさせられた。
あっという間にたすきをほどかれ、三角の胸当てが単の上からつけられ。腰には硬いはら巻きのようなものをぐるりまかれた。それからずしりと重い衣を三枚。
「鉄糸を織り込みました、鉄錦にございます」
それはまさしく、月神殿で着せられたものと同種の衣。衣の重さでクナの肩がずんと下がる。
額には硬い帯を巻かれ、頭にはずっしり重いものが乗せられた。しかし両手は、すっぽり鉄の衣の中。どのようなかぶりものか、確かめられない。
「急ぎ、舞台へ」
「正奥さま、二の奥さま、すでに舞台へ上がられております」
なんと上の奥さま方も、避難はなさらないようだ。舞台とはなんぞやと思っているうち、鬼火たちはクナをせかして台座の輿に乗せ。えっほえっほと、かなり上の階へ運んだ。
ごおんと分厚い扉が開かれるなり、全身に外気があたる。ふきすさぶ風がまっこうからやって来るとともに、ずずずず、ごごごご……。塔の足音がはっきり聞こえた。
(ほんとにうごいてる……!)
床に置かれるなり、クナの輿はじりじり揺れ動いた。ほんのり冬をしのばせる風の、なんと冷たいこと。舞台とは、塔よりせり出しているところらしい。しかし龍が着地したところとは、また違う場所のようだ。
目の前にだれかの気配がある。上の二人の奥さまかと、クナが深く平伏したとき。
「そろったな。それでは始めようぞ」
かなり前の方から、着付けを教えてくれた上臘さまの声がして。
「あいな」
刹那、右手前方から、びぃん、びぃんと、あのきれいな琵琶の音色が鳴りだした。それにあわせてしゃんしゃんと、すぐ前で複数の鈴の音が続く。左前方から流れ始めるは、ぴーひゃらら。笛の音だ。
少なくとも五人いると声と音を数えたクナの耳に、真正面から力強い歌声が飛び込んできた。
『聖なるひかり かしこみ奉れば』
左手後ろでじゃんと銅拍子が鳴らされ、「あいな!」と一斉にあいの手が入る。
(ろくにんで、みんなおんなのひと)
クナが数え直した刹那――あたりの空気があの、なんとも不思議なものに変わった。
あたりに降り立つはあの気配。
見えないものがみえる、感覚が鋭くなる異様な空間に、そこはくるりとくるまれた。
驚いてくんと嗅げば、歌声と共に正面から漂ってくるのは、甘やかで蒸れた香り。濃ゆい香り醸す上臘さまが歌っておられるのであった。
『天の御手降り 輝き給う』
「「あいな!」」
一節歌うごと、あいの手が響く。
「お立ちくださいませ」
すぐ前で鈴を鳴らす人が囁いてきた。一緒にあいの手をお入れくださいという。
これはお神楽の一種であろうか?
正奥さまと二の奥さまがおられると聞いたが、どこにおられるのだろう?
楽器を持つ人の中におられるのか、それとも別のところで台座に座しておられるのか。
分からぬまま立ち上がったクナは、あいな、あいなと声合わせながら三百六十度、頭を下げて回り、それを見えぬ方々への礼とした。
右前方、琵琶を鳴らす人の方を向けば、ふっと寂びた香りが漂ってくる。
(ああ、きのう、まいをおしえてくれたひとだわ)
もうひとりの先生だ。このお方もきのう、おのれのことは上臘さまと呼べとクナにお命じになられた。濃ゆい香りの方と同じく、かなり年季を積まれた巫女であるらしい。
おそらく正奥さまたちは、巫女様たちにご祈祷を頼んだのだろう――クナはそう思い込んだ。
一曲終わると、あたりにたちこめる不思議な気配はさらに深まり、しっとり湿った霧のよう。音が鎮まっても、あたりをしっぽり包み込んでいる。
なんとすごいと感心するクナの頬に、ちりっと緊張した空気が刺さった。
それは視線であった。しかし感覚が鋭くなっているので、クナの頬は本当に刺されたかのように、ぎりっと痛みを覚えた。
「差し袴やあらしまへんか?」
視線の主は琵琶を鳴らしていた方で、それはそれはきつい声をあげた。
「なぜに、鉄袴を穿かせまへんの? この子の足、射抜かれてしまうやないの」
クナのもとに一斉に視線が集まる中。正面にいらっしゃる濃ゆい香りの上臘さまが、ため息まじりに仰った。
