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イブの妄想

イブの妄想  パパに会いに行こう

作者: 深瀬静流

「イブの妄想」は、「小説家になろう」のほうで連載していたもので、短編のほうは、そのシリーズの続編になります。登場人物の詳しい関係は、本編の第一話を読んでいただけたらわかりやすいかと思います。みんなからイブと呼ばれて愛されている高校二年生の相田伊吹君は、たくさんの友人たちに囲まれて、なぜだかいつもまわりを大変なめにあわせるというお話しです。


 書籍の臭いがしみついた放課後の図書室は三島由紀菜の聖域だった。

 消しゴムのかす一つ、脱毛の髪の毛一本許さない清潔静謐な図書室は、三島由紀菜の誇りであり、豊富な蔵書は地方都市の公共図書館なみで、高校に入ってから一年と五ヶ月かけて三島由紀菜が精魂かたむけて築き上げた城だった。

 ここまでの道のりは容易ではなかったと回想する。

 数学と司書教諭を兼任しているどすこい山田先生を説得して、自分の思うがままの書籍を購入するように学校側に働きかけて揃えた書籍は、三島由紀菜の好みが色濃く反映されて、誰も図書室などに足を向ける気になれない難解で退屈な書籍であふれかえっていた。

 図書室の大きな窓からは校庭で白球を追っている野球部員が見える。彼らの汗ばむ肌は、十月の爽やかな風がさらっていって、図書室の窓からみていても暑苦しさは感じない。

 閲覧者や勉強をしている生徒が一人もいない代わりに、読書部の部員で埋め尽くされた図書室を、三島由紀菜は満足そうに眺めわたした。

 読書部部長である三島由紀菜を崇拝しきっている部員たちは、図書室の閲覧用テーブルをすべて占領して無心に本を読みふけっていた。

 静かな空間にページをめくる音が、笹の葉の葉ずれのようにさらさらと流れていく。

 なんと美しい空気のさざ波だろう。三島由紀菜は窓の下の書棚に寄りかかってうっとりと目を閉じた。

 サラサラ……サラサラ……。

 まるで天上の音楽を聴いているようだ。

 サラサラ……サラサラ……。

 ここは英知を司る神の庭。

 サラサラ……シクシク……メソメソ……。

 ん? 三島由紀菜はカミソリのような目をつり上げた。

 シクシク、メソメソ……メソメソ、いやん、やめて。

 「え? なに、今の声」

 めがねのブリッジを細い指で押し上げて耳を澄ます。

 サラサラ、サラサラ、シクシクサラサラ……痛くしないで。

 三島由紀菜は切れそうに鋭い眼差しで声の在処を探す。

 男子の声だと思うのだが、女子だと思えば女子にも聞こえるか細い声だ。甘ったれた思わせぶりなすすり泣きに、イヤだとか、やめてだとか、痛くしないでとはただならない。図書室の静謐を汚すものは許せない。制裁があるのみだ。

 三島由紀菜はそろりと体を動かして音を立てないように移動した。

「いやン、やめて」

 どこからか、むずかるような衣擦れの気配と声がする。その声に、低い男の声がせっぱ詰まったように迫る。

「痛くしないから、ね。だから、やらせて」

「や、痛いに決まってるもん」

「ほんのちょっとでおわるから、ね、すぐ終わらせるから。俺、早いから」

「いやいや、だめだめ、そんな太くて大きいの、絶対無理、絶対入んないよ」

 気弱そうな、少女か少年かわからない声に怯えが混じる。すると別の声が割り込んできた。

「いやがっているんだから、やめろよな。いくら先端が細くったって、こんなに柔らかいところに入れるんだから痛いに決まっているだろ」

 何の話だかわからないながらも、剣呑ではない話の流れに三島由紀菜の乙女心が沸騰した。怒りと羞恥がない交ぜになって顔が赤らむ。声の在処を探して移動しているうちに心臓がドキドキしてきた。

