弐ノ三
昼下がりだというのに風は冷たく、吐く息は室内でも白く染まった。
屯内の中庭に面した縁側に永倉が腰掛けている。その周りにいるのは原田と藤堂だ。
決して珍しい光景ではないが、こうして三人が一緒にいるのも久々である。
「なんだってぇ! それは本当なのか?」
突然、どこまで響くのかと思うような大声で、原田が叫んだ。
その体格と同じくらい大きな声に、隣の藤堂が思わず耳を塞ぐ。
「佐之、声がでかいぞ。俺もまだ詳しくは聞いてはいないが、山崎が負傷して戻ってきたのは確かなようだ」
永倉はゆっくりとお茶を飲みながら、原田を見上げた。いつもは茶化す原田も、さすがに神妙な表情を浮かべる。
その隣の藤堂が思案顔で言う。
「長州の残党かな?」
「おそらく、そうだろうな。ここんとこ、妙な動きが見えるしな。しかも場合によっちゃあ相手が悪いかもしれない。刃に毒がしこまれていたらしい……」
「毒だって!」
「死に至るようなものじゃないらしいんだが、高熱が続いていて、まだ意識も戻らないんだとさ」
三人は、ますます神妙な表情を浮かべる。
「それは大変ですね。毒を使うということは、相手は忍という可能性も高いですね」
そう、やけに明るい声で沖田がいった。
「そうだな。確かに忍かもしれない」
「でも山﨑が不覚を取るような相手なんて、あまり考えたくないな」
「例えば、複数に襲われたとしたらどうでしょう?」
「そりゃぁ、厳しいな。観察中ってことは、装備も最小だったかもしれないし……」
永倉ははたと言葉を止め、振り返る。
その視線の先、藤堂の隣にしゃがむようにして沖田が笑みを浮かべている。
「沖田、いつの間に……」
「さっきからいましたよ。長州の話をしている辺りから、ずっと」
そう楽しげに笑い声を上げると、沖田は急に真面目な表情を浮かべた。
「副長が皆さんをお呼びです」
奥座敷にずらりと隊長格以上の者が、顔を揃えている。
もちろん上座には近藤が座し傍らには、土方と山南、伊東の姿もある。
緊急の招集は決して珍しくないが、こうして勢ぞろいするのは珍しいことではないだろうか。
「揃ったな」
土方が一言発した瞬間、座敷は緊張に包まれた。
土方が横目で近藤を伺うと、小さく頷く。
「皆も感づいているとは思うが、最近また長州の動きが市中でも見られるようになった。そこで警戒を強めるためにも、さらなる結束が必要不可欠……!」
土方は、勢いよく書簡を広げた。
「そのため、隊則を一新することにした。詳しくはここに記した通りだ」
皆は一様に、土方の提示する書簡に目を通す。そこには軍中法度が記されている。
「それと、暫く近隣の見回りを強化する。常に二隊編成での出動を命じる。以上!」
土方は一方的に言い放つと、早足で座敷を立ち去った。沖田は慌てて、土方の後を追う。
座敷は思いがけない通告に、にわかにざわつく。
「報告は以上です。詳しい編成については、おって各隊に指示を出します。不安もあるかもしれませんが、力を合わせて乗り越えましょう。本日は以上です。解散」
土方の出て行った後をまとめるように、山南が後を引き継ぐ。
隊長達は、ゆっくりと重い腰を持ち上げた。
「これはまた、えらく厳しいな」
「あぁ」
原田と永倉がぼやく。
土方の提示した法度は、禁止事項が今までにないほど増えている。
「やはり、山崎さんの一件のせいでしょうか?」
藤堂が二人の後を追う。
「たぶんな……」
「でもよう、土方さんも随分一方的だったな。文句は言わせねぇって感じでさ」
「そうだな。誰かさんを抑え込むためもあるかもしれないが、もしかすると荒れるかもな」
永倉は横目で、奥座敷を振り返った。
土方のやり方への不満と動揺で揺れている。
それを眺める伊東の目が、愉快そうに細められ笑っているようにも見えた。
華やかな明かりと、楽しげな宴の音が響く。
そこは京の花、島原。
街は綺麗な着物と飾りをつけた女性達に彩られ、刃に疲れた志士たちに、つかの間の安らぎを与え続けていた。
その華やかな街並の路地裏に、潜むように二つの人影が何やら小声で話し込んでいた。
光が届かず、両者の顔ははっきりとは見えないが、声からセンとリンだと分かる。
センは少し洒落た着流しの上に、彼岸花をあしらえた羽織を纏っている。そしてリンは、豪華な芸妓の着物を身に纏っていた。
センは愉快そうに唇の端をあげる。
「なかなかの別嬪じゃないか?」
「わざわざ冷やかしに来たのか……」
リンは殺気混じりの声で言い放った。
「まさか。俺もそんなに暇じゃないんでね。伊東先生様がお客で来ているかと思ってな。随分気に入られていたようだからな。しかし、その様子じゃ違うようだな」
「冗談じゃない。来たとしてもお断りだ。あんな男、私達を利用しようと企んでいる程度の馬鹿な男だ。あんなのと本当に仕事をするつもりなのか?」
リンの声が呆れたように笑う。
「まあ、少なくとも目的が同じ間はな。その後のことは、別さ。不要になったら捨てるだけってね」
