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紅朱狂奏曲  作者: 凪未宇
~序章~ The Hunting of Wolf
1/14

序ノ一

 時は元治。そこは京の街。

 祇園の祭りをひかえ、微かに浮き足立つ街をゆくりと夜の帳が包もうとしている。 ポツポツと明かりが灯り始める中、三条小橋の旅館に二十人程の浪人らしい人体の者が、 ばらばらと集まってくる。

 既に二階の奥座敷では、会合がはじまり、賑わいをみせている。彼らは京に潜む、 長州浪人。畳の上には次々と新しい空の徳利が、転がっていく。

 その上座で静かにお猪口を口に運んでいた吉田稔麿は、ふと席を立ち窓辺に向かった。

 窓辺には芸妓の豪華な着物に身を包んだリンが、手摺を強く握りしめ 夜風にあたっている。堅く唇を噛み締め、街のもっと奥のほうを見つめているようだ。

 吉田はその肩に手を置いた。見上げるように振り返った彼女の瞳に、 優しく微笑む吉田の姿が映りこむ。

 彼の手に導かれるまま、彼女は琴の前へと座し、寄り添うように吉田も座る。

 リンにとって吉田は特別。何者よりも尊い、仕えるべき主。

 わずかな空気の動きに気づいた何人かは、興味深げに彼女へと視線を向け、 始まりを待った。吸い寄せられるように、リンの指が弦に触れる。音が広がり、 騒いでいた浪士達が一瞬静まる。

 琴から奏でられる心地よい音色に、吉田は満足そうに、口元を緩める。


「……結べども 又結べども 黒髪の 乱れそめにし世をいかにせん」


 そう呟き、自らの盃に酒を注ぎ、一気に煽った。

 今宵は朧月夜。

 京の街の灯りはまばら。既に行灯無しでは歩けないほどの闇が覆う亥の刻。

 座敷に響く静かな琴の音とは反対に、異様に高まった重い空気が漂い始める。

 静まり返った街中を、ぞろぞろと武装した徒党が駆けていく。微かに巻き上がった 土煙はたちまち攫われ、周囲の戸板が不安にざわめく。

 薄っすらと街の明かりに彼らの姿が浮かぶ。

 浅葱地に、だんだら染めの袖印。その揃いの羽織を風になびかせ、彼らは目的の旅館を 迅速に音もなく包囲する。

 吹き始めた強い風に、やっと雲が払われ月光が降り注ぎ、彼らの姿が露になる。

 近藤、沖田、永倉、藤堂……

 京の街で既に彼らを知らない者はいない。壬生狼の名を持つ、幕府お抱えの浪士隊、 新撰組。


 琴を奏でていたリンは、突然その指を止めた。


「どうした?」


 曲の途中で手を止めるなど、異例のことである。吉田が彼女の異変に、鋭く問う。

 階下……いや、旅館の周りから向けられる殺気を捕らえ、リンの表情が険しくなる。 同時に彼女は芸妓の着物を脱ぎ捨てた。その下から現れたのは、真っ黒な忍装束。


「壬生狼です!」


 吉田が刀を掴むのとほぼ同時刻。

 宿の土間に新撰組一隊がなだれ込む。戸を蹴破り戦陣を切ったのは近藤。そのままの 勢いで、土間から二階へと、抜刀しながら近藤は一気に駆け上がる。その後に続くように、 永倉、藤堂と上がっていく。

