壱ノ一
京は夏を迎えていた。
緑の枝葉を賑やかに揺らし、強い日差しを浴び輝いて。
その輝きに負けんとばかりに、街も活気に満ち溢れていた。
それは壬生屯所においても例外ではない。
あの池田屋の騒動が、既に遠い日のことかと思えるくらい活気に満ちて平穏な日々が続いている。
道場からは、稽古に励む若者の声が聞こえ。打ち合う竹刀の音が心地よい。
その音に耳を傾けながら、沖田は筆を進める。
清潔で良く片付いた部屋。文机と簡素な箪笥が置かれているだけ。他の者に言わせれば、 それが実に彼らしい部屋だと言う。
無駄がなく、生活に困らない程度の物があれば十分である。
とは言え、こうして休み続けていると少々手持無沙汰になってしまうのもいなめない。
先の襲撃で倒れてしまった沖田は、非番であった。
彼の体を心配し、少々過保護気味に休まされたわけだが、ずっと寝ているというのも難しく。 今は故郷の姉などに、手紙を書きはじめたところであった。
突然、門のほうが騒がしくなる。
どうやら出動のようだ。永倉の掛け声が聞こえるということは二番隊のようだ。
沖田はちょっと様子をうかがおうと、外に出た。
久々の外は、思いのほか眩しく沖田は思わず目を細めた。
そこへ、隊服姿の藤堂が渋面を浮かべ通りがかった。額にはまだ池田屋の傷があるのだろう、包帯を巻いている。
藤堂は隊内きっての美男子で、花街にもそこそこ顔が知れているが、不思議と浮いた噂はない。
少し小柄な若者だが、それでも六番隊の隊長を務めるだけの実力者である。
「何かあったんですか?」
「え。ああ、沖田さんか……長州の残党が決起したらしい……」
「残党。池田屋のですか?」
「まあ、はい……」
藤堂の表情が曇る。
どうも気にかかる事があるのだろうか、妙に歯切れが悪いと沖田は心配そうに見つめた。
京都の街で画策していた長州の思惑は潰し、危険視されていた吉田稔麿は討った。
だが、それで終わりではない。
池田屋から逃した者。新たな刺客。全てを廃するまでは、決して安心はできない。
「藤堂さん……?」
「あ、いえ、俺の気のせいです。それより体調はどうなんです?」
「もう、元気ですよ。早く動かないと、腕がなまってしまいます」
沖田が答えたと同時に門の方から「出動!」と、永倉の勇ましい号令が聞こえてくる。
「…やばっ。じゃあ、俺行くから」
藤堂は待ってくれと騒ぎながら、慌てて門の方に向かい走っていく。
その藤堂の後ろ姿を眺め、沖田は胸に痛みを感じる。
それが病のせいなのか、出動できない自分への苛立ちなのか沖田にも良く分からなかった。
そのまま胸を押さえ咳き込み、文机の隅に放置していた外島様の走り書きを見つめた。
夏雲が眩しく、透けるような緑の葉が生い茂っている。
沖田は遊び人のような気楽な格好で、辺りの景色を楽しみながらのんびりと四条通りを歩き、水口藩藩邸の辺りまでやってきていた。
見事な黒塀の屋敷が見えてくる。
そこが沖田の目的地。
倒れたという沖田の身を案じ、外島様の紹介してくれた医者の家である。
半井玄節。町医者ながらも、法眼の位を持っているという。
もちろん、医者へ行くとは誰にも明かしていない。
沖田は遠慮がちに、中を覗きこんだ。
正直入りかねていた。
入ってしまえば、嫌がおうでも現実が突きつけられてしまうからだ。
「何か御用でございますか?」
「あ、いえ……」
突然かけられた声に、沖田は思わず道を開けた。
娘が老女を連れ、不思議そうに沖田の前を通り抜け屋敷に入りかけた。不意にその足を止め、立ち尽くしている沖田を振り返る。
「あの、もしやお客様ですか?」
「あ、は、はい」
尋ねられると慌てて答える沖田の姿に、思わず娘は小さく笑う。つられて沖田も困ったように笑みを浮かべる。
「あ、えーと、患者です。会津藩公用人外島機兵衛殿から、お話を伺っていると思いますが、取り次いでいただけますでしょうか……?」
「はい、どうぞお上がりください」
娘に促されるようにして、沖田は恥ずかしそうに屋敷に入った。