「まあいい。用向きはそれだけか。いつまでも姉さんの座敷を開けておくわけにはいかない……」
「そう焦るなって。情報を持ってきてやったんだ」
センは囁くように顔をリンに近づけ、その肩に手を回す。
「今宵、沖田総司が見回りに出動するらしい」
リンの肩が、僅かに反応を見せた。彼女にしては、珍しく動揺しているのが見て取るように分かる。
それもそのはず、沖田総司はリンに取っては敵。大切な吉田先生を討った相手なのだから、平静でいられるわけがない。
その反応を楽しむかのように、センは笑う。
「手伝ってやろうか?」
センは軽薄だが、実力のある忍であることも確かである。天才剣士と名高い沖田総司を相手にしようとするのだ、彼が協力してくれれば心強いところだ。
しかし……リンは、強く拳を握った。
「これは私の戦いだ。手出しは無用」
リンはそうきっぱりと言い放ち、センの手をどける。そしてゆっくりと、夜の灯りの下へと戻っていった。
その夜。沖田と一番隊の者が市中の見回りに出ていた。
センの情報通りである。
リンは忍装束に身を包み、闇に紛れるようにして、離れた屋根の上から慎重に彼らの様子を伺っていた。
リンは感覚を研ぎ澄ませる。
相手は三人。そのうちの一人が沖田だとセンからは聞いている。
人相も何も知らないが、明らかに他の二人とは違い、隙の無い動きを見せている者がいたので、容易に それが沖田であろうとリンは推測した。
ふと、沖田は足を止める。
「どうかしましたか、沖田さん?」
「知り合いの家がこの辺りだと、聞いていましたんで」
沖田は、境内での鈴華との会話を思い出しながら言った。
「それでは、その方のためにも念入りに、見回りをしないといけませんね」
「お気遣い、ありがとうございます」
若い隊士は沖田の言葉に喜び、はりきったように先頭を歩き始めた。
その元気な姿に、沖田は笑みを浮かべる。
出来ればこのまま何事もなく見回りが終わってほしいものだ。そう沖田は願った。
沖田の周りから人が離れた。今なら背後はがら空きである。
勝負は一瞬で決まるだろう。
噂に聞くほどの剣の腕前を持っているとすると、真っ向から斬りかかっては、忍の素早さをもってしても返り討ちに合うのは目に見えている。
剣士などと忍びは真剣勝負をするものではない。不意を衝いて、裏をかいて、確実に仕留めるのが定石。
背後から一気に距離を縮め、相手が気付くより早く急所に刃を突き立てるだけ。
リンは勢い良く沖田に向かって、屋根の上を走り始めた。
沖田はまだリンの存在には気付かず、若い隊士を呼び止めようと口を開いた。
風の音に混じって沖田の声が、リンの元に届く。
その声に、リンの体を衝撃が走る。集中が途切れ、隠していた殺気が溢れる。
沖田は殺気に気が付き、刀に手をかけ鋭く振り返った。その瞳は既に人斬りのもの。
強烈な殺気がリンの身体を貫いた。
「沖田さん、どうかしましたか?」
一瞬で雰囲気の変わった沖田の様子に、若い隊士が怖々声をかける。
沖田が見上げる屋根の上からは、既にリンの姿は消えており誰の姿も見当たらなかった。
沖田は息を吐き、気を落ちつける。
「…………いえ、何でもありません」
刀から手を離し、振り返った沖田の表情はいつもの笑みが浮かんでいる。
「この辺りも問題無いようですね。そろそろ屯所に戻りましょうか?」
「はい!」
その笑みに安堵したのか、若い隊士は元気良く返事をし帰路を急ぎ始める。
沖田はもう一度、屋根を見上げた。
あの瞬間、殺気が向けられていたのは確かだ。脳裏に山崎が負傷した一件が浮かぶ。
「忍か……」
沖田は先ほどの殺気の主を気にかけながらも、その場を後にした。
彼らの足音が通り過ぎていくのを、長屋の中でリンは静かに聞いていた。
微かに聞こえてくる話し声に、苦無を握る手が震える。何とか心を落ち着け、気配を消すので精一杯だ。
足音が完全に聞こえなくなると、リンは急に力が抜けたようにその場に座り込んだ。
手の中から苦無が落ち、悲しい音をたてた。
何処で間違えてしまったのだろうか。
リンはゆっくりと覆面に手をかける。力無く覆面が落ち、やっと彼女は息を吸った。
それを心配そうに見上げながら、ランマルが主に擦り寄ってくる。
覆面の下から現れたのは、鈴華。
今まで沖田宗次朗と、出会い交わしてきた言葉がいっぺんに思い出される。それらが、沖田総司という修羅を纏った気配に侵食されていく。
「あの人が……先生の敵……」
鈴華の声が震えた。
主を慰めるかのように、ランマルは鼻先を頬に押し付ける。思わず鈴華はランマルを強く抱きしめた。
それはまるで、溢れようとする涙を押し殺すためのようにも見えた。
何も知らずに、静かに静やかに夜は更けていく。
壬生村の辺りを一望できる櫓の上から、センは愉快そうに一部始終を見ていた。
何も知らない沖田は、隊士達とゆうゆうと屯所に戻っていく。
その姿を獲物を狙う蛇のように見つめ、センは静かに唇を舐めた。
「可愛い可哀いボクの鈴。さぁ、鳴いておくれ。君はボクの……」