5-13
あらゆる物事は法則から成り立っている。火打石から火花が出るのもリンゴが木から落ちるのも、人間が動くことも。全てに因果と結果が存在する。
自分にとっての魔法とは何かと聞かれたならば、今であれば多くの答えを言えるであろうが、かつて最初に答えるとしたならばそれは『糸』と答えたであろう。
物心付いたころからその糸は感じられた。それは目に見えるものでは無かったが感覚的に糸と形容する他にないものであった。
糸は他の人には分からないようであり、異様な物を見るような目で見られてからは聞くのをやめてしまったが。
糸は人が何かをやろうとする時に感じられたがとりわけ強く感じられたのは孤児院に来た魔法使いが子供達にせがまれ炎の魔法を見せた時であった。複雑に何本もの糸が絡みまるで紋様のようなものを作り出していた。魔法よりも、その糸に感銘を覚えたのを今でもよく覚えている。
その日の夜は興奮から眠れず孤児院を抜け出し夜風に当たっていたがその糸に思いを馳せる内に自分からも糸が出ていることに気づく、そしてそれは自分の思うように動き、そして生えてくるのであった。無我夢中で昼に見た紋様を真似糸を紡ぐと目の前に炎が生まれた。その時はたいそう興奮してボヤを起こしてしまいこっぴどく怒られたものであった。
魔法が使えることはとりあえずは秘密にしておいた、以前のように変な目で見られても困ると幼いながら思ったためだ。しかしそれからも魔法を見られる機会があれば積極的に足を運んだものであった。
やがて人によって同じ名前の魔法でも形作られる紋様は異なることに気が付いた。そして同時に根幹の部分ではどれも類似した構造であることにも気が付いた。
それから月日は過ぎ、荒唐無稽である話を信じてくれて自分が先生と呼んでいた魔法使いと出会い、世界は世界を為す法則で成り立っており魔法もまた例外ではないということを学んだのだ。
糸は回路であり装置、糸は導体となり一定の法則により編み上げられた糸は装置となる。
魔力は燃料であり動力、糸を伝い装置を駆動させ効果を示す。
効果とは何らかの物理法則に関与し生じる現象のことであり、それが火であれ水であれその現象は認識可能なものであり全てはこの世界で起こり得ることであり理解できない現象であれそれは探求の先に知ることが可能な法則の一端である。
大変興味深く、そして感銘を受けることは人間や一部の動物がそれを行使できるということである。それはこの地で生きてきた適応力によるものか奇跡的な偶然か、無意識のうちに無駄が多く大雑把ではあるが、知識も無く考えるだけで人は回路を組み装置を組上げてしまう。さながらそれは筋肉や神経、細胞や分子を知らずとも腕を動かし歩くことができるように。
魔法を使えるか使えないかの違いはその現象を起こすに足る最小の構成単位が構成されたかどうかであり、一つの魔法を使うことが出来た人は他の魔法も使えることが多い。これはその人物が魔法を起こしやすい思考の人物であるからだろう。だが魔法を使えるか否かは別として人は何かをしようと思うだけでもその思考を実現しようと糸が紡がれる、それが何かしらの効果を生み出す程ではないが……人間の意志というものはかくも強いものだろうか!
絵画魔法、あれはイメージ力を惹起させるという点では正しい。しかしそれは思考の放棄であると思う、人が他の生物と一線を画すのはその理性にある筈だ。勿論最初は経験則だった現象を誰かが何故起こるか、どう利用できるかを考え周囲から奇異の視線で見られつつも考え抜いてきたのだろう。それは数式や法則、常識として窺い知る事が出来る。
自分が糸のようなものを感じるのは何故かと考え、聞いたことがある。先生はそれは魔力が弱いからではないかと言った。太陽の光の下ではランプの明るさなんて分からないと。
魔力とは何か、糸とは何なのか?知りたいことはあれど未だその術は知れず。学校にそれを求めたが空振りに終わった。しかし見向きもされない膨大なる禁書の山の中にその光明を求める。
まずは知ることだ、その糸が装置がどのようなものかを魔法という現象から。その現象
から事実から、いつか解き明かされると信じて。
その魔法の理論を。