 シクシク、メソメソ。シクシク、メソメソ。

「怖がらなくてもいいのよ。おねえさんがやさしくしてあげるから」

 え? おねえさん? 新たな声だが、おねえさんの声には聞こえない。どうしたってお兄さんの声なのだが、と三島由紀菜は首を傾げた。

「こういう場合は舐めるのがいちばんなのよ。痛くないし、きもちいいから、ね? なめさせて」

「どけよテメエ。俺がなめるんだよ、おまえは引っ込んでろ」

「おまえこそじゃまなんだよ。俺に任せておまえら二人は消えろ。俺がやさしく抱きしめて、この厚い舌で濡れているところを押し開いてすするんだよ」

 三島由紀菜は失神しそうになった。

「嫌だ嫌だ、気持ちわるいよ。舐めるって、そのべろがずるりって中に入って上も下も真ん中もなめるんでしょ?」

 儚げな少女か少年かわからない声が怯えてふるえた。

「でも、それが一番痛くないよ。ね、舐めさせて」

 男は全部で三人いるようだ。三人がかりで一人の少女か少年かわからない生徒を図書室の隅の暗がりに追い詰めて、あんなこや、こんなことや、そんなことも強要しているみたいだ。ついに少女か少年かわからない生徒は声を放って泣き出した。

 三島由紀菜は顔を真っ赤にしながらめがねの奥のカミソリのように細い目をぎらつかせた。

 彼らは読書コーナーの一番端の廊下側の出入り口にいるらしい。

 「痛いよお~、我慢できない、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い、あっあっあっあ――っ」

 三島由紀夫文学の「金閣寺」に心酔し、金閣寺のように気高く美しく毅然と存在しようとする三島由紀菜の顔色が変わった。

 聖なる図書室の空間を聖なるままに守り抜いてきた三島由紀菜の野望は、司書になって全世界の図書館図書室を我が傘下に納めて君臨すること。そのために、仲のよい友人達と遊ぶ時間を削ってまで世界中の本を読み漁っているのだ。だから、図書館の暗がりで、一人の少女か少年かわからない生徒を3人掛かりで、あんなことやこんなことをしている男子生徒たちを野放しにはできない。

 清浄な空間を不埒な輩に蹂躙させるわけにはいかない。三島由紀菜は右手を高々と上げてパチンと指を鳴らした。

 読書コーナーで本を読みふけっていた読書部の部員たちが一斉に栞を挟んで本を閉じた。再び三島由紀菜の指が鳴らされた。今度は三回だ。読書部員はその合図で三島由紀菜を中心に散開した。今度は二回指が鳴る。見事な統制で読書部員たちはじりじりと包囲を狭めていった。

「ハア、ハア、ハア、ハア、うっ、クク」

 おかしなうめき声と数人の肉体がもみ合う気配に二の足を踏みそうになるのを励まして、ついに三島由紀菜は声の在処に踏み込んだ。

「わたしは図書委員長の三島由紀菜だ! 神聖なる図書室でいかがわしい行為をした罪により処刑する!」

「あ、三島由紀菜さんだ」

「あ、三島由紀菜さんだ」

「あ、三島由紀菜さんだ」

「あ、三島由紀菜さんだ」

 三島由紀菜は、振り向いた四人に固まった。

 顔中涙でぐしょぐしょにした伊吹がきょとんとしていた。保藻田も手に持ったタオルハンカチの先を尖らせながら間抜けな顔をしている。芸田と釜田ものほほんと振り向いた。

「あ、とれた」

 伊吹が瞼をパチパチさせてつぶやいた。

「とれたのか? よかったなイブちゃん」

 保藻田がタオルハンカチで伊吹のぐしゃぐしゃ顔を拭きはじめると、芸田も伊吹の乱れた髪を指で直しながら「泣いたから涙で目のゴミがとれたんだね」と笑顔になる。

「イブちゃんのお目々は大きいから、すぐゴミが入っちゃうのよね。でも、ハンカチ使わなくてもベロでなめるとすぐとれちゃうのよ」

「いやだよ、釜田の口臭いんだもん」

 あはは、と三人が笑った。

「じゃあね、三島由紀菜さん、バイバイ」

 伊吹が手を振って歩き出したら保藻田も芸田も釜田もそのあとについていった。

 三島由紀菜は指を四回鳴らした。読書部員たちは何事もなかったように音も立てず影のように引いていって元のように読書コーナーで読書を再開した。

 なぜあの四人が図書室にいるのか、なぜ目に入ったゴミを図書室でとろうとしていたのか、なぜ目のゴミをとるのにあのように紛らわしい雰囲気になる必要があるのか、考えれば考えるほどわからなくて、三島由紀菜はしばらくそこから動けなかった。




