弐ノニ
数日の間、沖田は何処に出かけるというわけでもなく時間さえあれば壬生寺の境内に足を運び、幼少にでも戻ったかのように、子供達に混じりはしゃいでいた。
その姿に、新撰組隊士の面影は微塵もない。
風は冷たいが、良く晴れた冬の透き通った青空が広がっている。
「捕まえた。今度は宗次郎が鬼や」
女の子が沖田に飛びついた。
「あはは、捕まっちゃいましたね」
沖田は、しまったという表情をみせる。もちろん適度に手は抜いている。
「さあ、今度は僕の鬼です。行きますよ」
沖田の声に子供達は蜘蛛の子を散らしたように、走り出す。
「逃げろー」
「鬼さんこちら」
再び境内は賑やかな声に包まれる。
その賑やかな声に誘われるように、通りがかった山南がゆっくりと境内を覗きこんだ。
「捕まえた!」
沖田は男の子の肩を掴んだ。
その無邪気な様子に、山南は笑い声をもらした。
「随分と楽しそうだね」
「山南さんは散歩ですか? 良かったら一緒に遊んで行きませんか?」
「何をしているんだい?」
「鬼ごっこです」
沖田は大真面目に答えた。
相手は小柄ですから狭いところに逃げ込まれない様追いかけるのが大変だと言うのだ。
「…………私はちょっと」
期待のこもった沖田の視線から、逃げるように山南は答えた。
一瞬落胆の表情を沖田は浮かべたが、山南がそれを確認する前に、いつもの笑みへと切りかわる。
子供達が元気に走り回る姿を、山南は境内に腰掛け眩しそうに見つめた。
彼らの姿はどこまでも眩しく、動乱の不安など感じさせない命の輝きに溢れていた。
程なくして沖田も一時遊びから離脱し、山南に付き合うようにその隣に座っている。
最近の山南も、良く外出するようになった。どうも隊内の噂では、土方と何度か衝突しているらしいという。
そういう意味では、どこか沖田と似ているのかもしれない。
半井邸に最後に訪れた日から、沖田は近藤や土方に病のことについて聞かれるのを恐れ、なるべく顔を合わせないようにしていた。
例え追及されたとしても、まだ話すべき時では無い。だから沖田は屯所から逃げるように外出をしていたのである。
そういった意味では、やはり山南は同士なのかもしれない。
不意に合わさった視線は、ただただ優しさに溢れ笑みに消えるだけだ。
鬼が交代したところで、山南が不意に口を開いた。
「沖田くん、伊東さんをどう思う?」
「伊東さんですか?」
沖田は意外そうな素振りを見せ、答える。
「そうですね。確かに博識な方ですし、剣の腕もいいと思います。でも、僕は好きになれないかな。土方さんは嫌いみたいですよね」
「土方くんは露骨に顔に出していますからね。周りが終始はらはらしていますよ」
山南は苦笑を洩らし。土方の機嫌を損ねないよう、気を使っている隊士達の姿を思い浮かべ沖田は失笑した。
鬼の副長土方しか知らない隊士には申し訳ないが、本質を知る彼らにとっては笑い話にしかならない。
あくまで目指す目標は侍なのだから。
静かに目で両者が語り合っていると、待ちきれなくなった女の子達が手鞠を持って近寄ってくる。
「なぁ、宗次郎。まだ、お話終わらんの? 次はこれで遊ぼう」
「えっ……うーん、手毬ですか。まいったなぁ、僕はあまり歌は得意じゃないんですよね」
「大丈夫。うちが宗次郎に教えたる。聞いていて」
女の子達はその場で手毬を始める。
「宗次郎と呼ばれているのですか。懐かしい名ですね」
山南は日野で過ごした日々を思い出し、目を細めた。あの頃はまさかこうして京都で剣を振るうことになるとは、誰も思っていなかっただろう。
「沖田総司だと、誰も相手にしてくれませんから」
「相手にしてくれない……ですか?」
山南は沖田の言葉に苦笑した。頬を膨らませたりする仕草は、妙に子供っぽい。
次は相手してくださいねと強引に約束を取り付け沖田が遊戯に戻ると、どこからともなく山崎がやって来る。着流しを着ているということは、彼も非番なのだろう。
今日の壬生寺には、妙に人がやって来る。珍しいこともあるものだ。
山崎は沖田の姿には目もくれず、山南に歩み寄る。
「山南さん局長がお呼びです。例の移転計画の話だそうです」
山南の表情に、あからさまな不快感が浮かぶ。
隊内の人員が増えたことで、新撰組は引越しを迫られていた。そこで提案された移動先が西本願寺の大集会所である。
しかし西本願寺は勤皇方。禁門の変のときも、長州志士を逃がす手助けをしていた。
それを屯所にしようとしているのだ。危惧しないわけがない。
山南は重い腰を上げた。
「分かったすぐ行こう。では、私はこれで失礼します」