 ふらりと厠に歩いていた浪士は不運だった。階段を駆け上がってくる足音に何事かと 振り返ったところを、近藤が脳天から一気に斬り下げる。

 何が起こったのかも分からないうちに、浪士は絶命した。その鈍くも鮮やかな 血の雨をあびながらも、彼らの勢いは止まらない。目指すは奥座敷。

 近藤が襖を蹴り倒し飛び込むのと同時に、吉田が抜刀した鋭い一閃が放たれる。 両者の刀が激しく、ぶつかり合う。

 遅れて次々と隊士達が飛び込み、たちまち楽しい宴の座敷は、血の舞う踊る乱戦の 舞台へと変わる。

 長州浪人達は完全に油断をしていた。宴の席と手元に刀がない者、足元が おぼつかない者と明らかに劣勢。まともに戦えるものは少ない。

 激しい斬り合いを繰り広げる吉田と近藤を裂くように、リンは間にクナイを投げた。 裂かれた両者は、一度刃を離し互いに後方の乱戦の中へと紛れた。

 吉田は物凄い勢いで数人ほど隊士を切り伏せると、窓を背にして構えた。

 座敷には既に斬られた同士達が転がっている。畳も襖も見事に鮮血で染め上げられている。

 吉田は冷静に事態を分析し、自嘲の笑みを浮かべた。

 吉田を見つけたリンは彼を守るべく素早く駆け寄り、守るように背合わせに構えた。

 吉田は笑みを浮かべたまま、リンの肩に手を置き数言話し掛ける。

 リンは我が耳を疑った。その言葉に抗議しようとしたリンを、吉田は容赦なく窓の 外に突き落とした。

 リンの表情に驚きが浮かぶ。

 持ち前の身体能力で上手く体勢を変え、途中の瓦を蹴りあげて向かいの屋根に飛び移り、 落下は免れた。

 しばらくリンは屋根の上で悔しさを噛み締めていたが、覚悟を決めたように向こう 側へと姿を消した。

 吉田はその姿を確認すると、安堵したように一瞬穏やかな笑みを浮かべる。 そして再び刀を振り上げると、鬼のような気迫で刃の海の中へと飛び込んでいった。


 二階で乱闘が始まった頃、一階では沖田が楽しそうに戦況をみつめ、念入りに 体をほぐしていた。既に店主はこの事態に怯え姿を消している。

 彼は待っていた。

 やがて近藤達から逃れた浪人が階段を逃げ降りてくる。そのまま視界に沖田を 捕らえると、勇猛にも刀を振り上げる。沖田は振り返ることなく抜刀し、 浪人を斬り伏せた。

 その表情からは既に笑みは消え、修羅の形相へと変わっている。沖田は、まるで 邪魔な虫を払うように、淡々と残りの浪人も斬り伏せていく。

 一人。また一人……

 斬る度に血の雨が降り注ぎ、彼の衣はたちまち紅に染まる。静かにしかし確実に、 沖田は屍の山を築いていく。

 暗く狭い廊下に飛び込み、沖田は天然理心流・平青眼の構えを取り、呼吸を静める。

 静まり返った廊下の暗闇から、刀が生えてくる。沖田はその刃先がわずかに 触れた途端、素早くすりあげ斬りさげる。またあるものは三段突きでしとめる。

 全身に血飛沫を浴びながらも沖田は怯むことなくさらに突き進んでいく。

 真っ赤に染め上げられた座敷には屍と怪我人が転がっていた。双方共に被害は大きい。

 どれくらい刃を合わせたのだろうか。新撰組隊士にも長州志士にも、 ありありと疲れの色が濃く現われていた。

 吉田はまるで亡霊のように窓際に立っていた。足元には彼に葬られた隊士が 転がっている。

 明らかに追い詰められているはずなのに、吉田の気迫は凄まじい。 手負いの獣ほど手強いということだろうか。

 藤堂は無謀にも刀を握る手に力をこめ、単身、吉田に突進していく。

 吉田は冷静にその突きを払い、続く篭手を払い、すれ違い際に藤堂に囁いた。

 一瞬、藤堂の動きが止まる。動揺をありありと浮かべる彼にを逃すはずはない。 吉田は上段から力まかせに斬りさげる。その一太刀は、鉢金を弾き飛ばし藤堂の額に 一筋の傷を刻み付けた。