学校が終わって伊吹が家に帰ってみると、宝子ほうこがリビングでおろおろしていた。エプロンの裾をもみくちゃにしながらソファと家具の隙間をうろつき回っている。

 今頃の時間ならキッチンで夕飯の支度をしているのに、いつもと違う宝子の様子に伊吹は首をひねった。

「どうしたのママ。めずらしく落ち着きがないね」

「あ、イブちゃん。お帰りなさい。いまね、単身赴任しているパパの会社の人から電話があって、パパが急に入院したらしいの。胃の中のものを吐いて苦しみだしたんですって。いまは落ち着いているみたい」

「わあ大変だ。パパ、死んじゃうの?」

 とたんに宝子がよろめいてソファに座り込んだ。

「ママ、しっかりして。パパは死ぬって決まったわけじゃないんだから、死ぬかどうかもわからないんだから、死ぬなんて思っちゃいけないよ。人は誰だって一度は死ぬけど、いま死ぬとは限らないじゃない。死ぬか死なないか、死にそうなのか、すぐ死ぬか、時間をかけて死ぬのか、確かめに行かないと。死んじゃったら悲しいけど、死んだら死んだで、お葬式とかしなくちゃいけないわけで、死んだパパの死骸をこっちに運ばなけりゃいけないんだから、ママが安心して泣くのはお葬式を済ませて一安心したあとだよ。しっかりしてママ。ぼくがついているからね」

 うわあー、と宝子が泣き崩れた。エプロンで顔を覆って泣き伏す宝子の、自分より少し大きな背中を抱きしめながら、伊吹は決意を秘めたようにきりりと眉をあげた。

――こういうときは長男のぼくがしっかりしないといけないんだ。

うちはママと一子いちこちゃんと二子にこちゃんと三子みこちゃんの女ばかりで、末っ子のぼくだけが男なんだから、パパが死んじゃったらぼくがこの家のみんなを守っていかなければいけないんだ。

ママはお料理とお掃除と笑顔と優しさをふりまくしか能のない専業主婦で、短大を出てすぐ結婚して子供を産んでそのまま家庭に埋もれてしまった人だから、働く苦労は知らないし、世間の辛さも知らないお嬢様おばさんだ。

長女の一子ちゃんはきれいで優しいお姉ちゃんだけど、ママと同じでポーとしているから、いま付き合っている本田さんと結婚させてしまえば一子ちゃんの身の振り方はなんとかなる。

ハウスマヌカンをしている二女の二子ちゃんは、すぐにでもハジメちゃんのところにやってしまえば、二子ちゃんを気に入っているハジメちゃんのパパとママは大喜びするだろう。ハジメちゃんは建築科の大学生で生活力はないけど、ハジメちゃんのパパは、六代続いた江戸大工の棟梁で、注文住宅しか受ない大きな工務店の社長だから、跡取りのハジメちゃんがコケなければ暫定社長夫人の二子ちゃんの将来は大丈夫だ。

問題は三女の三子ちゃんだ。三子ちゃんはハジメちゃんと同じクラスの建築科の四年生で、そろそろ就職のことを頭に入れておかなくちゃいけないのに、暇さえあれば趣味の建築様式を見学だとかいって、バックパイプを背負って海外に行っちゃうんだ。三子ちゃんだけがパパに似て背が高くて、男の子みたいな短い髪をつんつんさせて、男の子みたいに豪快にご飯を食べて力持ちだ。三子ちゃんは放っておいても逞しく生きていくだろう。