山南は丁寧にお辞儀をし、山崎と共に歩いて行く。それと入れ違いになるように、向こうから勢い良くランマルが飛び込んでき、遅れて鈴華が歩いてくる。
「こら、ランマル。お待ちなさい」
鈴の音が一度弾み、両者がすれ違う。
その瞬間、山﨑は覚えのある嫌な気配を感じ振り返った。
目が合ったと山﨑は感じた。何も映していないはずの瞳が、刃のように冷たく刺さり。山﨑の指先は、自然と懐に忍ばせる苦無に伸びていた。
鈴華は、向けられた感情に一瞬惑ったが、何事もなかったかのように沖田に駆け寄った。
「宗次郎様!」
彼女の愛犬ランマルが沖田に飛びつくようにじゃれつき、鈴華と沖田が仲良く笑い合う声が溢れる。
「おや。沖田君のお友達かな? 随分と可愛らしい子ですね」
「そうですか……」
嫌な感じは気のせいだったのだろうか。山﨑は、気になったものが何であったか見極めようと鈴華を見つめた。
「ふむ。彼女は、どこかで見たことがあるな。どこだったかな……」
「お知り合いですか?」
「どうだろう。でも、そうだね。僕は知っているね」
山南は顎のところに手を当て、目を細めるようにして鈴華を見つめ、記憶を探るように小さく頷いた。
山南が知っているというのなら問題ないだろう。後程確認もできると山﨑は苦無から手を放した。
「……局長がお待ちです。急ぎましょう」
「ああ、そうでしたね」
鈴華の存在を気にかけながらも、二人は立ち去っていった。
「今の方々は、お知り合いですか?」
「あぁ、新撰組の方ですよ。屯所が近くにありますから、時々ここにも来るみたいです」
珍しい事ですけどと沖田は付け加えた。
「そうですか。新撰組の……」
鈴華の声が、心無しか悲しそうに響いた。
だがその真意を問いただす前に、二人は子供達に囲まれるのであった。
× × ×
暗い人通りの少ない道を、伊東が共も付けず一人で歩いている。
今の京の物騒である。それに関わらず、新撰組の幹部が単独で出歩くというのは無用心というものだ。
それでも非番の夜になると、伊東は単身出かけていく。特に誰かに行き先を告げるというわけでもない。
提燈一つを手に、その足はだんだんと人気の無いほうへと進んでいく。
その後方。闇に紛れるようにして、山崎が伊東の後をつけてていた。
伊東の動向には不審な点がある。
そう、警戒した土方が数日前から山崎に伊東を調べさせていたのである。
取り分け怪しい行動があるわけではないが、不審な動きを見せているのは確かだ。
一体、どこへ行こうというのだろうか。
夢中で山﨑が追っていると、不意に伊東の足が止まる。
(悟られたか)
山崎は息を殺し緊張した。
伊東は軽く辺りを窺うように少し高めに提灯を掲げ、周囲を確認すると、再び歩き始めた。
山崎は密かに安堵し、尾行を再開しようとした。
ひゅっと、微かな風を切る音とともに、苦無が襲ってくる。
山崎は軽い身のこなしで、後方へと飛ぶ。
その足が地に着くかつかないかというところに、闇から現れるようにして忍が短刀を煌かせ飛び込んできた。
黒い装束に身を包み相手の姿は見えないが、山崎の脳裏に池田屋で見かけた忍の姿が浮かぶ。
「長州か!」
山崎は足で地に刺さった苦無を蹴り上げ、それを掴み相手の刃を受ける。
僅かに覆面の隙間から見える忍の瞳は、燃えるような怒りに満ち溢れている。
忍びは身体を沈め、正面から山﨑の腹を蹴り吹っ飛ばした。
寸前のところで身体を引いた分威力を抑えられたが、相手の方が山﨑より体術は上。この長身の忍よりは劣ることを、瞬時に察していた。
監察の任務は、生きて情報を持ち帰ること。
山崎は追撃してきた忍びの横に回り込むと、腕を捕らえ肩を地面に押し付けるように踏みつけた。
嫌な音を響かせ、忍びの肩の関節が外れる。
大きく忍びが態勢を崩しているその隙に、山﨑は屋根へと跳び移った。
少しでも見通しのいいところのほうが、動きやすく、逃走経路も決めやすい。そう判断し、山崎は距離をとったつもりだった。
だが見上げた忍の目が細く笑う。
それに山崎が気付いたときには、どこに潜んでいたのか、別の忍のが刃をかざし背後から迫っていた。
先ほどの忍より小柄なせいか、その動きは素早い。間に合わないと判断した山崎は咄嗟に身を捻るようにし避けたが、刃先が山崎の右肩を斬り裂く。
傷は深くないとはいえ、鋭い痛みが走る。破れた着物の隙間から、鮮血が腕を伝う。
滑り落ちそうになりながら、山崎は相手を見据えた。
敵は二人。地上に長身の男の忍びが一人、正面の屋根の先端に小柄な忍びが一人。
どちらも良く訓練された忍びなのは確かだ。
(逃げきれるか?)