「矢など飛んでくるものか。我らがたった今この塔全体に張ったるは、聖なる結界。雷砲とてがんがん跳ね返すわ」
「魔道帝国の『楽団』の音は、貫通しやるかもしれまへん」
琵琶持つ人は、いらただしげに反論した。
「足がのうなったら、舞えないやないですか。大体にして、上に着てはる立派な鉄錦と合うてまへん。ほんまけったいな」
「仕方がなかろ。その子は長い袴では歩けんのじゃ。万が一の時、自力で走って退避できぬ方がこわかろうに」
「こんなんやったらのっけに足をやられて、逃げられまへんわ」
ばちばち火花散る音が聴こえる気がして、クナはあわてた。
「じ、じょうろうさま」
「なんじゃ?」「なんえ?」
打ちそろって返事なさったおふたりに、クナは深く深く頭を下げた。
「も、もうしわけありません。これからいっしょけんめい、ながいはかまでうごけるよう、れんしゅうします。きょうはどうか、このかっこうでおゆるしを……」
神聖な儀式の最中であるというのに、自分の事で揉められるなんてとんでもない。正奥さまも二の奥さまも、一体なんじゃと呆れておられるのでは。あまりのお怒りゆえに、きっとだんまりであられるのだろうと、クナはちぢみあがってしまった。
「ほんとうにごめんなさい!」
いまだ奥さま方の位置がわからぬまま、クナが三百六十度、頭を下げながらあやまると。濃ゆい香りの先生はふんと鼻をならし、重い衣のすそをずずと引っ張り形を直した。
「まあなんじゃ、真っ赤なレヴテルニの『楽団』など、おそるるにたらぬ。我ら百臘越えの巫女の結界は、そうそう破れぬわ」
「うちは越えとりませんえ」
すかさず訂正する琵琶の人に、濃ゆい香りの人は高笑いを浴びせた。
「九十九臘など、ほぼほぼ百であろうが。ほーっほほほ」
「とんでもあらしません。行かず後家になるんは嫌やと、三十になる前に輿入れしてしもうて。おかげでうちの神霊力はまったく、百臘様にはおよびまへんわ」
「ほ――」
瞬間、濃ゆい香りの人はぴきりと凍りついたのだが。その恐ろしい金縛りは複数の悲鳴によって瞬時に破られた。
塔がどうんとすさまじい轟音をたて、ことのほか大きく揺れたのだ。その揺れすさまじく、クナは思わずしゃがんでしまった。濃ゆい香りの人もヒッと短く悲鳴をあげる。しかし彼女は気丈にも、片足で勢いよく床をひと鳴らし。おののく女たちに活を入れた。
「な、なんじゃおまえら情けない! 今のは我が塔の加農砲じゃ!」
「ついに撃ちはりましたなぁ」
ひとり動じなかった琵琶の人がしみじみのたまわる。そのとき濃ゆい香りの人のそばから、クナがよく知っている鬼火の声が聞こえた。
――『急報にて、ご無礼お許しくださいませ。ただいまをもちまして、我が塔は魔道帝国軍と交戦状態に入りました!』
刹那その場は静まり返った。沈黙の場にびゅおうと、冷たい晩秋の風が吹きぬける。
動く塔が火を吹いたということは。
「……関所が堕ちそうなのじゃな」
張りつめる緊張の空気を割り、濃ゆい香りの人が押し殺した声でたずねると。
『御意にございます。情勢大変悪く、これより我が塔は全兵器を駆使しまして、南部関所を死守いたすそうです』
鬼火は固い口調でまくしたてた。
長城の関所の陥落は、すめら本国への敵の侵入を意味する。なんとしても阻止せねばならぬ事態なのでありますと。
『命中精度を上げるため、関所に接近いたすとのこと。聖結界の持続展開を、なにとぞよろしくお願い申し上げ奉りますと、戦の司が要請しております』
刹那、どんと重い衣を打ち叩く音がした。
「任しやれ。この塔に毛ほどの傷もつけさせぬわ。天照らしの巫女の力、存分に見せてやろう」
「またたきの巫女もおりますえ。九十九巫女ゆえ、ほぼほぼ、百臘」
「みとめたな、この年増狐」
「敵にはったりかますんは、戦の常道ですやろ」
「素直じゃないのう。さあ、鳴らせ」
「あいな」
はんなり笑う方が再び琵琶を鳴らし始める。鈴が、笛が、銅拍子が、次々その音色に合わさっていく。
濃ゆい香りの人は、さきほどよりもさらに堂々たる声で歌いだした。
『聖なるひかり かしこみ奉れば』