 その一撃は、脳にも響いたのだろう。藤堂は、衝撃にそのまま気絶した。

 混沌した藤堂の額から血が流れだす。とどめを刺すかのように吉田が刀を振り上げた。


「平助!」


 かろうじて周りを斬り抜けた永倉が、絶叫と共に吉田の胴を狙って薙ぐ。

 間一髪、藤堂の命は救われた。

 吉田は唸るような絶叫をあげながらも、数人の隊士を斬り倒し笑みを浮かべ 窓から飛び出した。


 廊下から縁側へ。

 浪人達の後を追い沖田は刃を振るう。

 ぼとぼとと上から、死体と生きた浪士達が落ちてくる。

 沖田は縁側から裏庭に飛び降り、彼らを斬ろうと構えた。

 その瞬間、今までにない嫌な悪寒が走る。

 沖田の意思とは関係なく膝から力が抜け、刀を突き立てかろうじて体を支えるしかない。

 肺の奥から異物を吐き出すよう咳き込み、沖田は手の平に血を吐いた。

 驚愕する間もなく沖田の胸に痛みが走り、嫌な汗が額に浮かびあがってくる。

 何が起こっているのか、沖田は一瞬理解が出来なかった。

 沖田が自分の状態を確認する間も与えないうちに、裏木戸が開き吉田が槍を手に入ってくる。

 その姿は、まさに修羅。

 すでに全身血塗れで左肩は深く斬られ使いものにならない状態で。目だけがやけに 強い光を放っている。

 吉田は狂気じみた穏やかな笑みを浮かべ、沖田に突進してくる。

 そこは生きるという本能の戦いだった。

 沖田は力を振り絞り、刀を振るう。

 その渾身の一太刀が、吉田の槍を折りそのまま彼の体を斬り下げた。

 一瞬、沖田の視界が真っ赤に染まる。

 吉田は絶命した。

 肩で息をする沖田の足元には、吉田の骸が転がっている。

 遠くではまだ刃の交わる音が聞こえている。

 いかなければと思いながらも、沖田の体からは力が抜け、そのまま倒れていく。 ゆっくりと、破滅の旋律を聞きながら沖田は意識を失った。

 土方歳三の率いる第二部隊が到着したのは、殆どが鎮圧されたころだった。

 双方共に犠牲は大きかった。

 全ての騒動が針圧され、それを治めた新撰組が堂々と隊列を組み、屯所へ戻っていく。

 祭りの陽気に包まれていた今日の街は騒然とした。

 先に突入した近藤の部隊は皆血塗れで、負傷者も多い。藤堂など倒れた者は戸板で 運ばれ、永倉など軽い負傷者は原田らに肩を貸してもらい歩くいている。

 彼らの行列は町人だけでなく、今頃駆けつけた会津藩士までもが、怖れと驚きの 混じった目で見つめるしかなかった。

 その姿、まさに修羅。

 その姿、まさに鬼。

 離れた屋根の上から、三人の忍びが新撰組の隊列をを見下ろしている。

 そのうちの一人は、吉田の傍に仕えていたリンという女の忍。

 彼らはしばらくその姿を焼き付けると、音もなく闇に消えていった。


 ――後にこの襲撃は、旅館の名をとって『池田屋事件』と呼ばれた。

 元治元年六月のことである。

 そして新撰組の名が、国に知れ渡った事件の一つとなった。


 京都守護職御預、新撰組。

 朱に『誠』一文字の旗。

 浅葱地にだんだら模様の羽織。

 卓越した剣の腕と隙の無い集団剣術を得意とし京都中を震撼させ 名を轟かせし『壬生狼』の異名を待つ男達。

 彼らを支配するのは、まさに鬼……


 一、士道ニ背キ間敷事

 一、局ヲ脱スルヲ許サズ

 一、勝手ニ金策致ス可カラズ

 一、勝手ニ訴訟取リ扱ウ可カラズ

 一、私ノ闘争ヲ許サズ

 一、右条々相背ク候者ハ切腹申付べク候也

 右条々相背ク候者ハ切腹申付ベク候也


 敵か己かどちらかに必ず死が訪れる。

 その言葉が彼らを捕らえし鎖。

 死をも恐れぬ闘志。

 それが彼らの魂。

 その身を血に染めしとも、彼らの歩みは止まらず。

 混沌の猛き時代に、若者達は抗い続ける。

 その先に見えるのは修羅か、はたまた……

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