薬の匂いが漂う、清潔な畳の部屋が診察室である。
沖田は着物の前を開け、半井の診察を受けている。
「会津藩の御家中の方だとか、剣術をやっておられるそうですね」
「え……あ、はい」
半井は念入りに沖田の胸に手を当て、終始厳しい表情を浮かべている。
「咳をするといったかね、血を吐いたことはあるかね?」
その質問に、沖田は微かに動揺する。
「……いえ、特にありませんが」
ゆっくりと、動揺をおさえこみ沖田は嘘を答える。
「なるほど。しかし、あまり良くないようですな。特に……この病はいけない……」
半井は言葉を選び、慎重に答える。
「はい……」
「薬を差し上げるが、一番大事なのは風通しのいい直射日光の当たらぬ所で寝ていることだ。これを守れないなら薬も無駄です。どうです?」
「はい、分かりました」
沖田は笑顔で嘘を答える。
守れるわけが無い。
日々の稽古もある。それにいつまでも、仕事を休むわけにはいかない。
気持ちは憂鬱であった。
帰りがたくゆっくりと沖田が歩いていると、すっかり空は茜に染まり始めていた。
暮れ掛けの街は、まだ人通りが多い。
「寝ていること……か……」
沖田は何度目かの溜息をもらす。
普段の己の振る舞いからすると、非番だといっても一日中部屋に居るわけにはいかないだろう。
「もっと怠け者になっていれば良かったのかな……」
そんな事を考えながら歩いていると、不意に鈴の音が聞こえ小さな悲鳴があがった。
振り向けば、急ぐ町人と町娘が勢い良くぶつかったようだ。
娘はその弾みで荷物と杖を落とし、倒れた。
遅れて、鈴の転がる小さな音がきこえる。
「ごめんよ!」
町人は余程急いでいるのか軽く謝り、そのままの勢いで走り去ってしまった。
危ないなぁと、その様子を眺め、普段であればそのまま沖田も周囲の町人達と同じように、立ち去るはずであった。
綺麗な指先が、地面を撫でた。
ざわざわと町人が行き交う中、娘は落とした手荷物を探し必死に地面に指を這わせる。
娘は白い着物に、浅葱の帯。長い髪は結われてはおらず、代わりに髪を飾る蝶のような縮緬の飾りの先で小さな鈴が揺れている。
美しい娘だった。
その姿に、沖田は目を惹かれた。
見惚れたのは一瞬、沖田は咄嗟に娘の手荷物を拾い、手を差し出した。
「大丈夫ですか?」
「……はい、大丈夫です」
声をかけられたことに戸惑いを浮かべたものの、娘は凛とした声で答え、微かに耳を傾ける。
その表情には、探るような僅かに困惑の色を浮かべ、差し出した手をすり抜け真っ直ぐに沖田を見上げている。
あまり女性から真っ直ぐに視線を向けられ慣れていない沖田は動揺したが、直ぐに娘の視線が正確には合わないことに、気づいた。
彼女は眼が見えていないのだと。
理解してしまえば、後は簡単だ。失礼しますと断りを入れ、直接手をとり手荷物を渡せばいい。
そう娘との距離を沖田はつめた。
その瞬間、娘は沖田に纏わりつく濃い血の残り香に気づく。その香りは、激しい斬りあいの音、命が消えていく瞬間を呼び起こさせる。
「触らないで!」
思わず娘は沖田の手を払いのけた。
驚いたように、硬直する沖田が見たのは、深い悲しみと動揺を見せる娘の姿。
「そんな、穢れた血塗れの手で……!」
娘は嫌悪するように後ずさりながら、手探りでなんとか杖と荷物を見つけると、逃げるように起き上がり去っていく。
沖田は何も言えず、払われた手の平を呆然と見つめ、呼び止めることもできず、沖田は帰路へ向かおうとするしかなかった。
――チリン
「鈴……?」
沖田は足に当たった鈴を、不思議そう拾い上げた。
娘が倒れた時の情景と、その髪飾りが思い浮かぶ。
「あっ、待ってください……!」
慌てて沖田は振り返るが、既に娘の姿はない。
仕方ないと手を伸ばし、鈴を拾い上げようとした手を沖田は止めた。
払われた痛みが思い出したかのように広がる。
沖田は一度手を引き、懐から手拭いを取り出し、それで包むようにして鈴を拾い上げた。