ということは、パパが死んじゃたら、ぼくが面倒みなくてはならないのは、ママだけか――。

「ただいま。どうしたのママ。なにを泣いているの」

 驚いたように声をかけてきたのは、会社から帰ってきた一子だ。趣味の妄想にふけっている伊吹のことは慣れっこなので、ちらりとみただけで、すぐにソファの宝子のところに行って泣いている母親の顔をのぞき込んだ。

「一子ちゃん、パパが、パパがね」

 宝子が一子にすがりついた。

「あ、一子ちゃんお帰り」

 妄想から目が覚めたように一子に声をかけて、伊吹は鼻の穴を膨らませた。

「たいへんなんだよ、一子ちゃん。パパが死んじゃうんだ。会社の人から電話があって、いま病院にいるんだって。ゲーゲー吐いて苦しみもだえいるんだってさ。だから死ぬのは時間の問題だよ。ねえ、一子ちゃん。死ぬときって苦しいの? すっごく痛いの? 死神とか迎えに来るのかな」

 わぁー、と一子が宝子に被さって泣き崩れた。

「ただいまー。なに! なんでママと一子ちゃんが泣いているの」

 めずらしく早く帰ってきた二子が、大きなバックを足下に落として声を上げた。

「二子ちゃん、お帰り。パパが死ぬからママと一子ちゃんが泣いてるんだよ。ねえ二子ちゃん、死んだら幽体離脱とかするのかな。魂が天井に浮いて、パパの死体にとりすがって泣いているぼくたちをみるのかな。ぼく、パパの幽体離脱に手をふりたいな」

「パパが死んだですって! パパが死んだ!」

 二子は叫んで母と姉に被さって泣き出した。 

 伊吹は死んだとは言っていなかったが、二子は死んだと断定してしまった。伊吹の話をちゃんと聞いていなかったのが悪いのだが、誰だって伊吹の話をまともに聞くものなどいないのだから仕方がない。

「パパ! かわいそうに。単身赴任先で、看取る人もいなくて死んでしまうなんて、かわいそうすぎるわ」

 一子が泣きながらいうと、負けずに二子も声を張り上げた。

「せっせと家族のために働いて、お給料は銀行振込でごまかすこともできなくて、ストレスで胃をやられながら頑張って働いて、あげくのはてに家族にも看取られずに、一人寂しく死んでいったなんて、かわいそうすぎるわパパ」

 「一子ちゃん、二子ちゃん。ママはこれからどうしたらいいの。パパという支えを失って、どうやって生きていったらいいの。パパ、貢さん! 貢さん」

 女たちの泣き声はどうやら外にまで聞こえていたらしく、帰ってきた三子が何事かというようにリビングに駆け込んできた。

「どうしたんだ、なにがあったんだ」

 髪の毛をツンツンさせた、がたいのいい三子が、団子のようにひとかたまりになって泣いている母や姉たちをゆさぶった。

「お帰り三子ちゃん。パパが死んだんだって」

 伊吹の返事に三子がさっと青ざめた。

「ほんとうかイブ。パパが死んだって」

「うん。パパの会社の人から電話があって、吐いて苦しみだして入院したんだって。だからぼく、一生懸命ママを慰めていたんだ。そして、二子ちゃんが帰ってきたあたりで死んじゃったみたいだよ」

「うわあぁ」

 いきなり三子が伊吹を抱きしめて号泣した。

「イブ、おまえは親が死んでも理解できないほど頭が悪かったのか。そこまでバカだったとは、パパは死んでも死にきれないだろう」

「ねえ三子ちゃん。死んだらSMプレー好きのエンマさんが迎えにきて、一生SMプレーして遊ぶってほんとう?」

「地獄はSMプレーして遊ぶところじゃないよ。無限地獄なんだ」

 おいおい泣きながら三子が言った。伊吹は首を傾げた。

「なんだ、地獄ってゲームし放題のゲームセンターみたいなものか。あ、万札。お帰り」

 隣の福沢邸で、特注の家庭教師による特別カリキュラムの勉強をおえた万作が帰ってきた。宝子と一子と二子がひとかたまりになってオイオイ泣いているのを一瞥して、同じように大泣きしている三子に抱え込まれている伊吹に声をかけた。