こうしてまともに同じ忍びとやり合うのは初めてだ。
山崎は忍ばせていた煙球を投げつけ、敢えて相手の懐に飛び込んだ。
攻撃は最大の防御という言葉もある。煙幕に身体を隠し逃げるならともかく、この状況で仕掛けてくると思う者は少ないだろう。
だが裏をかいたはずの一刀はあっさりと相手に読まれ、簡単に防がれた。
目くらましなど無意味であったかのように、忍びは無駄なく山﨑の刃を短刀で受け止め、もう片方の腕は綺麗に鳩尾に沈み込んでいた。
腹の中が一気に逆流する。
何とか堪え、山﨑は忍びを背負い投げる。
忍びの身体は瓦を飛ばし屋根を滑ったが、縁のところで跳ね上がり、無数の苦無を投げつけてきた。
攻撃を交わしながら好機を伺い屋根を走る山﨑であったが、その視界がにわかに揺らいだ。
先程の刃に毒が塗られていたと、山﨑が気づいた時には、もう手遅れ。
全身から力が抜け、揺れる視界の中、小柄な忍びの刃が襲い掛かる。
何とか気力を奮い立たせ応戦するが、毒の周る速度を速めるばかり。
遂に山崎はその場に膝をつき、その手から苦無が弾き飛ばされ、次の瞬間には強烈な熱が左の太腿を抉っていた。
小柄な忍びの短刀が、深く山﨑の太腿に突き刺さっている。
「壬生狼。これに懲りたら夜の散歩は控えることね」
微かに聞こえたのは、風のように囁く女の声。
止めを刺そうと近づく刃に、山﨑は屋根瓦の破片を掴み投げつけた。
もう動けないと油断していたのか、破片は忍びの顔を掠め覆面の一部を暴く。
覆面の下から現れたのは、覚えのある冷たい瞳。
支えを失った山﨑の身体は大きく後方へと倒れ、そのまま屋根から落ちていく。
(くそっ!)
既に屋根の上から忍の姿は消えていた。
(伝えなければ……)
燃えるような痛みが、辛うじて山﨑の意識を繋ぎとめ。落下する彼の頭を冴えさえた。
程なくして、山﨑の身体は地面に打ち付けられる。
伝えなければ。
もう痛みも熱も分からない。山崎の意識はそこで途絶えた。
× × ×
宿の格子窓の外には、美しい月が輝いている。
「月夜に忍びの舞というのも中々良いものですな」
口元にお猪口を運びながら、伊東が笑う。
その向かいに座しているのは、顔に覆面をした初老の男。わずかに覗く顔半分には、酷い妬けどの跡がある。
「くくっ、もし御所望とあれば、次は座敷でも寝所でも舞わせてさしあげますよ」
「ほう」
「勝手なことを……」
天井から、殺気混じりの女の声が降ってくる。
声がするまで、微塵も人の気配はなかった。
伊東の心中に、忍達の脅威と関心の念が湧き上がる。
「戻ったか。二人とも此処へ……」
男の言葉が終わるよりも早く、二人の忍が音も無く座敷に現れた。それは、先ほどまで山崎と対峙していた者。
伊東は目を細め、興味深そうに二人の忍を見つめた。
「これが、頭領殿御自慢の刃ですかな?」
「こちらがセン……」
男の声に合わせるように、長身の忍が覆面を外す。
その下からは、どこか作り物めいた目鼻立ちのくっきりした造形の顔が現れる。微かに笑みを浮かべているが冷たいと感じさせるのは、あまりにも整いすぎた顔だからだろう。
「そしてリンと申します」
リンと紹介された忍は、押し黙ったまま微動だにしない。
「リン、頭を困らせるな」
センが愉しむように笑うと、リンは仕方なさそうに覆面に手をかけた。