「「あいな!」」
あいの手と共にどおんと、再び塔が震えた。クナはびくり。おそろしくてひゃっと身をすくめた。
鼓膜がやぶれそうなぐらい凄まじい音。しかし周りの女性たちは肝を据えたらしく、楽の音色もあいの手も一糸乱れない。
『閃光まといて 鎧となせ』
「「あいな!」」
あたりにたちこめる霧がますます気配を深め、湿気を増す。音がよく聞こえすぎて、クナの耳はしびれた。
ほどなく塔は、ひっきりなしにどうん、どうん。ほぼ絶え間なく轟くようになり、連続する爆竹のような音もし始めた。四六時中揺れるので、クナは立っていられなかった。片ひざをつき、衣の袖で耳をおさえつつ、あいの手を入れ続けるも。
『南部関所より伝信! 眼前の『楽団』、長距離音波弾発射! こちらに向けての攻撃とのことです!』
百発は撃ったであろうに、敵の数は減らぬらしい。鬼火が伝えた直後、ふおんふおんと不思議な音が聞こえてきて、ぎしりと塔が不穏な悲鳴をあげた。塔がまとう霧にぎゅるぎゅると、不思議な音を放つものが吸い込まれていく。
「派手に撃ちやるゆえ、こちらの位置を割り出されましたな」
「おのれ、結界がみるみる中和されておる。急いでまた結界を張るぞ」
奏でる音色の速度が少し上げられた。しかし絶え間なく流れてくる不可思議でどことなく美しい音が、濃い霧をどんどん吸い取っていく。ぎしりぎしりと、塔が軋む。
そしてついに――。
『下層二の階、被弾しました!!』
「おのれえ!」
塔がいっそう揺れ、ぼうんとおそろしい爆発音をたてたとき。
「しろがねの! いますぐ舞い!」
琵琶弾く人がクナに鋭く命じた。
「歌をかき混ぜて四方に飛ばしや! 百臘さまの歌を押し出すんや!」
「なっ、九十九狐、何を?」
「新たな結界がまにあわんのは、結界の伝導がのっそいからや。魔法の気配をかまかせば速く広がり、中和を陵駕する結界が張れる。キキョウ、その子を今すぐ回し! つむじ風を舞わしや!」
「へえ!」
鈴を鳴らす女がくるりとふりむき、クナの腕をつかんで立たせる。驚く濃ゆい香りの人に、琵琶弾く人はぴしゃりと言い放った。
「あんさんはひたすら歌う!」
「こ……の参謀狐が!」
煽るかのような激しい琵琶の音に、濃ゆい香りの人は歌声を乗せた。とたん、クナは長い袖で隠れた両手を上げさせられ、駒のようにぐるぐる。くるくる。
「ふわわ?!」
くるくるくるくる……回転させられた。
高速で回るにつれ、ふわんふわんと、鉄錦の袖が空気をはらんで大きくふくらみ、音を立てる。体の中心に芯ができ、回転が安定してきたとき、鈴を鳴らしていた女もクナの隣で同じく回転し始めた。
クナはくるくる舞った。えんえんと舞った。
歌声が気配と混ぜ合わされ、舞台へ、さらにその外へみるみる広がるのがはっきり分かった。
うすめられつつあった霧が、またしっとりと濃くなってくる。
「もち直したえ! 中和に勝った!」
重い袖を唸らせ、クナはひたすら舞いつづけた。
(いつまで? いつまで回ればいいの?)
どうん、どうん。
塔が轟く。まとわりついてくる不可思議な音が、薄まっていく。
しかしクナの意識も、ぼうっと薄くなってきた。
(いつまで……いつまで……?)
上手だねえ。
どこか遠く。耳の奥底で、母さんの声が聞こえたような気がした。
(かあ……さ……)
――『第七都護府より伝信です!』
歌声のそばから、歓喜のため息入り混じる鬼火の声が響いたとき。
『主さま、隠密に、「西郷」南端に進軍されておられました!!』
クナはいまだ、回り続けていた。
『主さま、潜伏する魔道帝国皇帝の船を発見、強襲したとのこと! レヴテルニ帝被弾により、後詰め軍撤退開始! 敵軍、緊急伝信が飛び交っている模様です! せ、関所攻略軍が! 「楽団」があわてて退きはじめたようですー!』
「おおお! さすが黒髪さまじゃ!」
ふわふわ夢うつつの心地になって、くるり、くるり。くる……り。
そうしてクナは、くたりとくずおれた。
(くろかみ、さ……ま……)
そう呼ばれる人の、美しい声を思い出しながら。