「地獄がどうかしたのか」

「あのね」といいながら三子の太い腕をかいくぐって一息ついた伊吹が、万作のところに寄っていった。

「パパが死んじゃったんだよ。死んだら地獄に行くから、地獄ってどんなところか聞いていたんだよ」

「貢さんが死んだ? いつの話だ」

「二子ちゃんが帰ってきたら死んだんだよ。それまでは、病院に入院していたんだけどね」

「入院て、どういうことだ」

「パパの会社から電話があったらしいよ。吐いて腹痛を訴えて入院したって」

「それでみんな泣いているのか」

「うん。その後、死んじゃったからね。それで、みんな泣いてるの。ねえ、地獄っていいところみたいだよ。ゲームし放題でさ、SMプレーもしほうだいみたい。ぼく、地獄に行ったパパのところに遊びに行きたいな」

「行ったら二度と帰ってこれないけどな」

「え、そうなの。うーん、悩むなあ」

 万作は携帯を出して短縮のダイヤルボタンを押した。伊吹に背を向けて話し始める。

 伊吹は冷蔵庫をあけて中をのぞき込んだ。

「ママ、お腹すいたよ。夕飯まだなの。泣くのに忙しいのならお寿司をとってもいいかな。それともピザのLサイズを四枚にする? あ、鰻丼もいいかも!」

 宝子がぴくんと背を伸ばした。

「いけませんイブちゃん。お寿司もピザも鰻丼もお金がかかるでしょ。お腹がすいたならご飯にしましょう。ママがすぐ支度しますからね」

「わかった。でも、それまで待てないよ。なにかちょうだい」

「いま出してあげます」

 一子と二子を押し退けて、宝子はエプロンのひもをきりりと結びなおした。しゃっきとした足取りでキッチンにむかい、まな板と包丁を取り出す。

 電話を終えた万作がダイニングテーブルにつきながら、声を放って泣いている相田家の娘たちを見回した。

「もう泣き止め。貢さんは元気だよ。上司の所長が定年退職で送別会をしたんだけど、ごちそうに食い意地を張った貢さんが、食いすぎて吐いたんだってさ。救急車で運ばれて、検査したら胃潰瘍が見つかったとかで、二三日入院するんだってよ」

 しらーとした空気が流れた。一子が無言でティッシュをとり涙を拭けば、二子もチンと鼻をかむ。三子は腕でゴシゴシ涙を拭いて決まり悪げに口をとがらせてそっぽを向いた。

 長ネギをきざみはじめた宝子の、包丁を握る手に必要以上の力が入っている。まな板に刃物の当たる音が凶暴に聞こえた。

「パパが死んだって言い出したのは誰かしら」

 固い宝子の声に伊吹が振り向く。

「二子ちゃんだよ。それまでパパは生きていたんだもん」

 のほほんと伊吹がよけいなことを言ったとたん、二子が走ってきて思い切りげんこつで伊吹の頭を叩いた。

「うわあ、痛いよお。なにするんだよ二子ちゃん」

「わたしは言ってないよ。パパが死ぬからとか死んだらとか騒いでいたのはイブでしょ」

 伊吹が頭を抱えて泣き出しても、だれも二子を叱ろうとするものはいない。

「そうだよ、それまでは生きていたのに、二子ちゃんはパパが死んだっていってパパを殺しちゃったんじゃないか」

 もう一度二子がげんこつで伊吹の頭を殴った。

「イブの言い方が悪いのよ」

「痛いだろ二子ちゃん。ちゃんと聞いていない二子ちゃんが悪いんだよ」

「そうだよ二子ちゃん! わたしはてっきりパパが死んだと思って泣いちゃったじゃないか。死にかけているのと死んじゃったのとでは天と地ほどの違いがあるんだからな」

 三子が顔を真っ赤にして赤い目をつり上げて二子の肩を小突いた。細い二子がよろけて万作の胸板に助けられる。

「止めろ二人とも。とにかく貢さんに命の危険はなかったんだから」

 一子がソファを回ってつかつかと伊吹に近づいた。

「イブちゃん。みんなを混乱させて謝りなさい。いつもイブちゃんにはひっかき回されてばかりいるけど、今回は本当にショックで胸がつぶれる思いだったわ。腹が立つ」

 一子は思い切り伊吹のお尻を叩いた。

「痛いな、一子ちゃんまで! なんで叩くんだよ。パパが生きていてよかったじゃないか。だいいち、ぼくはパパが死んだなんて言ってないんだからね」

「言っただろ。何度も死んだとか、地獄とか、SMプレーとか、すごく楽しそうにいっていたよな」

 三子がすごむように伊吹の頭にのしかかる。一子も二子も伊吹に詰め寄った。

「貢さんが、貢さんが……」

 呪詛のような声が流れてきた。長ネギはすっかり刻み終わってまな板の上に小山となっている。それでも宝子の包丁は止まらない。食材の乗っていないまな板を、異常ともいえる包丁の早い打音が響きわたっている。

 目は完全に宙に据えられ、地を這うような声が陰々滅々と紡がれていく。

「貢さんが、上司の定年退職の送別会で、ごちそうに食い意地をはって吐くほど食べたですって……ごちそうに食い意地をはって……吐くまで食べたですって、食い意地をはって吐くまで食べた……吐くまで食べたですってえええ。いい年をして、副所長という肩書きがありながら、していることがイブちゃんと同じレベルなのが我慢できない。なんてバカなの。息子が息子なら、父親も父親よ。親子そろってバカまるだしじゃないの。イヤ、もうイヤ。バカにつける薬がほしい」

 伊吹はさめざめと泣き出した。

「万札。ぼくって、そんなにバカなの。ぼくにつけるお薬ってあるかな」

「ないだろなぁ」

 姉たちに拳骨で頭を殴られてこぶができている伊吹の頭を、万作は気の毒そうに撫でてやるのだった。




 翌日の第二土曜日は午前授業のある日なので登校日になっていた。ホームルームを終えて一時間目の授業が始まる前のわずかな時間に、伊吹は真田と土方と夏目に取り囲まれていた。

「それでイブ、おじさんのお見舞いにいくの?」

 真田が伊吹に尋ねると、伊吹はかわいい口を金魚のようにとがらせた。

「行くよ。行くに決まってるだろ。パパが入院しているんだから」

「おばさんや姉ちゃんたちも行くだろ?」

「あたりまえだろ」

 質問してきた土方を、呆れたように睨みつける。

「俺もついて行こうかな。三子ねえちゃんに会うの、久しぶりだし」

 独り言のように呟いた土方に、一斉に視線が集中した。夏目がうきうきと土方の肩に自分の肩をぶつけてきた。

「そういえば、土方は三子ねえちゃんに懐いていたよな」

 すぐそばで聞き耳を立てていた円谷瞳が、すぐさま携帯を開いてメールを打ち出した。

もちろん送信する相手は近藤勇子だ。

「土方のタイプは三子ねえちゃんみたいな豪快な女傑だもんな」

 真田までからかいだす。イブは驚いて目を見張った。

「えええ。そうだったの? そういえば、近藤勇子さんって、うちの三子ちゃんとタイプが同じだよね。なーるほどね。土方の好みの女の子って、やっぱり近藤勇子さんだったんだ」

「ちがうよ、なにいってるんだよ。三子ねえちゃんと近藤さんはぜんぜんタイプが違うだろ。三子ねえちゃんはかわいくて、さっぱりした女らしさがあって、一緒にいると楽しいよ。近藤勇子さんは、男らしくてりりしくて、全身鋼の筋肉で、守るというよりこっちが守ってくださいというタイプじゃないか」

 土方は、自分で言っておきながら自分で笑いだした。しかし、周りの友人たちは誰一人笑わない。不審に思って振り向くと、土方の背後で近藤勇子がきりりと土方を見つめていた。

「土方殿。近藤勇子、我が命に代えて、生涯あなたをお守りいたす」

 きっぱりと言い切った近藤勇子を、土方は恐ろしいものをみるように見つめ返した。

「いや、それには及びません。自分の身は自分で守れますのでご辞退します」

「守ってもらえよ土方。幸せものだなあ」

「一生守ってもらえって土方。バラ色の人生じゃないか」

 真田と夏目がはやし立てた。近藤勇子の削いだような頬が染まる。土方の全身に鳥肌が立った。

「よかったな土方。こんなにすてきな人がそばにいてくれたら、怖いものなんかないぜ」

「土方がうらやましいよ、こんな美人にそこまで言ってもらえるなんてさ。幸せすぎて怖いだろ」

 真田と夏目がなおもからかうと、猛然と土方が怒りだした。

「いいかげんにしろよ、真田、夏目。面白がってふざけるな」

 土方の、目にもとまらぬハイキックが真田と夏目の腹に決まって、机をなぎ倒しながら床に叩きつけられた。

「やったな土方」

「マジになってんじゃないぞ」

 立ち上がりざま、真田と夏目が土方に飛びかかっていった。長身で人目を引く美しい三人の少年たちの戦いが始まった。たちまち見物人が押し寄せてきた。真田、土方、夏目に送られる声援が大音響となって校舎にこもる。

 近藤勇子は、自分への愛のために雄々しく戦っている土方を、うっとり見つめて怪しくほほえむのであった。




「さあ、パパに会いに行こう!」

 伊吹の元気な声が澄んだ秋空に突き抜ける。福沢邸の広大な庭には、チャーターされた観光バスがずらりと並んでいた。先頭の一号車には相田家の全員が乗り込んでいる。宝子が腕によりをかけて作ったランチは二人分の座席に山のように積み上げられている。

「心配だわ。人数分つくったつもりなんだけど足りるかしら」

「とりあえず、ここにいる人数分は足りると思うんだけど」

 車内を見渡して呟く宝子に、一子も不安そうにうなずいて言葉を添える。

「でもさ、パパのお見舞いに行くのに、なんでイブの友達までついてくるのよ」

 二子は呆れたついでに前の席の伊吹の頭をポカリと叩いた。

「なにすんだよ二子ちゃん。頭たたかないでよね」

 振り向いて伊吹が文句をいうと、斜め後ろに座っていた三子が、後ろで騒いでいる真田たちに視線を向けて笑いだした。

「あいつら、遠足と間違えているんじゃないか。そろいもそろってデカい図体して、はしゃぎまくって、ガキだよな」

 後部座席の中央に納まっているのは土方だった。真田や夏目はもちろんのこと、保藻田や芸田、釜田のほかにも円谷瞳に三島由紀菜もいる。そして花屋敷のばらは最前列の席でしっかり万作の隣の席を確保してご満悦だった。

 騒ぎまくっているお馴染みの連中に取り囲まれながら、土方だけは硬直したようにおとなしかった。隣の近藤勇子に服の裾を掴まれて半ば失神していた。

「じゃ、出発!」

 伊吹の号令で鈴木さんが優雅にバスのハンドルを切った。福沢邸の大きな門を一号車が滑り出ていく。二号車には花屋敷のばらの使用人Aとその部下軍団がキャンプ用の調理器具一式と大量の食料を積んであとに続く。

 三号車には近藤勇子に心酔している女子バレー部員が乗車し、四号車には土方を崇拝している男子バレー部員が乗り、五号車には芸田を慕ってやまないテニス部男子部員が乗っている。

 不気味なのは、六号車の読者部だった。三島由紀菜率いる読者部は男女混合の構成で、ふつうならワイワイガヤガヤ賑やかなはずが、水を打ったように静かな車内に本のページをめくる乾いた音がさざ波のように打ち寄せているだけだ。

 なにはともあれ、こうして伊吹たちは澄んだ秋空のもと、関越自動車道を走って貢の入院している病院を目指したのだった。



 貢の入院している病院が、デラックスバス六台で入院患者のお見舞いにこられてパニックになったお話は、また別のお話です。



     パパに会いに行こう  完


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